哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

「真のリベラル」と擬似リベラルの見分け方

そもそもリベラリズム(自由主義)とは何であるべきか

近年「リベラル」を自称する人が本当は「自由」とは別の価値を「自由」と同程度、あるいはそれ以上に強調しているという点で「リベラル」とはいえないのではないか、という意識を持っているのは私だけではないと思います。現代の英語圏で主流の「リベラリズム」はRawlsの「政治的リベラリズム/political liberalism」だとされていますが、Rawlsの政治的リベラリズムは同時に「自由平等主義/liberal egalitarinism」とも呼ばれており、「自由」よりはむしろ「平等」の方を強調するものでもあるという点は広く認識されています。Rawls支持派(=主流派)の論理に従えば、「真の自由」は自由が平等に配分されることによって実現するので、平等主義と自由主義は矛盾しないということになります。確かに、有名なフランスの標語もLiberté, Egalité, Fraternité(自由、平等、友愛)の三つを並べており、西欧では既に自由と平等を共に実現することにさも何の矛盾もないと捉えることが伝統となっていると言えるかもしれません。

とはいえ、自由と平等は全く異なる価値であって、自由なき平等も有りうるし平等なき自由があり得るのもまた事実です。他にも政治によって実現すべきとされる価値はたくさんあります。例えば道徳(morality)、正義(justice)、治安維持(security)あるいは公共秩序(public order)などです。このように複数ある政治的価値の中で、特に「自由」を最優先すべきという立場こそ真の「自由主義/liberalism」であると仮に規定するとしましょう。

この定義に従えば、例えば現代のRawls支持派「リベラル」は、その実現しようとする価値が自由ではなく「公平としての正義」(Justice as fairness)であるという点で、リベラルというよりは平等主義者(egalitarian)に近い立場であるということになります。今日一般に「conservative」に対立する大勢力のひとつとして、つまり米国民主党や英国労働党、あるいはフランス社会党やマクロン新党、また日本の民進党などが代表する立場として理解されている「所謂リベラル」というのは、多少強調する点に違いはあっても概ね「平等」あるいは「正義=公平性」を最優先しようとする姿勢において共通するのではないでしょうか。上に挙げた具体的な政党がRawlsに忠実であるかどうかは議論の余地が大いにありますが、非常に大雑把に分ければ今日一般の言説空間で「liberal」と呼ばれる立場は、実際には平等主義であるというのが私の見方です。(間違っていれば訂正していただければ幸いです。)

他方で、一般には「保守派」とされるアメリカ共和党やフランス共和党、英国保守党や日本の自由民主党などに属する政治家やその支持者の中には、Rawls支持者に対する対抗心から「自分たちこそが真に自由を愛する本物のリベラルだ」という声を表明する人も少なくありません。しかし伝統的には「リベラル派」と「保守派」は常に対立しており、特に「保守派」に属する人々が自分の立場を「真のリベラル」という形で正当化しようとするというのは比較的新しい傾向であるように思われます。では何故現代の「保守派」の一部が自分たちこそ「真のリベラル」だと主張するようになったのか。これを説明するには、簡単に「自由」をめぐる哲学史を振り返る必要があります。蛇足かもしれませんが、一応以下に説明します。

「自由観」の哲学史

一般に保守主義の父とされるかのエドマンド・バーク(Edmund Burke)も、政治家としては実はWhig(Toryに対立する派閥)であり、Tory(現代の保守党に連なる派閥)ではありません。つまりバークは当時の英国の文脈ではむしろ「リベラル」な方だったわけで、今日でもバークの思想は「リベラルな保守主義」(liberal conservatism)として、より古い伝統的な保守主義とは区別されています。従って当時の英国のゴリゴリの保守派からすればバークでさえ「リベラル」なのであって、「自由」に特別の価値があるという議論を認めること自体が異端だったわけです。恐らく、明治時代の日本の支配層にもこうした「自由主義」に対する警戒心は共有されていたはずですが、バークの時代以前には英国の支配層も同種の懐疑を抱いていたものと思われます。それは例えば自由主義者(free thinker)として有名なJohn Tolandなどがどのように評価されていたかを考えれば一目瞭然でしょう。このように、17-18世紀頃における「自由」とは宗教及び道徳を挑戦する者が奉ずる価値だったのであり、無神論と共に既存権力から嫌悪乃至危険視されるものでした。

