哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

日本人知識人の責任 - 戦後リベラリズムが向き合わなかった問題 réflexions sur la question "non-japonaise"

「日本人」であることに伴う責任というのがあるとしたら、それはなんでしょうか。

よく言われるのは、以下の三つでしょう。

1. 旧植民地のアジア諸国に対して歴史的責任を負わねばならない

2. 戦勝国(特に米国)に対して彼らが日本に対してとった敗戦終盤における軍事行動(特に原爆投下)に対する人道的悲劇を再び繰り返さないことを求めねばならない

3.母国(日本)に対しても多数の「帝国臣民」を犠牲にした世界史上最悪の「敗戦」という政策的失敗を繰り返さぬよう提言し続けなければならない

確かにこの三つの課題を一つでも等閑にすれば、それは日本人としての責務を怠っていると言えるのではないかと私も思います。

この視点で見ると、日本の所謂「リベラル派」- 前稿で扱った井上達夫先生の「リベラリズム」ではなく、一般に大衆的保守派から侮蔑を込めて「左派」扱いされている、主に「朝日新聞読者層」を中心とする「リベラル派」- は、この「日本人としての責務」を確かに果たそうと努力してきたことは認められると思います。

ただ、その努力はある面では保守派に譲歩したせいで不十分であり、またある面では不用意に「行き過ぎ」ていたり、またある面では西洋に関する偏った見方や「誤解」に基づいたり、あるいは国民の誤解を招くものであったりなど様々な瑕疵が重なり、結果的に信用を失墜してしまっているように見えます。

と言ってもそれはあくまで「ネットの世界」や「保守界隈」において信用を失いつつあるというだけで、現実世界ではエリート層の大半は今でも朝日新聞の報道やコラムに一定の敬意を持っているでしょうし、むしろ朝日新聞を読まないような人は「ネトウヨ」であるという否定的イメージさえ漠然と抱いているかもしれません。慶應義塾大在学中には、私が法学部生だったこともあり、知り合った学生の大半がそういった「リベラル」な人たちでした。稀に「俺は愛国者です」と周りに宣言している人もいましたが、その口ぶりから自分が少数派であることを自覚しているのは明らかでした。その意味では、「教授」のみに限らず「名門大学の学生」というのはもう立派な「エスタブリッシュメント」の一部であって、この中では朝日新聞的リベラリズムはかなり浸透していると言えるでしょう。

だからこそこれを不満とする知識人の一部がネット上で「言論の自由」を行使して鬱憤を晴らしているのかもしれませんが、いずれにせよ「高学歴」若年層の間で「ネトウヨ」はまず流行りませんし私の知る限り流行っていません。「シールズ」的な運動が流行っているのかというとそれも違います。志向的には確かにむしろ「シールズ」に近い人が多いでしょうが、まずそもそも今の「エリート」学生は基本的に自分たち固有の「意見」が社会で影響力を持つことが出来るという可能性からして信じていません。

若者が言論人としてテレビや雑誌に出て「若手論客」となる為には「ネトウヨ化」するかあるいは逆に「朝日新聞」的な欺瞞に眼をつぶって50年以上も前から何度も繰り返し言われていることを自分も言うかしかないということは、若者は既にわかっています。だから最初から何も言わないのです。こうして脱政治的な日常を送る方が「合理的」だという判断は特に高学歴の「若者」の間では広く浸透しています。

ちょっと話が逸れましたが、本題に戻りましょう。

結果的には「エリート層」より先の大衆的支持を得られず、また「保守界隈」の逆鱗に触れてしまった朝日新聞的な「リベラル派」の方々の試みは、具体的にどの点が不味かったのか。

それはまず第一に「戦争への反省」を徹頭徹尾「内向き」なものにしてしまい、また「歴史化」してしまった点です。これは「戦後リベラリズム」の元祖とも言える丸山真男に対する批判としてよく挙げられる点でもありますが、丸山先生はあれほど軍国日本の無責任体制や天皇制ないし古層を徹底的に批判されたにも関わらず、何故か中国大陸や朝鮮半島の旧帝国日本植民地ないし戦地において「被害」を受けた人々と現代の日本人はどう向き合っていくべきかについてはほとんど語っていません。これに関しては現代のリベラル派に関しても同じことが言えます。

