哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

哲学は役に立たない?

「哲学は役に立たない」という議論(いや、議論でさえなく、たいていの場合はassertionですね)は日本では非常に頻繁に見かけます。

実は西欧(特にイギリス)でも哲学を勉強しているなんて言うと、「で、就職はどうするの?」と聞かれることは多いです。笑

なのでまあ別に日本人だけが「反哲学的」だなどとは私は思いませんし言いませんが、一般的に哲学は役に立たないとか、哲学科に行くと就職できないとか言われているのは事実だという前提で、これについて少し私の思うところを書いてみたいと思います。

 

まず、私は自分が哲学を学んでいる身でありながら、哲学を学んでも就職に繋がらないというのは当然だと思いますし、別に企業の人事が意地悪なわけでもなんでもないと考えています。ただし、私はここで「哲学を学ぶ」という言葉を、例えばデカルトやカントの思想を丁寧に読み解き理解するといったような作業であったり、あるいは現代(分析)哲学で流行している理論を学ぶといったような、哲学を教える立場になるのであれば必要不可欠な、なんらかの形而上学的ないし歴史的「知識」を身につけるようなことを意味で理解して使っています。一般的に実社会で「役に立たない」と退けられているのはこうした専門的知識のことでしょう。

 

勿論この専門知識を持っていること自体には価値があるし、学者や哲学を教える立場にある人にとっては欠かせないものです。そう言う意味ではこの知識も必要だし役に立ちますが、「教える」という領域を超えて実社会でこうした哲学的知識が役に立つなどということはそうそうないか、あったとしても一般に企業はそんなことを直接求めていないのが通常だと思います。

 

なので、こうした哲学者としての専門知識が実社会で役に立たないという点は私は別に否定しません。ですが、哲学を学んできて、私は最近気づいたことがあるのですが、哲学を学んでいる人は(少なくとも英国では)、そうでない人よりもやはり論理的に思考する癖がしっかりついていて、様々な会話や作業がスムーズに進むのです。

別に哲学でなくとも数学や物理学をやっている人、あるいは経済学をやっている人なんかも常に論理的に考えていて話しやすいですが、学問の中で数学をがっつり使う人たちが論理的に思考できるのは別に不思議ではないですよね。

ところが、哲学をやっている人も実はこれらの数理系を専攻している人と同じくらい論理的に思考するタイプの人が多いのです。実際イギリスでは哲学科において「論理学」は初学年で必修として教えられますし、エッセイなどでも「論理」はかなり重視されています。

 

勿論哲学専攻でも倫理学やポストモダンの批判理論系などを専攻している場合はもっと「文学部」っぽいですが、科学哲学や論理学、あるいは形而上学をやっている人たちは基本的には数学部や物理学部出身の人が多いですし、実際これらの科目は哲学部の人よりは数学部や物理学部と哲学を両方専攻している人がとる場合が多いです。

 

後者のタイプの「哲学」の場合、論理的思考力は強烈に鍛えられます。慣れれば誰かと議論していても相手がどの種類の誤謬を犯したか瞬時に判断できるようになる。この能力は、ある程度までは本来なら知的労働者であるなら誰もが身につけるべき「基礎」であるはずです。かつ、この能力はビジネスマンにとっても必須であるはずですし、企業にとっても従業員のなるべく多くが基本的な論理的思考力がある方が直接利益になるはずです。

 

この意味では、基礎としての論理的思考力は必要不可欠だし、これが哲学の基礎をも構成するという限りでは哲学も役に立つのです。ただし、これは「哲学者」が役に立つというよりも、「なるべく多くの人がある程度哲学がわかる/論理的に思考できる」という状況が社会にとって有益であるという意味で役に立つのです。

 

従って、本当は哲学は「専門化」されるよりも、もっと一般に開かれているべきなんですね。ただし、一般に開かれるといっても、一般人(大衆)にも「わかる」ようにレベルを下げて、論理的に無茶苦茶だけど賢そうなこと、あるいは一般人が誰か知的権威のある人に肯定してほしいと思っている偏見を肯定する(かのように見せかける)ようなことを言って大衆を煙に巻くような商売をするという意味ではなく、そういう人をみて「残念だなあ」と思える哲学的素養(=論理的に思考する習慣)の裾野をなるべく広げるという意味です。

 

つまり、哲学は「文化」として広く社会に受け入られて初めて意味を持ち役に立つものであり、特定の天才的な個人が独りで真理を発見しても、それを共有しその価値を具現化する「知識社会」が現実に存在していなければ宝の持ち腐れになってしまうのです。

 

西洋で哲学者が活躍できるのは、西欧にしか天才的な哲学者が出てこないからではなくて、哲学者の言葉を実際にある程度までは理解し、これを現実に反映させる「知識人集団」というものが存在していて、そのおかげで哲学者の発言が実際に「社会的影響力」を持ち得るからです。もっとわかりやすくいうと、西欧では「哲学者は社会を変えられる」のですが、それは彼らの天才のおかげではなくて、彼らの論理的に正しい優れた議論を評価する「大衆」あるいは少なくとも「知識人集団」というものが存在しているおかげなのです。

これに対して、日本という国は時々現れる鋭く論理的な人という「宝」を散々無駄にしてきているというのは、私は否定すべからざる事実だと思います。

かつ、それは日本人が即物的で実利的なことのしか興味がない(ヨーロッパ人や特にアメリカ人の方がもっとそうです)からではなく、むしろ日本人が実利以上に伝統的な道徳的権威を重視し、これに完全に服従することを良しと考えているからだと私は思っています。

