哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

「教育」と「educatio」、および「learning」のニュアンスについて

今回は、日本語の「教育」という語に内包されている概念と、ラテン語の「educatio」の概念との差異から、日欧の根本的教育観および価値観の差異を明らかにし、かつここから「リベラリズム」の本質的深源は西欧における伝統的価値観そのものにあること、そしてそのことが「educatio」という語に端的に表現されているということを論じたいと思います。

1.日本語の「教育」という語の概念

日本語における「教育」の概念というのは、字義通り「教え育てる」というものです。そこには教えられる対象、例えば「こども」は自然に育つのではあるけれども、これを一定の方向へと誘導し、型を身につけさせるというようなイメージがあるのではないでしょうか。それはちょうど不要な部分の枝葉を切り、伸びてほしい方向に残りの枝が伸びるように棒で固定して松を育てるような、そんなイメージです。私は、日本における伝統的「教育観」とはこのアナロジーが大なり小なり当てはまるようなものだと理解しています。

2.「educatio」(ラテン語)の概念

対して、西欧においてはどうでしょうか。日本語の教育に相当する表現は、英語ではeducation、フランス語ではéducation, ラテン語でeducatioです。(ドイツ語でBildungですが、これもeducatio系の概念です。その理由の詳細は*1を参照願います。)

 

では、このeducatioの語義的原義は何かを調べますと、これは ex- (-の外へ) + duco (導く)という語から成り立っています。つまり educo ( [私は] 教える/I educate)とは「-の外へ導く」という意味なんですね。これが「教える」の意味になるわけですから、何の外へ導くかは言わずともわかることでしょう。すなわち「偏見」や「無知」の「外」へと導くということです。ここにあるのは我々は皆偏見にまみれた無明の闇の中にある状態から始まり、educatioによってその外へと導かれるというイメージです。日本語の「教育」のイメージとは全然違いますね。そもそも「育てる」という概念は全く含意されていないし、何かを「教え込む」というイメージもありません。むしろ基本的には我々が自然の状態において持っている偏見や謬見を否定していくことがeducatioの趣旨であり、従って西欧において「教育」(educatio)を受けた者=教養人というのは、liberalisという語で指示されます。(liberalisはそれだけで「教養」がある、育ちが良い、偏見のない、といった意味を同義的に意味します)これはもうラテン語の時代、つまり古代ローマの時代からそうなので、西欧の古い古い伝統であるわけですが、見るからに日本や他の非西欧圏の教育観と真っ向から対立しそうな雰囲気が既に出ていますね。笑

3.「教育」と「educatio」の違いから導かれる政治的価値の差

しかしまあここでは他の非西欧圏についてはとりあえず言及しないとしましょう。繰り返すようですが、ここまでの議論を纏めると、日本ではあくまで「こども」は「自然」に育つものであり、その「自然」の状態をなるべく維持しつつ、余計な手は加えずに、多少都合の悪い部分は「矯正」し、都合の良い部分は促進して「伸ばす」というような、園芸的な教育観を今日でも維持しているわけですが、西欧式、あるいはラテン式の教育では「学習者」は偏見から解き放たれるべきであり、偏見から自由であればあるほど「教養がある」ということで気高き「自由人」であると賞賛される、ということでした。

さてこのために西欧の知識世界においては「頑迷であること」は何よりも蔑まれ、常に「頑迷さ」は批判の対象とならざるを得ません。Caeserのようなどこからどう見ても希代の超一流ポピュリストが喝采を浴びたのは、彼が大衆迎合的な政策を提言したことも当然あるとはいえ、それ以上に「頑迷な元老院」に比べて「偏見から自由な自由人」であるという彼が大衆に与えた自己イメージが、ローマ人にとっては肯定的な価値を持つ存在だからという点も見逃せないでしょう。

というのも、単に大衆迎合主義的というところだけ同じでも、この意味での「自由」に価値を感じない国民であればカエサルに喝采を送ったりしないだろうと推測できるからです。現に日本において例えば小泉氏は(人気絶頂だった当時はともかく少なくとも今は)ヒーロー扱いされてはいませんよね。「小泉氏こそ日本の誇り」であると日本の大衆は今日でも思っているでしょうか?私の知る限り、そうではありません。日本の大衆が小泉氏に持っている「イメージ/偏見」はむしろ「伝統を破壊した邪悪な新自由主義者」であり、「日本の伝統の価値がわからない軽佻浮薄の徒」であるといったようなものではないでしょうか。少なくとも自民党内にはそういった小泉悪玉論が一部にあったと思いますし、国民の中にもそういった声があるように思われます。これも偏に日本においては西欧的「自由」、つまり偏見から自由であることというのが中心的価値であるとされていないからです。

