哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

「真実」について - truth, aletheia, veritas, rta, pravda, 「まこと」、「眞」の意味の差異から見える思想文化の違い

(今回は自分用に硬めに書いていたのをやっぱりブログに載せることにしたので、硬い表現のままですがご容赦いただければ幸いです。)

 

本稿はあくまで筆者の遊戯的推論であり、決して学問を僭称するものではないということを最初に断っておく。

 

各々の言語において、「眞理」に該当する概念を指示する言葉がどのような語源を持つかということは、その言語を話す民族及び地域における文化の根幹となる価値観を窺い知る一助となる。例として、印欧語圏における「眞理」観の際を、語源を手がかりに示してみたい。

 

印欧語圏における「眞」

まず英国語において「眞理」という概念を指示する際に最も普通に使われ、かつ英国独自の用法であると思われるのはtruthという語である。Truthの語源は、Wiktionaryによればtree(木)と同根であり、しっかりと根を下ろし頑丈に自らを支える木の様からtree = firmという類推が働き、更にここからsafeという概念へと繋がって、これがtruthという語として名詞化した、という説が挙げられている。

 

この説の興味深い点は、英国人を観察し、また彼らの書くものや話し振りを見る限り、彼らにとって眞理とはまさに「what is safe to say」あるいは「what is firmly grounded」(「地(ground)」という語も「木(tree)」と密接に繋がる)であるというのは非常に説得力があるという点である。もしそうだとすれば、これは英国人(及び「木」をtree系の語で、また「地」をground/grund系の語で表現する北方ゲルマン語)の「眞理」観はその古い語源に実に忠実な感覚なのであって、彼らの経験論的思考、あるいは形而上学的な大言壮語を徹底して避け、少しでもcontroversialになりそうなことは言わないという態度はtruthという語の成立と同程度に古いということが言えるかもしれない。

 

これに比して古代ギリシャ語の場合はどうかというと、ギリシャ語において眞理は「ἀλήθεια(aletheia)」という語で表される。これはかつてハイデガーが指摘したように「隠されていない(unverborgen)」状態(αληθες)を指し、逆に「虚偽(ψευδεσθαι)」とは「隠された(verdecken)」状態を指す。*1つまり、ギリシャ人はものごとが隠されていない状態、「眼に見える」状態にすることに価値を見出し、従って自然の神「秘」をなるべく眼に見える状態にしよう、「秘」密を暴「露」しよう、服(偽)を着ているものを裸(眞)にしよう、という方向に関心が向かい、自然科学的な「根源」への探求が促されるというわけである。

これは私の個人的経験に基づく観察であるが、ギリシャ人は一般に今日でも「隠す」ことに強い嫌悪感を感じ、聞かれたことに答えない、あるいは有耶無耶な返事をする、あるいは虚偽情報を伝えるといった行為は非常にネガティブに捉えられる。つまり何も包み隠さず真っ正直でいることはギリシャ人にとって重要な人徳なのであり、何かと私事を隠すような人は信用できない、仲間ではない、つまりギリシャ的ではない(a-hellenic)=バルバロイ的である=敵である、となってくるわけだ。こうした文化的背景の下に公開討論を基礎とする「民主政治/democratia」が成立するのだということが、ギリシャ人を観察しているとよく理解できる。

 

ところで、上の二つの例は実は印欧語圏における二つの極めて稀な例外的事例であり、他のほとんど全ての西欧語においては「眞理」はweh-ros系統の言葉で表される。例えばラテン語においてはveritas (adj. verrus)(仏:vérité, vrai)、ドイツ語ではwahr(heit)(オランダ語ではwaar)、そしてロシア語ではверный/вера (vernyi/vera)である。これらweh-ros系は「眞」以外の何をも意味しない。すなわち、weh-ros系統においては「眞」とはそれそのもの、すなわちtautologyのことである。ローマ人は相手に相槌を打つ時、「yes/ja/oui/si」といった言葉は使わなかった。彼らは常にveroと答えたのである。「同意/同じ」である、一致している、正しいといった、最も普通の眞理概念をこの語は指していると言えるだろう。参考までに、フランス語辞書におけるvéritéの第一定義を引用しよう。

Ce à quoi l'esprit peut et doit donner son assentiment (par suite d'un rapport de conformité avec l'object de pensée, d'une cohérance interne de la pensée); connassaince à laquelle on attribue la plus grande valeur (opposé à l'erreur, illusion)*2

上述の引用の内、特に着眼したいのが「doit donner assentiment(同意[承認]せざるを得ない)」という部分、また「conformité avec l'object de pensée(概念の物体との一致)」といういわゆる一般的なcorrespondence theoryに基づく経験主義的な理解とは別に、「une cohérance interne de la pensée(思考の内的一貫性)」という理解が挙げられている点である。

 

これをオンラインで公開されている「Oxford English Dictionary(OED)」と比較すればその差は一目瞭然である。OEDにおいては、truthの第一義は

1. The quality or state of being true. *3

とのみ書かれている。 ではその「true」とは何かいえば、

1. In accordance with fact or reality.

1.1 (attributive) Rightly or strictly so called; genuine.

