哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

人種差別と日本人 - なぜ西欧人は日本国内における「差別」を批判するのか

最近日本人の考える「人種差別」と世界における「人種差別」に関する常識のズレという問題が「ガキ使」のブラックフェイス騒動で微妙に話題になり始めている気がします。これについて掘り下げようと思えば様々な視点からいくらでも掘り下げることはできますが、私が今回着眼したいのは「日本人」という「人種」の特異な立ち位置についてです。

 

「日本人」の特異性 - 我々は事実上「名誉白人」なのか

 

まず、歴史的経緯を考えず、単に「見た目」だけで判断するなら、「日本人」は畢竟「東アジア人」の一種に過ぎず、海外に出れば「中国人」扱いされる「アジア人」組の一員に過ぎないというのは海外経験のある方なら実感として理解できると思います。海外に出たことがなくても、論理的に考えればそうだというのは一応ご理解いただけるでしょう。(ということにします。)そして、我々が単に「一アジア人」として扱われる限りにおいては、日本人が西欧社会で「人種差別の被害者」側に立って、SJW(Social Justice Warrior: 英語圏版プロ市民)として活動することに何の違和感もありません。従って我々は「アジア人の一人」としては(白人による)「人種差別」の「被害者」であると自己規定することが出来るわけです。

 

しかし、歴史的背景や文化的背景、また経済的背景などの社会的要因を考慮するとなると、日本人の立ち位置はそんなに単純なものではありません。例えば、私は英語圏のSJW的な思想を持つ人(白人女性)に、

「日本では韓国人に対する人種差別が横行している」

と批判されたことがあります。私は、

「日本人と韓国人の間には人種的違いなどほとんどないのだから、これは人種差別というよりも文化差別であって、西欧で東欧人が差別されるという程度のものと同等であり、白人による黒人差別のようなものとは質的にも程度の上でも異なる」

と主張しましたが、あまり納得されませんでした。どうもSJWの視点では、出自が日本でないアジア人はどれほど日本社会に溶け込んでいたとしてもどこかで「在日」といったようなレッテルで差別を受け続けるのであり、その限りで日本は立派な人種差別大国であって、韓国人や中国人は日本による「人種差別」の被害者なのだそうです。かつ、韓国人や中国人の日本人に対する「差別」あるいは「反日感情」は人種差別ではなく、「正当な歴史的正義の要求」なのだそうです。

こんな主張を日本でしたら「大炎上」だなあと思いながら何故そんな風に「日本」が東アジアの中で特別視されるのかという点が非常に引っかかり疑問に思いましたが、西欧のSJWがこんな風に考えるのは、逆に言えば「日本人」は白人の視点から見て有色人種の中でも一種特殊な立ち位置にいるということなのだと私は解釈しています。

 

つまり、白人SJWの視点から見れば、我々日本人は有色人種の中で唯一「第二次世界大戦」の「加害国」側であり、ナチスの同盟国であり、そして他国や他民族に対する侵略性を持つ「帝国主義」的な民族であるという点で、「白人」と同等の「罪」を背負った存在だというわけです。従って我々は単なる「アジア人」として人種差別の被害者面をしてSJW同盟に加盟するということは実は許されていないのであって、あくまで「白人」と共に「責任を取る」側に立たなければならないらしいのです。言わば「名誉白人」ということでしょうか。この不思議な称号は南アフリカにおいては台湾人などにも与えられたようですが、政治的な「名誉白人」は今のところ日本人だけですし、今後中国が大々的な侵略戦争でも行わない限り恐らく今後も日本人だけが有色人種の中で唯一人種差別被害者の被害者特権を剥奪された、かといって白人としての特権(white privilege)を持つわけでもない、奇妙な立ち位置に押し込められるだろうと予想されます。

 

