哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

東西の「名門大学」の違い、及び知的権威について

古典文献(哲学や神学をも含む)を読み解くことは、学問の祖型であろうと思われます。我が国においては、古くは儒学書を中心とする漢籍の研究や仏教経典に始まり、近代化以降はこれに加えて西欧の古典文献も学ばれるようになりました。現在では更に西欧の植民地主義時代からの遺産であるインド学やイスラーム学の研究も日本に根付き始めており、特にインド学においては日本の研究(といっても主には中村元先生及び前田専学先生の研究ですが)は英語圏でもよく参照されています。しかしいずれの場合でも、それぞれの文化圏で権威ある古典文献と認知されているテクスト群の解釈はそれ自体がある種の権威的な営為であり、従ってこれに関わる「専門家」という既存の権威によって厳しい精査を受けることになります。例えば、仏教経典の解釈には仏教界の知的権威の精査が伴う場合もあるでしょうし、あるいは西欧の仏教学界の権威による精査が伴う場合もあるでしょう。

仏教経典のように人によってはこれを宗教的「信仰」の対象と捉える場合もあるような「聖典」に関しては特に厳しい精査が伴いがちですが、哲学文献などに関してもこの点に関しては似たようなものです。アリストテレス研究者達の共通見解と矛盾するような独断的アリストテレス解釈はあまり褒められません。勿論それが原文テクストに十分に忠実な無理のない解釈であるということをテクストに基づき論証できればそれほど問題はないのですが、そもそも研究者の共通見解は通常そのような手続きで生まれてくるものなので、テクストに忠実な解釈が主流解釈とズレるというのはあり得なくもないにせよ稀です。勿論研究者の間でも意見の別れるような案件、例えばカントの「物自体」の概念をどう捉えるかというような問題に関しては学界にも様々な立場があるので、その内のどれをとるかは個人の感性の問題ですし、こういう共通見解が確立していない問題についてはこれまでにない斬新な独自見解を出しても良いでしょう。しかし、例えばデカルトは「本質二元論者(substance dualist)」ではなくて「本質一元論者(substance monist)」であるというような見解は、よほど綿密な論証をテクストに基づいて行わなければ単なる誤解であると一蹴されてしまいます。

また古典文献の解釈者に課される基本的な制約として、テクストに基づかない推論はあくまで仮説扱いにしかなりません。あるいは厳しい先生なら厳禁するかもしれません。なので、例えばアリストテレスが原子爆弾についてどう思っただろうかというような話はできません。無論アリストテレスの倫理学と原子爆弾投下を正当化する功利主義倫理学者の議論が矛盾するかどうかを論ずることはできますが、「アリストテレスの原爆論」なるものは存在できないのです。ということで、あくまでテクストに書かれていることが何かを解明することが古典哲学の研究であるということになります。かつ、実際には「現代哲学」の議論も多くの場合古典哲学における議論からの延長であるか、あるいは古典哲学の成果を参照しつつ発展してきたもので、また「現代哲学」そのものが既に「新しい古典」(例えばKripkeのNaming and NecessityやDavid LewisのOn the Plurality of Worlds、QuineのTwo Dogmas of EmpiricismやLakatosのThe Methodology of Scientific Research Programmesなどは最早「古典」化しています)となり常に参照すべき必読書扱いされてもいるので、その意味でも「学問的」な「哲学」はどうしても文献解釈学的になりがちです。宗教聖典の解釈学に関してはさらにこの傾向が著しいのは想像にかたくありません。このように権威的文献(Canonical texts)に一定以上の敬意を払いこれを丁寧に解釈していくという文献解釈学的伝統が生む知識の体系を仮に「正典知識」(Canonical knowledge)と名付けましょう。日本では、所謂「文系」の学問においては主にこの聖典知識の伝承が最も重視される傾向にあります。西欧でも「保守的」な学風の大陸ヨーロッパの大学は勿論、英語圏でも英国のオックスフォード大などは多少この傾向が今でもあるとされています。

 

他方、アメリカの名門大学を中心とする、所謂英語圏の「エリート」が共有する知識には、こうしたユーラジア的な正典知識とは異なる知的体系もあります。

まず、理科系(=科学系)の知識です。仮にこれを「科学的知識」(Scientific knowledge)と呼びましょう。科学的知識は日本でも当然ながら重視されていますが、特に西欧の科学者達は科学者としてのプライドを持っている人が多く、かつそれが「西欧知識人」としてのプライドにも繋がっている面があります。経験科学の世界においては知的権威の基本的泉源となるのは何よりもまず「実証」であり、次に理論的整合性です。分野によっては理論が先行することもあれば実証が先行することもありますが、いずれにせよ経験科学においては「権威的見解」を「実証」によって覆すことはむしろ奨励されます。テクスト以外の「証拠」がない文献解釈の世界よりも、経験科学の世界はある意味で「開かれている」と言える部分が確かにあると言える根拠の一つはこれです。

