哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

「哲学」は非経済的(=崇高)なのか?

古今東西「哲学」の「非経済性」を嘲笑する経済人や、あるいは逆にそれ故に哲学は崇高であると誇る哲学者が後を立たない。(若干の留保の下で、この「哲学」の部分を「学問」一般に変換することも出来よう。)

 

私は無論どちらかといえば後者の派閥に属する者であると自認する者であるが、果たして一般に理解される意味での「哲学」は「哲学者」が思っているほど「非経済的」で「崇高」なものであろうか?卑見では、それは謬見であって、かつこれが謬見であることにこそ「哲学」という営みの本質的自己矛盾性が顕在しているのである。以下、これを論証する。

 

まず、私が抱懐する見解を、幾何学的様式により論証する。

 

Defitiones/定義:

D1. 「利益」とは、それを得た主体に何らかの「快」をもたらすもの、あるいはその主体が抱える「不快」の原因を除去するものであると解する。

D2. 「崇高」とは、経済性の欠如であると解する。

D3. 「経済性」とは、自分以外の他人を最低一人以上巻き込むようなある行為によって何らかの私的ないし公的利益を生ずることが意図される様態であると解する。

D4. 「真理」(veritas)とは、理性によっては否定され得ぬ命題(propositio)であると解する

D5. 「哲学」とは、理性によっては否定され得ぬ命題(propositio), hoc est, 「真理」を探求する営みであると解する

D6.  「書くこと」とは、 何らかの情報を記録する行為であると解する

D6.1. 「わかりやすく書くこと」とは、自分以外の最低一人以上の他人に向けて何らかの情報を伝達する目的で「書くこと」であると解する

D7. 「読むこと」とは、それを読むことで何らかの価値ある情報を得ることを目的とすることによってのみ行われ得る意識的行為であると解する

 

Axiomata/公理

A1. 理性は矛盾律に反する命題を否定することができる

  

Propositiones/命題:

P1. 「真理」が「崇高」であればあるほど、それは「わかりやすく書かれ」ない。従って最も「崇高」な「真理」は、言語化され得ない。従って「わかりやすく書かれ」得ない。

Demonstratio/証明

「わかりやすく書くこと」は他人への情報伝達を目的とする行為である(per D6.1)。また「読むこと」というのは、主体が自己の利益のために行う意識的行為である(per D7)。従って「わかりやすく書くこと」は他人の利益のために行われる意識的行為であると解される。故にこれは経済性を持つ (per D3)。ところが「崇高」とは経済性の欠如である(per D2)。従って「わかりやすく書かれ」たものは崇高ではあり得ない。Quod erat demonstrandum (以下Q.E.D.)

 

P2. 「崇高」な哲学の目的は「理解する」そのものである

Demonstratio patet ex. D3 et D5

 

P3. 「崇高」な哲学は、それが「他人に理解される」ことを目的としない。

Demonstratio.

「他人に理解される」ことは理解される客体にとって快である。「快」であることには利益が伴い、従って経済性が伴う(per D2 & D3)。従って崇高な哲学、hoc est、経済性を一切排除した理性によっては否定し得ぬ命題の探求(cf. D3 & D5)は、定義上他人に理解されることを目的とし得ない(per P2)。Q.E.D.

 

P4. 哲学者が理解した真理を「わかりやすい」言葉で伝える義務は、「崇高な哲学」の内的論理からは生じない。

Demonstratio.

崇高な哲学の目的は真理の理解、すなわち理性によっては否定し得ぬ命題の経済性を伴わない探求である(per P2)。真理をわかりやすい言葉で不特定多数に伝えることは、経済的営為である(per P3dem.)。従って哲学者が「真理を探求する」という目的を達するには、真理をわかりやすい言葉で不特定多数に伝えなければならない、という命題は矛盾を含み、故に理性によって否定できる(per A1)。Q.E.D.

 

P5. 「真理の伝達」という行為は「崇高」ではあり得ない。

Demonstratio patet ex P3.

 

Finis demonstrationis ordine geometrico

 

 

以上で崇高な真理は伝えられ得ないことを論証したが、現実には「哲学」は書かれてこそ、他人に伝えられてこそ「哲学」であると認められる。この意味での「哲学」、すなわち公共に真理を含む哲学的文章を公表する営みとしての「哲学」は、しかし崇高ではあり得ない(per P5)。つまり経済的なのであって、経済性のない「哲学」など公共空間には存在し得ない。それはあくまで哲学者として知られていない私人の内にのみ存在し得る。そしてそれが真に「崇高な哲学」として公共空間に存在することは、哲学者が自らの思索の為に残したに過ぎない記録が死後出版されることによってのみ可能である。

 

従って、哲学者の存命中に当人の名で発表される文章が崇高であることはあり得ない。故に一般の意味における「哲学」、つまり公共に真理を含む哲学的文章を公表する営みとしての「哲学」は必ず経済的である。Q.E.D.