哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

哲学的テクストの「哲学的」価値とは?

英国に来て哲学を学び始めてそろそろ三年が経とうとしていますが、最近になってようやくわかってきたことがあります。

それは、「分析哲学」の世界においては「哲学的テクスト」の価値というのはそこに示されている「思想」そのものではないんだということです。私は日本人ですし日本で読書をしてきましたし、たった一年半とはいえ日本の大学でも少しは学びました。その経験から、私は「思想」そのものに価値があるという価値観を当初は持っていたんですね。「哲学」というのは、自分の思想をより価値のあるものへと「進歩」させるものだと思っていた。その為には「価値」とは何かを徹底的に問わねばならないし、それこそが哲学の最も本質的な問いだと思っていました。無論、日本で哲学をやっておられる他の方々がどう思っておられるのかよくわかりません。なので一般化はできませんが、こういった考え方はどうも私独自の勝手な思い込みであったか、あるいはもしそうでないなら日本的な考え方、あるいは大陸哲学的な考え方(=伝統的な日本の哲学者一般に共通するの考え方)なのではないでしょうか。まあそこに関しては別のところで議論することにして、とりあえずこうした考え方は英語圏における「分析哲学的」な考え方とは全然違うんです。「分析哲学」においては「言われること」そのものの価値は一応考えない。それよりも「どう言われているか」の「形式」の方が大事なんですね。何を言おうと別に構わない(といっても人種差別などのタブーは勿論あるが、そういう政治的な配慮が必要な分野を除けば基本的には何でもあり)が、それをどう言うのかというところが基本的な問題になってくるわけです。英語圏において「哲学的価値のある文章」とされるのは従って特定の思想や立場を「最も明快に」説明しているもので、別に「高尚な思想」を説いているものが「価値のある文章」とされているわけではないのです。例えばクリプキ(Saul Kripke)というのはとんでもなく偉大だと誰もが讃える大天才ですが、それは彼が何か高尚なことを言っているからとか深遠なことを言っているからではなく、彼の文章がもう他の英語圏の哲学者と比べても圧倒的に分かり易く論旨明快だからなんです。そこに大きな価値があるということは、英語圏で哲学をやれば確かにわかる。何と言っても引用しやすいのですよね。使いやすいんです。晦渋な文章というのは「解釈」しなければならないし、その「解釈」も決して一通りのみが可能というわけでもないので、これについて何か述べようとするとそれだけで手間がかかるし原稿のスペースをとってしまう。使用できる文字数に制限がある中で、そんな「面倒臭い」文章を引用するのはなるべく避けたいわけです。逆に単純明快な文章があればそれを引用することで余計な説明をしなくとも次の議論を組み立てられるので「使いやすい」んですよね。なので分析哲学者たるものは他の人にとってなるべく「使いやすい」文章を書くのが「仕事」であり、この「仕事」はまさに「労働」としてかなりの程度客観的に評価できる「価値創造作業」なわけです。実際「使いやすい」明快な文章を書くのってものすごく面倒臭いし嫌になりますよ。一々自分の中ではわかりきっていて普段意識さえしない前提をひとつひとつ確認しながら論理的順序を追って説明していかなければならないわけですからね。正直最初は「馬鹿馬鹿しい」と思いましたし、今でもまだ多少はそう思います。やはり日本的・大陸哲学的な思考に慣れていると、「そんな細かいことはどうでも良いから根本のところをなるべく正確に言えばそれで良いよ」と思っちゃいます。だって結局のところどんなにわかりにくい難解な文章でもわかる人には一応わかるし、その「わかる人」に伝わる内容は同じなんですからね。ただそれがあくまで読み手の「解釈のひとつ」として受け取られるか、「書き手の文章そのものが伝える情報」として受け取られるかという違いに過ぎない。でもこの違いが「引用」という文化規範が支配する世界ではものすごく重要なのです。