1.2 (attributive) Real or actual.

1.3 Said when conceding a point.

2. Accurate or exact.

2.1 (of a note) exactly in tune.

2.2 (of a compass bearing) measured relative to true north. 

2.3 Correctly positioned, balanced, or aligned; upright or level.

3. Loyal or faithful. 

3.1 true to Accurately conforming to (a standard or expectation); faithful to.

4. (archaic) Honest. 

*4

 これだけである。最初の定義はフランス語にもあった通常の物体ー概念対応説だが、1.3の「said when conceding a point」など実に「英語」的な眞理観に思われる。二番目のaccuracy/exactitudeすなわち「精確性」なども英国人の分析的傾向を示しているが、これなどは現代のアカデミズムに通じる、漱石なら「重箱の隅をつつくような」作業と批判しそうなものである。三番目に至っては"faithful"(忠実)などという道徳的概念が出てきて、最後には"honest"(正直)というのが出てきて終わってしまう。つまり思考の内的一貫性や、「思惟(l'esprit)が真実性を認めざるを得ない」といった契機を完全に無視しており、要するに事実の上で「factual」であるか、徹底的に「精確」であるか、あるいは道徳的に正しいという点が英語の「true/truth」の含意であり、フランス語の合理性と英語の経験主義/倫理中心主義の対照が見事に現れている。

 

因みに現代ロシア語のправдаは、ラテン語のprōvincia と語源を共有し、元々印欧祖語で「支配者、正しい裁定者」を意味する*prōw- (“right judge, master”) に由来する。すなわち現在のロシア人にとって真実とはすなわち支配者の命令であるということだ。ロシアが長年独裁体制をとっているのは決して偶然ではなく、彼らの使用する言語に既にこうした価値観が表現されているのである。

 

他方サンスクリット及び古代ペルシャ語では、「眞」を表すのは印欧祖語のHr̥tásに由来するタイプの語であり、サンスクリットではऋत (rta)、古代ペルシャ語ではartaという語である。Hrtasは(fit, fix, put together)「合致」を意味し、従ってweh-ros系の持つ意味のうち特に「合致」という点を重視する派がペルシャ-インド系統、すなわち言語学的アーリア人系の伝統だということである。「合致」を重視することは、それを極端に突き詰めれば言葉が一言一句違わず合致することが「眞理」であるという考えを導こう。従って眞理を知った者がその眞理について語った言葉は必ず一言一句合致せねばならない。故にヴェーダが眞理を伝えている限り、あるいはウパニシャッド文献が眞理を伝えている限り、他の眞理を知る者の眞理についての文言は一言一句ヴェーダ/ウパニシャッド文献と違ってはならない。爰にバラモン系インド人のマントラ的な同じ文言を永久に繰り返す伝統、あるいは伝統的知識を一切違わず伝えることを徹底するという文化が成立する。

 

似たようなことが本来ラテン語圏やスラヴ語圏、またドイツ/オランダといった大陸系ゲルマン人にとっても言えるはずであるが、実際ラテン系の西欧人は比較的伝統を重視し、「独自性」(originality)なるものをさほど重視しない。上述のフランス語のvéritéの定義からも推せられるように、彼らは先人が眞であると確信したことにはそれなりの理由(raison)があるのだろうという程度の敬意を持って研究し、特にそれが自ら(の「l'esprit」)の理性が検討し得る限り内的に一貫したものであればこれを直ちに眞理であると承認し(donner assentiment)それ以上疑わない。これがラテン的頓悟性、あるいは合理主義である。デカルトやスピノザ、またライプニッツは、全てラテン系言語を日常の母語とし(デカルトとライプニッツはフランス語、スピノザはポルトガル語及びスペイン語)、主な著述はラテン語(デカルト、スピノザ)ないしフランス語(デカルト、ライプニッツ)で行なったという点で皆ラテン系の思想伝統を受け継ぐ。スピノザはオランダに住んだオランダ人ではあるが、同時にイベリア半島から逃れて来たユダヤ系の子孫でもあり、文化的には一般のオランダ人とは隔絶されたユダヤ系の居住区で育ち、そこでは日常的にはポルトガル語、また学校ではスペイン語が話されていた。スピノザはもちろんオランダ語も話したが、そのオランダ語とてweh-ros系統の伝統を保つ点においては何の相違もない。

