哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

日本のアカデミアにおけるスピノザの誤読について

正直今まであまり意識したことがなかったのですが、どうも日本の「哲学系アカデミア」- と言っても狭義の「哲学者」である大学教員のみによって構成されているとすると限定するとあまりにも狭い世界なので、もう少し広く一般に哲学者とメディア上で扱われている人や、彼らの著作を定期的に読んでいる読者層も含めます - においては、スピノザはある種の哲学的「聖人」として扱われているようです。

 

その直接の原因というわけでもないでしょうが、この最早大陸哲学的、現象学的、あるいはポストモダン的といった枠組みからさえ逸脱している、ほとんど「特殊日本的」と言っても良いスピノザ理解を代表する名著として、どうも國分功一郎さんの「スピノザの方法」が挙げられるのではないかという気がします。(違ったらすみません。)

 

私は生憎國分さんの「スピノザの方法」を読んだわけではないのですが、私の記憶の限りでは「思想」で結構頻繁に國分さんのスピノザ論のようなものを目にしていた気がしますし、その時の印象の記憶と今ネットでその辺に散らばっているレビューなりブログなりにざっと眼を通した感じで勝手に想像しますと、國分さんの基本的視点というのは「他者を説得しようとするデカルト」に対置される「他者を無理に説得することを試みず、あくまで自分の理解を提示するという(より倫理的に正しい)姿勢を貫くスピノザ」という図式のような気がします。(もし違ったら識者の方是非訂正お願いします。)

 

はっきり申し上げると、「スピノザの方法」というタイトルからそういう方向に発展してしまうということそれ自体が私にとっては驚きですしまた非常に興味深いのですが、日本において何が「哲学」だと(世間においてではなく、「アカデミア」において!)思われているのかという点を考慮すれば確かにそういった「読み方」が出てくるのも理解できなくはないなというのが私の第一印象です。

 

確かにスピノザの文章は「説得的」ではありません。そして日本人の眼から見ればそれは「長所」であって倫理的に優れた、デカルトの「近代性」の問題点を「超克」するような何か素晴らしい「可能性」に見えるのかもしれません。ですが、西欧の通常の哲学史の文脈では(フランスやアメリカのポストモダン界隈を除けば)そんな風には普通思われていません。特に経験論の伝統の強い英国ではスピノザはむしろデカルト以上の、否西洋史上最悪の「ドグマティスト/dogmatist」であり、まさに「押し付けがましい近代性」の権化、哲学的悪の象徴のように思われています。この日本風の「倫理的スピノザ」という意味ではなく、現実の「西欧社会の異端としてのスピノザ」、あるいは単純に形而上学者としての「スピノザ」と運悪く同じようなある種の異端的ドグマを何故か持つに至ってしまった残念な哲学徒という意味での「スピノザ主義者」を自認する私の眼から見れば、E.J. LoweやPeter van Inwagen、Thomas Baldwin, Rodriguez-Pereyra などの、恐らく日本ではあまり知られてもいなければ話題にもならないけれども英語圏では相当に重い権威を持つ大哲学者として知られている分析形而上学の大家らの基本的ドグマというのはまさにスピノザの形而上学的テーゼを一つ残らず徹底的に否定していくところに成立しているかの如く思えます。

 

かつ、これらの英語圏の分析哲学者達のドグマというのは大陸哲学において無自覚に前提とされている基本前提を形而上学的に支えるものでもあるので、本来はもう少し注目を集めても良いはずのものである気もします(が、仮に彼らが日本で知られるようになると今度はヒュームやカントの場合とは比較にならないほど容易にドグマ化してしまう恐れがあるのであんまり紹介しない方が良い気もします)。David LewisやKripkeくらいなら案外知られているようですが、彼らの議論は基本的にmodal logic(日本語でどう訳すのかよくわかりませんが、どうも「様相論理」とするのが慣例なようです)の哲学的解釈を中心とするもので、従来あまり深く議論されてこなかった部分なので日本にも紹介されているのでしょう。あるいは単に八木沢敬先生が紹介されたからこの分野だけ知られているのかもしれませんね。笑

 

ちょっと話がズレましたが、まあ要するにこういったLewisやKripkeの議論というのも、あるいは「様相論理学」なる論理学の格好をしてはいるが実は哲学的基盤が微妙に怪しいものも、端的に言えばスピノザを「論理的」に否定する為の装置を準備する為の道具です。こういうとわかりにくいかもしれませんが、もっと直截に言うならば「決定論」、その中でも特にスピノザ流の(あるいは古代メガリア流の)necessitarianism - 丁度良い日本語訳がなさそうなのでとりあえず「必定論(どうせですから「ひつじょうろん」と呉音で読んで頂きたいなと思います。哲学ですからね!)」とでも訳しましょうか - を否定する為の装置です。