恐らく、「アゴラ」に集まる「自由(市場)主義」的な論客の方々も、ビジネス重視の観点からこの点を苦々しく思っていて、日本人がもっと道徳的権威よりも実利を重視し、「合理的」に物事を考えるようにならないものかなという思いで日常に潜在する様々な「道徳主義」的言説(たいていの場合は左派的道徳が対象になりますが、池田信夫さんに限っては時折右派の道徳主義もはっきり否定するので、その点実に徹底していると思います)を逐一批判し国民を啓蒙しようとなさっておられるのではないかなと、私は6ヶ月間書き手として参画しつつ考えておりました。

確かに実利重視という意味での「合理主義」と、論理的思考は重なる部分が多いです。(だから論理的思考のできる人はビジネスの役に立つわけです。)とはいえ、アメリカ流の実利主義的「合理主義」は、必ずしも「論理」そのものの重視と常に同じ方向を向いているわけではありません。例えばフランス人はアメリカ人よりも一般的にもっと論理的ですが、フランス人は必ずしも実利主義的ではありません。もっといえば、数学者や論理学者が必ずしも大富豪ではないし、逆に大富豪が論理的思考において優れているわけでもありません。(これがヨーロッパ人相手との会話であれば、ここでトランプ氏の名が必ず出ます。笑)

しかしこれは論理的思考の弱点なのではなく、論理的思考を徹底するという意味での「合理主義/rationalism」というのは、単なる実利主義的合理性よりももっと公益性があるということなのです。

私的利益を追求するのであれば、時には嘘をついたり、論理的に滅茶苦茶なことを言ったり、人を騙したりする方が「得」な場合もあるかもしれません。勿論人格者として振る舞うことがビジネスにおける成功にも繋がるという幸運なケースも多数あるでしょうが、いつもそう理想通りにいかないこともあるというのもまた多くの人が認めるところではないでしょうか。

しかし、論理的思考はこういう時に「非論理的」なことを許容しません。それは正義の為ではなく単に論理的に間違っていることを間違っていると言わなければすまないのが論理的「理性」の本質でありかつ限界だからです。明らかに筋の通らない嘘がまかり通っていても、私的利益の為を思って黙っていることは「実利的」な人にはできるでしょう。しかし「論理的」な人にはこれができない。論理的に間違っていることは単純に「論理的に間違っている」からです。こう言う瞬間には、「論理」は意図せずして道徳と一致することがあるかもしれませんが、しかし論理的思考が常に道徳的に正しいというわけでも別にありません。

しかし、それは裏をかえせば「論理」は誰か特定のタイプの人のためにあるのでもなく、万人に開かれた、万人のものであるということです。論理に基づく意思決定や行動は、その意味で常に「公益性」を帯びています。

従ってもし「公益」へ貢献することが「役に立つ」ことなのだとしたら、哲学は実に「役に立つ」ものなのです。

自分の為でも、親のためでも、会社のためでも、国のためでも、あるいは恋人のためでもなく、ただ抽象的な「理性的存在」のために真実を明かすことが、この真実が現実に真実と受け止められそれをもとに様々な誤解が解消される限りで公益に貢献するのです。そう言う意味では、哲学は本来「公務」であるべきと言ってもいいかもしれません。実際ギリシャでは「哲学」は直接民主制の時代に政治参加そのものが「公務」であった時代に発展してきたものです。ヨーロッパの中でも特にフランスを中心に近代哲学が発展したきたのも、哲学が知識人の合理的思考、また特に革命以降は「民主主義」を支えるという「公務」を果たしてきたからで、今日でもフランス及びドイツでは「哲学」と「公共性」は密接に関連づけられています。(フランスとドイツでは大学は全て税金で賄われるので、大学教員は事実上公務員です。従って大学に所属する「哲学者」も当然公務員です。)

 

翻って、日本ではどうでしょうか。哲学は公共的なものとして受け止められているでしょうか。私は違うと思います。日本では哲学というのは奇人か天才のやることで、一般人にはおよそ関係のない、社会から遊離したものであると考えられているのではないでしょうか。かつ、日本では「役に立つ」という時、主に「私的利益」を得るのに有用であるということが意味されているのではないでしょうか。だとしたら、日本では哲学は二重に否定されているわけです。まず、そもそも公共の役に立つとも思われておらず、次に公共の役に立つこと自体が「無意味」であると思われているからです。

 

とはいえ、私は別に後者の観点を否定するつもりはありません。私的利益は大事です。フランスやドイツのように公共性を最重要視するよりも、英米社会のように私的利益を優先する社会の方が結果としては良いという見方は別にそういう立場として理解できます。しかし、前者は端的に間違っています。哲学は本来公共の役に立つものですし、公共の役に立たない哲学(=論理的でない哲学)など哲学(philosophy)ではありません。そういう非論理的な「思想」も宗教や文学の範疇で育むのは良いと思いますが、私はそういった思想まで役に立つとまでは言いません。あくまで「論理的正しさ」を社会全体で大事にしていくことが、公共の役に立つと言いたいだけです。

 

ということで、哲学(論理的思考)は哲学者本人の為になるわけではないけど、公共の役には立つんだ、というのが私の哲学擁護論ということになります。また、論理的思考がある程度実利的合理性を追求する際にも役に立つという限りで、私企業の役にも立ちます。が、まあ勿論徹底的に実利的に物事を考えられる人と比べれば哲学者は相対的に不利という点は認めます、というくらいでまとめようと思います。笑