例えば、Aさんは「カント」の哲学が大好きで、もうほとんど「カント」と全く同じ思想を持ち、カントと同じように考え、カントの哲学をほぼ完全に自分のものにしているとしましょう。Aさんはおそらく日本や欧州大陸では偉大な哲学者として尊敬されるでしょうが、しかしこのAさんが英語圏で「分析哲学」という枠組みの中で自らのカント的思想を分析的に表明しようとするならば、Aさんはカントとは全く異なる言葉で自分の(あるいはカントの)思想を表現しなければならなくなります。というのもカントの言葉をそのまま引用しても「わかりにくい」からです。カントの思想は「難しい」。言い方を変えれば「不明瞭」な部分が少なからずあるわけです。それだからこそこれを「理解できる」ことは大陸哲学的には「すごいこと」なのですが、英語圏ではそれ自体には何の価値もないのです。あくまでその「難しいこと」を「明快に説明する」ことに価値があり、これが出来なければAさんはただ単に「カントと同じように不明瞭なわかりにくい人」としてかえって誰でもわかるような単純なことしか言わないが、それをこれでもかというほど明快に説明できる人(まあつまりラッセルみたいな人)よりマイナスに評価されてしまいます。まあそういう意味では日本の「哲学者」の文章というのは、例え「分析哲学」を研究している関係上「分析哲学者」を自称しておられる方の文章であっても、まず英語ではない言葉で書かれている時点で引用のしようがないので0点ですが、仮に英語で書いてあったとしても、私の見た限りではやはり引用するにはあまりに難解でわかりにくいことを、明確に定義されていない謎の語彙を使用しながらしかも意味不明な論理展開で何か「高尚」なことを述べているという印象を与えるように書かれているようにしか見えないので、あくまで「分析哲学」の文章としてはよっぽど甘く見積もって(断っておきますが、私の基準は自分自身が分析哲学に反感を持っているくらいなのでかなり甘い方です)40点くらいですね。(この数字は100%換算で、「日本のexoticな異様な思想の表現」としてではなく、純粋に「哲学」としての価値を認められて英米の哲学者に引用してもらえる確率とお考えください。)ものによっては辛うじて合格点かなというくらい。(ただし後に述べるように、私は別に分析哲学的でなければ哲学としての価値はないなどとは思っていません。あと、こんな偉そうなことを書いていると「わからないのはお前がバカなだけだ」と言われそうなので予め釘をさしておきますが、英語圏の分析哲学において「あなたのいっていることわかりにくいですよ」と言われた際に「それはわからないお前が悪い」と返すのは最もダメなことだという暗黙の了解があります。この言葉を発することは分析哲学者にとって「白旗」も同然なのです。)なので英語圏の哲学者はなるべくカントやヘーゲルといった無闇に難しい哲学には手を出さずに、自分たちで「明快」な哲学を「明快」な言葉でつくりだし、その枠組みの中で「謙虚な」議論をしたいという基本的性向があるわけです。

実際、ラッセル(実は英語圏には何人も著名なラッセルさんがいるのですが、ここでは無論基本的にBertrand Russellのことを指しています)らが「分析哲学」を始める前のイギリスというのは、実はヘーゲル主義がものすごく流行っていて、イギリス人も同時期の日本人、例えば西田幾多郎、和辻哲郎、九鬼久造などのようにヘーゲルをかなり読み込んで観念論を一生懸命発展させていたんですね。この人たちは今ではBritish Idealistsと呼ばれほとんど無視されていますが、ラッセルが大学生だった時の哲学教授達というのはまだこの英国観念論の人たちだったのです。ところが第一次大戦後から二次大戦頃にかけてドイツとの関係が急速に悪くなってくると、段々「ヘーゲル主義」そのものが「ドイツ的」だとされ批判的に見られるようになり、むしろ「純英国的」な哲学の復興を望む国粋的(nationalistic)な機運が高まります。そんな中数学畑からやってきたラッセルは「ドイツ観念論」など「糞食らえ」と言わんばかりに、いつの間にか忘れ去られていたヒュームを担ぎ出して英国の「経験論」の伝統を称揚し、最終的にはヒューム以上に経験論の立場を徹底させていくことで今日「分析哲学」と呼ばれる潮流の基礎をつくるわけです。そこで何より重視されたのは「明快さ」であり、また「常識」からなるべく外れないということです。つまり「誰にでもわかる常識的な哲学を、誰にでもわかる言葉で語ろう!」というのがモットーだったわけですね。初期の分析哲学者のラッセルやG.E. Mooreなどはまさにこのモットーに最も忠実でした。

(これに対してFregeやWittgensteinといったドイツ語話者の「分析哲学者」の場合はむしろ数理哲学や論理学の方面での貢献が大きく、必ずしも明快さや常識性を売りにはしていませんので、ここに既に「分析哲学」の中の二つの異なる潮流の分岐点が見えるわけです。Fregeの始めた方向の分析は今日では「数学の哲学」となり、ものすごくテクニカルで専門家しかわからないような分野になっています。Wittgensteinの言語哲学の方も後にクリプキやルイスなどが発展させていきましたが、今ではかなり専門性の高い分野になって無数の専門用語や謎の記号や等式が溢れる素人には非常にとっつきにくい世界になっています。)

