哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

人気(popularity)という価値の重要性

さて前回はあまりに読みづらい形式であまりにつまらないことを書いたので、その反動で今度は超ソフト路線で行こうと思います。笑

これは、恐らく学者の先生方や特にその中でも哲学者の方は容易に肯きたくないことだと思いますが、何かを伝えるということを本旨とする職業である限り、知識人も学問も畢竟その価値を客観的に測定しようと思えば「人気」によって決定せざるを得ないという現実があると思います。今回はこの「人気」について少し思うことを書いてみることにします。

学問の世界における「人気」の重要性

さて、さきほど学問の世界においても「人気」は決定的に重要であるということを示唆しましたが、そんなことを言うとまず最初に返ってきそうな反論は

「理系の研究であれば人気云々に関わらず、ただ現象世界の真理を真摯に探求すればそれがそのまま世間に認められるような価値を持つ分野もある」

というものです。しかし、近年の大学における動向を見る限り、理系と雖(いえど)も「選択と集中」の原理は働いていて、研究予算を確保する為の熾烈な競争があるわけで、従って理の必然として出資者側の需要により応えることのできる、かつより早く応えることの出来る方に資金が集中し、そうでない研究者や分野には理系であっても資金難に苦しむということはままあるでしょう。

 

理系でさえそうなのですから文系であれば尚更そうなのは無論言うまでもありませんね。そして、これがいわゆる大学における「リベラル・バイアス」に拍車をかけているという面もあるという点は決して無視できません。

私は以前から「ポピュリスト」はリベラルの方だと指摘してきていますが、それというのは欧米でも(そして恐らく日本でも)現実問題として文系の世界において研究者として生き残りたければ、あるいはより成功したければ、その内容が「(現代的)リベラリズム=ロールズ的政治的リベラリズム=リベラルな平等主義」に親和的であればあるほど「出資者の理解が得られる」という点で有利であるというメカニズムが存在するのは明白だからです。わかりやすくするために極端なことを言えば、「私はホロコーストの歴史は曲解されていると考えているので、この誤りを正す為に20世紀初頭ドイツ史を研究したいです」という人に出資する人や資金力のある大学はどのくらいあるか、あるいはあるべきであると考える人は出資者となり得る富裕層や政府関係者の中に現実にどのくらいいるでしょうか、ということです。

 

尤も、日本ではまだ「リベラル批判」の本を(既に知名度のある方などが)普通の出版社から出すことは出来る方です。というのもまだまだアンチ・リベラル本は売れるからです。つまり、それだけ読書のできる知識層の裾野が広いというか、あるいは知識人の間でそれほど「リベラル・バイアス」が浸透していないからです。といっても、それを岩波から出せますか、あるいは東京大学出版会から出せますかという話になるとやっぱり違ってきますよね。かつ、もし「若者は下の世代になるほど徐々にリベラル化している」というリベラル派の希望混じりとも見える観測が実は正しいのであるとすれば、日本が英米のような状況になる日は実はそう遠くないかもしれません。

 

ということで、大学や学問の世界における「リベラル化」がどんどん進行する一方で止まる気配がないことは、いかに「高尚」な学問の世界と雖もある種の「人気」あるいは「需要に応える義務」というものからは逃れられないということの傍証になると私は考えています。

人気(Popularity)という名の現代の「神」

さて、英米のリベラル派はトランプ氏を散々ポピュリスト(日本語では「大衆迎合主義」という侮蔑的な訳語が当てられますが、語義通り訳せば「人気主義者」とでも言うべきです。)と非難してきましたが、確かにトランプ氏は選挙に勝ったのですから十分に「人気」があったといえるにしても、侮蔑的な意味ではなく、単純に支持の多さ(=人気/popularity)という意味ではリベラル派の方がやっぱり人気なわけで、トランプ支持派は(リベラル派の脳内ではトランプ派の牙城であるとされる)インターネット上でも圧倒的に劣勢にあることは、Facebookやtwitter、あるいはYouTubeの世界を少し覗くだけで一目瞭然です。

 

従って、道徳的な問題という点を敢えて無視して純粋に「市場原理」的な視点のみから政治現象を観察するならば、リベラル派の力や権力を支えているのは何よりもその「人気/popularity」なのであって、そもそもリベラリズムが様々な多様性を既に内に抱えている西欧において一般に幅広い人気を得るのに最も有効な手段であると思われてきたからこそあらゆる知識人があの手この手で自分の「リベラル性」をアピールしてきたという風に捻くれた見方をすることが一応できるわけです。トランプ氏は彼独自の、むしろ古典的な人気取りの方法を貫くことで案外この方法でもリベラル陣営に勝てることもあることを証明してくれましたが、実際のところこんな奇跡はもう二度とアメリカでは起こらないでしょう。

 

