哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

20代の「論客」が少ない?「若者」がそれほど注目されない理由

今回は普段よりゆるめの内容です。(かつ、普通のネットメディア風に余計な工夫を少しだけしてみます。)

 

イケダハヤトさんの「20代の論客が少なすぎる件—なぜ若者は語らないのか? : まだ仮想通貨持ってないの?」という記事を読み、今までぼんやり考えていたことにもう少しはっきりした輪郭を与えようという気が出て来たのでこの機会にこれを試みたいと思います。

 

少ないのは「論客」の数ではなく、「既存メディアに認められる論客」の数では?

まず、イケハヤさんはYahoo!個人のオーサーに20代が少ないという点を指摘し、これを根拠に20代論客が少ないと仰っておりますが、Yahooの公式オーサーって、別に応募して選考を通ればなれるという仕組みですらそもそもないわけですよね。よく知りませんが、今のところはYahoo!側が既にネット上で話題になっている人などから任意に選びオーサー認定するという具合なのではないでしょうか?

 

Yahooに限らず、日本では雑誌はおろかネットにおいてさえ少しでも有名なメディアで「論客」として文章を載せて貰うには、最初からある程度知名度なり社会的地位なりがないと非常に難しいですよね。そもそも採用されないし、Pitchを送っても無視されるか「ただいま募集しておりません」等と丁重にお断りされるかのいずれかの場合がほとんどだと思います。

 

英語圏ではもっと自由に「write for us」という欄を設けているメディアも多く、別に素人でも素人なりにしっかりした記事を書けば比較的読まれているメディアで公開するチャンスというのは結構あり、これがSEO対策に使われることも屡々なのですが、日本ではそういうのがあまりないか、あっても極度にエンターテイメントに偏っていたり実生活に役立つ豆知識的なものが多く、政治的見解を自由に発信できる場というのはほとんどありません。

 

また、新聞や公式メディアに色があるように、Huffington Postやアゴラなどの政治経済系のオンラインメディアにも色があります。党派的な偏りの少ないしっかりしたメディアとなるとForesightなどの著名知識人のみが投稿するタイプの「上からの情報発信」型にどうしてもなりがちで、ここに「20代の若者」が入り込む余地などほとんどありません。

 

とすると、20代のYahooオーサーが少ないから、あるいは他の主流ネットメディアで書いている人が少ないから、という理由で「20代の論客が少ない」というのは、ちょっと違うような気がします。私の感覚としては、20代で何かしらネットで発言している「論客」というのはネット上に大量に存在してはいます。

 

ただ、上の世代やメディアに持ち上げてもらえる幸運な人が少ないというのが真相ではないでしょうか。だとすれば、ネットメディアや若者が「読まれる」為には、実はテレビや新聞などの旧メディア、あるいは年上の世代に助けられる必要があるということでしょう。日本語で発信する場合は特にそうで、旧世代や旧メディアに全く依存することなく自分一人の力、あるいは若者の力だけで発言しようとしてもそこまで(ポジティブな)注目を集めることはできません。

 

私自身も、「アゴラ」に一時期でも使っていただいたからこそ多少は読んでいただけるようになったわけで、一切の既存メディアに頼らず個人ブログを通してゼロからスタートする場合はそれこそ炎上商法的なことでもしない限り、芸能人でも何でもない普通の人が政治的・社会的な発言をすることで爆発的な人気や支持を得て読者を獲得できるようになるわけがない、あるいは既に現状で可能なことは全て試され市場が飽和状態にあるのが現状だと思います。

 

これは、逆に言えば今テレビあるいはネットで「活躍」している「若者」というのは実際のところ上の世代に活躍の場を与えられているから活躍しているわけで、彼らの文章を読むのもやはり20代よりは30代以上の現役世代のはずです。

 

そもそも同世代(20代)の読者層は「長文」が読めないという現実

他方、本当の20代の若者というのは、2chねるですら「難しくて読めない」と言い出しそうなほど文盲化しており、そもそも「長文」が読めないか、あるいは読みたくないと思っている場合が多く、これが日本特有の「twitter」流行という謎の現象に繋がっているのではないでしょうか。

 

欧米でも同様の傾向はありますが、どちらかというとYouTubeなどの映像メディアに流れる向きがあります。日本では映像や画像、音楽等を含むと著作権云々の問題が生じることと、「短歌」に見られるように伝統的に短文を好む傾向が重なり、これが「ツイート」文化となって再構成されているのだろうと私は思っています。

 