韓国や中国について(かなり否定的な形であるとはいえ)語っているのは保守派の方であり、リベラル派はほとんど語っていない。勿論従軍慰安婦については語っているでしょう。南京事件についても保守派を激怒させるほど語っているでしょう。ところが関東大震災の際に「朝鮮人」に対する大規模な加害行為が加えられた(これもデマだとかあるいは朝鮮人は実は皇室に対するテロ計画をしていたからあれは正当だった云々という話も「保守」界隈では広まっているようですが、今はリベラル派の話なのでそこは論じません)という点について、ここに「戦争」とは直接関係のない、現代の日本社会そのものに内在する問題にもつながるものとして論ずるような「リベラル派」は何人いたでしょうか。あるいは現代の「中韓」に関する日本の「論壇」における「言説」を、リベラル派はどの程度真剣に受け止め、問題視してきたのでしょうか。

今や現代においても日本人が朝鮮人や中国人に対しある種の差別感情を持っているのは明らかなのに、リベラル派はそのことをさほど問題にしてこなかったのではないでしょうか。部落差別や「人種」差別については比較的熱心に取り組んで来たようですが、同じ「東アジア人」の間に残る国籍や文化ないし思想に基づく差別を解消しようという「リベラル派」の動きは非常に弱かったのではないかという気がします。

かつ、その理由は明白です。それは日本以外の東アジアが戦後は「共産主義」に支配されていたりあるいは戦争状態にあったので、「東アジア人同士の結束」などを進めようとすれば「共産主義」を拡大しようという意図があるのではないかとアメリカに疑われるリスクがある。逆に共産主義をはっきりと否定しアジア諸国を自由化する意志を表明した上で「アジアの結束」などと主張すれば、今度はアジア諸国の共産独裁政府が「大東亜共栄圏の焼き回しだ」などと言いがかりをつけて批判してくる恐れもある。(丸山先生は米国批判を躊躇する方ではなかったようなので恐らくこの後者の方を懸念されていたのではないかと想像します)つまり東西冷戦の構造の中では「東アジアの結束」を主張すること自体が極めて難しかったのは容易に想像がつきます。まして中国や韓国の大衆には強い「反日」感情があるので、主張してみたところで容易に実現しないのも目に見えている。それなら最初からこの件には「触れない」でおこうということにされてきていたのではないかな、と私は勝手に想像しております。

しかしやはりこの点は現在にも禍根を残しているのは最早明らかです。島崎藤村の時代にはあれほど深刻だった(一部では今でもあるのかもしれませんが)部落差別も、今日ではほとんど忘れ去れています。「破戒」の光景がそのまま今日でも見られるとまでは誰も思わないでしょう。しかし「アジア人差別」はほとんどそのまま残ってしまっている。「在日」というワードが本来なら在日外国人全般を指すはずなのに事実上「日本に帰化することを拒否しつつ日本滞在をつづける朝鮮人」を指す侮蔑語として使われてしまっていることからもわかるように、この差別感情は相当強固です。私自身、思想や見た目云々よりは高学歴であるにも関わらず挙動があまりに不審であったり異常に暴力的で危険そうな人に出会うと「この人は本当に日本人なのか?」という疑問が一瞬過ぎることはあります。しかし、もしこの「本当に日本人?」という感覚が「アジア人差別」に繋がっているのだとしたら、これはSartreがRéflexions sur la Question Juiveで述べている通り、『「ユダヤ人」とは「我々」の側が創り出す虚像である』、つまり日本の文脈に置き換えれば『「朝鮮人/支那人」とは「日本人である我々」が創り出す虚像である』ということになるでしょう。無論フランスにおけるユダヤ人の問題と日本における朝鮮人の問題は類似点も多いとはいえ基本的に全く違いますが、しかし別に朝鮮半島出身であることが明らかではない有名人や犯罪者をなんの決定的証拠となる情報もないうちから「在日」認定したり、挙句には匿名掲示板においてさえ顔も見えない相手に純粋にその発言の思想的傾向のみから判断して「在日」と認定したりするに至っては、「在日認定」はもはや実際に朝鮮半島出身であるか否かによって決まるというよりは、日本人の側が「在日」であると判断した人が「在日」と認定されるに過ぎないという方が正しいでしょう。だからこそこの問題は根深いのです。

