哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

哲学者とは誰のことか、について哲学的に思考してみる

哲学者というのが単に哲学的な問いについて思考する人というだけの意味しか持たないのであれば、文字を読んで思考のできる誰もが哲学者だろう。この意味での「哲学者」を仮に「哲学者I」と呼ぶ。

ところが、現実に人が「哲学者」と呼ぶ人間というのは、もっと限定された集団の成員であると認められる人である。その限定の仕方は、限定する側の人にとって何が「哲学」なのかによって変わる。従ってこのより限定された意味での「哲学者」を仮に「哲学者II」と呼ぶとすると、誰が見てもこの人は「客観的」に「哲学者II」であるというような人は実は存在しない。というのも、ある人物が「哲学者II」としての要件を満たしているか否かについての客観的な基準そのものが無いからである。

これに対し、一つの反論(objection)Oが予想される。曰く、『「哲学者II」を規定する客観的な基準は存在し、故に客観的に哲学者であると認められる人は存在する』、と。

では、(1) その基準とは何か。また (2) その基準の客観性を保証するのは何か。

これらを明晰に示す負担は当然反論者に課せられるが、多くの場合 (1) を独断的に提示することはできても、(2) の方を説得的な形で示すことができない。しかしここで最も示されねばならないのは (2) の方である。

だが、何に関してであれ「客観性」の基準を示すことというのはそれ自体が哲学的な難題である。(テーゼ1)

もしそうだとすれば、茲において逆説的に活路が見えてくるわけである。つまり、 (2) を示すことが出来てしまうような人は、その人自身が既に十分に哲学者なのである、と。この結論は、「客観性の基準を示すことができることは哲学者である為の十分条件である」という、「テーゼ1」が暗黙裡に前提とする判断から導かれている。

仮にこの判断(Urteil)をUと呼ぶとすると、次に生ずる問いは「果たしてUは正しいのか」というものである。

これに対しては一応二通りの答えが有り得る。以下、それぞれの場合を検討する。

1. Uは正しくない、とする場合。

もしUは正しくない、すなわち偽である、とする。もしそうだとするとそもそも反論Oの立場が成立しないのでこの場合を検討する意味はあまりないが、ここでは念のため一応しておく。この命題が成り立つかどうかを確認するのを容易くする為に、まずそもそも「哲学者II」がどういう存在として期待されているのかを明らかにしたい。「哲学者II」とは、簡潔に言えば一般の人間より知的に優れていることが当然に前提されているはずである。故にここで前提(Premise)P1を加える:「相対的に最も知的に優れた人々は、そうでない人々に「哲学者II」と呼ばれ他から区別されるのである」。これが正しいと仮定する。そうであれば、もし何かが哲学者によって示されることが出来ないというのであれば、それはつまり他の誰によっても決して示されることはないということを意味する。故にもし哲学者とは具体的に誰なのかを区別する基準が哲学者によって示されることがないのであれば、他の誰によってもこれは示されない。このことを予め確認しておきたい。

さて、もしUが正しくないのであれば、客観性の基準を示すことができることは哲学者であることとは関係のないことである、ということになる。だとすれば、哲学者にとって自分が哲学者である為に客観性ついて思考する必要はないということだ。これは、しかし狭義の「哲学者」、つまり「哲学者II」に関する世間の通念と合致するであろうか。もしそうであれば、そもそも哲学者とは「客観的に」誰のことなのかという問い自体が「哲学者II」にとって何の意味も持たないはずである。蓋しここでの前提に基づけば、「哲学者II」は客観性に気を配らないのであるから。故に「哲学者II」は何か他の理由で他人が進んで彼(又は彼女、以下この注釈は省略する)を哲学者扱いでもしない限り、決して世に「哲学者」として知られることはない。そして、仮に他人が彼を哲学者扱いするにしても、それはあくまで彼を哲学者扱いする人間があくまで自己の主観に基づいて独断的にすることであるに過ぎない。というのも、前に予め確認したように、哲学者が示すのでない限り、哲学者でない人には客観性の基準は提示できないからである。

また、ここで新たな前提P2を加える:「現代において人間は、凡そ自己を規定する属性のうち肯定的なものを維持する為でなければ、何か高度に抽象的なことについて敢えて徒らに思考をするようなことはない。というのも資本主義社会の人間は忙しいからである。」これを仮に真と認めるならば、哲学者が、それが哲学者である為に必要であるわけでもないのに、客観性について思考することはあり得ない、ということになる。思考しないのであるから、哲学者が客観性の基準を示すことはできない。

従って、もしUが正しくなく、かつ前提P1およびP2が共に真であるのであれば、誰も客観性の基準を示すことができないので、誰も客観的に哲学者であり得ず、単に誰かの主観的判断によって独断的に誰かが哲学者とされるという事態があり得るだけだということになる。故に、この場合反論は失敗する。

2. Uは正しい、とする場合。

もしUが正しいのであれば、哲学者の本分は客観性の基準を示すことを含む、ということになる。従っておよそ哲学者たるものはなぜ特定の人間が哲学者と称されるに相応しいかについての客観的な基準を提示しなければならない。故に哲学者には、自身が正しく哲学者であることを示す為にはまさに哲学者であることの客観的基準を自ら示すことができることが望まれる。斯様にしてここに一種のトートロジーが生まれる余地が生ずる。「哲学者とは、自分が哲学者であることを証明できる者のことを言う。」

 

よって、反論Oが成立する為には、Uが正しく、従って哲学者とは自らが客観的に哲学者であるということを、そう判断し得るための客観的基準を示すことで証明できる人のことを言うのでなければならない。

 

ところが、ここで一つの疑問が生ずる。果たして日本で一般に言われる「哲学者」には、上述の定義に当てはまるであろうか?この問いに対する私の判断を提示することは敢えて避ける。だが、もし当てはまらないのであるとしたら、日本では「哲学」というのはつまり単なる主観の表明に過ぎないという了解が世間の側にも哲学者の側にもあり、従って真の意味での哲学がそもそも成立してすらいないということを裏付けるであろう。