 

付言すれば、スコラ哲学に合理主義を伝えたイスラーム系の思想家であるAverroesとIbn Tufailの二名はともにイベリア半島に生きたペルシャ系のムスリムであり、彼らがweh-ros系統の言語環境の中で生きていたことも着眼に値せよう。

 

日本語(和語)の「まこと」と中国語の「眞」

それでは、我が日本語における「眞理」とはなんであろうか。これは全くの推論であるが、和語において眞理とは「まこと」という言葉で指示される。「こと」が「言」を意味するという説は有力そうなので敢えてこれは正しいと仮定すると、問題は「ま」が何を指示するのかという点である。

 

ひとつ考えられるのは、「ま」が「眼」を意味するという理論である。例えば「まなこ」は眼を意味するし、まぶしい、まばゆい、まぶたなど、眼に関連する和語の多くに「ま」が使われる。かつ、ギリシャ人において「眞」の概念と「眼に見えること/visibility」が関連しているように、古代日本人が「眼」と「眞」を関連づけたとしても何の不思議もない。すなわち、「まこと」とは「まのこと」、「眼」に見えたままを「こと」ばとして述べること、あるいはその内容であるということだ。または、眼にみえた「こと」そのものを指すという風にも考えられる。むしろその方が自然かもしれない。その場合「まこと」とは「眼に見えること」であるということになり、ギリシャ的な眞理観にぐっと近く。日本人にハイデガーや自然科学的な思考が容易に受け入られるのはこういった共通性に由来するのかもしれない。

 

とはいえ、そもそもなぜ「眼」が「ま」なのであろうか?「まなこ」をもう少し分析してみると、「ま」「な」「こ」と三つの概念に分析できる。「な」は「中」を意味するとし、「こ」は「小さいもの、可愛らしいもの」を意味するとしよう。というのも、「こ」を女性の名前に使うという習慣は「卑弥呼」あるいは「みこ」という語に見られるように太古から行われているからである。あるいは今日でも「こ」そのものが子供を意味する。すると「ま」とは実は「間」であり、「空間」を意味するのではないだろうか。すなわち「まなこ」とは空洞の中にある小さなもの、すなわち眼球という風に理解できないだろうか。そこから本来空洞あるいは空虚を意味する「ま」に「眼」の意味が生まれ、また「眼」から「眞」の意味を持つようになった、という風に考えることができるように思われる。

 

実際、ちょっとした空洞というのは今日でも「目/め」と言われる。割れ目、節目(ふしめ)、あるいは碁における「だめ」等、「目/眼」=空隙と捉える言語習慣は生きている。これは若干言いにくい下ネタになるが、女性のことを「め」という語で表すのもあるいは共通語源かもしれない。(今日でも関西では女性器のことを「めこ」と呼ぶ)また、日本人が空洞になんらかの神秘的価値を見出し、生活空間の中にわざわざ空洞をつくるように工夫した(欄間など)のも、あるいは「かみ」の「め/ま」を塞がぬよう、あるいは「かみ」がずっと見守り続けることができるようにという考えがあったかもしれない。その場合、「ま」の持つ意味は二つの異なる物体との間に生まれる間隙であり、かつ全ての間隙にはなんらかの神秘的「め/眼」が宿り、これが目撃するところの事象すべてが「まこと」である、あるいは「ま/間」のなかで生ずる全ての「こと」が「まこと」である、という若干ハイデガー的な現象学に近い解釈も可能である。

 

私はギリシャ的な「眼に見えること」説が最も妥当であると思うが、これとは独立に同時にま=間=眼=めというアナロジーもある程度は有効であるという気がしなくもない。

 

ちなみに漢字の「眞」とは鼎からさじを用いて中の食べ物を救い出す様から「他者に対する偽りなき善意」を意味するという説がある。*5この説が正しいとすれば、中国人にとっては眞実とはあくまで全き善意のことに他ならず、善意こそが至高の価値であるということになろう。これは彼らの「仁」を重視する傾向と合致している。中国では眞実とは善意にあふれた仁の物語なのである。儒家啓典が最高の知識と称えられる所以であろう。

 

Reference: 

Heidegger, M. (1977). Sein und Zeit. In Gesamtausgabe I. Abteilung: Veröffentlichte Schriften 1914-1970 Band 2 Sein und Zeit. Vittorio Klostermann. Frankfurt am Main.

*1: [Sein und Zeit, 33]

*2:Le Robert micro poche, édition 2013, par Alain Ray, p.1506

*3:truth | Definition of truth in English by Oxford Dictionaries

*4:true | Definition of true in English by Oxford Dictionaries

*5:例えば、以下のリンクあるいは以下のブログ記事等を参照のこと