哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

日本における哲学研究についての独り言

あの、突然ですがDavid LewisのOn the Plurality of Worldsって翻訳が出たの去年なんですね。てっきりどこかにあるものだと勝手に思っていましたが。。

まあ今更Lewisに戻っても仕方がない感じもしますが、じゃあKripkeは?さすがに日本でも話題になっているしあるよね?と思ってアマゾン(日本)で探して見ると「Naming and Necessity」の八木沢敬先生訳と、「Wittgenstein On Rules and Private Langauge」の黒崎宏先生訳があるだけでした。
この内Naming and Necessityを訳された八木沢先生は英国で学部を出て米国で教えておられるので最初から分析哲学「で」学んでいる方です。つまり日本の教育機関による純粋培養では全くありません。

黒崎先生の方は東大出の国産学者の方ですが、こちらも「On Rules and Private Language」を原著が出たすぐ後に翻訳を出されていて、結果としてはさすがに日本におけるKripkeの導入は早かったようですが、黒崎先生の場合はあくまでWittgenstein研究につられる形でKripkeの議論も訳されたという感じのようですね。実際最近のreference and existenceとかはまだ誰も訳していないようですし。他にも本になっていない論文など沢山あるのですが、無論訳されていないようですね。

私は別にPossible Worldsの議論が特に重要だと思っているわけでもありませんが、しかしこの辺りの議論(modalityに関する一連の議論)は英米分析哲学の肝となる部分で、合理的理由なく無視していい部分ではありません。というか、これやらないならむしろ日本の英米系哲学研究って何やってるのって話になってきてしまいますよね。まさかWittgestteinを永久に大陸哲学的なやり方で研究してるとかではないですよね。。ま、別にそれならそれでも良いのですが。。

ということでちょっと気になって東京大学哲学研究室の「論集」を確認してみると、やっぱりほとんど全てが大陸哲学の研究論文で、一ノ瀬先生だけが一人で(しかも英文で)英米系っぽいことをやっておられるようですね。。まあ東大でこれなら仕方がないか。。という気になりました。

ちなみに大陸哲学研究でも私はスピノザは結構好きなので笠松和也さんの「スピノザ哲学におけるコナトゥス概念の発展」を読んでみましたが、Wolfsonってちょっと古すぎませんかね。まあ今回の論文ではイントロでチラッと使われているだけなので単に枕詞として使われているだけなのはわかりますが、日本の研究だと「大家」とされる古い研究がいつまでも持ち上がられて、その後の(特に批判的)発展が比較的軽視される傾向はやはりあるような気はします。少なくとも英語の論文で「Wolfsonは...」とか「Guéroultによれば...」とか、古い大物研究者を大先生として特別扱いする印象を与えるようなのは見たことがありません。なんと言うか、論文全体に漂う雰囲気が全然違います。日本語論文は「権威への忠誠」を疑われまいという緊張感を読者にさえも与えますが、英語圏の論文は「indefensibleな発言を一言でも言ってはならない」という緊張感だけに支配されているという感覚です。これ、何なのでしょうね。

後、個人的にはSpinozaならDella Roccaの路線とか超有りだと思うのですが、日本では案の定総スカン食らっているようですね。もしDella Roccaの読みに基本的に賛成する路線でスピノザ研究しておられる日本人の学者(あるいは学生)の方がおられるなら名乗り出ていただければ私はあなたの論文、喜んで読みますよ!

さてちょっとどうでもいいことをだらだらと述べましたが、笠松論文の内容そのものに関しては、「conatus」が元はギリシャ語で何か、つまりアリストテレス哲学では何に該当するのかという点はまあ文献学の範囲だしよくわからないのでパスしますが、スピノザのconatus概念というと通常はホッブスやデカルトとは「異なる」点が強調されるのに笠松氏の論ではスピノザが「機械論の中で捉え直された、コナトゥス概念を確かに受容している。その点でスピノザはホッブスやデカルトと同じ側に立っていると言える」(p.195)と注釈もなく結論されているのはちょっと疑問ですね。結局は結論においてホッブスやデカルトと異なるスピノザの独自性が示されるとはいえ、その独自性は「短論文」まで遡らなくとも「エチカ」に表現されている時点でもホッブスやデカルトとは違って、スピノザは「conatus」を「自己保存」という極めて静的な原理として捉えている。つまり「conatus」を「自己保存」と捉えることそれ自体が独自的なものであるという指摘が他方ではあります。というのもデカルトとホッブスは「conatus」を「動的変化」を促す原理と捉えているからです。例えば、Harvey (2012)ではこうあります。

Spinoza’s theory of conatus differs distinctly from those held by Descartes and Hobbes. Defining “conatus” as the endeavor “to persevere in being” or “to preserve one’s being” (Ethics III 6–9; IV 18; et passim),he understood it to be a conservative principle. Descartes and Hobbes, however, took it to be a principle of change. (Harvey, 2012, p.292)

また続けてHarvey(2012)はこうも指摘しています。

Spinoza considered his own notion of conatus to be partially similar to Descartes’ “first law of nature” (ibid., II 37), which is in effect the law of inertia (“any object, in and of itself, always perseveres in the same state”), but insisted that conatus is “something outside the laws and nature of motion” (Cogitata metaphysica I 6).  (Harvey, 2012, p.292)

 つまり、スピノザの「conatus」原理は機械論的理解(laws of nature)の「外(outside)」にあるものとHarveyは理解しているわけです。ということは、「スピノザがconatusを機械論的に理解しているのか」という点からして一応議論の余地があるということではないでしょうか。まあ、別にそんな細かいことをネチネチと指摘しなくても良いのかもしれませんが。。

ただこうして色々振り返ってみると、やっぱり学部段階でこちらに来ておいてよかったなとは思います。無数の英語論文にアクセスできるというだけでも大きなメリットです。以上、ちょっとだけ「専門的(?)」な独り言でした。

 

参考文献:

Harvey, W. (2012). Gersonides and Spinoza on Conatus. Aleph, 12(2), 273-297. doi:10.2979/aleph.12.2.273