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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

スピノザと日本の関係(1)スピノザの形而上学

Pierre Bayle(1647-1706)という、スピノザと同時代を生きたフランスのとある哲学者は、スピノザの哲学を「日本人の哲学だ」と評し批判しました。この時代の「日本人の哲学」がどんなものだと思われていたのか非常に興味がありますが、一般に西欧の研究者の間では「日本=中国」であるという前提で、「日本人の哲学」=「新儒教/朱子学」とし、しかしスピノザの哲学の中に儒教の影響など全く見られないので、このBayleのスピノザ批判は「荒唐無稽」として片付けられています。

しかし、Bayleが「日本の哲学」の特徴として記述しているのは、むしろ「一切の分別を拒絶する一元論」です。具体的には「天国もなければ地獄もない、善もなければ悪もない、知識も無知も同じこと」といった思想です。これは、確かに実に日本的な「禅的」感覚を表現しているようにも見えますし、禅の影響を受けた井筒俊彦の「一元論」という形で近代以降も日本人の中に根強く生きている思想の一つであるという意味で、Bayleはそんなに間違っていないように思われます。

実際、日本人の間ではスピノザの思想を「汎神論」であるとする教科書的説明が流布しているおかげで、スピノザの思想は日本人の宗教感覚に「近い」とか、あるいは「親和的」であるとかいう風に一般には捉えられているのも事実ではないでしょうか。

とはいえ、これはあくまで漠然とした「感覚的」理解の次元でそう思われているというだけです。本当に日本的思想とスピノザの哲学に内的連関があるかどうかはきちんと分析してみなければわかりません。

ところが、スピノザの形而上学をきちんと説明している「読みやすい」本は日本語ではほとんど出されていません。確かに学問研究のレベルでは松田克進さんの「スピノザの形而上学」など、良質の研究が出てはいますが、一般人向けにわかりやすく、しかし大衆的需要に迎合するのとは異なるしっかりした「入門書」が多く存在するわけではない。

ということで、今回は私の知る範囲で簡単にスピノザ哲学を日本的思想と比較しつつ解説してみたいと思います。

まず、スピノザの哲学を「汎神論(pantheism)」という言葉で呼ぶのは誤解を招きやすいのであまりお勧めしません。単純に「本質一元論(substance monism)」と呼ぶに留めた方が良いでしょう。というのも、スピノザに於いては「現象世界」は「実在」である「神」に比べて一段劣る「様態(mode)」に過ぎないとされており、「現象世界=神」であるなどとは全然されていないからです。

ちなみにスピノザといえばほとんど「エチカ/Ethica」しか知られていませんし、エチカでさえほとんどの人は知っているだけで読まないでしょうが、スピノザのファンだったWittgensteinの「Tractatus Logico-Philosophicus(論理哲学論考)」の元となるスピノザの「Tractatus Theologico-Politicus(神学政治論考)」において、スピノザははっきりと名指しで日本人を古代ギリシャ人やモーゼ以前のヘブライ人と並ぶ「Pagan(多神教徒)」であると位置づけています。(16章66節)

しかも、その「神学政治論考」の中で「Pagan」についてスピノザは実に面白いことを言っているのです。例えば、昔のヘブライ人はPaganであったが、その時代のヘブライ語では何でも人間の能力を超越するものを「神」と呼んだので、聖書にある「神の風」というのは単に「ものすごく強い風」を指しているに過ぎず、実際「創世記」においては「最も強く逞しい者」こそが - 例え彼らがどんなに不道徳な狼藉であっても - 「神の子」と呼ばれている(1章31節)、とスピノザは指摘しています。かつ、これを評して「ヘブライ人といえども多神教徒との違いは単に神の名前のみに過ぎなかった(=迷信深いという点では毫も違わなかった)」と言っている。

これなどは、確かに西欧人にはショッキングで徒らに挑戦的なことを言っているだけに思われそうな一節のひとつですが、古代ヘブライ人が実際何を考えて「神」という言葉を使っていたかはともかくとして、面白いのはスピノザの言っていることは少なくとも生粋の「Pagan」である日本人に関しては全く以って正しいということです。

