哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

なぜ18世紀以降の西洋哲学は腐敗しきっているのか

今回は相当挑戦的でかつ論争的なことを書きます。

といってもいきなり難しい話をするのもブログとしてはどうかと最近気付いたので、まず私の個人的な思索の経緯から話しましょう。

 

1.私の「哲学」観

実は私は結構前から現代西洋哲学に言い知れぬ違和感を感じていました。これはもう高校生くらいの時からです。勿論高校生では全然知識がないので、何に対して、どうして、どういった違和感を感じているのか自分で上手く説明できませんでした。ただ、英語や国語の授業で社会的な文章を読む時、倫理の教科書や参考書を読む時、あるいは世界史を読む時、日本で「哲学者」と言われている人(当時の私にとっての「哲学者」とは必ずしも学者に限らないので敢えてこの表現を使います)の文章を読む時、あるいはテレビで彼らの発言を耳にする時、先生に説教されている時、果てはアニメやドラマの背景となる「思想」に着眼している時、私は常に何か妙な感じがする、何かが引っかかるという感覚を割と小さい時からずっと持っていた気がします。私が「哲学」なるものに興味を持ったのは、この「違和感」の正体を暴露することはすなわち哲学なのだと「気付いた」ことに端を発します。

 

意識的に「哲学」に興味を持ち始めた頃、まだ高校2年くらいだったと思いますが、私が最初に「正しい」と感じた思想は老荘思想でした。特に荘周の方に私は強く興味を惹かれ、新釈漢文体系版を買って読むほど好きでした。おかげで、別に漢文自体はそんなに得意でも好きでもなかったのですが、題材が老荘思想の時だけ点数が異常に良かったです。笑 しかし荘周に被れるということは、逆に言えば儒家的思想を徹底的に拒絶するということです。実際当時の私は日本の「朱子学的な倫理観」が非常に嫌いでしたが、しかし偏見は良くないと思って儒家啓典も読んでみると、案外そんなにひどいことは書いていない。むしろ比較的自然に受け入れられる部分も多々あるし、論理的に理解できるところもあり、また朱熹本人がどういった苦労をした人かということや、仏教や老荘思想の影響云々ということを知ると、俄然朱子学もそんなに悪いものじゃないという気がしてきて、むしろ悪いのは朱子学を歪曲した解釈者だという風に考えを改めたりなど、読書をすればするほど自分の考えや批判が一面的な偏見に過ぎず、実際のところ著名な思想家の思想というのはやはりそれなりの深みや価値があって、決して空疎な「権威」のみによって成り立っているのではないということが少しずつわかってきました。それがわかると、今度は逆に一般に人が「悪」だと思っているものや、私自身が教科書的な断片的情報のみに基づいてそう思っていたものをちゃんと読んでみようという気になって、有名ではあるが批判されることも多いものを片っ端から読んでいきました。つまりマルクス主義も帝国主義も、丸山眞男も平泉澄も、仏教もバラモン教も、キリスト教もユダヤ教も、イスラームもスーフィズムも、とにかく古今東西色々読みました。で、そうして様々な偏見から解放されてみると、世間の「議論」というものが如何に稚拙な偏見の表明に過ぎないかということがはっきりわかる。というのも、メディアに出てくる見解というのはほとんど全て古典の中で既出である上に、古典におけるほど整理されて論じられているわけでもない。また、かつて私自身が抱いていたが、後に単に偏見であったと気付いて捨てた見解と全く同じことを言う「知識人」などを目にすると、そういう発言をする側としての「気持ち」が分かってしまうが故に過去の自分を見るようで何とも居た堪れない気分になると同時に、「よくこんな偏見でしかない意見を公共の場で表明できるなぁ」と内心驚いていたからです。

 