逆に西欧においては今日でも「bigotry(頑迷さ)」というのは常に最悪レベルの侮蔑語であり、トランプ氏や極右勢力などを形容する際に最もよく使われる表現のひとつです。日本ではそれほど問題にならない「頑迷さ」は、西欧では最悪の知的犯罪であるかの如く扱われるわけです。

では、そもそも何が「偏見」であり、何に拘ることが「bigotry」なのかというと、この基準となるのは何と言っても「理性」です。理性に反する伝統的信条とはすなわち「偏見」であり、理性に反する謬見に拘ることが「bigotry」なわけです。従って「bigotry」も「prejudice/偏見」も常に「irrational」であると批判されます。それ故、「理性に照らせば何が真実か、何が誤謬か」という点は誰にとっても、そして特に政治的言説を呈する際には極めて重要なことであり、ここに西欧のいわゆる「哲学者」 - 理性の番人 - が「実践的価値」を持ってくるわけです。西欧で哲学者の思想が現実政治を動かせてしまうのは、そもそも社会全体が理性に基づく支配というものに至高の価値を認めているので、哲学者は単にその役に立つ有用な駒として社会に受け入れられた存在だからに過ぎません。別に哲学者の天才性や悪魔的カリスマによって本来残存すべきだった古い伝統を破壊してきたわけではなくて、最初から、否少なくとも紀元前の古代ローマ時代から(つまり日本人が文字というものを知る遥か昔から)西欧の伝統というのは理性的自由を中心として形成されてきたわけです。

こうしてみると、現在の日本における「日本の伝統を重視する保守」 vs 「英米風リベラル」という対立図式は、実はもし仮に古代においてローマ帝国が日本までその支配下においたとしても、全く同じように「日本の伝統を重視する保守」vs 「ローマ風リベラル」の対立として現出したであろうと思われます。つまり、この「保守 vs リベラル」の対立は縦軸の、「時代」の差に起因するものではなくて、あくまで「西洋」と「東洋」という横軸の、伝統的価値観の違いに起因するものなのです。このことを雄弁に語るのが、「教育」という語と「educatio」という語の「ニュアンス(微妙な意味の差異)」なわけです。(ちなみに、日本語ではよく「ニュアンスの違い」と言いますが、これは重複表現です。ニュアンス(nuance)という言葉自体が「違い」という概念を含んでいるので、「違い」は不要です。)

4.現代西欧(多文化主義圏)は「アジア化」し始めている

しかしながら、現代英米の「リベラリズム」の問題性というのは、実はそれが古代ローマ以来の特殊西欧的イデオロギーであるという点にあるのではないということが、私が最も強調したいポイントです。無論英米リベラリズムがそれ自体特殊西欧的である点も、また英米の教育観がローマの「educatio」の影響をある程度受けていることも否定しません。しかし現代英米のリベラリズムの特殊性を形成しているのは、ローマ的な伝統あるいはその論理的帰結ではなくて、むしろゲルマン的な教育観あるいは倫理観をベースにして成立する「ゲルマン的リベラリズム(=Liberal Egalitarianism/リベラルな平等主義)」であり、それ故に英米のリベラリズムは近年急速に「アジア化」してきているという点が最大の着眼点です。

ということでまずゲルマン的な伝統から解説しますと、元々古代ローマの伝統においては「偏見」から解放されて知的に「自由」になるということが「educatio」の主眼であったのに対し、ゲルマン系の文化を持つ英国、ドイツまたスカンヂナヴィアなどのゲルマン諸民族は、同じ「educatio」系統の言葉を使っていても(あるいはそもそもこの語を使用しないほどまでに頑強に)独自の「教育観」を持っています。

