哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

私が日本の「右翼/保守」批判はズレていると思う理由

学校や塾などで歴史を勉強すると、「右翼」というのは常に「悪者」であるように見える気がしませんか?実は私も高校生くらいまでは何となく「右翼」に対して否定的な偏見を持っていました。

 

何といいますか、世界史や日本史でマイナスの出来事を起こすのは常に「右翼」であったり「守旧派」であったりしますよね。それは別にヒトラーのようなわかりやすい悪役だけではなく、例えば物部氏と蘇我氏の顛末に関しては、物部氏(物部守屋)は仏教という新しい外国文化を拒否するために頑迷な「守旧派」として書かれ、対する蘇我馬子や厩戸王子は迷信に惑わされぬ「開明派」という印象を与えます。

 

そうして蝦夷と入鹿の時代になると、崇仏派の権威が急速に高まっているという状況を利用して調子に乗っている蘇我氏を懲らしめるために正義の味方である藤原鎌足らが成敗する「乙巳の変」が生じ、これによって古代日本における善政時代が成立する的な雰囲気があるのではないでしょうか?

 

世界史の方でいえば、例えばIulius Caeserは正義の味方で、元老院の権威を守る為にカエサルを暗殺したBrutusは悪役です。近代以降でもやはりJoseph de Maistreのような「反動派(reactionary)」は悪者で、革命家達が正義の側ですよね。

 

ということで、常に守旧派にはマイナスのイメージがつき、開明派にはプラスのイメージがついているという場合がとても多いと思います。それも、通俗的な歴史叙述であればあるほどそうで、アカデミックになればなるほどそういった偏見が相対化され、より客観的になっていきますよね。もっとも、比較的通俗的(=物語的)な歴史叙述でありながら意識的に守旧派を正義の側におこうという試みもたまにあります。平泉澄の歴史叙述などはこの方向で最も優れた成果をあげた歴史家の一人でしょう。

 

とはいえ、平泉の歴史観においても、常に「守旧派」が正義とされるわけではなく、あくまで天皇に対する忠誠の度合いに従って正邪が判断されるので、江戸時代の場合は幕府の権威を恐れ何も行動を起こさない「守旧派」よりは、吉田松陰のような「忠君」の改革派の方が「正義」ということになります。従って平泉歴史学の価値観は必ずしも「保守主義」そのものではなく、あくまで「忠君主義」であるという点は一応注目すべき点です。というのも、平泉澄が絶賛し、今日でも日本の保守層に人気のあるエドマンド・バーク(Edmund Burke)の場合は、「どんな体制であれそれを急激に変革するのは好ましくない」という類のより一般的な「保守主義」であって、平泉のように常に君主独裁体制こそが正義であり、幕藩権力などの不忠の徒は革命を通してでも打倒されるべきとするものではないからです。

 

また、現代日本の「右翼」の場合でも、必ずしも常に平泉的な「忠君主義」を中心的価値だとしているわけではないのではないでしょうか。もちろんそういうタイプの古風な右翼思想家もいるでしょうが、今となってはむしろ少数派であるように思われます。左翼やリベラルを批判し自民党を支持している保守層の方々は、日本が民主主義や議会制を捨てて天皇大権を復古させるという体制を望んでいるのでしょうか?もしそうならそれはそれで興味深いですが、今の所は自民党の最右翼でもそこまで実現しようとはしていないし、かつそれは自民党側もそのような立場は支持されないと判断しているからではないかと思われます。

 

いずれにせよ、日本の文脈では「右翼」というのはかつて少なくとも二種類あったわけです。

1) 平泉澄的な忠君主義。天皇大権を復活させ、君主制国家を実現することを是とする。

2) バーク的な保守主義。単純に既存の伝統や制度をなるべく維持することを是とし、急激な変革を拒む立場。

 

ところが、戦前にはこの二つに加えてもう一つの潮流がありました。それが北一輝のいわゆる「極右」です。北一輝というのは、教科書でもアカデミックな歴史書でも常に悪者扱いされ、高く評価する人はほとんどいません。(つまり佐藤優さんなどのような例は例外的です。)これは生前の素行が悪く自由奔放な生活を送っていたせいもあるかもしれませんが、しかし偉大な思想家が私的生活面では全くのダメ人間であるということは決して珍しいことではありません。つまり、思想と人物像とは一応分けて評価することも可能だということです。