ですから、私が時折ほとんど独断的な論じ方で完膚なきまでに批判する思想や立場というのは、実は多くの場合私自身がかつて抱懐していて、しかも結局根拠なき偏見であるとして否定した考えである場合が多いです。リベラリズムもその一つですし、アカもそうです。白状すれば、10代まではどちらかというと私も「普通」の若者で、廣松渉のような真っ赤な思想の方が好きでした。9条にも肯定的で、平和であることは価値で、一切の差別は邪悪で、帝国日本は巨悪で、自民党はファッショで、「右翼」というのは否定的価値しか持たない社会的に有害な思想だと思っていました。こんなことを言うと驚かれる(どころではすまない)かもしれませんが、私は本来こういうことを言う「リベラル左翼」の気持ちがわかってしまうタイプの、割と鼻持ちならない傲慢な人間なんです。ところが、私は東洋思想を渉猟している内にこの左翼的思想を突きつめると最終的に仏教に行き着くということに気づいて、一時期真面目に「出家」しようかとさえ一瞬思いました。ところが仏典を読んでいるうちにある時とんでもないことに気付いてしまったのです。「人間が殺さなくても、動物は動物を殺しあっている」という単純な真実に。つまり不殺生戒なんて何の意味もない、そんなのは人間の側の勝手な下らない自己満足に過ぎず、例え全人類が「悟り」を得て解脱し、つまり滅亡しても、人間の次に強く、かつそんな無意味な発想を持たない動物が他の動物を食い荒らす世界が待っているだけだという単純明快な自然の真理に気づいて、もう今まで拘ってきた倫理だとか道徳観というものが一切瓦解しました。人間が何を考え何を希望しようと、自然はそんな甘えを許すようには出来ていない。人間の倫理観を極限まで突き詰めた仏教の行き着く先が人類の自滅という不合理、しかも結局後に残される動物に何の価値も齎さない唯只管に意味のない不合理でしかないのであれば、そもそも「倫理」に従って「生きる」という発想そのものが間違っているということです。「倫理」に従ったら「共生」が出来るのではなく、「こちらだけが意味もなく死ぬ」だけなのです。そこに気づくと、むしろ正しいのはマキャベリであり、帝国主義であり、一切の倫理を排して純粋に人間自身の力能を高める為に行われる行為の全てであるという風に私は考えを改めました。こんな風に言うとものすごく危険なことを言っていると思われてしまいそうですが、私の観点ではしかしこういった帝国主義的な暴力性というのは、そもそも「生きる」ということの論理的帰結なのであって、これの否定は畢竟自殺にしか繋がりません。あるいは少なくとも自滅の方向へと誘うだけで、何の利益もありません。「自分が死にたくなければ、何かを殺さねばならない」ということです。それを受け入れない動物は、文字通りただ死ぬだけです。仮に現実にはそうすぐに論理的帰結が実現しないとしても、方向性としてはそうなのです。だとしたら、倫理というのは自分以外の誰かを不利な立場へと追いやる為の巧妙な罠でしかありません。そんなものに引っかかっていた自分はなんて愚かなんだ、と此処で漸く気づいた私は自然の秩序に基づかない純粋に人工的なるものとしての「理性」というものそれ自体がイデオロギー装置であるという「プトレマイオス的革命(révolution ptolemaïque)」(これはJules Vuillemin の言葉で、カントへの皮肉です。(Vuillemin, 1954, 306) )を経験し、それまで受容してきた一切の哲学的偏見を一掃しました。そこで初めて「右翼思想」を内面的に理解できるようになったのです。逆に言えば、倫理的偏見に縛られていた間はこれが本当にわからなかった。というより心理的に受け入れられなかったんですね。でも、間違っていたのは私の倫理的偏見の方で、右翼的な思想の根本的な部分というのは単に自然の摂理に従った、生きようと思うなら必然的に持たねばならないものだとわかって、老荘的な倫理的潔癖は実は全然「自然」ではないという風に気づいたわけです。従って、後世の生ぬるいのはともかく、真正の原始仏教が「死の宗教」であるのと同時に、一切の倫理思想は「死に至る病」に他ならないし、倫理的な政治思想も「死へのイデオロギー」であるわけです。この「死の匂い」こそ、私が長年感じてきた違和感の正体であると今では思っています。従って一般に「悪」とされるものの中にこそ、真に「生」にとって必要であり価値のあるものだというニーチェの皮肉には一理ある、と私は理解しています。

 

2. ドイツ観念論と反ユダヤ主義

ということで、前置きにしては随分長々と自分語りをしてしまった気がしますが、本題はここからです。このMichael Mackという方が書かれた「German Idealism and the Jew」という本は、ドイツ観念論哲学が本質的に「反ユダヤ的(antisemite)」であるという実にスキャンダラスなテーゼを提示します。これは一見不当な批判に見えるかもしれませんが、ここで問題となっているのはドイツ観念論やそれ以降の「哲学」が重視している最大のポイントの一つである「倫理の可能性」という観点です。以下はMack氏とは関係のない私の見解ですが、カントの哲学というのは畢竟この「倫理の可能性」を保証する為の形而上学的装置であり、そして「倫理の可能性」を最も好戦的に否定する「純粋理性(Pure Reason/Reinen Vernunft)」なるものを「批判/Kritik」し「倫理の可能性」を「理性的」に擁護することこそがカント哲学の究極的目標なのですが、その仮想敵である「純粋理性」、つまりこの「倫理の可能性」を徹底的に、そして完膚なきまでに否定する「最悪の理性の越権」を代表するのが「スピノザ」であり、かつ「ユダヤ的なるもの」あるいは「東洋的なるもの」であるという風にカントは措定しています。また、カントの狡猾なところは、「スピノザ」の思想を「純粋理性」の乱用という風に特徴づけておきながら、最終的には「理性の使用限度を守って使用することこそ真に理性的である」という語義矛盾のような結論を導き、しかもこれが驚くほど多くの人を「納得」させ、今日でも「納得」させ続けている点です。カントが本当にやったことは「倫理」という「非合理」を合理的な理性に基づく世界観にねじ込むという哲学者としてはあるまじき「非合理主義」への阿諛なのですが、これをさもそれこそが「理性的」であるかのように奇妙なレトリックを使って正当化してしまったのです。つまりさきほどの私の個人的思索との関連でいうと、「自然の摂理」(=スピノザ的合理主義)というのは合理的ではなく非合理な「東洋的」なものであり、これに対置される「西欧的なるもの」=「真に理性的なるもの」とはすなわち「人間理性」、つまりあの仏教的な「死へと向かう」倫理性の方なのであるということです。(ハイデガーの哲学原理を思い返してください!)