特に現代ゲルマン人の「教育観」は、ゲルマン人が古来より持つ道徳観(=平等主義)にさらに「キリスト教道徳」(=隣人愛)の要素を加えた「ゲルマン道徳」という基礎の上に、あくまでそれと矛盾しない範囲でローマ的「educatio」を受容することで成り立つ、非常にラディカルな啓蒙主義的かつ「リベラル」な平等主義(liberal egalitarianism)ですこれは同じ「人間」(=古代においては見た目があまりに異なる場合は人間と看做されないこともあった点には留意してください)であるラテン人やギリシャ人を「奴隷」化して平気で「所有」していたローマ人やギリシャ人とは根本的に異なるものです。私の知る限り、古代ゲルマン人の社会というのはあくまで小規模の「民主的」社会であり、彼らが互いに争って一方が他方を奴隷化するということはあまり行われなかったはずです。中世ドイツには農奴制がありましたが、これはローマやギリシャの「奴隷制」、あるいは後のアメリカにおける黒人奴隷制度や英国などの南アジアにおける「プランテーション」とは根本的に違います。というのも、ローマの奴隷制における奴隷は基本的に戦争における敗者やその同族、あるいは経済的困窮者であり、また後者の黒人やアジア人の奴隷的使役は人種差別もさながらやはり戦争による敗北や経済的困窮等の諸事情によってアフリカ諸王の所有物とされていたものを西欧人が「買い取って」いたので、いずれの場合でも「商品」として売買されていたからです。しかしドイツの農奴は「商品」ではなく、あくまで自らが領主と契約を結ぶ主体として契約を結んだ(ことにされた)上でその土地の領主に隷属していただけなので、どちらかといえば中世日本の農民に類似していると言えるでしょう。つまりゲルマン人は決してお互いを商品化したり奴隷化したりということをせず、あくまで対等な主体として「平等」に扱ってきたわけで、「平等」という点に非常に強いこだわりを持っているんです。そして、それ故にゲルマン社会における教育とは、英語における「teach」が「お手本を見せること」を元来意味することや、あるいは英語とドイツ語の両方に存在する「learn/lernen」という語が「(先人の)足跡(を辿ること)」を意味するように、既存のコミュニティのメンバーと同化し、その平等なメンバーの一員として一人前にすることが目的であり、従って肉体的に精強であること、他者に対して分け隔てなく接することができること、コミュニティの命令や規範に対して忠実であることなど、軍隊的な倫理観を厳しく「叩き込む」ことなわけです。実際ニーチェやマックス・ウェーバーなど、ドイツ系の知識人はしばしば教育とは何かを「叩き込むこと」である、「型」にはめることであるというような言い方をします。明治政府が真似しようとしたのはまさにこのゲルマン的な「教育(learning/Lernen)」であり、かつこの点は保守系の思想家でかつドイツに留学していた平泉澄と「リベラル派」でかつドイツ系知識人からの影響が濃い丸山眞男が共有する数少ないポイントです。(丸山は、「教育」とは一定の「型にはめること」なんだと言っています。平泉の教育観が「learning」的であることは、彼の著書に「先哲を仰ぐ」というのがあることから推せられます。)*2

 

ということで、ゲルマン人はどこまでも「同質性」および「平等」に拘るわけですが、1960年代以降は何を思ったのか突然「人種差別を廃止しよう」と、これまで散々日本が提案し、フランスが若干理解を示しながらもゲルマン諸国の強烈な反対によって最終的に拒否していたことを、あろうことか最も差別廃止に反対していた側のゲルマン諸国が言い出し、「差別廃止の先陣を切った英米人」というセルフ・イメージを新世紀におけるファッションにしようと決めたわけです。我々の知らぬ間にユダヤ人を殺戮していたナチスと同盟を組んでしまったばっかりに、この作戦にうまく乗れなかった、あるいは乗る気が無かった、あるいは乗せてもらえなかった日本側は以後「差別主義の国」という烙印をゲルマン諸国側から頂戴し、その「証拠」として中韓及びアジア周辺諸国との歴史問題等を大々的に批判され、これに上手く対応できなかった日本は遂に「人種差別という偏見を(我々英米よりも多く)残す国」というイメージを植え付けられてしまいました。

 