我々は惜しげもなく何でもかんでも「神」扱いしますよね。ネットでも感謝を表す言葉や「すごい!」という驚嘆を表す言葉として頻繁に「神!」は使われていますし、現実にもよく使われている。こんな風に「神」という言葉を今日でも使っているのは日本人だけなので西欧人の中にはこれを「日本教」だとか妙な名前をつけて日本の特殊性のひとつだと思い込んでいる人もいますが、実は少なくともスピノザによればどうもPagan時代の古代ヘブライ人達も全く同じように「神」という言葉を使っていた、ということです。尤もスピノザはきっとあくまで聖書を研究した結果としてそんな結論にたどり着いたのでしょうが、Paganである日本人の言語習慣はこの「スピノザ説」を裏付けまではしないまでも矛盾しないので、この部分は日本人である私には直感的に説得力のある仮説だと読めるわけです。

とはいえ、スピノザは明らかにPaganを何となく下に見ています。しかし、一般の西欧人とは理由が違います。当時の通常の西欧人はPaganを「キリスト教徒でない」から侮蔑していたのに対し、スピノザは「迷信に惑わされている」から良くないと思っているわけで、しかもその点に関しては「ユダヤ人」も「キリスト教徒」も結局変わらないと指摘しているのですから、要するにどんな宗教だろうと理性が曇る原因になるものは全て等しく良くないと言っているのです。

因みに、スピノザはこの本の序論で梗概を簡単に述べた後、「哲学者でない方々には、私はこの本を届けたいとはあまり思っていない。どうせ彼らの喜ぶようなことはここには書いていない。」また「偏見や迷信に囚われている一般人や、一般人と同じような性向を持っている人々(=頑迷な神学者など)にはこの本は読まないで頂きたいし、むしろ完全に無視してほしいと思っている」とはっきり述べています。(序論、33-34節)

総合しましょう。スピノザは「多神教/Paganism」の何たるかを一応知っています。少なくともスピノザの描写する「Pagan」の宗教感覚と日本人のそれは私から見てもあまり大きな違いはありません。よくわからない、人知を超えた現象や自分より優れた他人をまで「神」扱いしたりするのが「Pagan」なら、日本人はまさに古代人の「Paganism」を最も純粋な形でそのまま残して現代にまで伝えている数少ない民族のひとつであると言えるでしょう。そうしてスピノザはこのPaganismを実にバカバカしい迷信の極致であると思っているのです。

従って多神教的な汎神論(八百万の神)的宗教感覚とスピノザの形而上学が「同じ」であるとか「近い」というのは、少なくともスピノザの意図とは大きく異なるものであるというのは、「エチカ」におけるスピノザの形而上学を検討するまでもなく神学政治論考を少し検討するだけでも明らかになります。

というわけで、ここまではスピノザの僅かな記述から「日本論」ないし「多神教論」という形で日本的な宗教性に対するスピノザの姿勢を簡単に示唆してきました。この時点で「なーんだ、スピノザも結局理性中心主義の西欧人か」とがっかりされた方はもうここで辞めて頂いても構いませんが、具体的にスピノザの形而上学がどういうものかを知りたい方の為に、ここからはスピノザの一元論を簡単に解説したいと思います。

まず、スピノザの一元論(monism)というのは、主にデカルトの二元論(dualism)と対比されるものです。デカルト(Descartes)においては、「心」と「体」、あるいは「精神」と「物質」はそれぞれ別の「substance(ここでは仮に「本質」と訳します)」であるとされます。つまり、デカルトは「心」というのは本質として実在するもので、その存在は創造神以外の何にも由来せず、それそのものが独立に存在できる基本的なものだと考えたわけです。今日の物理学で例えるなら、例えば仮に「クォーク」を成立させる超基本物質Aがあって、Aはもうこれ以上分割できない、つまりこの世界の全ては究極的には全てAであると言えるようなものがあるとしましょう。デカルトは、このAのような存在として、「精神」が実在すると考えたのです。また、デカルトは精神とは別に「物質」という本質も実在すると考えましたが、現象世界はこの二つの実在によって成り立つとデカルトは主張したのです。しかしデカルトは物質は永久に分割できると考えていたので、単に「物質的なるもの」という基本存在が存在するというような考えだったと思っていただければ良いと思います。これに対し、例えばライプニッツ(Leibniz)は「monad」という精神的実在のみが「substance」であり、物質は永久に分割できるが故に「substance」の名に値しない、「物質」は「精神」によって創り出される次元的に一段低い存在であるとして、モナドあるいは精神一元論、あるいは精神主義(Idealism)を唱えます。これと逆に「精神よりも物質が本質的であり、精神は物質より生ずる」と考えるのが物質主義(materialism)です。