いずれにせよ、20代が20代の意見を反映する記事を書いても、当の20代はそんなものは読まず、読んでくれるのはせいぜい良心的な上の世代だけなので、その唯一の読者層に対して挑戦的な「若者らしい」記事など誰も読むはずがないというのがこの問題の基本的構造なのではないかなと私は考えます。

 

もちろん、時折「若者らしい」意見を表明して話題になることはあります。ただしそれは旧世代の期待に応えている部分がある場合のみです。例えば、古市さんなどは護憲派やリベラル派など、いわゆる「左」とされる側のメディアから見てある種の期待に応えてくれる部分があるからこそ「気鋭の若手論客」として持ち上げられます。逆に保守の側でも古谷さんや、最近では三浦瑠麗さんなどが注目されていますが、彼らが代表しているのは明らかに彼らの同世代に漠然と共有されている感覚ではなく、上の世代から見て価値のある「若手」像でしょう。

 

もちろん、これらの著名人が上の世代の期待に十分に応えているというわけではないでしょうし、そこには彼らの限界あるいは自由も当然あります。私が指摘したいのは、こういった若手著名人が上の世代に隷属しているということではなく、どの世代の論客にも(そして若者の場合は特に)ある程度自分の属する世代から遊離しなければ決して注目集める機会を掴むことはできないという根本的ジレンマが存在するという点です。そうして、その最大の原因は20代が全体として文字離れしている、あるいは彼らの求める情報の内容が非常に実生活に密着したものあるいはエンターテイメントに限定され、政治系メディア自体の需要が若者の間で急速に低迷していることです。

 

日本の若年「エリート層」は現実的過ぎる?

では、なぜ若者が政治メディアに関心を持たないかというと、もちろん学力低下などのいわゆる「ゆとり」論にもある程度の説得力はありますが、これはあくまで低学力層の分析としては有効でもエリート層の無関心の説明にはなりません。エリート層はそもそも私立学校にしかいかない場合が多いので「ゆとり」云々とは最初から全く関係のない世界に住んでいるからです。

 

というのも、名門進学校などのカリキュラムは通常何十年も前から変わっていない古風なリベラル式のものであるか、あるいは東大合格という最終目的から逆算的に組まれたプログラムを粛々とこなしていくようになっているので、学習指導要領の制限によって東大の入試問題自体が変更される限りにおいては影響を受けるものの、東大が何も変更しなければエリート層の学習内容も変更されないからです。また、私立大学の場合は最初から学習指導要領を無視した範囲を平気で出題するので、やはり難関私大対策をする層にとっても文科省の政策は事実上ほとんど関係ありません。

 

ということで、政策としての「ゆとり教育」は難関私大や旧帝国大学などの難関大受験を経験していない人にしか影響は及んでおらず、その意味で格差を増大させはしたものの「エリート層」を以前よりも愚かにしたということはあまりないはずです。

 

ただ、上の世代の方々から見ると現在の若者が昔に比べて「バカになった」気がするというのはやはり真実でしょう。ただその理由は教育云々ではなくて、単純に「文化の差」だと私は思います。

 

今の若者世代にとって、携帯電話、否「スマホ」はあって当たり前、テレビやゲームも当然あるし、パソコンも最初から存在し、掃除も洗濯も全て「機械」がやることです。なので学校では人が箒で「掃除」しなければならないなどということが異様に時代錯誤な印象を与えますし、現在のように便利な生活が実現する以前の時代を知る旧世代のあらゆる常識が若者にとっては根拠不明な「非常識」であって、文字通り「意味がわからない」のです。

 

これが若者がその知識レベルや学歴に関わらず一様に「バカに見える」原因だと私は思います。そして、若者がこのことに自分で気づくのに最も有効なきっかけのひとつは皮肉なことに海外留学です。第三世界を冒険する場合はもちろん、西欧先進国に留学する場合でも、初めて海外に出た時には日本人の若者は恐らく海外における日常生活がいかに不便かということに驚愕すると思います。日本人というのは老若男女を問わず海外、特に西欧や英語圏には一般的に「進んだ社会」というイメージを持っていますが、実際には西側の先進国でも、特にヨーロッパの場合はまるで昭和の時代がそのまま続いているような雰囲気を保っており、東京のような「先進性」など全く感じられません。

 