本当に英米というのは一見善人のようでいて、よく歴史を振り返ると実に汚い手を使うなという印象を抱かざるを得ないわけですが、ともかくその代償として英米は、本来なら日本が背負うことになっていたかもしれない「反人種差別の先進国」という負担を自ら背負うことになったわけです。あれほど有色人種を嫌っていた英米人がこんな態度に打って出たのですからとんでもない社会変革ですが、これが可能となったのは「ナチスへの反省」という戦後イデオロギー、キング牧師などの黒人系の活動家の存在もさながら、やはりゲルマン人には「平等」という価値を否定することが難しかったのであろうと私は思います。ただし、ここで注目すべきなのは、人種差別をしていた頃の英米人にとって有色人種とは法的に人間ではなかったということです。というのも、法的に人間として扱うなら、英米人は「人間」に対して徹底的で平等でなければならないと信じているのですから、「人間とは認めながらも差別感情を持って現実においては見えない差別をする」ということに強い心理的抵抗を感じてしまうのです(ラテン系やギリシャ人にとってはこの点は何の問題もないので、すんなり法的な平等を認めて文化的次元では差別するということに比較的抵抗がありません。だからフランス人は「フランスにいるならフランス語を話せ」と平気で言えるのです。)ところが現実の有色人種は明らかに

 

「我々英米人」とは異なる価値観を持っているし、どう考えても彼らを真の意味で「同質」とは思えない。というのも真に同質的存在となるには厳しいゲルマン式の教育を受けねばならないが、彼らはそれを受けていないか、受けることをそもそも拒否しているからだ。しかし彼らをいつまでも差別しているようではナチスはおろか日本までをも制裁した側としては格好がつかない。となればやはり彼らを同胞として扱わなければならない。ではどうするか?....よし、「彼らの文化を尊重しよう!」彼らには彼らの好きなように生きる「自由」と「権利」を与えて、こちらとしてはなるべく関わらないようにしよう!

 

というわけで、ゲルマン式「多文化主義」がここに成立します。「何もゲルマン社会に

同化しようとなんてしなくてもいいんだ。でも、君たちも「アメリカ(イギリス)人」だということは認めるよ!アメリカ人として、君たちのコミュニティで、自分たちの文化の中で最大限アメリカに貢献してくれたまえ!君たちは「自由」だ!」恐らく多文化主義のsegregation政策は最初はこのような気持ちで始まった部分もあったんだろうと邪推します。まあ、彼らが有色人種に対してどういう感情を持っていたかはわかりませんが、ともかくこの「私は私、あなたはあなた」という事実上の隔離政策的論理がいわゆる「政治的正しさ(Political Correctness)」につながり、「相手の文化に対して否定的なことを決して言うな」という倫理へと発展するわけです。

しかし、他方でゲルマン人はやはりどこまでもゲルマン人なのです。一度全人類を人種に関わらず平等に扱うという「理念」が正当なものとして確定してしまえば、旧来の差別感情を持たない、純粋にゲルマン的倫理観だけを継承する下の世代以降はもう国内のすべての人間を完全な「同胞」として扱おうとするわけですよ。ところが現実には様々な場面で「差別」が残っている。そんなのはしかしゲルマン的「論理」に従えば「あり得ない」わけです。特にラテン的な教育を受けた知識層にとっては「差別感情」とはまさに「educatio」によって取り除かれるべきものですから、「教育を受けろ!(Get education!)」と言いたくなってしまう。当然、「教育を受けた」若い世代はこれが絶対に許せない。許せないのでSocial Justice Warrior(SJW)になってしまうんです。というよりならざるを得ない。だって元来ゲルマン人の倫理というのは軍隊的な平等主義ですからね。彼らは本質的にWarriorなのであって、「同胞」を救うためには戦わねばならないという観念を強く持っているわけです。こうして「アメリカ」においては全アメリカ人が「ゲルマン化」し、人種差別に関してSJW(日本のプロ市民のようなものとお考えください)となってしまうということです。これがいわゆる「anti-fa」グループです。

ということで、あくまで有色人種を「他者として尊重」しようとするPCグループと、むしろ有色人種を「ゲルマン的同胞」の一員として扱おうとするanti-faグループというのは実は似て非なるもので、全然異なる論理で動いているんですね。勿論両者の意見は大抵の場合は合致するでしょうが、強いて言えばPCグループの方がanti-faに比べて微妙に「人種差別的偏見」を持っている可能性があり、また「異文化」に対して寛容であるかもしれません。逆にanti-faは基本的にゲルマン倫理中心主義なので「価値の多様性」という観点をあまり持たず、日本の「慰安婦」やインドの「サティー」、あるいはアラブ諸国の「女性差別」的法律にも強く反対するかもしれません。大雑把に言えば(というより本稿の私の議論は既に十分大雑把ですが)、ムスリム人口の比較的多いイギリスやドイツ、スカンジナヴィアなどヨーロッパのゲルマン語圏ではPCが圧倒的に優勢で、anti-faは珍しいですが、逆に文化的同質性の比較的高いアメリカではanti-faが急増中ということが言えると思います。