なぜこんな悪魔的なレトリックに多くの西欧人や日本の知識人が騙され、ほとんど誰も疑問視しなかったかというと、彼ら自身がカントと同じ「実践的関心」を持っていたからに他ならないでしょう。そしてその「実践的関心」こそが、「反ユダヤ主義(antisemitism)」と密接に関連する「反知性主義(anti-intellectualism)」、及び「反物質主義(anti-materialism)/観念主義(idealism)」- すなわち「反スピノザ主義(anti-Spinozism)」なのです。

Mack氏の著書においては、ドイツにおいてカント以降のドイツのユダヤ系の思想家が、カント以降のドイツ系の哲学者、すなわちヘーゲル、フィヒテなどに受け継がれたこうした「偏見」に対してどのように対処したのかということを詳細に研究されています。しかしこれは単に19世紀のドイツという時代に限った話では全くありません。「反スピノザ主義」は今日の西欧で猛威を振るっているどころか、むしろスピノザ主義を「現代思想」として真剣に擁護する人などほとんど誰もいない(もしかするとDella Roccaさんは例外かもしれませんが)と言っていいでしょう。フランスのDeleuzeやAlthusserのような、必ずしも純粋なスピノザ主義とは言えない(DeleuzeはHeideggerを混ぜ過ぎている、Althusserは当然ながらマルクス主義的理想主義の要素を混ぜている)ものでさえ、既に十分に「異端」です。ハイデガーという、カント哲学の論理的帰結を極端に先鋭化させたような思想を展開した人が「ナチス」の時代に生きたのは不幸な偶然なんかでは全然ありません。そこには深い内的つながりがあるのです。そしてハイデガーの現象学を前提とする、つまりカント的な「理性」観を前提とする今日の大陸哲学は、丸ごと「反ユダヤ的」と言っても過言ではありません。実際フランスで「極右思想家」として叩かれているのは愛国的franco-françaisなんぞではなくEric ZemmourやAlain Finkelkrautなどのユダヤ系の知識人です。

 

そしてこれは英米の分析哲学においても全く同じことが言えます。学者のレベルで現代の「リベラリズム」に何か本質的問題があるという違和感をかなり早い段階で指摘した日本でも有名なサンデル氏はユダヤ系ですし、最近一般人の人気を集めている「保守派」Public Intellectualとして有名なBen Shapiroもユダヤ系のユダヤ教徒です。Ben Shapiro同様Public Intellectualとして知られるが、ユダヤ教徒ではなく無神論者として知られるSam Harrisも母方がユダヤ系と言われています。このように、西欧世界でいち早く「現代思想」のおかしさに気づき声を上げている知識人のほとんどがユダヤ系の出自を持っているというのは単なる偶然でしょうか?私は偶然ではないと思います。つまり、彼らが最も「現代思想」の実害を何らかの形で被っているからこそこうなるのだと考えています。それが最も端的に現れるのが、リベラル派と保守派が一致団結して行う「イスラエル批判」です。しかもこれには日本人の中にも賛同する人が結構います。それだけこの「反ユダヤ的なるもの」というのは根深く、かつ歴史的経緯を問わず簡単に伝染していくものだということです。

 