しかし18世紀後半になるとカント(カントとバークは同時代人です)が「自由」を「理性」と同一視し、かつ「理性」を「道徳」と結びつけることで「義務論的自由主義」(deontological liberalism)を生み出し、「自由主義」=「不道徳主義」という図式を大きく変革します。これによってカント派の間では今度は道徳主義派の方が「自由」の重要性を強調するようになり、「反自由主義」の方に「不道徳」の烙印が押されるようになるわけですが、このカント的な「自由」観が知識人の間で広く受け入れられたわけでは必ずしもありません。例えばニーチェはカントを「馬鹿者(idiot)」と侮蔑し、「自由」とは本質的に「理性」及び「道徳」と対立するものであって、特に「(奴隷)道徳」と「(貴族的価値である)自由」が両立することなどあってはならないし有り得ないと主張します。19世紀頃の知識世界における自由観はこのようにカント派とニーチェを始めとするロマン派(あるいは古典派)に分断されますが、しかしいずれの場合も「自由」は肯定的価値と捉えられ、従来のように否定すべきものとは捉えられていません。また、カントもニーチェも既に神学や宗教の権威をほとんど認めていません。このように知識人達の間では徐々に「自由」をそれぞれの仕方で何か価値のあるものと捉えるという習慣が浸透していくのですが、他方で19世紀後半から20世紀初頭頃になってもまだ国民の大多数は宗教的であり、「自由」また「自由」の毒に侵された「知識人」そのものを悪しきものと見る伝統的な議論は一定の力を持っていました。例えばドストエフスキーなどはこのような感覚を強く持っていた一人でしょう。

ところが、ヒトラーの第三帝国の出現がこの伝統を完膚なきまでに崩します。というのも、「自由」や「知識人」を敵視する伝統を最も極端な形で具現化したヒトラー及びナチス・ドイツが「悪の権化」として表象されることになったからです。従って西欧(及び日本)における「自由」観は、1940年代以前と以後では根本的に別物です。ほぼ180度転換したと言ってもいいでしょう。これまでは自由や知識人に懐疑的だった大衆や道徳家が、1950年代以降はこれまで批判され、投獄され、あるいは悪魔とさえ呼ばれてきた自由思想家達を逆にこの上ない人格者として、天使にも勝る正義の代弁者として再評価するようになります。例えばスピノザなどはこうした極端な評価の転換に晒された思想家の一人です。あるいはミル(John Stuart Mill)もそうかもしれません。

しかしながら、自由主義の再評価は自由主義が自由主義として繁栄する端緒とはならず、むしろ自由主義を新たな道徳的ドグマとして再構築するという流れをつくります。これに貢献したのが例えばサルトル(Sartre)などの20世紀以降の「実存主義者」らであり、またマルクス主義をベースにした「critical theorists」と呼ばれる、フランクフルト学派の特にマルクーゼの思想に代表される現代左翼思想家達です。今話題の「PC(日本では何故か「ポリコレ」と呼ばれていますが、ここではPCを使います)」も、基本的にはこのcritical theoryに由来しますが、この新しい「自由主義という道徳的ドグマ」の中心概念は、アリストテレス的な「本質主義」の否定と「自由意志」の絶対化です。つまり、人間は「自由意志」によって如何様にも変化するし、我々は「未来を変える」力を常に持っている。従って未来をより良き方向へと変えることができるかどうかは、現代を生きる我々の責任であり、未来を改善しようとしないことは道徳的怠慢であり、自由への叛逆であるとされます。この部分はカント的な倫理学と親和的という点で、伝統的な道義主義に連なるものです。ところが「自由主義」は同時に、他人を何か特定の枠にはめ、決して変化しない本質を持っているかのように表象することは単に哲学的誤謬であるにとどまらず、道徳的に許されない「悪い信念」(mauvaise foi)であると規定します。そしてこれが人種主義(racism)や性差別(sexism)への反対というドグマの根拠の一つです。この部分こそが「現代思想」を「近代思想」と区別する最も顕著な特徴だと私は思います。そして、この特殊な道徳観を奉ずる人こそが50年代から今日まで「戦後リベラル」と呼ばれてきたわけです。つまり、「戦後リベラル」の奉ずる「自由」とは「自由意志」の「自由」であり、つまり形而上学的(=存在論的/認識論的)「無規定性」のことなのです。これは従来の権利概念としての「権力からの自由」や、スピノザの決定論的世界観における「外在的圧力からの自由」とは全く異なる種類の「自由」です。しかもこの「自由」の行使はある道徳的基準(徹底した反ナチズム)に従わなければならないので、国家権力は反ナチズムを法制化する絶対的権利を与えられ、かつそれが「自由」と全く矛盾しないものと考えられます。もっと単純化して言えば、「ナチズム、人種主義、性差別及びアリストテレス的本質主義からの自由」こそが現代西欧における「自由」の内実なのです。ナチスこそが不自由の象徴だと言えばもっとわかりやすいでしょう。自由と不自由の線引きがナチスを軸に引かれているのだとしたら、マルクス主義者や共産主義者ではなく「トランプ」こそが「自由への脅威」とされ、「トランプ」に全力で反対することが「リベラル」だとされていることにも納得がいきます。