ニューヨークやカリフォルニア等ならもっと先進的かもしれませんが、東京や香港、上海に比べればヨーロッパの大都市は実に寂れていると言わざるを得ないでしょう。そして技術的には日本の遥か上を行くはずのアメリカでも、日常生活の場では宗教や政治的正しさ(Political Correctness)など、古い伝統的な文化やその延長上で理解しなければ意味がわからない慣習などが複数あり、東京での生活に慣れている若者からみれば異様な「後進性」を目の当たりにする機会は多いと思われます。

 

要するに、日本の若者は世界の中でも最も「現代的」であり、国内でも国外でも、オンラインでもオフラインでも、常に「意味のわからない旧習」に囲まれつつ、自らはそれとは距離をとらざるを得ない存在として「孤立」してしまっているわけです。そして特に頭の良い、あるいは高学力の人ほど、自分たちが「浮いてしまっている」ことを明瞭に自覚しており、かつ旧世代や外国人の偏見を取り去ることはできないし、またそんなことをする意味もないことを感覚的に理解しています。だから何も言わない、何もしない。ただ、部屋に引きこもって便利な生活を享受できればそれで良い、となりがちなのです。

 

そんな中、ネット上で一生懸命若者の立場を熱心に代弁している同世代のことを、多くの若者は遠くに存在する、旧世代的な過去の遺物を見る眼で呆然と眺めているわけです。もちろん、イケダハヤトさんのような人に刺激を受けブログを始める人も中にはいるでしょうが、文章を書く能力のある大部分のエリート学生達は、そんなことは心底どうでもいいと思っているか、あるいは「そんなことをして何の意味があるの?」と純粋に疑問を抱いていることでしょう。

 

なぜなら、彼らは旧世代や外国人に対して、世界最高レベルに合理化された日常生活の中で我々が身につけた「常識」 は通用しないことを予めわかっているからです。むしろそういった旧世代と適当に折り合いをつけて、波風立てずにこれまで通り静かに、合理的に生きていければ良いじゃないかと考えているわけで、しかも高学歴の人の場合はまさにそれを目的にニヒリスティックに勉強してきたわけですから、公務員や銀行員、あるいはとにかく「楽で安定した職場」を求めるのは当然であり、それがうまくいかなければ「バイトでもフリーターでもいい、最悪ニートになってネット上でお金を稼げばいい」となり、最後まで「旧世代の論理で動く組織に身を置き、彼らと同じように自分の時間や健康を犠牲にしてでも頑張ってみよう」とは絶対に思わないし、逆に旧世代の倫理観に真っ向から反発して何か改革しようという風にも思わない。

 

それが高学歴の一般的マインドセットなのだとしたら、勝手に「若者代表」を自称して、金にもならない文章を書いて(あるいは金になっていたとしても)、旧世代の反感を買うようなことを言うのは無駄である上にバカげているし、そのせいで若者全体に批判が及ぶのであるとすれば実に迷惑だとさえ思っているかもしれないくらいです。こういった状況では、真に20代の真意を代弁するという意味での「20代の論客」など永久に出てこないでしょう。

 

故に旧世代の意図を汲める強かでかつ幸運な若者だけが時折メディアに出てきて世間を多少賑わせ、だんだん調子に乗って偉そうなことをいったり旧世代の期待を裏切るような発言を繰り返すようになると一挙に支持をなくして沈むという「パターン」だけが残り、「若手論客」個人は皆その「パターン」を繰り返す為の駒として消費されていきます。

 

この輪廻的サイクルを打破するにはどうすれば良いか?それこそが問われるべき問いではないでしょうか。私自身の目下の答えは、我々が持っている問題意識を少しでも共有してくれる、あるいは理解してくれる上の世代の一流の人物たちに教えを請い、そこから発展させる形で自分の意見を形成していくことです。つまり、上の世代に媚を売るのでも、自分の「独自性」に閉じこもるのではなく、上の世代からいただけるフィードバックを反映した「自分の意見」を表現するのです。結局のところ、20代の拙い若書きを読んでくれるのは主に良心的な年上世代の方々で、必ずしも同世代のネットユーザーではないのですから、読み手となってくださる方々と会話をするかのように文章を書かなければ、意味がありません。上の世代に媚を売るだけの「売文」は仮に儲かったとしても虚しいだけですが、若者らしい一方通行の意見表明も、その意見を支持する層にしか届きません。しかも、現代の我々の「若者らしい意見」、つまり無気力で一切の旧習に否定的な意見を無条件に支持する層などネットにも現実にもないのです。

 

ということで、今回は実に下らないことを書いてしまいましたが、総括としては、古いものの価値を認めなければ、新しい価値は生まれないというところで締めたいと思いいます。