ところが、英米はナチスを自分たちこそが倒したという自負によって自らを免罪できてしまったため、彼ら自身もまたドイツ人やフランス人と同じように反ユダヤ的な思想を持っているという側面を完全に無視できてしまっているわけです。これこそ彼らが安易にトランプ氏を「ナチス」よばわりしたりする一方で、彼が「ユダヤ系」と繋がっているという陰謀論を平気で展開したりするという二重性が生じ得る原因となっているわけです。つまり、現代英米の「リベラリズム」、すなわち「多文化主義/multiculturalism(=イスラームによるユダヤ人・イスラエルへの圧迫を暗黙に肯定すること)」や「多元主義/pluralism(=合理性に基づくLaïcitéやFree Speechといった原理を西洋(=ユダヤ)中心主義として糾弾し否定する)」の二つを基調とする政治思想は、現代風に形を変えた「反ユダヤ主義」に他ならない、ということです。この意味では、「ナチス的なるもの」の根幹部分は「リベラル勢力」の中にも根強く残っており、決して「キリスト教保守」勢力のみの専売特許ではないということです。故にこの両方を否定し孤高の合理主義者の位置を占める真の知識人がユダヤ系で独占されるのは故なきことでもないのであって、かつそれは単にユダヤ人が賢いからといった理由なんかではないのです。

 

いずれにせよ、以上のように考える時、現代の「哲学」- 現象学系統であれ、分析哲学であれ - がいかにイデオロギー的に偏ったものであるか、かつその偏りがいかに隠れた「反ユダヤ主義」感情と密接に結びついている、あるいは結びつきやすいものであるかということが見えてくると思います。しかしこれは実はユダヤ人だけの問題ではありません。以前から何度か指摘している通り、Pierre Bayleのスピノザ批判に見られる(スピノザ思想は「日本人の哲学」であると批判されています)ように、この西欧の本質的「反知性主義」的な感情は、そのまま「黄禍論」へと容易に転化し得るものなのです。というのも、我々東アジア人はどういうわけかユダヤ人と同程度に「賢く」、IQも軒並み高く、勉強熱心なので成績も良く、従ってかつてヨーロッパでユダヤ人が嫌われたのと非常に類似した形で、「アジア人」は特にアメリカで白人(及び黒人)に大いに嫌われているという現実があります。それは例えばNYTの以下の記事で詳述されているような「Affirmative Action」を通しての「アジア人差別」という形で露骨に現れています。驚くべきことに、Inside Higher EDの以下の記事によると白人はAffirmative Actionの影響をほとんど受けていないらしいのです。つまりAffirmative Actionというのは一般のイメージとは全然異なり、白人の入学を抑えてマイノリティを優先差別するというものではなく、実は白人よりもさらに優秀なアジア人を抑えてその他のマイノリティを優先差別するという、それ自体が差別的な制度だというのが統計からは見えるというわけです。これを理由にアジア系アメリカ人達は訴訟を起こしているようですが、これが「リベラリズム」の現実なのです。真実や理性や知性などは二の次で、「倫理的価値」が最優先されるというのがこのカント的伝統のもたらす論理的帰結なのです。こんな反哲学的な英米「アカデミア」が世界最高峰と称され、他の「アカデミア」の模範として自己を提示するだけに止まらず、旧大陸のより伝統的なアカデミアに侵食しようとしているのです。こんな非合理なことがあっていいのでしょうか?理性と知性の失われたアカデミアに何の価値があるというのでしょうか?何より、こんな状況を哲学者が許して良いものでしょうか?

 

「カント」や「ロールズ」が如何に我々にとって「不正義」であるか、彼らを権威として担ぐことがいかに損失でしかない無益な行為であるか、そして「リベラリズム」がいかに「自然の摂理」を見定めて真理の中を生きているユダヤ人と東アジア人を裏切るものであるか、これで少しはお分かりいただけたでしょうか。もちろん、ここではきちんと証拠に基づいて論証的な形で示したわけではないので、「本当かよ」と思われる方も多いと思います。それで構いません。私自身はここで引用していない様々な文献や経験に基づき、それなりに理由のあることを書いているつもりですが、これはあくまでブログであって論文ではないので、本来であれば論文という手段で証拠を元に論証すべき「結論」の部分だけを敢えてダイジェストで伝えています。それはつまり私の「見解」の部分なので、間違っている部分や現実と乖離している部分もあるかもしれません。が、それに気づいた皆さまが独自に証拠を集めて研究して反論なり賛成なりをしていただければ、それによって証拠が集まり結果として議論が精緻化すれば良いという考えで私はこの「哲学書簡」を書いています。つまりこれはあくまで「書簡」なのです。Tractatus(論)ではありません。所詮私は青二才の「学生」で、「先生」ではありません。ということで、まあその程度のものとして今後も(あるいは他の記事も)気楽に読んでいただければと思います。

 

ではでは。

 

参考文献:

Vuillemin, J. (1954). L'héritage kantien et la révolution copernicienne : Fichte, Cohen, Heidegger (1re éd. ed., Bibliothèque de philosophie contemporaine. Histoire de la philosophie et philosophie générale). Paris: Presses universitaires de France.