哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

國分功一郎氏の「憲法論」を検討する

國分功一郎さんは、スピノザ研究者でありかつスピノザから着想を得た哲学者でありながら、私とは全く異なる思想及びスピノザ理解を持っておられる「学者先生」のお一人ですので一応それなりに彼の発言には興味を持っているのですが、先日國分先生の「憲法論」という実に興味深いものが朝日新聞デジタルに出ていた(元記事は以下:言葉が失墜、「物語」なき憲法論 寄稿、哲学者・國分功一郎:朝日新聞デジタル)ので、これに対して「哲学者」として多少「分析的」に、つまり意地悪くコメントしていきたいと思います。

 

1. 「憲法というのは高度に専門的・技術的であって、素人が容易に口出しできるものではない。」(國分氏)

(*上記リンク先記事からの引用。以下、特に断らない限り國分氏の発言は全て上記リンクを出典とする。また國分氏の文章からの引用の後には以上のように「」に続いて(国分氏)をつける。)

→露骨な官僚主義、あるいはテクノクラート擁護論。もし「日本国憲法」が素人が口出し出来ないような「高度に専門的」なものであるのなら、それは憲法が事実上「国民の総意」に基づいているのではなく「専門家の多数意見」に基づいているということになる。例えばスピノザはこれを明確に「貴族制(aristocracy)」と理解し、かつ非難するだろう。(注:スピノザは民主主義の擁護者としても知られていますが、スピノザにとって「民主主義」とは「直接民主制」でなければならないので、現代の西欧先進国で一般的な「代表民主制」はスピノザの定義の上では「貴族制」の一種です。)

 

2. 「どうして憲法が文学と関係を結ぶのだろうか」(國分氏)

→別に「憲法」は文学と関係を結んでいない。「憲法」を「理解」する為に原文に書かれていない文学的な「物語」を読み込んでいるのは國分氏を始めとする「学者」であり、もし憲法学者がそのような「物語」を語り続けてきたことが「戦後日本の特徴」なら、それ自体がまさに戦後日本の「憲法学」が「高度に専門的・技術的」云々といった「学問性」とは程遠い「文学」に近いものであった、つまり戦前の平泉澄の歴史神学的な「物語」に代わる新たな「物語」を提供する「戦後神学」であったということを示唆しているに等しい。

 

3. 「かつては身分制があり、軍事と密着した社会があり、更には家制度があった。そうしたくびきからの解放があって初めて個人は存在する。個人はあらかじめ存在せず、解放によって生まれる。そして性差別の現存などから明らかなように、その解放はまだ十分ではない――。このような物語があって初めて人は「個人主義」の価値を理解できる。」(國分氏)

→個人主義の「価値」など、現実世界で実際に集団の同調圧力に晒されていれば理解できる。別に仰々しい「物語」は必要ない。むしろ現実世界を離れた文脈で「個人主義」の「価値」を理解しているのであれば、その「理解」は、ハイデガーの言葉を借りるなら、「uneigentlich(inauthentic)」である。

 

4. 「平和主義について言えば、価値を支えていたのはむしろ「あんな戦争はもうイヤだ」という感覚であったと思われる。」(國分氏)

→もしそうだとしたら、実に手前勝手な「平和主義」だと批判され得る書き方です。中国や韓国を始めとするアジア諸国や一部の西洋諸国民に対する「帝国日本の犯罪」への謝罪の気持ちは、日本国憲法の「平和主義」とはなんの関係もないのでしょうか。だとすればこれは普段「教養ある知識人」が言っていることと矛盾しているような気がしますが、まあいいです。日本における保守派の強さを考えればこういう言い方を(正義の味方を自覚している人でも)なんの反省もなく出来てしまうのは理解できなくもないので。

 

5. 「感覚は大切であるが、それだけでは理解は生まれない。」(國分氏)

→この発言は、以下の國分氏の発言と論理的に矛盾している:「いまよく耳にする「世界には危険な連中がいるから軍備が必要」というタイプの「改憲論」は、価値を共有するための物語ではない。ただ感覚に訴えているだけである。いまはそれが有効に作用する。」(國分氏)勿論國分氏は「理解」と「有効に作用する」を言い分けているので、理解と感覚的「作用」は概念的に別のものだという反論は出来るでしょう。しかし「理解される」ことと感覚に「有効に作用する」ことは果たして別の現象なのでしょうか。前者と後者にどのような違いがあるのでしょうか。奇しくも國分氏は「理解」を生むのは「文学的な物語」だと示唆し、しかも冒頭で「エンターテイメント小説」的な文章も「文学的」であると示唆している。一般的な理解に従えば、こういった「文学的な物語」こそ最も「有効」に「感覚に作用」するように人工的に造られた「フィクション」であるが、だとしたら「感覚に作用する」ことと國分氏の言う「理解」の間には何の差もないように思われる。実際、國分氏自身が以下のような表現を用いている:「現代の日本において、文学的に紡ぎ出される物語はもはや有効に作用しなくなっている。」(國分氏)つまり、國分氏においては「有効に作用する」=「理解」であるのは少なくとも本記事における國分氏の用法からは明白に読み取れるのであって、だとすれば先述の「感覚は大切であるが、それだけでは理解は生まれない。」という命題は論理的自己矛盾を含み、全く意味をなさない。

 

6. 「いまの時点でできることを精一杯やるしかない。だが、「いまの時点でできること」に甘んじてはならない。そうでなければ、早晩、憲法は死んでしまうのである。」(國分氏)

→死ぬのは「憲法」ではなく、「物語」の方であり、かつ「物語」は既に死んでいる。

 

以上です。もう少し長くしても良いですが、まあ國分先生の原文もそんなに長いものではないのでこのくらいにしておきます。