哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

スピノザ及びライプニッツの「充足理由律」について

日本ではスピノザってどう読まれているのかなと思って2chねるでスピノザに関するスレッドを見ていたら、スピノザと「充足理由律」の関係がどう捉えられているのかという質問を見つけ、答えようかと思いましたがスレッド自体が古いのでどうせならブログに書いた方がいいなと思い直して書き直すことにしました。

 

ということで、もし他にこの点が気になっている人がいたら参考になれば幸いです。

 

まず、「充足理由律」と日本語(漢語?)で言っても、正直何のことだか全くピンとこないと思います。(これはスピノザに限りませんが、一般的に西洋哲学は日本語訳で読む方が余計に難しいです。ドイツ語やフランス語、ラテン語が辛くとも、英語なら大体の人は読めるはずですので、基本的にせめて英訳で読むことをお勧めします。)

 

これは英語ではThe Principle of Sufficient Reason (以下 PSR) と言い、元はライプニッツがモナドロジー(32節)の中で提唱した概念です。ライプニッツはモナドロジーをフランス語で書いているので、元々はフランス語で "Le priniciple de raison suffisante"と呼ばれていました。

 

従って本来PSRとはライプニッツ哲学を議論する際に頻出するものなのですが、現代の英米(分析)形而上学においても例えばAlexander Pruss (2006) などがPrinciple of Sufficient Reasonという本を出しており、この中でライプニッツのそれよりもっと経験論に譲歩したより穏健なPSRを擁護しているなど、決して過去の遺物として捨て去られているわけではありません。

 

さて、principle de raison suffisanteという言葉を最初に使ったのはライプニッツが初めてであるというのが通説なのは間違いありませんが、その具体的な内容はなんなのかというと、ライプニッツの定義に従えばこうです。説明の為31節から引用します。

 

31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes, celui de la Contradiction, en vertu duquel nous jugeons faux ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictiore au faux. 

 

32. Et celui de la Raison suffisante, en vertu duquel nous considérons qu'aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune énontation véritable, sans qu'il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement, quoique ces raisons le plus souvent ne puissent point nous êtres connues.

(Leibniz, La Monadologie: 31-32)

 

簡単に訳しましょう。

 

31. 我々の理性的思考は二つの大原理に基づいている。一つは矛盾律であり、我々はこれによってこれ(=矛盾)を含むものを「誤謬」と判断し、また誤謬と矛盾するものを「正しい」と判断する。

 

32. もう一つは「充足理由律」であり、我々はこれによってなぜそれが生じ、かつそれが生じないという事態が起こらないのかを説明する十分な理由なくしては、いかなる事象も生じあるいは存在することがないと思考する。その際、この十分な理由が我々に知り得るかどうかは問題にならない。

 

 

頑張ればもっと綺麗に訳せるでしょうが、とりあえず今回はこのくらいにしておきます。ご覧頂ければわかる通り、充足理由律(PSR)というのは要するに「全ての事象には理由がある」という「基本原理」です。

 

先ほどPrussがPSRを擁護していると言いましたが、「擁護」する人がいるということはこの「原理」は前者の矛盾律とは異なり、批判する人が(少なくとも英語圏では)非常に多いということです。Bertrand Russellをはじめ、もう少し新しいところではvan Inwagenなどの英米の経験論者は皆一様にPSRを一蹴しています。

 

その理由の一つには、PSRを受け入れることがそのまま決定論を受け入れることに繋がるからです。もし全ての事象に理由があるなら、全ての事象はそれを引き起こす理由によって必然的に生じさせられているということになります。つまり全ての事象は必然的に起こるのであり、神あるいは人間の「自由意志」ないし「偶然性」が介在する余地は全くないということになります。

 