無論そんなことは日本の歴史家も思想史家もわかりきっているはずですが、ではなぜ北一輝の思想はこれほどまでに評価が低いのでしょうか?それは、端的に言って北一輝の思想が平泉的な忠君主義の立場からみても、バーク的な保守主義の立場からみても、あるいはマルクス主義の立場や現代の英米リベラリズムの立場からみても、つまりどこから見ても「異端」だからではないかというのが私の見解です。

 

北一輝の政治思想というのは概略すると以下のようなテーゼを含んでいました。

1)日本はアメリカと戦っても勝てるはずがないのだから対米戦争は避けるべきである。

2)日本は支那や朝鮮をロシアという脅威から守る責務があり、かつ東亜における社会主義革命を先導すべきである。(ので、ロシアとは戦争すべきであり、東亜諸国は日本の支配下におくべきである。)

3)日本語という言語は愚劣であるから、例えば英語を公用語にすべきである。

4)日本人が天皇の詔に絶対的忠誠心を持つのであるなら、天皇が専制啓蒙君主となって社会主義革命を先導すべきである。(がこれは実現しそうもないので、まずは東亜において社会主義革命を実現しようと考え、北一輝は中国で革命運動に参加します)

 

というわけで、北一輝のこだわりはあくまで「社会主義革命」にあり、社会の進歩にあったわけです。そして、政治的謀略と暴力の渦巻く当時の苛烈な中国政治の現場に参加した経験から、北一輝は東亜の否定すべからざる「後進性」に絶望し、かつ日本自体もそこまで進んではいないという現状は変わっていなかったので、遂に自暴自棄となり宗教にはまり込んだり、青年将校達をけしかけて運動を起こそうとしたりという怪しいことをするようになってしまい、遂に2・26事件の首謀者の嫌疑をかけられ獄死するわけですね。

 

しかし、こうしてみると北一輝のどの辺が「右翼」なのかというのが甚だ疑問です。実は北一輝は天皇制神話を痛烈に批判しておりますし、天皇制は革命成りし後にはいずれ廃止すべきものと捉えていたことを示唆する文面もあります。むしろ、こうした「非右翼的思想」を北の理論に見出した守旧派勢力が北を潰しにかかったという見方さえできてしまうような気がするのは気のせいでしょうか。

 

というのも、通常のマルクス主義者や社会主義者であれば、彼らの多くが教育をうけた大学生などであり、またマルクス主義系の会合や文献を所持していたりするので思想統制の対象として比較的簡単に取り締まることができましたが、北一輝の場合は彼自身が新しい革命理論の提唱者で、別にマルクスやロックに依拠しているわけでもないし、しかも見かけ上は愛国的皇国主義者を装っていて、軍部の若者の間に支持者を増やしていたわけですから、何か理由をつけてこれに危険思想のレッテルを貼って取り締まらなければややもすると爆発的に広まってしまい、結果クーデターにつながる恐れがあったはずです。しかも北に対する憂慮は単に政治家や警察のみならず、昭和天皇にまで共有されていたようなことをどこかで読んだ気がします。

 

つまり、北一輝の「純正社会主義」は当時の日本の支配層にとってマルクス主義や無政府主義以上に恐ろしい最悪の反体制思想であったわけです。従って、北一輝の「右翼思想」は以下のように特徴づけられるでしょう。

3) 社会主義革命を導く専制啓蒙君主としての天皇への忠誠を(便宜的に)要請する「純正社会主義」

 

そして、これはよりリベラルな社会となった現代日本においても支配層が脅威と見て危険視するのに十分な破壊力を持っています。というのも、いくら日本におけるマルクス主義や左翼が失敗しているからといって、貧困層がなくなったわけでも社会保障が充実しているわけでもないからです。

 

民族的ナショナリズムと社会主義を日本的な伝統に合わせて合流させた北の「純正社会主義」は、ドイツのナチズム(National Sozialismus)のような強烈な排外性を持っているわけではなく、むしろフランスの革命理論の日本的再現のようなもので、これが貧困層の支持を得る可能性は大いにあります。現にその多くが貧困層出身者で占められる軍部に彼は支持を集めていました。イメージ的には、例えば現代でいうなら田母神俊雄さんのような感じだったんだろうと思います。しかし田母神さんと北の決定的違いは、北においては「支那や朝鮮」はあくまで「救うべき同士」と捉えられている一方で、「天皇制」は革命を先導する強権として「ご活躍いただい」た後には制度としては廃止されるべき存在であるのに対し、田母神さんにおいては「天皇」への戦後日本的な「ゆるやかな忠誠」こそが意味を持ち、かつ「支那朝鮮」は天皇への「敬意」を欠く政治的敵対者として理解されている点です。

