哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

ポピュリズムとエリートについて

皆様、ご無沙汰しております。久々の更新です。

 

まず簡単な近況報告をさせて頂きますと、今年6月にダラム大学を卒業した後、帰国してこの猛暑の夏を日本で過ごしていました。色々と細々したことをやっている内にあっという間に8月が終わってしまいそうですが、最近少し足を痛めたせいで多少落ち着かざるを得なくなったので再び読書を再開しているところです。

 

さて私が雑務に追われている間、世間では当然色々な動きがあったようですが、私は哲学者と言いながら実はそれほど新報を小まめに確認するような時事通なわけではありません。むしろ割と常に時事通が周りにいて、そういう人たちと話をしているから情報が入ってきていただけで、私自身は少しでも忙しくなってしまえば自主的にはテレビも新聞も見ないしネットさえ毎日見るほどではないような、世事への関心の浅い方なのです。

 

とはいえ、あまりにも暇になればやはり世間の動向が気になってくるもので、早速「表現者 クライテリオン  9月号」を買って読んでいました。今回のテーマはポピュリズム論ということで、私がこれまでアゴラやこのブログ「哲学書簡」でテーマにしてきたことの一つだったので興味深く読ませて頂きました。

 

「表現者」は保守思想誌と自ら称するだけあって、特集座談会における全体の論調は英米における最近の「ポピュリズム」を戦前ドイツの全体主義や現代日本の新自由主義陣営の「人気主義」と区別した上で肯定的に評価するものでした。故にBrexitや「Trump現象」に対してそれほど否定的ではない私としては読みやすかったのですが、ただ哲学者としては同時にいくつか引っかかる点もありました。

 

まず、39-40頁において柴山桂太さんが言及される"somewheres"と"anywheres"の対立という構図に関してです。

これは柴山さんが仰る通りDavid Goodhartが提唱した概念で、土着性を持ち特定の地域に根ざした生活を送り、その地域と利害を共にしている人々を"somehweres"、これに対して生まれ育った土地から離れて大都市の大学へ行き、典型的にはグローバルに活躍できるが故に地域に縛られておらず、どこでも生きていけるような人々を"anywheres"と呼び、現代の対立はこの二者の対立が軸になっていると分析されます。日本の文脈で言うなら、前者は「ローカル人材」、後者は「グローバル人材」と通常呼ばれているでしょう。昨今の英米ポピュリズムは畢竟この二者の内のグローバル人材に対するローカル人材側の勝利であり、肯定されるべきものだというわけです。

ところが、私自身に関しては、客観的には先日海外の大学の哲学科を卒業してきたような人間なわけですから、どちらかといえば"anywheres"に属する側の人間だと思います。つまり本来的には私は都市の邪悪なグローバル権力の側に属し、保守思想誌が擁護するローカル組の方々から目の敵にされて然るべき立場なわけですが、私は自分が曲がりなりにも英語を話す「グローバル」側の人間であるからこそ英米ポピュリズムの本質を理解しており正当に評価できるという立場も有り得ると考えています。

何故それが可能であるかというと、それは私が「グローバル」の立場にありながら「ローカル」の立場を慮る良心を持っているからというよりも、そもそもこの「ポピュリズム」vs. 「反ポピュリズム」の対立がそのような「学歴」やメリトクラシーを軸とするようなものではなく、基本的にはどこまで行っても年齢層を軸とする世代間対立であると考えているからです。

といっても、現実の英米社会は何重にも捻れています。まず、Goodhart氏の分析を参考にするなら、彼の言う「somewheres」というのは具体的にどういう人が典型かというところまで考えれば畢竟「地方の高齢者」で、「anywheres」はその子供世代以降の「都市の若者」でしょう。恐らくこれは日本の場合でも当てはまることで、実際私自身の家族もこのパターンに当てはまります。つまり祖父母は地方で暮らし、父母は都市で私を育て、私は都市の大学や海外の大学へ通い、という具合です。

昨今保守系から問題とされているのは、恐らく私の父母の世代(60-70年代生まれ)までは都市住民の間でもまだ「地方出身者」の比率が高かったのに対し、80-90年代生まれ以降は最初から都市に生まれ都市で育っている者が圧倒的に多く、地域に根ざした生活というものがそもそも想像さえできないので、結果彼らが数的に増えてくるとより都市的、グローバル的な環境を求め、地方を軽視する流れが出来てしまうという事態なのではないでしょうか。