ところが現代の物理学を知る人は、特に物理的に決定論は成り立たないという立場からPSRを誤謬であると看做す人が多い。尤も、物理学だけがPSRに反対する理由ではありません。西洋思想においてはキリスト教化した以後から現代に至るまで、人間の「自由意志」というものの存在に対する信仰は非常に強く、自由意志を否定することは倫理的あるいは政治的スキャンダルであるという風に見られやすい、というのもPSRに反対する人がスピノザやライプニッツの時代から少なくない理由の一つでしょう。ということで、現代形而上学の中ではPSRは厳しく批判され、擁護する人がほとんどいない原理と一般的には認知されています。

 

ライプニッツは政治的感性が鋭い社交人でしたので、なるべく世間を刺激するようなことを言うのは避けていました。ライプニッツも決定論者ではありますが、彼はこれをスキャンダルにしないように、事象の究極原因を「(人格)神」であるとし、この神に自由意志が存すると主張することで一応正統派として名を通すことに成功したのです。

 

ところで、ライプニッツよりスピノザは年上でかつライプニッツがモナドロジーを書く前にスピノザは亡くなっています。しかし実はスピノザもライプニッツのPSRと同じような原理を「エチカ」の中で表明しているのです。Della Roccaがスピノザ哲学をPSRによって説明できると論じるのも、これが理由です。ただしスピノザの言い回しはライプニッツのそれとは微妙に違います。

 

For each thing there must be assigned a cause, or reason, as much for its existence as for its nonexistence. For example, if a triangle exists, there must be a reason or cause why it exists; but if it does not exist, there must also be a reason or cause which prevents it from existing, or which takes its existence away. [E1P11dem., Curley's (1985) translation]

 

スピノザが強調しているのは、存在だけでなく「不存在」にも、その存在を阻止する理由が必要だという点です。ここからスピノザは「神(あるいは自然、あるいは実体/substance)の存在を阻止するものは何も存在しない」のだから神は当然に存在するという帰結を導きます。というのも、神の存在を阻止できるのは神と同程度の「存在する力」を持つものだけであり、もし神が存在しないとしたらその原因として神の存在を阻止する強力な「存在する力」を持つ何かが代わりに存在しなければならず、かつもしそれの「存在する力」が神の存在を阻止する程度に強力なのであれば、それは最早「実体」(=神)そのものでなければならないからです。

何故なら、スピノザにとっては「神」あるいは「実体」とは「存在することをその本性とするもの(Ad naturam substantiae pertinet existere, E1P7)」だからです。

 

この時点で現代の哲学者にPSRが受けない理由ももう明らかだと思いますが、スピノザはライプニッツと違い世間に遠慮することなくこの原理を貫徹し、決定論を主張するのみならず自由意志を明確に否定します。(E2P48)決定論自体は当時のオランダのプロテスタント主義の風潮の中では他にも擁護者がいましたが、スピノザは人間の自由意志のみならず神の意志をも否定するので、宗教勢力の大反発を招くのです。

 

しかしそういう歴史的なことよりも現代においては物理学との整合性の方がもっと深刻な問題でしょう。Pruss (2006)の著書は、如何にしてPSRを現代物理学と矛盾しない原理として再解釈するかという試みです。

 

ただ、私自身はPSRを経験科学を理由に否定するのはそもそも根本的に間違っていると考えています。というのもPSRはあくまで論理的、あるいは先見的(a priori)な思考の範疇の話であって、我々の経験世界の理解が先見的思考と合致するかどうかは別の問題なのです。これは例えば数学に関して「虚数など存在しない。虚数は決して経験できないから」と言うのと同じです。しかし経験世界に虚数があるかどうかなど、数学の論理の上では関係ありません。ただ虚数を用いれば説明できる数学的原理ないし定理があるというだけなのです。

 

これと同様に、ライプニッツが予め指摘しているように、「充足理由」が我々に知りうるかどうかはPSRが正しいかどうかと関係ないのです。物理学は確かに「充足理由」が我々に経験的に知られ得ない領域があることを示すかもしれませんが、だから充足理由が「ない」とは言い切れないはずです。否、ただ知られないというだけの理由で「ない」と言い切ることは、ちょっと言い過ぎなのではないでしょうか。無論「絶対にあるはず」と言い切るのも言い過ぎかもしれませんが、どうせなら「ない」よりも「ある」という方が論理的に筋が通るのでは、というのが私の提案です。とはいえ、この件は恐らく決して決着がつかないでしょう。最終的にはあくまでどちらを信じたいかという問題になってしまいそうな気がします。