他方で、経験科学を何より重視する傾向が人文科学にも浸透することで発展してきた「特殊英米的」とも言える「新しい人文科学」とでも言うべきものがあります。日本や英国ではまだそれほど積極的に導入されているわけではありませんが、「ジェンダー論」や「女性(の社会進出及び権利に関する)科学(Women's studies)」、「アフリカ系アメリカ人論(African American studies)」や「人種差別論(Ethnicity and racism studies)」などいった「学際的研究(interdisciplnary studies)」がリベラル系(つまりほぼ全て)の米国名門大学を中心に活性化しています。これは冗談でも何でもなく、アメリカには本当に学部時代から博士号まで一貫して「女性科学」を専門として研究してきたという「研究者(scholar)」がもう何人も存在しているのです。これは一見通常の伝統的な解釈学を中心とする人文科学と似ているようですが、決定的に違うのはこれらの「新しい人文科学」においては基本的に「正典(Canon)」となるテクストがそれほど存在していないか、あるいは常に新しい世代の挑戦を受けて比較的早い速度で更新され続けていくという点です。つまり「伝統的権威」云々というのは、この「新しい人文科学」においては必ずしも肯定的なものではありません。むしろ「伝統」は常に「克服」すべき壁として認識され、前の世代よりもさらに「前へ進もう」という意気込みがあるという点で、経験科学のような「伝統に対する批判的姿勢」が強固に見られます。かつ、この「新しい人文科学」は同じ英語圏の英国においてさえ選択科目の中にジェンダー論やフェミニズムの議論を含むという程度の扱いにとどまっており、例えば「Women's studies」そのものを「医学部」や「哲学部」などのひとつの独立した「専攻学部」(faculty)として認め、オックスブリッジなどの名門大学内に新たに創設するには至っていません。(*但し大学院の専攻としてはオックスブリッジにも存在しています。)従ってこれは主にアメリカ発の新しい試みですので、一応旧来の人文科学とは区別すべきだと思います。ここまでは便宜上「新しい人文科学」と表現してきましたが、これを仮に「進歩主義的知識」とでも呼びましょう。

一見アメリカ以外の国では傍流的扱いを受けているかのごとく見えるこの「進歩主義的知識」は、しかし実はアメリカの外でも大きな影響力を及ぼしています。例えば私がアゴラで何度か話題にしてきた「政治的正しさ」などは、まさにこの「進歩主義的知識」の専門家達が中心となって広げてきたものです。「新しい人文科学」の成果は、大学入試における推薦条件、奨学金選考の基準や就職の際の採用基準、また大手メディアの政治ジャーナリズムや政治家の言動などに対する批判、あるいはより進歩的な政党への投票呼びかけや進歩政党による「〇〇差別に対する意識を高める為の公的政府機関」の創設など、現実政治にも少なからぬ影響を与えています。かつ、その影響はアメリカ政府や国連勧告、あるいは語学力を買われた留学帰りの日本人などを通して日本政府にもある程度影響を与えています。