必定論とは、簡単に言うと「全ての真なる命題は必然的に真であり、全ての偽なる命題は必然的に偽である」というタイプの見解です。つまり偶然や可能性といった概念を虚妄として排斥するわけです。これを最初に問題視して可能性概念を救済しようとしたが結局ほとんど失敗したかに見えるので今でもメガリア派とともに必定論者の先駆者として名前を連ねている数奇な哲学者が誰かというと、何を隠そうあのアリストテレスその人ですよ。なので必定論はMegarian-Aristotelian (あるいはMegaric-Arisotelianという人もたまに居ます。。英語圏の人ってほんとこの辺り適当なんですよね。。)Modal Logicと俗に言われているわけです。ただ私はアリストテレスは必定論者ではないと思っていますし、この辺りはアリストテレス研究者の間でも結構意見の分かれるところなのでこれ以上突っ込みません。

で、アリストテレス以来西洋哲学(Ibn al-FarabiからAverroesまでのイスラーム哲学も含む)というのはこの必定論を「乗り越える」ことをひとつの重要な課題としてきたわけですが、キリスト教時代になるとこれが神学的奇跡論などとセットで論じられるようになってしまって、段々オカルトじみた話になっていってしまいます。「Credo quia absurdum」(不合理なる故に我信ず - もっと柔らかく言うなら「意味不明なことをこそ信じようではないか」)などという訳のわからないような深遠なようなフレーズがカトリック界隈から出てくるのにも、こういった形而上学的議論という背景がしっかりあるわけです。こういった考え方はデカルトの時代にまだまだありましたし、というよりデカルトのCogito論はこのカトリックの伝統の極めて重要な部分である「自由意志論」をカルヴァン主義という「異端」から擁護する為に提出されたものではないかと疑えるくらいです。ところが、これを純粋に神学的理由ではなく古代ギリシャ以来の論理的理由でばっさり切り捨てて、古代ギリシャの哲学の水準を復刻したどころか更に精緻化してほとんど誰も合理的に反論できないような、まさに「悪魔のような」必定論を再生したのがスピノザでした。

こうなるとカルヴァン主義者やパスカルのようなJansenisteにはさほど問題はなくとも、カトリック教会としては大変なスキャンダルです。何せせっかくAquinasがアリストテレス(およびアヴェロス)をカトリック的に解釈して人畜無害化したというのに、それが実は論理的には筋の通らない試みであると「幾何学的に証明」されてしまったからです。なのでスピノザの著作(後世によって「Ethica ordine geometrico demonstrata」と名付けられたもの)は出版前に既にヴァチカンに通報されていました。死後出版されたOpera版以前の原本が散逸してしまっていて見つからないと思われていたのですが、以上のような経緯のおかげで何とヴァチカンにワンセット残っていた(しかもこれが発見されたのつい最近ですよ。2010-2011年あたりです。)という歴史の皮肉としか言いようのない事態もそれ故生ずるわけです。

ところが、神学者はスピノザの「悪魔性」を執拗にがなり立てるだけで一向に有効な反論を提示できず、ライプニッツの試みもあまり「科学的」な成功とはいえませんでした。フランス人の貴族なんかは案外昔から決定論でも平気だったようですが、逆に真面目なドイツ人はこの事態に結構露骨に苛立っており、Pantheismus Streit(汎神論論争)なんてものが出てきてしまうほどでした。しかし英国では全く別の文脈でこれを「克服」する道筋を立てた人が出てきたのです。これが勿論ヒューム(David Hume)ですね。Pantheismus Streitの発端となるJacobiが既にヒュームに着眼しておりましたが、ヒュームによってスピノザ哲学を全否定しようという試みを哲学的に完遂したのは、以前から何度か述べている通りカントです。こうしてカントによって非決定論は再び「哲学的尊厳(Philosophical Respectability)」を取り戻し、この基礎の上にヘーゲルが更に「自由」を「後天的に発展させていく、あるいは獲得していくもの」として定式化し、これが英国においてBritish Idealistsと呼ばれる人達へと繋がり、フランスやドイツでは「現象学」なるものへと発展していきます。

 

付言すれば、Bertrand RussellやG. E. Mooreなどの初期の「分析哲学者」が何よりも克服したかったのはこのBritish Idealistsが奉じた観念論としての「ヘーゲル主義」です。大陸哲学においてはヘーゲル主義はマルクス主義(マルクス自身がヘーゲル左派系です)へと繋がり、そのまま継続し続けている一派と、むしろ現象学へと昇華された一派とに分かれつつ今日でも続いていますが、分析哲学は彼らが理解する範囲での「ヘーゲル的なるもの」つまりBritish Idealistsのドグマータをトコトン否定します。しかしそれはあくまで形而上学的な観念性を否定する、あるいは英国人に言わせるなら「ドイツ的なるもの」を否定するというだけで、自由論に関してはむしろドイツ観念論を通して守られてきたヒューム主義の「伝統」を英国の素晴らしき経験主義の真骨頂として再評価することで、分析哲学はヒューム(およびミル)を通して極度の「脱ドイツ化」の道を歩みます。こうして「ドイツ的なるもの」をとにかく排除しようという20世紀初期の英国人の国民意識を反映した「分析哲学」は、方法論はともかくとしてドグマの次元では極端に経験主義的色彩を帯びるようになりました。言わばこのころの分析哲学というのは「英国ナショナリズム」あるいは「経験原理主義(radicalised empiricism)」とでも言うべきもので、かつ英国ではこの傾向はいまでも非常に強いです。