我々は西欧の「反人種差別運動」の流れで「白人の善意」の恩恵を受ける形で受動的に人種差別から解放された「憐れむべきマイノリティ」なんぞではあり得ず、不遜にも自力で西欧に反抗し独立を維持し、しかも有色人種でありながらナチスにアーリアン学説を思いっきり歪めさせて同盟を組ませるほど西欧の人種差別観をある意味180度覆し、また現在では技術力や数学力、経済力などの西欧人がこれまで自分たちの有色人種に対する優位性の根拠としてきた西欧的美徳において悉く西欧(=ヨーロッパ)を上回り始めるに及んで、いよいよ日本をかつてのように単なる「有色人種の劣等国」と見ることが心理的に難しくなってきてしまったわけです。実際そんなことをしても単なる負け惜しみに過ぎないので、惨めなだけですから当然です。

 

ところが、西欧人がまだプライドを持って日本に対して誇れることが一つだけあります。それが「社会的先進性」という点です。Political Correctnessや多文化主義(multiculturalism)、女性の権利(feminism)や性的マイノリティの権利(LGBT etc.)、そして反人種差別運動やヘイト・スピーチ対策、また難民や移民の受け入れなど、こういった「社会正義(Social Justice)」に関わる取り組みに積極的に取り組んでいるということが、今西欧人が我々日本人に対して何の躊躇もなく堂々と誇れる唯一の「白人らしさ」なのです。

なので、西欧人は好んでこうした「欠点」を指摘し日本を西欧に一段劣った国であるという理解をしようとします。というのも、実際のところ彼らも本当は東京が羨ましいのです。あの経済力、技術や生活の便利さ、そして治安。西欧の伝統的な「文明」観において最も肯定されてきた価値が、西欧以上に日本において実現しているという現実は彼らのプライドを大きく傷つけるに十分です。ただでさえアメリカに対する嫉妬心を燃やしているのに、アメリカどころか日本にさえ勝てないとなればいよいよヨーロッパ人は自己否定に走らざるを得ません。「日本人は働き過ぎだ」という偏見には、実際そうである事実が統計的に現れているとはいえ「そうであってほしい」というヨーロッパ人の願望も少しは混じっているでしょう。

尤も、最近は日本のみならず中国や韓国の台頭も凄まじく、東アジア人は全体として活気のある民族であると見られていますが、それでも中国人の場合は既に西欧に移住して帰化している人も多く、本国の政治制度が決して理想的ではないのは誰の眼にも明らかで、実際中国の富裕層がどんどんヨーロッパにも流れてきているのを目の当たりにしているので、西欧人もそこまで中国人に対して嫉妬心を持っておらず、むしろ「比較的優秀なマイノリティ」というくらいの視線で見られている印象です。また韓国人は数も少なく中国人と区別されていない場合も多いでしょうが、それ故韓国人に対して敵意や対抗心を持つ西欧人などほとんどいません。単純に韓国人と言われてもあまりイメージがわかないというのが実情でしょう。

しかし日本人は違うのです。我々は何十年も前から一貫してある種の「悪」を代表しており、例えばベルギーのアニメーション「Tin Tin」に見られるように、「日本=悪」「中国=被害者」「西欧=日本から中国を救う正義のヒーロー」といったような政治的な図式は西欧人の精神に深く根を下ろしています。我々は西欧に救われる側ではなく、むしろ西欧に成敗される側の悪玉なのです。笑 それほど西欧人は日本に対して「余裕」がありません。強いて肯定的に言うなら一応対等の立場にある「敵」と見られているわけです。ということで、日本や近年台頭しつつある東アジア諸国に対する西欧の劣等感は、SJW運動として非常に屈折した形で表現されるようになりつつあるのではないかという見方が一応できるのではないかというのが一点です。

 

西欧の「プライド」としての「社会正義(Social Justice)」  

 

とはいえ、勿論西欧における「Social Justice(社会正義)」運動が一応それそのものとして独自に発展してきたのも事実ですし、かつ日本が社会面において大きな問題を複数抱えているのも(西欧側に誇張されている部分もままあるにせよ)ある程度まではやはり事実ではあります。しかし、西欧人が自分たちのこれまでの知的伝統、つまりラテン語で伝達されてきたローマ・ギリシャの伝統をほとんど完全に否定してまでこれほど病的に社会正義に拘るのは、一つには「ゲルマン精神」という空疎な無思想主義・経験主義を称揚したいというゲルマン諸国のナショナル・ナルシシズムと、もう一つにはやはり「日本にさえ勝てない」という絶望感に由来する根源的劣等感のようなものが組み合わさった結果だと私は思います。

