哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

スピノザ及びライプニッツの「充足理由律」について

(改定版:2018年12月31日)

日本ではスピノザってどう読まれているのかなと思って2chねるでスピノザに関するスレッドを見ていたら、スピノザと「充足理由律」の関係がどう捉えられているのかという質問を見つけ、答えようかと思いましたがスレッド自体が古いのでどうせならブログに書いた方がいいなと思い直して、書き直すことにしました。

 

ということで、もし他にこの点が気になっている人がいたら参考になれば幸いです。

まず、「充足理由律」と日本語(漢語?)で言っても、正直何のことだか全くピンとこないと思います。(これはスピノザに限りませんが、一般的に西洋哲学は日本語訳で読む方が余計に難しいです。ドイツ語やフランス語、ラテン語が辛くとも、英語なら大体の人は読めるはずですので、基本的にせめて英訳で読むことをお勧めします。)

これは英語ではThe Principle of Sufficient Reason (以下 PSR) と言い、元はライプニッツがモナドロジー(32節)の中で提唱した概念です。ライプニッツはモナドロジーをフランス語で書いているので、元々はフランス語で "Le priniciple de raison suffisante"と呼ばれていました。

従って本来PSRとはライプニッツ哲学を議論する際に頻出するものなのですが、現代の英米(分析)形而上学においても例えばAlexander Pruss (2006) などがPrinciple of Sufficient Reasonという本を出しており、この中でライプニッツのそれよりもっと経験論に譲歩したより穏健なPSRを擁護しているなど、決して過去の遺物として捨て去られているわけではありません。

 

さて、principle de raison suffisanteという言葉を最初に使ったのはライプニッツが初めてであるというのが通説なのは間違いありませんが、その具体的な内容はなんなのかというと、ライプニッツの定義に従えばこうです。説明の為31節から引用します。 

31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes, celui de la Contradiction, en vertu duquel nous jugeons faux ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictiore au faux. 

 

32. Et celui de la Raison suffisante, en vertu duquel nous considérons qu'aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune énontation véritable, sans qu'il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement, quoique ces raisons le plus souvent ne puissent point nous êtres connues.

(Leibniz, La Monadologie: 31-32)

簡単に訳しましょう。

31. 我々の理性的思考は二つの大原理に基づいている。一つは矛盾律であり、我々はこれによってこれ(=矛盾)を含むものを「誤謬」と判断し、また誤謬と矛盾するものを「正しい」と判断する。

 

32. もう一つは「充足理由律」であり、我々はこれによってなぜそれが生じ、かつそれが生じないという事態が起こらないのかを説明する十分な理由なくしては、いかなる事象も生じあるいは存在することがないと思考する。その際、この十分な理由が我々に知り得るかどうかは問題にならない。

頑張ればもっと綺麗に訳せるでしょうが、とりあえず今回はこのくらいにしておきます。ご覧頂ければわかる通り、充足理由律(PSR)というのは要するに「全ての事象には理由がある」という「基本原理」です。

先ほどPrussがPSRを擁護していると言いましたが、「擁護」する人がいるということはこの「原理」は前者の矛盾律とは異なり、批判する人が(少なくとも英語圏では)非常に多いということです。Peter van Inwagenなど、英米の経験論者は一般的にPSRを「absurd」と一蹴する傾向があります(c.f. van Inwagen, 1993, 104)。

その理由の一つには、PSRを受け入れることがそのまま決定論を受け入れることに繋がると思われるからです。もし全ての事象に「理由」があるなら、全ての事象はそれを引き起こす理由によって「必然的に」生じさせられているということになります。つまり全ての事象は必然的に起こるのであり、神あるいは人間の「自由意志」ないし「偶然性」が介在する余地は全くないということになります。

ところが現代の物理学を知る人は、特に物理的に決定論は成り立たないという立場からPSRを誤謬であると看做す人が多い。尤も、物理学だけがPSRに反対する理由ではありません。西洋思想においてはキリスト教化した以後から現代に至るまで、人間の「自由意志」というものの存在に対する信仰は非常に強く、自由意志を否定することは倫理的あるいは政治的スキャンダルであるという風に見られやすい、というのもPSRに反対する人がスピノザやライプニッツの時代から少なくない理由の一つでしょう。ということで、現代形而上学の中ではPSRは厳しく批判され、擁護する人がほとんどいない原理と一般的には認知されています。こういった批判を受け、Pruss (2006)はPSRが要求する「理由」は「結果を論理必然的に引き起こすような理由(logically necessitating reason)」ではないと主張し、PSRと自由意志を調和させることでこの問題点を克服しようとするものです(Pruss, 2006, 103-125)。本当はこの点に関してもっと突っ込んだ議論をすべきですが、そんなことをすればこれはもう論文になってしまうのでここでは控えます。