 

逆にヨーロッパ大陸ではカントの系譜は今でも影響力があり、特にドイツではカント-ヘーゲル-ハイデガー-ハバーマス辺りのラインが常に「正統」であり続けています。他方、フランスではドイツ系の現象学に影響されたサルトルやレヴィナス、メルロ=ポンティといった人々もいる一方で、ドゥルーズやアルチュセール、あるいはPierre Macheryのようにスピノザをある意味ヘーゲル的な文脈で、つまり「哲学のスタート地点」として捉える「準合理派」とでも言うべき人々もおり、これに加えてJules Vuilleminのように完全に合理主義の伝統に連なる上に分析哲学の手法にも理解を示すタイプもいて、まだ合理主義の伝統が主流ではないとはいえ無視できない程度に残存しているのが特徴的です。

 

ともかく以上がスピノザを軸としてみた場合の西洋哲学史の概略ですが、ここまで見れば明らかなように、スピノザというのは少なくとも西洋(フランスの一部知識人を除く)の文脈では完全に否定すべき対象であるか、あるいはスタート地点として弁証法的「テーゼ」あるいはカント的アンチノミーの「アンチテーゼ」として措定され、後に「克服」されるべき「壁」として捉えられているようなもので、まともに擁護する人はほとんどいません。

現実には、スピノザは英国人とは異なる「国民感情」を持つが手法的には分析哲学を受け入れているアメリカ人(Michael Della Roccaなど)において最も公平に評価され、そしてそもそも決定論や合理主義が好きなフランス人の一部において肯定的に評価されているに過ぎないのです。また、スピノザを擁護する人というのは一般に合理主義者であり、つまり國分さん的に言えば「説得的な人」、しかも「絶対的に説得をしようとする人」の方が普通です。否、スピノザ自身、あまりに「独断的」にテーゼを提示するが故に「まあ理解できないならしなくても良いです。私はそんなあなたを軽蔑するだけだ。」というような意味で「説得しない」という「実践」が結果的に生じているのだという感じが私にはします。(まあ少なくとも私自身はそういう考えですよ、はっきり申し上げて。)

逆にデカルトというのは西洋では「読みやすく、わかりやすく、直感的に納得できる」まさに「良識(bon sens)の人」という風に理解されていて、全然押し付けがましい印象はありません。何よりデカルトの哲学というのは、西洋人目線から見ると何ひとつおかしなことも言っていないし、常識的な直観や常識そのものを非常に明晰かつ判明なフランス語、すなわちvernacularで表現している、まさに哲学界の「ポピュリスト」のような人であって、押し付けがましさとは真逆の人なんです。デカルトの同時代人の間では、他の哲学者の本はあまりに「形而上学過ぎる」ので軽蔑しきって読まない一般の知識人や貴族層が、デカルトの著作だけは「わかる」ので喜んで読んでいたと言われています。実際デカルトの読者には結構貴婦人(=つまり女性)も多く、スウェーデン王妃エリザベスとの書簡にも見られるように実際デカルトは女性にも分け隔てなく、「女性にもわかる言葉で」哲学を教えようとしたくらいの社交的で開明的な人でした。このおかげでデカルトは近代における女性哲学者の誕生に大きく寄与しているとされ、フェミニストからの評価も大変高い人です。その意味でも「説得的」であるということは、西洋の文脈ではむしろほぼ無条件に肯定的な価値であって、そのまま「わかりやすさ=受け入れやすさ」とイコールなのです。

対照的にスピノザは女性など民主主義における参政権からも予め除外する(しかも偏見ではなく合理的な説明によって除外する)くらいで、女性どころか神学的な思考に拘っている(=偏見に塗れている)とスピノザの基準で判断された人には書簡にも返事をしない(あるいは「もう返事をしないでおこうと思ったが、周りがうるさいので仕方なく返信をします」と冒頭で宣言したりする)など、現代なら「エリート主義的」と批判されそうな姿勢を貫いています。実際スピノザの姿勢というのはイスラーム知識人であるアヴェロスの「二重真理説」的な、ある種の中東的・アブラハム的「愚民観」のような諦観の伝統に連なっているのはスピノザが所有していた書物や彼自身のユダヤ系知識人という文化的背景を考慮すれば明らかです。

ここの関係性を完全に逆転して理解しているらしいところが、國分さん的な読み方が西洋の文脈とは全然異なるという意味で「特殊日本的」だと私が感じる部分です。まあそれはそれで面白いので別に良いのですが、スピノザ解釈というよりはスピノザ読解(?)を通して表現される日本的倫理観のオシャレな表現として面白いという気がします。

 

ということで、スピノザ主義ってのはそんな「他者に押し付けない倫理」のような甘いものじゃない、むしろ日本人の普通の感覚からすれば「批判されるべきもの」であって、妙な誤解をすることで本物のスピノザ主義を(それはスピノザの真意ではないというような形で)更に抑圧するのだけは辞めていただきたいということを言う為にここまでダラダラと書いてきた次第でございます。

ただし異論・反論は認めます。何かあればどうぞ仰っていただければと思います。