哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)の「新リアリズム(New Realism)」の簡単な解説

Lecture Markus Gabriel: The World Does Not Exist - YouTube

上のリンクは、最近流行り(?)らしいMarkus Gabrielさんのオランダにおける講演動画です。質疑応答が結構いい感じでわかりやすいので私が見た限りでは英語版はこれが最もお勧めです。

Markus Gabrielさんは実は去年ウチの大学に来て講演をしていたのですが、カレッジからのメール通知を完全にスルーしていた私はこの機会を逃してしまいました。どうせ試験期間中だったのでどうせ行かなかったかもしれませんが、惜しいことをしましたね。

いずれにせよ、日本で翻訳書が出た関係で最近妙に話題になっているらしいのでちょっと動画を視聴してみることにしたわけですが、「Why the world does not exist」という如何にも挑戦的なタイトルから、どうせまたKant-Wittgenseteinの流れの反客観主義みたいなやつだろう(くだらない)と思って最初は聞いていました。

で聴き終わってみると、やはり色々と議論に粗はあるが大筋は案外そんなに間違っていないかもと考えを多少改めました。もし私の理解が正しければ、この人は単なる一過性の流行ではなく結構ガチで重要な哲学者です。勿論私が好意的に誤解しているだけかもしれませんが、仮にそうでないとしたら、彼はものすごく革新的かつ恐らく正しいことを言っている可能性があります。ということで、以下私が理解する限りでの彼の哲学的主張を解説していきたいと思います。

 

まず、Gabrielの基本的な立場についてですが、私の先入観ではきっと「反客観主義」だろうと予想していたところ、実際には反客観主義というよりも、反物質主義(anti-materialism)と言うべき立場です。更に厳密に言うならば、彼は「物質世界のみが存在している」という物質主義(materialism)の「世界観」を強く否定しています。同時に彼は「世界(World)とは人間の主観によってのみ成立するのであり、主観なきところに世界はない」という「エヴァンゲリオン」的な、あるいはカント/ハイデガー的な「世界観」(Gabrielはこちらをconstructivismと呼んでいます)をも否定します。彼自身が特に批判するのはこの二つですが、実際のところ彼は基本的にあらゆる統一的あるいは包括的「世界観(World View)」を否定します。別の言い方をするなら、彼は存在論におけるあらゆる「還元主義(reductionism)」的試みを批判しているという風に言っても良いでしょう。

還元主義というのは、例えば「心の哲学」で言えば、

我々が「心」と呼ぶものは実は「物質」によって成り立っているので、「心」の領域と「物質」の領域を分けて考える必要はなく、あらゆる「心」に関する現象は「物質現象」に「還元(reduce)」できる

といった立場です。要するにAというカテゴリからは区別されるべきと思われていたBというカテゴリが、実はAと区別される必要はないのでAに還元されるべきだという主張するのが還元主義です。Gabrielは「存在/existence」についてこういった還元主義的議論を提示するあらゆる試みを「形而上学/metaphysics」と呼び、徹底的に批判します。つまり「存在」とは全て「物質的なものである」とか、あるいは「人間の精神が構成するものである」とかいった主張はとんでもなく間違っていると彼は論じます。

ここまでは伝統的な形而上学に対する批判ですが、彼はまたWittgenstein的な「世界/world」とは「存在する"事実"(facts)の総体(totality)である」といった言語ゲーム主義的立場をも否定します。といっても彼が否定するのは主に「totality」という概念の方です。Gabrielによればこの「totality」というのは決して完結し得ない概念であるので、完結した「totality」というものは「四角い丸(square circle)」のような語義矛盾であり、従って「存在しない」と論じます。(私なら「論理的に存在し得ない」と言いますが、彼は単に「存在しない」とだけ言いたいようなのでそうしておきます。)

では何が「存在」するのかというと、基本的に「事実(facts)」は全て「存在する」のだとGabrielは言います。我々はただ「事実の総体」なるものの不存在を理解せねばならないだけで、別に「事実」そのものは存在しているのです。となると「事実」とは何なのかが重要な問題になってきますが、これに関するGabrielの説明は少なくともリンク先の動画においてはあまり十分とは言えません。