 

(PSRの説明は以上です。以下からは私の個人的な雑感やどうでも良い情報の羅列になりますので飛ばしていただいて構いません。)

 

ただ、PSRを受け入れるとすればスピノザの思想は概ね全て真理となり、現代英米哲学の大部分が単なる妄想ないし誤謬として無に帰することになります。しかもこれは形而上学に留まらず、政治哲学や倫理学にまでも及びます。序でに日本で一般に信じられていることや政治的あるいは倫理的言説の大部分も誤謬ないし虚妄であるということになるでしょう。PSRあるいはスピノザの思想にはそれだけの破壊力があるのです。

 

この際なのでついでに言っておくと、スピノザ思想は全体としてよく言われるような「生の哲学」でも生易しい「人生肯定の哲学」でもありません。強いて言えば「論理的に肯定されるべきことを絶対的かつ徹底的に容赦なく肯定する哲学」と言った方がいいでしょう。

 

確かにスピノザは存在しつづけることを欲するのはあらゆる存在者の本性であるとは言っています。しかしこれは「生きることは素晴らしい」「人生は素晴らしい」「どんなに苦しいことがあっても生きるべきだ、生きていれば良いことがきっとある」といった類の人生訓では全くありません。スピノザの「conatus」論というのは、単に「存在するものが外的要因もなしに自己破壊することは合理性の原則に反する。」というだけのことです。

 

例えば人間が自殺することに関しては、別にスピノザは良いとも悪いとも言っていません。単に人間が外的理由もなく自殺するというのは不合理であって、そんなことは決して起こらないが、しかしもし外的要因(例えば極度の苦痛や悲しみなど)に大きく影響されているような場合、より悪い状況を避ける為に人が自殺するということも無論あり得る(=合理的に説明できる範囲の現象である)と論じています。

 

ということで、もし誰か精神的に憂鬱状態にある自殺希望者がスピノザに「死にたくてたまりません。どうしたら良いでしょう」と相談したとしても、スピノザの答えは「生きることは良いことだ。是非生きなさい。」ではないと私は思います。むしろスピノザならまず「何故ですか。」と訊くでしょう。もし自殺希望者がそこで「理由は特にありません」と答えるなら、スピノザは「それは実に不合理ですね。私にはあなたが理解できませんが、それがあなたを悩ませるほどなら医者に診てもらうことを勧めます。」と答えるかもしれません。逆にその理由が十分に合理的であれば「そうですか。それなら仕方ありませんね。残念です。」と答えるでしょう。

 

勿論これはあくまで私の理解するスピノザ像であり、本当はもう少し違う人かもしれません。ただ、少なくとも私自身の立場は私が理解する限りでのスピノザの立場と同一のものであると宣言しておきます。それはつまり私が自分の思想的立場をスピノザに読み込んでしまっているのかもしれないし、あるいは単純に私の思考とスピノザ思考が期せずして同一形態のものであったということかもしれません。本心を言うと、本当は私はむしろ東洋の哲学者に自分の立場を読み込みたいと思って意識的に探していたのですが見つからず、結局一番合致しているのがスピノザだったんだとわかって多少ガッカリしているほどなので、個人的には前者ではないと思います。まあ、もしスピノザと私の間に何らかの重要な差異があって、かつスピノザ以上に私と近接している思想家を知っているという方がおられたら是非教えて頂けるとありがたいです。そして、私の思考とスピノザの思考の類似性をある程度認められる方で、かつスピノザの言いたいことが「わからない」という方がいらっしゃれば、訊いていただければ可能な範囲で私が代わりに答えます。笑

 

 

References: 

Leibniz, G. (1909). La monadologie. Paris. Tredition Classics.

Spinoza, B., & Curley, E. M. (1985). The collected works of Spinoza. Vol.1. Princeton ; Guildford: Princeton University Press