例えば、日本人にとっては英語圏の大学への留学はどこへ行く場合でも通常は高額です。が、何らかの形で「学業・人物ともに優れた人材」と認められれば給付奨学金を得てほぼ無料で留学できる可能性もゼロではありません。というより、実際に留学する人の中では奨学金を一切貰わない方が少数派でしょう。というのも男子学生の場合は留学生は圧倒的に理科系(あるいは少なくともビジネスなどの商学系)が多く、また大学院からの留学が多いのに対し、女子学生の場合は年齢や学業段階に関わらず「学業・人物ともに優れ」ていて、また専攻内容もその「優れた人格」に関連するものである場合(e.g. 政治学、国際関係論、環境学、生物学、心理学など)が多いからです。当然ボランティア活動などの経験や部活動における部長などのリーダー経験を積んでいる場合も多いでしょう。このような西欧型の「エリート」として十分に通用する日本人学生も実はかなり沢山いますし、彼らは人知れず様々な活動に積極的に取り組みながら結果的には実に賢く社会的評価の最も高い「学歴」をほとんどお金をかけずに獲得していっているというわけです。私自身はそういう賢さが全く無い、悪い意味で「正直」な人なのですが、過去の自分への反省を込めて老婆心で敢えて言いますと、もしこのブログの読者に17歳未満で文系留学希望の学生さんがおられましたら、まずは英語云々よりもボランティア活動等を積極的に行なっていくことをお勧め致します。実際英語力は最悪ゼロでも問題ありません。(つまり、ちょっと意地悪な言い方をすれば奨学金を貰って留学に来ている人といえども英語力自体は必ずしも人並みはずれて高いわけではありません。また帰国子女やバイリンガルが常に優遇されるわけでもありません。)むしろ奉仕精神や社会正義への理念の方が何倍も評価されますし、英語はそういった慈善活動を国際的に行なって行く中で自然に身につく程度で十分です。例えば早慶程度には一般受験で普通に合格できる程度に学業成績優秀な学生なら、「純ジャパ」であったとしても大学に入ってから本格的に英語を勉強しはじめても全然間に合うと私は思います。(保証はできませんが。)ポイントは、少なくとも英語の勉強に時間をかけすぎてボランティア経験がゼロの「語学マスター」よりは英語の全然できない慈善活動家学生の方が圧倒的に無料で留学できるチャンスがあるということです。この辺りは「西欧エリート」界隈の雰囲気に実際に触れてみないとピンと来ないと思いますし、実際私も学生時代にはイマイチ納得できていませんでしたが、ともかくこのような形で「進歩主義的知識」の獲得は人生を有利に運ぶのに極めて重要なものとなっています。その意味でも、また現実に西欧における生活の際に役に立つという意味でも、これは「実践的人文知」とも言えるでしょう。

さて、これで一応一般に「知識」と認められているものの中には(1)伝統的な「正典知識」、(2)経験科学の成果の集大成である「科学知識」、そして(3)現代(西欧)社会で生活する上では避けては通れない「進歩主義的知識」という、大別して三つの体系があるということを簡単に紹介したことになります。

ということで、非常に前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

世間で「知識人」として活躍する、あるいは何らかの知的職業に就く為にはこの三つのうちのいずれかを大なり小なり身につける必要に迫られることでしょうが、日本で重視される「知性」ないし「知識」というのは、この三つのうちのいずれでしょうか。また西洋ではどうでしょうか。

もうある程度予想はつくと思いますが、日本では一般的には圧倒的に(1)が重要視されています。東京大学をどう見るかというのは難しい点ですが、少なくとも現行の一般入試制度を支持する多くの東京大学関係者はやはり(1)の伝統を重視する傾向が強いのではないかと思われます。尤も、文系で(1)が重視されるのはフランスやドイツでも同様で比較的当たり前の現象ですが、日本の特徴は本来(2)に該当するはずの科学的知識さえもがある種の正典知識化している点です。つまり、実証研究によって既存の理論に革新をもたらすことよりも既存理論の精緻化を目指す解釈学的研究(Kuhnの言うnormal scienceに近い研究)の方が尊敬されやすい傾向にあるということです。東大理系の間でも、機械工学系よりは理論物理学や航空宇宙系の方が「上」という見方はやはり根強いのではないでしょうか。

西欧ではこの辺りのバランスをどう取るべきかということを科学者も割と真剣に考えていて、だからこそ「科学哲学」という分野が発達してきているのですが、日本では原爆投下というトラウマや最近の原発事故などの影響もあり、「科学哲学」というのは哲学側からの科学に対する倫理的批判という方向に流れやすい土壌がある気がします。これに対して西欧ではむしろ如何に効率良く科学の進歩を促せるかという方向や、「科学的真実とは何か」という認識論的な方向の問いなどが中心課題とされていますので、こんなところにも伝統的な「倫理哲学」を重視する日本の知識人と、英米の「哲学者」の差が出ているとも言えるかもしれません。

