哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

人文科学(Human sciences)の本質 - Gadamer の視点から見る日本の憲法学

以下リンクの篠田先生の記事を読んでいて、ちょうど最近読んでいるGadamerの議論を援用できる良い機会だと思い、今回は「人文科学」について書くことにしました。

 

三権分立は世界で日本だけ?画期的な日本の憲法学通説 – アゴラ

 

上リンクで篠田先生が引用されている石川教授の議論に出て来る『「民意」をも超える平和主義という理想』。これが「正統化根拠」(Justification of Legitimacy?)であるという発想が日本の憲法学界 - というより恐らく人文学界全体 - にある種の権威を持っているという印象を、私は以前から勝手に持っています。

 

さて、急に話が飛びますがここでガダマー(Hans-Georg Gadamer)が論じたことが上手く噛み合ってくるので、該当部分を少し引用します。(ガダマーは勿論ドイツ人ですが、私が持っているのは英訳なので英語で引用します。)

... in the human sciences the particular research questions concerning tradition that we are interested in pursuing are motivated in a special way by the present and its interests. The theme and object of research are actually constituted by the motivation of the inquiry. (Truth and Method, P.296)  *1

重要なので念の為日本語訳をつけましょう。

人文科学においては、我々の探求上の関心対象となる伝統に関する特定の研究課題(複数 - 以下pl.)は特別な仕方で「現在」とその関心(pl.)に動機付けられている。テーマと研究対象は実は探求の動機から成り立っているのである。

 つまり、自然科学や一般的に理解される意味での「科学」とは異なり、人文科学 - 或いは日本語的に言うなら「文系の学問」- の研究テーマというのはあくまで研究者側の「現在の関心」によって成り立ち、かつそれを反映するものであり、故に文系の学問に関して「真実」云々を語るのは最初から「ナンセンス」(senseless)なのだということです。(ガダマー自身が同ページ上でそう示唆しています。)

 

ここからガダマーは『人文科学とは、どこまでいってもある種の偏見の表現でしかないのであり、人文科学者の本分とは従って「偏見から自由な真実」を明かすことではなく、「最も正当な偏見」を他の不当な偏見から剔抉することなのである』という結論を導くわけですが、この視点を踏まえた上で、もう一度篠田先生が引用されている石川教授の議論に戻ってみると、石川教授が恐らく無意識に行っていることが浮き彫りになってくるのではないでしょうか。

 

つまり、当該論文で「憲法学」として石川教授が行なっていることは、憲法に関する「真実」の提示という体裁をとった、石川教授の信じるところの「正しい偏見」の提示なのであり、かつこの「正しい偏見」というのは、具体的には「民意をも超える平和主義の理想」という「絶対規範」に対して忠実である「べき」という当為の肯定だということです。

 

しかし、果たして我々はこれが「正しい偏見」であると認める「義務」 を負っているのでしょうか?石川教授やその他の憲法学者の議論に「権威」はあるのでしょうか?ガダマーの指摘する通り、「権威(authority)」とは決して誰かに与えられるものではなく、絶えず獲得し続けていくべきものです。(authority cannot actually be bestowed but is earned, and must be earned if someone is to lay claim to it. [Truth and Method, p.291])

 

 ところが現実には(特に「権威主義」の傾向が伝統的に強い日本では)日本の学問上の「権威」というのはまさに「(理念的には畢竟「天皇陛下」より)賜る(bestowed)」ものとして観念されているのではないでしょうか。そもそも日本の「天皇」の権威そのものが、かつての中国皇帝に「賜る」ことで正当性を得ていたこと、また「三種の神器」という権威の象徴を「賜る」ことが「天皇」という地位の本質的性格を規定するという北畠親房の議論があることなどを鑑みれば、日本における「権威」というのはどこまでも何か上位の存在から「賜る」ものと観念され続けていた歴史があると言えるのはないでしょうか。東京大学(やその他の「帝国」大学)の学術機関としての「権威」をかつて保証したのもそれが「天皇」によってつくられた、「天皇の官吏」である「奏任官」やそれに準ずる知識人の訓練施設であるという事実であり、またこうした見方は戦後においても非明示的な形で存続してきているのではないかと私には思われます。或いは、「天皇」と「知的権威=東大」の関係が現在では解消されているとしても、それを可能にしたのは「英米」あるいは「大学ランキング」等の「国際的評価」が十分にかつて「天皇」が果たした役割を遂行しているという事実であり、「権威を上から賜る」という形式そのものには何の変更も生じていないのではないでしょうか。

 

ところが実際には「権威」というのは本質的に「得る」べきものです。上から授かる権威は形式だけの空虚なもので、実際にそこに中身が伴っている必然性は全くありません。日本ではどういうわけかそうした空の権威でさえも存分に力を発揮してしまうので、そういった「現実」を民の側が現実として受容してしまうことによって「大学受験」 というどこまでも空疎な競争制度が存続していますが、そういった競争を勝ち抜いた人々に、必然的に彼らが競争に勝つことで得る権威が本来要求すべき「中身」が伴うようになっていると言えるでしょうか?私は必ずしもそうでないと思います。というより、そうでないからこそ「学歴主義批判」が力を持ってくるのでしょう。所謂「高学歴」の方々は「学歴主義批判」を「大衆(あるいは愚民/低学歴)のルサンチマン」であると片付けてしまう人が案外多いですが、これは決して単なる感情的なルサンチマンの表明ではなく、正当な、「正しい偏見」の表明で「も」あるのです。或いは「高学歴」向けにこう言い換えてもいいでしょう:「学歴」の権威など、所詮「大衆のルサンチマン」で吹き飛んでしまう程度の重みしかないのだ、と。もっと深刻なのは、学者の世界ではあろうことかそういった中身の伴っている人ほど「学界」で迫害を受けやすいというような弊害まで生じているといった有様だとさえ耳にすることです。

 

そうだとすると、日本の社会状況を歪にしている決定的要因は「権威は獲得するべきものなのだ」という了解がそもそも公共的に欠如していることだといえてくるのではないでしょうか。そしてこの事態の弊害が最も端的に現れてしまっているのが、「憲法学」という闇の学問分野なのだと思います。尤も、これは必ずしも憲法学に特有の現象ではなく、人文科学全般に言えることです。無論、例えばインド宗教学における故中村元先生のように中身の伴った権威を自ら獲得されていった稀有な存在もおられます。しかし特に人文科学においては、日本でなくともこういった「権威主義」という弊害が生じやすいものであるということに自覚的である方が、比較的に健全なのではないかと私は考えております。

 

*1:From Gadamer, H.G. (2013). Truth and Method. Trans. by Weinsheimer, J. & Marshall, D.G., Bloomsbury