 

かつ、これは英国やドイツ、あるいはスウェーデンのような、いわば過去の栄光にすがるしかない(あるいはそれさえない)「オワコン」地域で特に顕著です。対してフランスやイタリア、ギリシャなど、現状はともかくまだ自分たちの古い文化そのものに絶大な誇りを持っているヨーロッパ人や、世界の頂点を自負するアメリカ人などは、部分的こういった思考法を持つ人もあるにせよ、大抵の場合は昔と変わらぬ「優越性」を誇示する姿勢をも崩しません。 

 

しかし、アメリカや伝統文化を誇る西欧諸国(主にイタリア、フランス、ギリシャ)も、徐々に自信を失っているのも確かです。今日のギリシャ人やイタリア人にとって英語圏へ脱出することは社会的成功であり、今日のフランス人は英語を話せることを「エリート」の証明であると認識を改めつつあります。ヨーロッパ人にしぶしぶながらも先進性を認められているアメリカの方も、近年のアメリカの国力の低下を憂い、真剣に中国やロシアの台頭、あるいはイスラーム圏の団結といった事態を内心恐れているようにも見受けられます。

 

西欧/アメリカの国家的アイデンティティと「Japan Bashing」

 

であれば、ちょうど韓国の反日感情の背後には韓国の北朝鮮との関係性や「国家的アイデンティティ」という曖昧な問題が垣間見えるという分析が可能であるように、西欧人(あるいは国際社会)の日本や中国に対する態度(伝統的には「Japan Bashing」と呼ばれ、近年では「China Bashing」も増加中です)も、ある程度までは彼らのプライドや「アイデンティティ」の問題としても捉えることができるはずです。かつ、そうして見た場合、「日本」という国の存在が明治維新以降直接・間接に西欧の自己認識に与えてきた影響は、日本人である私が思うほど大きくもないかもしれませんが、しかし一般に思われているよりも実は大きいのではないという気がしています。

少なくとも、「Japan Bashing」というのはかつてアメリカでかなり広く見られ、今日でも形を変えて存続している、アメリカ人の国家アイデンティティを分析する際に有効なアメリカの一つの側面です。それは多くの場合トヨタなどの日系企業に対する嫌がらせのような政治政策などとして表現されてきましたが、韓国や中国などの台頭で経済面に関してのアメリカの劣勢はもはや日本の特殊性に起因するのではなく、単純にアメリカ側に問題があるという認識が生まれてくるにつれて、徐々にアメリカの自己批判が生じてきます。それがある場合には「アメリカ流資本主義」の批判として表現され、故に社会主義的政策を唱える方向へ行ったり、またある場合には「(女)性差別」あるいは「(マイノリティ)人種差別」といったあまり経済とは直接関係なさそうな社会批判の方向へ行ったり、またある場合にはアメリカを含む西欧の「論理中心主義(logo-centrism)」あるいは文化的次元における「西欧中心主義」には大きな欠陥があるのではないかという相対主義的な方向へ行ったり、という形で現れているのではないでしょうか。

無論、こういったアメリカの自己批判は、批判者本人達はそれぞれ独自の視点で彼らが問題とする対象そのものの考察から批判的視点を獲得しているという認識を持っているでしょうし、それは否定しません。が、しかしこういった自己批判が「空気」としてより広範囲の「国民」に共有され社会的な運動となっていく背景には、同じように「空気」として存在している「西欧人の自信喪失」という事態が契機となっている可能性は十分あると思います。

その意味で、国際社会における「日本」というのはまるで西欧哲学史におけるスピノザのように、西欧人にとって如何ともしがたい「アノマリー/anomaly」なのであり、またそう考える時、Pierre Bayleのスピノザに対する「これは日本人の哲学である」という一見意味不明な批判は、今日でも実は若干音色を変えて反響し続けているんだということが薄っすらとみえてくるのではないでしょうか。