 

逆に言えば、現代日本の「右翼/極右」の主流派の中心的論点は中国・朝鮮を敵視する「排外思想」であり、天皇制に関しては現在の政治権力を持たない「象徴制」状態を維持することで足れりとする点が戦前の右翼と現代の「右翼」(=例えば櫻井よしこさんのような、あくまで公共放送に出てこられる「堅気の世界」の右翼)との断絶を示すひとつの転換点になると思います。もちろん、地下に潜っているアンダーグラウンド組には平泉型の忠君愛国の志士がまだいるのかもしれませんし、自民党の議員の中にもそういった「理想」を捨てていない方も案外いるのかもしれません。ただ、現代の「ネット右翼」を中心とするより若い世代の「右翼思想」というのは、圧倒的に象徴天皇制の維持+嫌中・嫌韓を基軸とする排外的保守主義が優勢であるように思われます。ということで、これが四つ目です。

 

4) 嫌中・嫌韓を貫くが、天皇制に関しては象徴制の維持で満足し、自衛隊の合憲化と9条廃止を求める一方でアメリカとの協調路線は崩さないという「戦後『現実』主義」

 

今日左派系やリベラル系のメディアが日夜攻撃している対象が実際に主張しているのはこの4つ目のタイプの「右翼思想」であって、1)や3)ではありません。ところが日本の公式メディアにおける「右翼批判」というのは、どうも「右翼」と名のつくものは全て1)の平泉的忠君主義を極端に推し進めようとする狂信的な人々に相違ないというあまりに時代錯誤な偏見を前提になされているような気がします。

 

逆に2)に関しては時折「私は1)や4)のような極右ではもちろんないが左翼・リベラルでもない。ただ伝統を守ることに価値をおくというだけだ」というタイプの方々が支持する「健全な穏健保守」と言えましょうが、実は一般に「リベラル」あるいは「左翼」と批判されている側、つまり朝日新聞や毎日新聞のような立場も実際にはこの「健全保守」の立場以上のものではないと私は思っています。下手をすれば日共の実践的立場も今ではこれと同じかもしれません。その意味では2)の穏健保守主義の立場は今日の日本の常識であり良識であって、しばしば行き過ぎた極端な右翼思想と糾弾される産経的な言説も実際には4)以上のものではなく、1)や3)のような言説は今日ではほとんど見られないとする方がより正確ではないでしょうか。

 

ということで、この辺りを色々と意図的にか無意識にか混同してしまっているが故に、日本の高級メディアやアカデミックな立場からの「右翼批判」は常にどこか的を外している感が出てしまうのではないか、というのが本稿の結論になります。

 

安倍首相の一挙一動から「軍靴の音」が聞こえてしまうのは、聞こえる側の方々が「右翼」側の変化や多様性を見逃しているからではないでしょうか?あるいは、彼らが本物の右翼、つまり戦前の正真正銘の右翼が具体的にどのような思想を持ち、説いていたかを全く知らないからこそ、安倍首相の発言がどのような背景から出ているのか、つまり過去の右派政治家と比べれば安倍首相は実は大いに現代リベラリズムに譲歩しており、むしろ譲歩し過ぎて右翼側に敵視されかねないほど頑張っているかもしれないという可能性も見えず、また無知故にただ教科書で読んだ悪者みたいなことをいう人が今でも現実にいるという点だけがやたらに印象に残ってしまい、「義心」を駆り立てられ「安倍政治を許さない」になってしまうのではないでしょうか。

 

しかし、こうした無知に基づく批判の一切は実に無意味であるのみならず、このような浅薄な批判がお経のように何十年も一言一句違えることなく繰り返されていくうちに、より客観的な視点に立つ外国人が日本政治の真の問題点であると考える点が何なのかが日本で最も尊敬される、あるいは影響力のある「リベラル派知識人」の方々にさえ全く見えなくなってしまっているという意味で有害です。

 

つまり、「軍靴の音」にばかり敏感になり過ぎて、日本のリベラル知識人は現代人の「右傾化」を促している「排外感情」にも、その背景にある人種的・文化的多様性が前例を見ないほど増大していく東京において「普通の日本人」が漠然と抱いている不安や恐怖心にも全く気づけていないし、気づいたとしても単にそれを西洋の議論を輸入して「ヘイト・スピーチ」であると糾弾するだけで、これを日本という東洋の小国に近年生じた未解決の新たな問題として全く引き受けていない。