実は、Prussの議論の背景にはやはりLeibnizがあります。ライプニッツも決定論者ではありますが、事象の究極原因を「(人格)神」であるとし、この神に自由意志が存すると主張することでスピノザ的必定論(necessitarianism)および自由意志否定論とは距離を置きます。結果としてライプニッツはPSRを受容しながらも「正統派」として名を通すことに成功したのです。

ところで、ライプニッツよりスピノザは年上でかつライプニッツがモナドロジーを書く前にスピノザは亡くなっています。しかし実はスピノザもライプニッツのPSRと同じような原理を「エチカ」の第一部定理11の証明(E1P11dem.)において表明しているのです。Della Roccaがスピノザ哲学をPSRによって説明できると論じるのも、主にはこれが理由です。(Della Rocca, 2008, 1-4). ただしスピノザの言い回しはライプニッツのそれとは微妙に違います。原文を引用しましょう。

Cujuscunque rei assignari debet causa seu ratio, tam cur existit, quam cur non existit. Ex. gr. si triangulum existit ratio sive causa dari debet, cur existit; si autem non existit, ratio etiam, seu causa deri debet, quae impedit, quominus existat, sive quae ejus existentiam tollat(E1P11dem., Gebahart, II, 52-53)

ポイントはこの最初の一文です:

Cujuscunque rei assignari debet causa seu ratio, tam cur existit, quam cur non existit (E1P11dem., Gebahart, II, 52)

この部分だけ日本語に訳しましょう。

各々の「もの(res)」には、なぜそれが存在するのか、あるいはしないのかということの原因または理由が割り当てられなければならない(E1P11dem. - 翻訳筆者) *1

もしここの「もの(res)」を「存在(するもの)」と理解し、従ってこの文を『あらゆる存在にはその「存在する理由」(いわゆるraison d'êtreとは少し違いますよ)がある』という意味で解釈するとします。更にもしその存在する理由が「説明」できる、ということを意味すると解釈できる、とすると、この "Cujuscunque rei assignari debet causa seu ratio, tam cur existit, quam cur non existit"という部分をPSRに準ずる「原理」として捉えることは可能でしょう。

ただしここでスピノザが強調しているのは、存在だけでなく「不存在」にも、その存在を阻止する「理由」が必要だという点です。ここからスピノザは「神(あるいは自然、あるいは実体/substance)の存在を阻止するものは何も存在しない」のだから神は当然に存在するという帰結を導きます。というのも、神の存在を阻止できるのは神と同程度の「存在する力」を持つものだけであり、もし神が存在しないとしたらその原因として神の存在を阻止する強力な「存在する力」を持つ何かが代わりに存在しなければならず、かつもしそれの「存在する力」が神の存在を阻止する程度に強力なのであれば、それは最早「実体」(=神)そのものでなければならないからです。何故なら、スピノザにとっては「神」あるいは「実体」とは「存在することをその本性とするもの(Ad naturam substantiae pertinet existere, E1P7 [Gebhardt, II, 49])」だからです。 

この時点で現代の分析哲学者にスピノザの哲学が受けない理由ももう明らかだと思います。というのも、先述のPSRに対する批判がスピノザにはそのまま当てはまるからです。まず第一に、スピノザはライプニッツと違い世間に遠慮しませんでした。彼はPSRの論理的帰結である決定論を主張するのみならず自由意志を明確に否定します(E2P48を参照のこと)。決定論自体は当時のオランダのプロテスタント主義の風潮の中では他にも擁護者がいましたが、スピノザは人間の自由意志のみならず神の意志をも否定するので、宗教勢力の大反発を招くのです。現代人でも自分に自由意志がある信じている人は多いでしょう。これがPSRが唾棄される理由の一つです。第二に、現代においては、これに加えて量子力学等の非決定論解釈に基づく批判が頻繁に見られます。これが第二の理由です。

私自身は、第一の点に関してはそもそも倫理的信条を理由に説明的原理を否定するのは無しだと思います。(後述するように、逆はありですが、勿論この立場は批判され得ます。ただしここでは詳しく論じません。)第二の点に関しては、PSRを経験科学を理由に否定するのはそもそも根本的に間違っていると考えています。というのもPSRはあくまで論理的、あるいは先験的(a priori)な思考の範疇の話です。我々の経験世界の理解において先験的思考が導く結論と齟齬があるということは、後者の誤謬を必ずしも意味しない。例えば数学に関して「虚数など存在しない。虚数は決して経験できないから」と言うのは必ずしも正しくない。経験世界に虚数があるかどうかなど、数学の論理の上では関係ない。ただ虚数を用いれば説明できる数学的原理ないし定理があるというだけです。