 

いずれにせよ、西欧や西欧のマイノリティから「人種差別的・女性差別的」であるとったような批判が、同じような文化背景や現実を持つはずの韓国や台湾、中国等といった国々ではなくまず真っ先に日本に飛んでくる理由というのは、彼らが「日本」をそれだけライバル視し、警戒し、ある意味では敵としての敬意を払っているからだという見方も一応できるでしょう。日本人は自分たちは「西欧人に圧倒的に劣る有色人種の一種に過ぎない」と自己規定しているかの如く自虐的なのかもしれませんが、当の西欧人は最も差別的な白人至上主義者でさえ日本人をそんな風に見てはいません。むしろ最悪でも能力だけは高いが「(西欧的/キリスト教的)道徳性の欠片もない」蛮人であるという風に見ているわけで、日本人側が実はとてつもなく深い劣等感を西欧に対して持っているということが西欧人にはまるで理解できないわけです。というのも西欧人自身が日本人の立場にあればきっと西欧に対して優越意識こそ持て、劣等意識など持たないからです。しかし、私たちは厳密にいうと人種差別の「被害者」ではなく、むしろ「被害者」側には決してなれない「名誉白人」扱いされる可能性の方が高いという自覚は恐らく今後は必要になってくると思います。そうでなければ、なぜ西欧人や海外のマイノリティらが東アジア諸国の中でも特に日本を厳しく批判するのかが理解できないし、それ故かえって我々の側の被害者意識が増長されて排外主義が強まってしまうでしょう。

 

ところが、外国人が日本に対して抱いている感情は悪意というよりも劣等感、あるいは期待を裏切られているという失望感に近いものです。尤も既に韓国や中国が台頭してきた今、彼らの日本に対する期待も徐々に薄れ、むしろ焦点が中国やシンガポールに移りつつあるかもしれませんが、しかし対日批判が止まないところから察すれば、まだまだ西欧は日本に劣等感を持っているし、またある種の期待もしているのだろうと推せられます。彼らが何も言ってこなくなった時、それは我々への感情が羨望と敵意の混在した嫉妬心から単なる侮蔑へと変わった時です。そうなったら我々は遂に「西欧に救われる」側に立つこととなるでしょう。しかし、そんな屈辱的な状態を果たして我々は望むべきでしょうか?

 

まとめに変えて - 私の持論

 

ここからは完全に私の個人的「意見」(opinion)ですが、我々もそろそろもっと戦略的に考えるべきなのではないでしょうか。ここで打つ手を誤れば、日本はいつまでも「所詮はかつてのナチスの同盟国」であると思われ続けるかもしれませんし、またそれは慰安婦問題や南京問題のより客観歴史学的な解決をさらに難しくしかねません。我々が相手にしている「国際社会」はどこまでも利益関係者であり、客観的な裁定をしてくれる「神」でも理性的な「哲学者」でもないのです。つまり「真実」など国際社会では何の価値も持ちません。そんなものは後で勝者がいくらでも捏造するか「再解釈」されるのが歴史の常です。我々はいつまでも敗者面をして「真実」に甘えている場合ではないのであって、常に勝者の側に立ち続けることを唯一の目的とする「国際政治」というゲーム、すなわち現実の「Game of Thrones」に参加しなければならないのです。このままGoTに擬えるなら、我々の基準で現実を見るのならさしずめ日本はHouse of Starkであり、「真実」で現実を動かそうとする日本人の感情はNed Starkのようなものです。しかしNedの誠実さが仇にしかならなかったように、現実の敵はHouse of Lannisterのような狡猾かつ冷徹極まりない政治指導者達なのです。フィクションの世界ではまだStark家も救われますが、現実にはそんな奇跡はまず起こりません。「やられたらやり返す」なんてことが現実の銀行ではやれないのと同じです。であれば当然我々も狡猾でなければなりません。Ned Starkや戦前の指導者のように「正しく生きて桜のように散る」という方針や考え方では自滅する一方です。