だいぶ話が逸れましたが、このanti-faに関しては畢竟ゲルマン文化至上主義なので、「アジア化」とは関係ありません。問題なのはPCあるいは多文化主義の方です。PCの論理に従っていれば、ヨーロッパは自己の内部に本質的に「他者」である集団をいくつも抱えることになってしまいます。これが「白人」vs 「ムスリム」という単純な図式であるうちはまだ「白人」側が我慢すれば良いと言っていられるでしょうが、「スンニ派ムスリム」と「シーア派ムスリム」がヨーロッパの内部で争いだしたらどうなるでしょうか?これはもう誰も手がつけられません。ということでいつまでも消極的な態度をとっているとそのうち「マイノリティ」同士が抗争を始めてしまってどうしようもなくなるという危険が差し迫っているわけです。日系人や中華系を単に「アジア人」という同一カテゴリで理解して毛嫌いする「マイノリティ」の集団だって既にいくつもあります。現にフランスでは中華系に対する「移民」のテロ紛いの事件や嫌がらせが相次いでおり、時々この事態の改善を求めるデモをやっています。つまり我々日本人だってPCの犠牲になる可能性は大いにあるわけで、この問題はいずれ深刻化していくでしょう。

アメリカのanti-faに関しても、彼らが「マイノリティ」内部の「bigotry」に対しても切り込めるほど「自分勝手」であり続けられるなら大丈夫ですが、その段になると急にPC化するのであれば結局同じ問題を抱えることになります。これが「英米のアジア化」、あるいは「多文化主義諸国の総アジア化」という問題です。こうなると真に「ヨーロッパ」的な文化を維持できるのはイタリアやギリシャだけになってくるかもしれませんが、この両国の「極右」はフランスやドイツのそれとは全然比較にならないほど本当の意味で「危険」(=物理的に襲撃される可能性がある)だということだけ忠告しておきます。

5. 結語

ということで、この「リベラリズム」という政治イデオロギーを成立させる背景となる価値観というものも、決して一枚岩ではなくて、非常に大雑把にわけても少なくとも二つ、つまりラテン的な「偏見/迷信からの自由」を重んじる「educatio」の伝統と、ゲルマン系の同族間の「平等」を重んじる「learning/Lernen」の伝統の二つがあって、前者は現代で言うならばフランス、思想家で言うならデカルト、スピノザ、ルソー、ディデロ辺りのラテン系合理主義が「educatio」の伝統から来ており、後者はさらにアメリカにのみ見られるanti-faとイギリス及び米国知識層に見られるPCの二つに分けられ、anti-faの方はトクヴィルが観察した「アメリカ」、PCの方はヴォルテールが賞賛した「イギリス」の伝統に連なります、ということです。アメリカ人の思想家としてanti-fa的な発想を代表する思想家というのはよくわかりませんが、PCを代表する知性の伝統は結構長く、John Stuart MIll, E.H. Carr, などから現代の John Rawlsに至るまで無数にいます。(というよりほとんどのイギリス人はPC的なリベラルです。)

 

いずれにせよ、こうした違いもまた「教育観」に端を発しており、かつそれは2000年以上使われ続けている「教育」を表す各国の言葉(educatio, learning/Lernen etc.)に端的に現れているか、あるいは現れていなくとも文化的背景やそれに基づく基本的価値観を考慮すれば如実に見えてくるということでした。西洋についての議論が長引いてあまりに日本については論じませんでしたが、もし需要があれば日本の「教育観」についてもう少し論じます。

 

ではでは。

 

*1:Bildungという語は日本でもロマン主義的な「教養主義」の意味で導入されましたが、これは本来ゲルマン的なBildungにローマ的な「educatio」の意味を混ぜ込んだGoetheやHumboldtなどの知識人のおかげでもう少し「ローマ風(romantic)」になっているだけで、これが「ロマン主義」と呼ばれていることが示す通り本来ゲルマン的なものではありません。むしろナチス的な軍隊教育やプロイセン時代のそれこそが本来の姿に近いでしょう。

*2:ただし、前述の通り現代ドイツ語で「教育」を意味する単語はBildungです。