とはいえ、この線引きは政治的に意義のあるものであったとしても哲学的には筋が通りません。現代の反ナチリベラルを「政治的リベラル」と呼ぶとすれば、政治的リベラルが優先している価値というのは「ナチスの不在」という否定的なものであり、何かを肯定するものではないのです。「自由」といっても、彼らは「自由」を何らかの道徳的理由で制限することに何の躊躇も感じないのですから、複数の対立する価値群の中から敢えて自由を優先しているとはいえません。日本では「ナチス」の部分が「軍国主義」に変わりますが、同じことです。従って政治的リベラルの思想は厳密に言えば「リベラリズム」ではなく反ファシズム(anti-fascism)であると言えるでしょう。他方で、今日の保守派は経済分野における資本主義を背景とする産業自由主義を受け入れている場合が多いわけです。これはあくまで企業が政府の介入から自由な状態で活動することを肯定する思想なので、必ずしも法的あるいは倫理的な次元における個人の自由を重視する自由主義とは重なりませんが、一応企業という「法人」の自由への規制に反対するという意味では自由主義です。これが経済的保守派の言う「真の自由主義」、あるいは「リバタリアニズム/libertarianism」です。また、以前なら一部にカント倫理学を基にした自由概念を奉ずる「保守的自由主義者」もいたでしょう。実はアメリカのRawlsはこのカント主義の系譜と反ファシズムの政治的リベラリズムを上手く組み合わせています。知識人の間でRawlsがやたらと持ち上げられるのは伝統的なカント主義者と戦後のサルトル的な実存主義者が合流できる地平を開いたが故に、哲学界における賛同者が殺到したという事情があるわけです。というわけでカント派はRawlsによって見事にリベラル陣営に引き込まれたので、現在の保守派の「自由主義」はリバタリアンが中心となっています。

 真のリベラルの見分け方

以上を踏まえた上で、世に数多く存在する自称「リベラル」が本当に「リベラル」(自由こそが最優先されるべき価値であるという思想を持つ人)なのか、それとも単に歴史のトラウマを引きずって「反ファシズム」の流れに従っているだけなのかをテストする簡単な方法がいくつかあります。最も単純明快な方法の一つは、急に下衆な話題を持ち込んで恐縮ですが、例えば「ポルノ規制」の是非を問うことです。自由の価値を最優先とする古典リベラリズムに忠実なリベラリストなら、(特に合意している成人の)ポルノ規制には反対するはずです。一見ポルノなど政治的に価値のないどうでも良いことだと思われるかもしれませんが、しかしポルノ規制の議論というのはリベラル派と保守派が共闘する数少ない議題のひとつだという点で興味深い議題のひとつです。実際、戦後「反リベラル派」につけられたレッテルを嫌悪するあまり仕方なくリベラルを自称しているだけの「regressive liberal」をあぶり出す手段としては、ポルノ規制論は有効です。公的にはリベラルを自称しつつも実際には古典リベラリズムが克服しようとした倫理規範に基づく自由規制に全力で肩入れする「リベラル」は、ポルノ規制に関しては最も頑迷な保守派とも簡単に合意できるという事実は、彼らを「regressive/退行的」(=進歩的の対義語)であると規定する十分な理由になり得るでしょう。ポルノ規制以外にも、例えば選挙権や被選挙権、あるいは飲酒やタバコの最低年齢の引き下げや、ドラッグや売春、あるいは賭博の合法化、また同性愛の合法化など、一般に直接的な物理的暴力や損害を受ける被害者が存在しないにも関わらず、「公序良俗」規定違反で憲法上正当に違法化されて良いとされる所謂「被害者なき犯罪」(victimless crime)に対する国家的規制を批判する動きに対して反対するような「リベラル」は、「自由」とは異なる価値を自由の上位に置き、かつこの為に自由を規制することを正当化する非自由主義者であると規定されるべきです。他方、ヘイトスピーチ規制や人種差別表現規制、女性差別規制や性的マイノリティー差別規制等を肯定するかどうかを聞くというのも有効でしょう。