他方で、西欧では逆に(3)の重要性がどんどん増しており、これはトランプ氏が当選し、英国でBrexitが本格的に始動しはじめている今でも全く衰えていません。「ポピュリズムの台頭」などといっても、それを批判しているのが西欧メディア自身である間は、その事実自体が「ポピュリズム」の傍流性を示す証左だと思っておけば間違いないでしょう。かつ以前も論じたようにこの「ポピュリズム」の流れは単にシルバーデモクラシーの完勝を記念するだけで、若年層の動向をほとんど反映していないということも一応再び指摘しておきます。ということで、若年層はどんどん(3)の方向へと進んでおり、進歩的知識を身につけた若手知識人達の中には既に(1)の伝統的解釈学を丸ごと否定するだけに留まらず、(2)の経験科学さえも科学界で「マイノリティ」が白人男性に比べて活躍できていないという理由等で「差別的」だとして拒絶する「原理主義者」(radicalsという意味です)も出て来ています。ここまでいくともう学校の先生や社会人に褒められるレベルを超えていますが、しかし若年層の間では(2)のみを重視し(3)を軽視する「科学主義者」はどこか後ろめたい立場であると認識されています。(1)は(3)を重視する立場から見れば基本的に「論外」です。稀に古典哲学の「feminist reading」ということが行われ、例えばデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ニーチェ、ショーペンハウアー、カント、ミル、ヒュームなどの近代哲学の担い手をフェミニストの視点で読み解くということが行われますが、こういった形の「現代性」を備えていれば解釈学的研究も高く評価されるものの、伝統哲学を伝統的なやり方で論じてもほとんど(3)のタイプの知識人の間では反響を呼ばないのが現実です。

 

ということで、今回は「保守/リベラル」という政治イデオロギーとは若干異なる、知的権威として尊敬される対象や方法の差に基づく知識体系の類別という認識論的な方向からの東西論(及び現代論)を簡単にやってみました。

一応政治イデオロギーと無理矢理対応させるならば、(1)の正典知識は保守主義と最も親和的で、(2)は経済自由主義と協力関係にあると言えるし、(3)は勿論進歩的リベラリズムや西欧マルクス主義に親和的だとは言えるかもしれませんが、必ずしも綺麗に対応するわけではないので悪しからず。

 

*ここからはブログらしいと言えばブログらしい個人的な戯言です。お忙しい方は飛ばしていただいて構いません。さて、私自身はこれらの全てを丸ごと否定したいブルーハーツ的な気分をどこかに持っています。(あの「今まで覚えた全部〜」ってヤツです。)そんなことを言うと「ポピュリスト」だとかあるいは単純に「ダメな奴」だと言われそうなのであまり大きな声で言いたくはありませんが、まあ東大生でもなければ理系エリートでもなく、また西欧人でもない私の性分に適合するのは上の三つのいずれの知識体系でもないのは確かです。強いて言えば(1)が最も受け入れられますし、(2)も有益だとは思いますし、(3)も現実にマイノリティの生活の惨状を目の当たりにすれば進歩派の主張も誇張されているとはいえ荒唐無稽ではないということは嫌でも思い知らされます。それでも、私がやりたいのは伝統的な権威ある文献の「正しい」読み方を教わり、またそれをそのまま伝えることではありません。また理工系の研究によって産業界に貢献する能力が私にないこともわかっているし、社会正義の為に「不正義」と戦うことが私の人生の最優先課題だとも思えません。このように中途半端に反抗的で、肉体労働に適する体を持つわけでもスポーツや音楽などの才能があるわけでもない、つまりあらゆる意味で「凡庸」な私のような人は、一体どうしたら良いのでしょう?

特に文学者に敵意があるわけでは全くありませんが、かつてはこういう無用人の受け入れ先として「文学界」や「サブカルチャー界」というものがあったというようなことを仰る謙遜的な文学者の方もおられます。が、今の「文学界」はむしろある種の芸術的才能を持つエリートの世界であるように私には思えます。知り合いに作家がいるわけでもない私にとってはちょっと近づきがたい雰囲気が出ていますし、少なくともちょっとdilettantな知識があるくらいで通用する世界ではないのは確かでしょう。今のご時世、大衆娯楽の世界というのも、それはそれで厳しい競争があって、「(お笑い)芸人」や水商売の世界でさえ高学歴化やエリート教育が浸透してきているなどと言われているくらいですからね。そう人様に見せびらかすべき才能を持たない身分としては、実に困ったことになったなぁと嘆息せざるを得ません。

荘周や兼好法師、あるいは夏目漱石のような大文豪と肩を並べることが出来なくとも、せめて私にも「俺ガイル」のようなラノベの名作を残せる程度の才能があれば良いのになぁと思いつつ、迫害や不運に見舞われながらも名作を後世に残した過去の異端の文筆家達に不遜な羨望感を抱きつつ古典哲学を斜め読みする日々を送っている私はやはり山月記の主人公を全然笑えないほどに正真正銘のダメ人間かもしれません。笑

いやはや、私はどこで間違ったのでしょうね。否、そもそも私が正しかったことなどあったのかなと、自己懐疑に陥りそうになってきたのでここらで辞めておきます。

ではでは。