 同様に、ライプニッツが予め指摘しているように、「充足理由」が我々に知りうるかどうかはPSRが正しいかどうかと関係ないのです。物理学は確かに「充足理由」が我々に経験的に知られ得ない領域があることを示すかもしれませんが、だから充足理由が「ない」とは言い切れないはずです。否、ただ知られないというだけの理由で「ない」と言い切ることは、ちょっと言い過ぎなのではないでしょうか。無論「絶対にあるはず」と言い切るのも言い過ぎかもしれませんが、どうせなら「ない」よりも「ある」という方が論理的に筋が通るのでは、というのが私の提案です。とはいえ、この件は恐らく決して決着がつかないでしょう。最終的にはあくまでどちらを信じたいかという問題になってしまいそうな気がします。(Della Rocca先生は、PSRを受け入れないのは欺瞞ではないかと主張しています。詳しくはDella Rocca (2010)をご参照ください。)

ただ、PSRを受け入れるとすればスピノザの思想は概ね全て真理となり、現代英米哲学の様相形而上学が試みている「可能性」概念や「確率の実在性証明」といったものの大部分が無に帰することになります。この影響は形而上学に留まらず、政治哲学や倫理学にまでも及ぶでしょう。というのも倫理学においても「自由意志」や「非決定性」といった要素に頼っている理論は多いからです。PSRあるいはスピノザの思想にはそれだけの破壊力があるのです。

この際なのでついでに言っておくと、スピノザ思想は私の解釈に基づく限り全体としてよく言われるような「生の哲学」でも生易しい「人生肯定の哲学」でもありません。強いて言えば「論理的に肯定されるべきことを絶対的かつ徹底的に容赦なく肯定する哲学」と言った方がいいでしょう。確かにスピノザは存在しつづけることを欲するのはあらゆる存在者の本性であるとは言っています(E3P6, E3P7)。しかしこれは「生きることは素晴らしい」「人生は素晴らしい」「どんなに苦しいことがあっても生きるべきだ、生きていれば良いことがきっとある」といった類の人生訓では全くありません。スピノザの「conatus」論というのは、単に「存在するものが外的要因もなしに自己破壊することは合理性の原則に反する。」というだけのことです。

 

例えば人間が自殺することに関しては、別にスピノザは良いとも悪いとも言っていません。単に人間が外的理由もなく自殺するというのは不合理であって、そんなことは決して起こらないが、しかしもし外的要因(例えば極度の苦痛や悲しみなど)に大きく影響されているような場合、より悪い状況を避ける為に人が自殺するということも無論あり得る(=合理的に説明できる範囲の現象である)と論じています。

ということで、もし誰か精神的に憂鬱状態にある自殺希望者がスピノザに「死にたくてたまりません。どうしたら良いでしょう」と相談したとしても、スピノザの答えは「生きることは良いことだ。是非生きなさい。」ではないと私は思います。むしろスピノザならまず「何故ですか。」と訊くでしょう。もし自殺希望者がそこで「理由は特にありません」と答えるなら、スピノザは「それは実に不合理ですね。私にはあなたが理解できませんが、それがあなたを悩ませるほどなら医者に診てもらうことを勧めます。」と答えるかもしれません。逆にその理由が十分に合理的であれば「そうですか。それなら仕方ありませんね。残念です。」と答えるでしょう。

 勿論これはあくまで私の理解するスピノザ像であり、本当はもう少し違う人かもしれません。が、もしDella Rocca先生が述べるように、スピノザというのは何よりもまず「説明できること」を重視するタイプの哲学者であったとするなら、スピノザはこれまで大陸哲学の文脈で捉えられてきたような「倫理思想家」というよりも、現代の分析哲学者以上に「数学的」な「論理至上主義」の権化であるということが諒解されると思います。

 

 

References: 

Leibniz, G. (1909). La monadologie. Paris. Tredition Classics.

Della Rocca, M. (2008). Spinoza. Routledge. New York. 

Della Rocca, M. (2010). “PSR”, Philosophers’ Imprint, 10(7).

Pruss, A. (2006). The Principle of Sufficient Reason. Cambridge University Press. New York.

Spinoza, B. & Gebhardt, C. (1900). Spinoza Opera Posthuma. Vol. I-IV.

Spinoza, B., & Curley, E. M. (1985). The collected works of Spinoza. Vol.1. Princeton ; Guildford: Princeton University Press

Van Inwagen, P. (1993). Metaphysics. (Dimensions of philosophy series). Boulder, Colo. ; Oxford: Westview.

*1:参考までに、英語圏でよく使われるCurley(1985)訳では、この部分は以下のように訳されます。

For each thing there must be assigned a cause, or reason, as much for its existence as for its nonexistence. [E1P11dem., Curley's (1985) translation, 417]

これは私の訳とは若干ニュアンスの異なる訳ですが、私の訳の方がより原文の語句通りの直訳に近いですよということだけ指摘しておきます。