共産主義や社会主義が廃れ、英語圏のliberal vs. conservativeの二分法が世界的に広がっている現代においては、従来の「右翼」と「左翼」あるいは「共産主義」と「資本主義」の二分法よりも、legal moralism (anti-liberal) vs. anti-moralism (liberal) という二分法の方が便利ではないかと私は思います。少なくとも、こうすれば「リベラル派は嫌いだけど表現規制には反対」という人の立場を「正統リベラル」と位置付けることができるし、また「リベラルだけど(だから?)人種差別には反対」という人を実は全然リベラルとは異なる、また旧来の保守的道徳家(儒者のイメージ)とも異なる「新・道徳主義者」と位置付けることが可能になり、語義との矛盾を解消することができます。また、こう見ることで西欧社会と日本における「体感自由度」に関する懸隔が、国際機関の表面的評価に反して実はそれほどないという、日本をよく知る西欧人や西欧をよく知る日本人なら肌で実感している事態を上手く説明できるでしょう。というのも、日本は西欧に比べて「公序良俗」規定による被害者なき犯罪の取り締まりが際立って厳しいとは言えないからです。賭博に関しては西欧の方が自由であるのは間違いありませんが、性犯罪や人種犯罪に関しては西欧の厳しさは日本とは比べものになりません。例えば、西欧では児ポ単純所持だけで重罪、felonyであり、しかも単に自分の写真をとっただけの児童本人でさえ厳しく罰せられる可能性があります。これは冗談ではなく、アメリカでは実際に自分の写真をとったという理由で逮捕されている児童は既に多数おり、子供を守るどころかむしろ恐怖に陥れているという批判さえ生じています。また、窃盗や傷害などの通常の犯罪でも、被害者がマイノリティーでかつ犯行が差別主義的動機(人種ないし性)に基づくものと認められる場合には、それが例え軽微な被害であっても重罪/felonyになる可能性があります。他方、性犯罪の取り締まりに関しては加害者が人種的マイノリティーである場合も多く、警察側の偏見を指摘する声が常に出てくるなど、現代西欧社会の闇の深さを雄弁に物語る状況が何の改善もされないまま既に十年以上も放置されているのが現状です。これに比較すれば、現代日本の司法は西欧ほどには不合理でも過剰反応状態にあるとも言えないでしょう。政治思想における「自由主義」が国家の規制からの自由によって規定される以上は、刑法規定とその運用状況も重要な「自由」の一つの指標です。そう考えるとき、西欧や特にアメリカは決して「自由の国」ではないし、また日本が「不自由」であるわけでもありません。合法的な社会活動の範囲における心理的な「自由感」 と、法的に国民一般が自由かどうかというのは別の話です。前者の意味では西欧の方が自由であったとしても、後者の意味では日本の方が自由というのは十分に有り得ます。というのも、日本では法によって公式に命せずとも、単に有力者が非公式に命じれば国民の多くはそれに従うからです。つまり罰則規定の無い単なる「きまり」でも、多くの国民は敢えてそれに逆らおうとはしないのです。これは国民が旧習に縛られた「不自由」な状態だから改善すべきだと近代主義者達は主張してきましたが、最近では日本人も旧習から解放され、かつそれに伴い今度は西欧と同じように刑法による厳罰化を求める声が強まっているようにも思われます。とすれば、結局は西欧にも日本にも真の「自由主義者」は希少な存在だということです。あるいは人間は自分や他人が共に自由であることよりも他人の倫理違反を罰することの方が好きだということかもしれません。そんな野蛮な加罰感情を捨て、人間はもっと自由に生きるべきだと唱えた最初の人が西欧道徳の基礎となるキリスト教の始祖とされるイエスであるというのは倫理思想史上最大の皮肉です。

自由主義は不道徳を勧める邪教でしょうか、それとも何かと理由をつけては国家権力を笠に着て他人を罰しようとする人間の傲慢を批判する崇高な教えでしょうか。どちらにせよ、自由主義の根源には公式の「キリスト教」とは区別される、ゴスペルに書かれた「歴史上のイエス」の倫理思想の断片があるように私には思われます。その点を無視し、パリサイ派的な道徳主義的ポピュリズムに順応するような人をリベラルと呼ぶのはやっぱり違うだろう、というのが私の勝手な見解です。