では、スピノザの考えはどうだったのかというと、スピノザは「物質も精神も本質的ではない」と述べたのです。「本質的なのは、神のみである。物質及び精神は、それぞれ神の様態に過ぎない」というのがスピノザ形而上学の真髄です。Einsteinが「信じた」「スピノザの神」というのは、まさにこの「神」、つまり究極の本質であり、かつその本性より必然的に存在する唯一の存在のことなのです。「神」というのが神学的過ぎると思われるなら、単に「第一原因」と言い換えても構わないでしょう。一切の現象はこの第一原因の様態である、というのが「スピノザ主義」なわけです。

というわけでスピノザはこんな妙な「神」観を主張して神の人格性云々を丸ごと否定したので「無神論者」として非難され、ユダヤ教社会から追い出されます。因みにデカルトも無神論者として批判されましたが、ライプニッツは神の人格性を否定しなかった上に、むしろ神の「善性」を自己の形而上学の中心に据えているくらいなので、今日でも西欧人の間ではライプニッツの思想は比較的評価が高いし人気です。

というわけで、スピノザの形而上学はむしろ徹底的に理性的な現象世界の論理的分析によって成り立つものであり、漠然と「全ては神である」という「体感的」な神秘思想を説いているのではありません。むしろそういった迷信的で道徳的な偏見に彩られた「非科学的」なるものを徹底的に退ける為の知的格闘の結果生まれた実に冷徹な思想であるとさえ言えるでしょう。はっきり言って、スピノザの形而上学は後のカントやサルトル、あるいはハイデガーのような自称「無神論者」よりも更に冷徹で、西欧的に言うなら更に「無神論的」です。というのも、この3名はいずれも無神論者でありながらなおかつ神学に代わる「道徳の基礎」を作るための形而上学をそれぞれ構想しているからです。カント以降から現代のロールズに至るまでの西欧現代哲学の歴史はいわば現代道徳を支える「世俗神学」構築の担い手の歴史であるとも言えるでしょう。

スピノザは、こういう形而上学における神学的ないし道徳的要素を徹底的に廃し、しかもそれを実に論理整合的に表現したので、ユダヤ人のみならずキリスト教の道徳家から現代の無数の哲学者に至るまでの実に広大な範囲から(半ば道徳的なモチベーションから)「嫌われて」います。(Zizekは逆にスピノザを「愛する」ことが現代哲学学会におけるルールになっていると述べていますが、これは特にフランスや日本、アメリカなどにおける、「生の哲学」などをキーワードとする「文学的」大陸哲学という限られた領域における現象であって、かつこの世界における「スピノザ」理解は誤解とまでは言わないにしても非常に偏った側面、つまり「生の肯定」という「現代哲学的関心」に繋がる「conatus論」のみに着眼し、全体としてスピノザ思想を「倫理的」な思想として「捉え直す」限りにおいて愛されているというに過ぎません。分析哲学の世界ではそもそもそんな妙な「現代的意義」探求型の読み方をしませんし、従ってスピノザ哲学はあらゆる意味で異端のままです。この点に関する詳細は柴田健志先生の2001年論文をご参照ください。)日本でもスピノザの形而上学の何たるかを理解している数少ない人々はやはりスピノザをある意味批判するか、あるいは何とか「再解釈」して道徳的要素を解釈によって埋め込んでスピノザを「救おう」とする優しい研究者の方々もいます。西欧にももちろんそういう人々はいますが、多くの「倫理的」哲学者にとって「スピノザ」は今でもある種の哲学的「スキャンダル」です。

先のBayleの「スピノザの哲学は日本人の哲学と類似している」という批判は、そういう文脈の中で行われたものであるわけで、つまりこの時代には「日本人」は(キリスト教を受け入れないどころか禁止するような)「不道徳」な存在であると思われていたわけですね。尤も、こういう時は通常なら「中国」がスケープゴートに使われることが多いのですが、なぜか「日本」が出てくるのが17世紀から18世紀の面白い点です。

スピノザは当時日本が唯一交易を行なっていたオランダに生きていたわけですから、もしかすると実は何か関係があるかもしれませんし、あるいは単にこの事実にかこつけた(フランス人による「キリスト教布教」という目標を商業利益の為に捨てたオランダ批判を含めた)言いがかりなのかもしれません。この辺りの歴史研究も面白そうだなと思いつつ、やりたいことばかりが積もっていって実際には大して何もできていない現状が歯がゆく思われます。

 

それでは、次回にはまた別の側面からスピノザについて少し述べたいと思います。

ではでは。