しかしあまりに「明快さ」を重視した結果、もう既にいまの時点で「分析哲学」の世界そのものの内部における専門用語が増え過ぎており、また議論も細かくなりすぎているので、ここまで来るとかえってヘーゲルをしっかり分析的に読むのより遥かに面倒くさいものになってしまっているのが現状です。明快さを求めるあまりはっきり定義された専門用語をつくり過ぎて、そういった専門用語を縦横無尽に使いまくることによって表現される世界を理解する為に必要な準備が増える一方なわけです。しかもこの世界は基本的に経験論というドグマを前提に組み立てられているので、素朴経験論の立場を取らないカント主義者やヘーゲル主義者にとっては全く意味のない徒労なわけですよ。というのも間違った前提の上に立てられた体系がどんなに精緻化しても結局は誤謬を一生懸命わかりやすく説明しているだけですからね。例えるならあるフィクションの世界観をこれでもかというほどわかりやすく説明しても、それが現実の説明に全く役に立たないというような感じです。「灼眼のシャナ」における「存在の力」とはなんなのかを誰にでもわかるように説明するのは良いのですが、それを説明しても現実の事象の存在論の解明の役には立たないということです。なので、イギリス人のように素朴経験論を単純に正しいものとして受け入れるほどのナイーブさがあるなら分析哲学というのは「簡単」でしょうが、大陸哲学をある程度以上真剣に読んでしまった(=つまり道を既に踏み外してしまった)「邪道」を行く哲学者にとっては「分析哲学」を消化するのって結構苦労するんです。というのも、間違った思想を説明する為の語彙を一々覚えていくというだけでも馬鹿馬鹿しいし面倒なのに、その上さらに大陸哲学的な思想を表現する語彙が分析哲学の中には無いので、これらを一つ一つ分析哲学と同じレベルの明快さで定義してつくっていかなければならないからです。でもそんなことは大陸哲学の偉人達は勿論してこなかったし、というか今でも現在進行中でしていないどころかヘーゲル以降は只管悪化傾向にあるので、もしこういった大陸系の哲学の影響を受けて、何らかの非経験論的な思想を自分のものとしてしまっている場合にはこれを分析哲学者にわかるように自分で説明しなくてはならなくなります。その際にはあなたに思想的影響を与えた当の哲学者でさえ助けてくれないのです。

DeleuzeだとかGuattariだとかAlthusserだとか、辛うじてスピノザを取り込むことで多少の論理性を維持しているものならまだしも、SartreとかHeideggerやその弟子筋の哲学者、あるいはDerrida以降のポストモダン系の哲学者なんてもはや分析的に扱えないレベルのしっちゃかめっちゃか感しかありませんので英語圏の普通な哲学者(つまり現代ヨーロッパ哲学そのものを専門としている人以外)は誰も見向きもしません。ということで、分析哲学者から見ると「ヘーゲル以前」と「ヘーゲル以降」というのは一つの大きな分け目なのですね。大陸系の哲学者でも「ヘーゲル以前」、特に「カント以前」くらいまでなら分析哲学の世界で多少とも真面目に扱えるわけですが、「ヘーゲルとその仲間達」の世界になってくると多少無理ゲー感が出てきて、ハイデガー以降になればもはやインド哲学の方が何倍もマシだというくらいになってくる。しかしそれはあくまで「分析哲学」の価値基準に照らして見た場合の話です。

 

「哲学」の価値って、そもそも「引用のしやすさ」や「学者にとっての使いやすさ」だけで決まるわけではないでしょう?少なくとも私はそれだけが哲学の価値ではないと思います。ただ、分析哲学が大事にしている価値も確かに大事なものだなというのが最近になってようやくわかってきてもいます。わかってきてはいますが、しかしそれはやはりあくまで哲学を「職業」としてやる上で便利なんだということが理解できるだけで、それが哲学そのものの本質において重要なのかという点は正直微妙だと思います。無意味ではありませんし明快に説明されることには当然に内在的価値もありますが、しかし全ての真理がそう易々と明快に説明できるものでしょうかね。理解はできても説明するとなると難しい、説明はできないがそれが真理であるということだけは確信が持てる、ってのもあると思うんです。(というよりそれを認めないとあらゆる伝統哲学が成り立たないし大部分が無価値だということになってしまいます)つまり分析哲学的な価値判断をしてしまうと、あまりに多くのことを無価値と判断せざるを得なくなり、何か「哲学」がものすごく薄っぺらくなってしまう気がするんですよね。でも哲学って本来そんなもんじゃないだろう、と。やはり「職業哲学者」と伝統的な本来の「哲学者」との間には超えられない断絶があるような気がします。でも、「本来の哲学者」ってつまりそれそのものにおいては「無職」ですし現代における需要は皆無に等しいですからねぇ。。そんな人は出版社も絶対敬遠するでしょうね。笑 となると「本来の哲学者」になるには金持ちニートになるか、あるいは生活に必要なだけの賃金を短時間労働で稼ぎつつ静かに思索をしてあくまで個人的交友の範囲で共有するかという選択肢しかなくて、職業哲学者になってしまうともうその時点で「引用」の呪縛に思考の型まで決められてしまうのでダメなのかもしれません。まあ、そうだとしてもやはり職業哲学者にならなきゃ世間的に格好がつかないよなぁとも思う程度には「現実主義者」な私なのでした。