 

外国人差別や同性愛差別に対して西欧流に法的に取り締まっていくというだけではどう考えても十分な対処とはいえないし、そういった制度論上の問題以前にそもそも文学などのより主観的な次元でこうした事態を心理的に受け入れる準備をする必要もあるはずなのに、誰も日本、特に東京が今急速に変化していて、しかも多くの日本人が実はそれに全くついていけていないという事実と真剣に向き合っていない。

 

もっと重要なのは、西洋においてもこの急速に進む文化的多様化という前代未聞の社会的変化にどう対処するのかという問題は全く解決していないし、むしろ近年の「極右の台頭」とそれへの批判に現れているように、もはや左右両サイドが病的な思考停止状態に陥っており、意味のある解決案を提示するどころか「政治的正しさ/political correctness」という暴力によって学者でさえ何も言えなくなっており、結果として無名の国民レベルではその場その場を刹那主義的に生きていくしかなくなっているという絶望的な状態になっているということも、語学力や海外経験が足りないせいか、あるいは問題が西洋の人種問題となるとどうしてもマイノリティーの側に感情移入してしまい、白人側の事情を考慮する心理的余裕がないせいか、誰も見ていない。当然ながら、白人の知識人はこういった事情が全て見えていても、最終的には明らかに生き過ぎている極右を批判する陣営に加担することしかできない。

こうした現実を見ず、ただ西洋社会の表の部分だけを「お客さん」として高待遇で見せてもらって、その後は気持ちよく帰国し、日本では西洋における主流イデオロギーを伝える「遣欧使」の役割を喜んで果たすことで自分は知識人としての役割を十分に果たしていると思っている人は、きっと数十年後にはその結果として生ずる「予想もしなかった」大惨事を目の当たりにしてもそれを「極右」に責任転嫁し、自分では何も反省しない、否できないのでしょう。

 

もしそうであるなら、今我々がすべきことは何でしょうか?実は、この問いに対する正解を知っている人などこの世に存在しません。誰もわからないのです。ですから、問いを変えましょう。皆さんは、今後の日本をどうしたいですか?イギリスやフランス、あるいはシンガポールや香港のようにしたいですか?それとも「日本は日本でありつづけるべき」でしょうか?しかし、そのありつづけるべき「日本」とは何ですか?「日本人」とは何ですか?あなたの中心的価値は何であって、日本という国の中心的価値は何であるべきだと思うのですか?

 

そして、思考停止状態にある「リベラル派」及び徒に排外感情を煽っている方々。あなた方は他者の政治的言説を批判する際、日本人が日本において重視すべき政治的価値が何であるべきかという問いの難しさを考慮していますか?考慮していないのであれば、それでも浅薄な思考に基づくあなたの主張を強弁する理由は何ですか?あなた方のおかげで、今日も誰かが死んでいるかもしれません。外国人犯罪者に理由もなく殺される方もあれば、外国でテロに遭遇された方もいるでしょう。あるいは中国や朝鮮で反日犯罪に遭われた方もいるでしょうし、逆に日本で排外主義者に物理的危害を加えられている外国人もいるでしょう。

勿論、排外主義的風潮が増長され、外国人に対する暴力犯罪が増加するといった事態は極力避けるべきです。しかしヘイトスピーチを辞めるべきだからという理由で、外国人犯罪が国内の犯罪組織と合流して複雑化かつ凶悪化している(かもしれない)という問題を無視していい理由にはなりません。その数が「ネット右翼」が誇張するほど多くなかったとしても、犯罪の被害に合う人が実際にいる、あるいはそういった可能性があり、かつそれに対して有効な対策を講じようという議論が「排外感情」の増長を招くことを恐れるあまり行われにくいというのは事実です。また、外国人の犯罪に実は日本人や日本の犯罪組織が深く関わっているとしても、「外国人」という立場を利用して日本における犯罪に加担している人達がおり、かつ一度国外へ逃げられたら彼らを検挙することは極めて困難になるのも事実です。そういった問題が「様々な事情を考慮」した結果有耶無耶にされたり隠蔽されたりしてしまう、そのこと自体が国民の不安を醸成し、引いては「憎悪表現」の遠因になっているのではないでしょうか。また、上述のような複雑な事情を無視し、これら一切を単に「グローバリゼーションに必然的に伴わざるを得ない必要悪」と片付けてしまっていいのでしょうか。もしこれにYesと応えられる方々があるなら、彼らにぴったりの言葉を早めの新年の挨拶として送りたいと思います。

 

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