ということで、「人気/popularity」というのをバカにされる方も多いでしょうが、これは現実には極めて絶大な権能を持つまさに現代の「神」であって、大学におけるリベラリズム研究とは畢竟この「神」の啓示を明らかにする現代の「神学」の一つであると言っても過言ではないでしょう。当然、エンターテイメントやビジネスの世界における「人気(商品)」とは何たるかを明らかにする「啓示」があれば、それも立派な「神学」としてそれ自体が信仰され、かつまた真剣に研究されるに相違ありません。現代の「神学者」とは従って人気のある人々なのです。例えばtwitterやinstagramのfollowersの数が多い人やFBの “friends”が多い人、ブログの読者数が多い人や著者が飛ぶように売れる人気作家など、こういった方々が現代の神学者に他なりません。Carl Schmidtを文字って表現するなら、「政治神学」ならぬ「経済神学」、否「人気神学(Popularist Theology)」とでも言うべきもの(Popularistなんて言葉はありませんが、私が今つくりました。単にPopulistという表現の語弊を避ける為です。)が現代における「至高の知識」として万人に求められているということが言えるでしょう。

「人気」には至高の価値があるが、それ故の払わざるを得ない代償やリスクもある

しかし「人気」というのは水物で、実に移ろいやすく予測するのが難しいものです。勿論一度大人気になってしまえばその人気はかなり長期間続くものですが、そもそも大衆規模で人気を博するというのは決して容易なことではありません。人気というのは人間が人工的につくることのできるものの中でも最高レベルに高い価値を持つものでありながら、それ故にこれをつくることは実はなかなか難しいわけです。勿論一部には運の良い天才もいるのでしょうが、一般に芸能人やポップ・ミュージシャンといった「人前でパフォーマンスをする」タイプの職業の方々がこの為にどれほどの努力をしているか、政治家の方々が「人気/支持」という曖昧なものの為に(否曖昧だからこそ)どれほど地道な活動をしているのかということは、実際何らかの形で「人気」という価値を獲得しようと意識的に努力した経験のある人にしかわからないと思います。

 

勿論、一見なんでもなさそうな「ブログ」を書くだけで人気になってしまえるある種の才能に恵まれた「ブロガー」の方々や、単に楽しそうなこと(あるいは違法スレスレのふざけたこと)をしているだけにしか見えない(まあ実際にそういう人も中にはいるのでしょうが)YouTuberといったタイプもあるので一概に全ての「人気者」が血の滲むような努力をしているというわけでもないでしょうが、努力を伴わずに「人気」を得るということにもそれなりに大きな代償ないしリスクはあります。ブログ(Blog)やYouTubeにおけるVlogには、常に「炎上」というリスク(無論チャンスと捉える人もいるでしょうけどね)がありますし、単なる一個人に過ぎない一般人が自分の個人情報をネット上で晒し続けることに何のリスクもないとは誰も思わないでしょう。犯罪に巻き込まれないにしても、心ない他者からの誹謗中傷は日常的に行われますし、それはきっと「人気」の程度が上がれば上がっただけで悪辣なものが増えていくのだろうと思います。(無論ある程度以上人気になってしまえばそういったものに対処する手段も増えてくるでしょうが。)

 

ということで、「人気」は大資本家も飛びつきたくなるような巨大な価値と力を持つ一方で、大きなリスクも持つ諸刃の剣です。しかし現代資本主義社会を回しているのは畢竟この「人気」であり、実際には社会人は皆大なり小なりこの「人気」という魔物に振り回されている部分があるのではないでしょうか。職業ごとに違いがあるとすればそれは単にその諸刃の剣を、自らの素手で取ろうとするか、あるいは法人という手袋をつけてある程度のリスクを回避した上でとろうとするかという違いに過ぎないでしょう。「雇われて働く」というのは法人に手袋(及び盾)を与えられた上で諸刃の剣を手に戦うことであり、独立して働くのはこれを素手で手にして戦うということなのだ、と私は理解しています。

 

しかしいずれの場合でも、「人気」なくしては現代の競争を我々は生き抜けません。それは武器無くして戦うかつての中国の義和団のような哀しくも無謀な試みであり、卑怯であろうと何であろうと「人気」という武器を手にして戦わねば勝てない世の中なのです。しかもこれは畢竟学問においてさえそうで、今や社会の全領域において「人気」は必要不可欠なものなのです。

 

そうであるならば、トランプ氏からも、また実はトランプ氏以上の人気を誇りながらポピュリストであるとさえ思われないほど絶大な人気を誇るリベラル派諸賢からも、学ぶべき点は学ばねばならないなと思う次第です。無論、だから人気者を批判するなとは言いません。人気者批判、大いに結構です。それは往々にして自身の人気を高める最も有効かつ安直な手段であり、そうであるならばむしろそれはやらない方が命取りだということになるでしょう。

 

それにしても、こう「人気」に執着しはじめると単に生まれつきの容貌が美しいというだけで「人気」を獲得できてしまうレベルの美貌を持つ「イケメン/美女」という種族には羨望を感じざるを得ませんね。笑 無論彼らもさすがに容貌を生かした職業につくとなれば相当の努力をするのでしょうし、同族間の競争も熾烈なのでしょうが、それにしても小手先の努力では叶わないような「天の恵み」にはある種の理不尽さを感じなくもありません。しかしそれが自然というものです。単なる一般人に過ぎない身としては、自然に勝手に理不尽さを見出して憤るよりも自然の摂理に従って努力を積み重ねることを心がけたいものです。

 

といいつつ、全然人気の出そうもないような長文を今日も書いてしまう私なのでした。笑

 

まあ、次回以降はもう少し頑張りましょう。

ではでは。