統計資料等を見て確認した上で言っているわけではないので話半分程度の議論でしかありませんが、このように「世代」という要素を加えて考察してみると、英米の「ポピュリズム」というのがやはりどこまで行っても増大し続ける高齢者の利害を代表するシルバー・ポピュリズム以外の何でもないことが明らかになってくると思います。

ただ、だからと言って都市の若年層の中にBrexitやTrump氏を支持する層がいないのかというと決してそうではありません。数はさほど多くないとはいえ、無視できない程度の都市の若者が基本的には高齢者を中心とする「ポピュリズム」に共鳴しているのもまた事実です。従ってそれは如何なる理由によるのか、というところが、果たしてこのシルバー・ポピュリズムに未来があるのかどうかを判断する上で重要になってくるでしょう。

 

私の考えでは、都市の若者の大半がグローバリズム・反ポピュリズムを支持する情勢の中で一定数がこれに反発しポピュリズムを支持するに至る原因のうち最も重要かつ普遍的意義のあるものは、知性や学識の到達度が他より優れたグローバル都市の高学歴層であるが故に見えてくる現代アメリカの脆さと危険性の認識に端を発する「反アメリカ(の衆愚政治)」としての極めてエリート主義的な視点に基づくものです。彼らは数においては勿論決して多くはありませんが、その「影響力」は決して小さくありません。大手メディアや伝統的エリート大学等の外から、YouTubeやSNS等を通して発信される、ひとつひとつはそれほど力を持たない謂わば「グローバル学歴エリート(崩れ)」の「内部告発」の蓄積が、総体として大きな影響力を形成し始めている。

例えば、カナダ出身のフリージャーナリストLauren Southernによる南アフリカにおける白人農民への日常的暴力の告発は、まさにこのような実例の一つです。彼女自身はカナダ出身で、南アフリカの現状など実際に現地入りするまでは詳しく知らなかったはずですが、このように世界を飛び回る「anywheres」の立場にあるからこそ虐げられる「somewheres」のところまで行ってその現状を他の「anywheres」の眼の触れるところに晒すことができる人というのが、英語圏では出てきている。無論、Southern氏が英国から入国拒否されていることからも明らかなように、こうした運きは決して英米社会で歓迎されているわけではありませんが、歓迎されないながらも少数の熱烈な支持を基盤に巨大な権力に対して孤軍奮闘している小グループがいくつもあって、彼らがSNS等を通してゆるやかに連帯しているわけです。

こうした抵抗勢力の発する情報に、半信半疑ながらも耳を傾ける人々が増えることで、若年層の中にも「トランプ氏の(ような高齢者達が)言っていることは間違っていないのではないか」という考えを受容する素地が出来てくる。そういった思想レベルでの素地をつくる段階が、Brexitやトランプ氏が出現する5年ほど前から徐々に形成されていっていたわけで、これが現実の成果として結実するのにそれなりの時間がかかっているわけです。

このような、枯れ果てた砂漠の地に小雨を降らすような作業が連綿と続いているおかげでシルバー・ポピュリズムへの若年層の支持というものが生まれているわけで、この層に限っていえば「Fake News」に踊らされているわけでは全くない。事実はむしろその逆で、彼らは元々児童期には信じていたリベラルな報道に「騙されていた」と思っているほどなので、トランプ氏の痛罵に喝采を送る気持ちにもなるということです。この点を見逃すと、それこそ英米社会の陰に潜む「真のエリート」、否「エリート崩れ」の嘲笑を込めた逆襲に足元を掬われることになるでしょう。

 

今のポピュリズムの主体は表面的には特に高齢者で、かつ英米の高齢者ですが、これを陰で可能にしているのは一見高級な装いで包まれていながらその実中身の空疎なリベラル報道を苦々しく思っているグローバルエリートの「裏切り」なのではないでしょうか。ご自身がかなりの高齢者であるトランプ氏が「twitter」を好んで使用するのは、決して故なきことではない、と私は考えます。