とりあえず私の理解する範囲では、Gabrielにおいては「事実」が何であるかを確定させるには「(意味の)場/field (of sense)」というものが不可欠で、「場」が異なればそこで「事実」と認められる命題も異なってきます。もっと卑近な言い方をすれば「視点」によって「事実/真実」は異なるということです。ここまでは恐らくWittgenstein的な思想を受け入れている人には当然の議論でしょう。

ところがこの議論はGabrielの「真理観」と合わせるともう少し異なる意味を持ってきます。というのもGabrielは「真理(truth/Wahrheit)」とは畢竟ある特定の「場」において「事実」である「事実」が確かに「事実」であるということを表すに記号に過ぎないと主張しているからです。すなわち「真理性」もまた空疎な虚概念に過ぎない(ただし世界とは異なり自己矛盾概念ではない)とGabrielは言っているのです。

しかし、ここまでを受け入れたとしても、ではある特定の「場」において「事実」を確定する手段は何なのか、というのが次に疑問になってくると思います。私が特に面白いと思ったのはGabrielがここにおいて「合理性」的な概念を援用しようとしていた(ように見えた)ことです。すなわちGabrielはカントとは異なりヒュームや現代英国人哲学者のような「経験論(empiricism)」を全く採用せず、別に感覚経験(sense experience)は事実を確定する上でさほど必要でも十分でもないと切り捨てます。では感覚経験の代わりに何が重要になってくるかというと、Gabrielははっきりそうは言っていませんが、私の理解では恐らく伝統的には「理性」と呼ばれて来たものです。従って、「事実」とは思考の主体が持つ情報の限りにおいて最も論理整合的な見解そのものであり、かつこの「事実」以上の「真実」などないということです。

逆に言えば「事実/真実」というのは常に「可謬的(fallible)」なものであり、与えられる情報の量や質が変わることで何が「事実」であるかは変わり得るということです。ここにおいてGabrielは主観主義的な立場を必ずしも捨てていないということがわかると同時に、主観の判断に「合理性」を介在させることである種の「客観性」をも担保させるということを試みているわけです。(当然ながらスピノザ主義者の私が最も面白いと思ったのはこの部分です。)

ということで以上を簡潔に纏めると、例えばハリーポッターの映画を見ている主体にとって「(ハリーポッターの世界においては)魔法が実在する」というのは「事実」であり、この「場」において「魔法は存在しない」と主張するのは間違っており、非合理ですらあるとGabrielは主張するのです。これをGabrielは「新現実主義」(New Realism)と名付け、かつこの新現実主義においては「フィクショナルな存在」が正しく「存在」していると言えるのと同じように、あらゆる「道徳的事実/真実」もやはり「存在」しているのであり、従って「人を殺してはいけない」という命題は(そういった命題が適切に意味を持つ場では)端的に「事実」あるいは「真」であり得ると言うのです。

 

と、非常に雑にかつ簡単にMarkus Gabrielの議論を私の理解できる範囲で解説しましたが、ここまで読んで頂ければどうしてGabrielの議論が重要であるのか、またどうして彼がこれほど人気を博し有名になっているのかが何となくお分かり頂けると思います。特に英語圏にいる私にとっては、もしGabrielの主張が全て受け入れられれば英語圏の分析哲学において今日でも行われている議論の非常に多くの部分が根本的誤解に基づく何の役にも立たない「誤謬」として一掃されてしまうということが明瞭に見えるので、これは割と冗談抜きでとんでもないことじゃないかと思えるわけですが、これまでの現象学的な大陸哲学とは異なり「主観」にやたらと拘って詩的な議論をするのではなく、完全に分析哲学の議論を理解した上で思いっきりその土台を掘り崩してきているので、これは分析哲学者は無視できないはずだしちゃんと応答しなければ沽券に関わると思います。

 

ということで、次回は私の簡単な応答のスケッチを描いて見たいと思いますが、少々時間を食うかもしれません。またもし私のGabriel理解が間違っていることがわかり次第この記事も修正します。(もし識者の方からご指摘を頂ければその方にご指摘いただいたこともここに記します。)ということで何か批判やコメントがあればどうぞ遠慮なく書き込んでいってください。

 

ではでは。