しかしこの問題を解決する為に最も重要なのは、誰がその差別の対象となっているかという点ではありません。そこも被害者にとっては重要ではありますが、加害者側にとっては別に対象は何であってもいいのです。

仮に本当に「朝鮮人」を全員追い出したところで、日本人はまた「朝鮮人」に代わる別の「問題グループ」を見つけるだけでしょう。例えば戦前では「アカ」も差別対象でしたし、あるいは部落差別や犯罪加害者やその周辺が差別されるという事態が再び復活ないし強化されるかもしれません。だとすれば、この「対象の定まらない差別感情」そのものとどう向き合うかという点こそが枢要です。

『日本にはそもそもユダヤ人がほとんどいないし、従って「ユダヤ人問題」なんてないから関係ない』というのはその意味では間違いです。ユダヤ人問題(la question juive)の問題点は実在するユダヤ人ではなく、あくまで我々(nous/les français)が創り出す虚像としての「ユダヤ人(juifs)」が問題なのです。つまりこれは「我々」の側の問題なのであって、その認識から出発しなければ絶対に解決しないわけです。ところが、日本の戦後リベラリズムはこのサルトル的視点を「自分の問題」として強く意識してきたのでしょうか?私はこの点が強く疑問だし、かつこれこそが戦後リベラリズムを退廃させた原因であると考えています。もっと解りやすく言えば、戦後リベラリスト達が大衆のみならず自分自身にも潜むこの「闇」ときちんと向き合わないまま、戦中における「戦争犯罪」ばかりを強調することでかえって問題をさも過去のものであるかのように「歴史化」してしまい、要するにその責任を戦前の軍国日本に全部押し付けてしまって、現代にも続いている「差別感情」の面を無視してきたのではないかということです。これはもはや「戦後の無責任の体系」の一部と言っても良いでしょう。

もちろん、日本人の朝鮮人や中国人、あるいは「在日」に対する差別感情を問題視する際には、ユダヤ人問題とは別の配慮が必要だというのは一理あります。1945年以前のユダヤ人とは異なり、朝鮮人にも中国人にも国家が存在し、かつ韓国や中国の中では逆に日本人が「ユダヤ人」的存在として扱われる可能性も十分にあり得るからです。つまり、現代においては日本人が常に絶対的強者というわけではないし、例えば韓国においても在日朝鮮人が差別されるという問題もあるので、一概に日本人と他のアジア諸国民が抑圧者と被圧者の関係にあるとも言えない。しかし、それでも国力や文化水準という点では日本が依然相対的に高い地位にあるわけですから、やはりそれに伴う責任というのも生じてくるかと思います。

とはいえ、やはり朝鮮人や中国人とどう向き合っていくのかというのは非常に難しい問題です。簡単な答えは出ないし、正直に言うと私もわかりません。今のままではダメだというのが明らかなだけで、ではどうすればいいのかというのはわからない。

ただ、とりあえず大衆間で行われている「在日認定」をサルトルのréflexions sur la question juiveの視点から問題視していくというところから始めるのは重要なのではないかということだけは言えるかなと思います。逆に言えば、それさえしてこなかった戦後のリベラリズムはその時点でそもそも内部に矛盾を含んでいたわけです。

つまり、彼らは民間で行われる「朝鮮人・在日」の「ユダヤ人化」に同じ土俵で対抗する形で「日本人・右翼・低学歴保守層・大衆」を「ユダヤ人化」し、自分達「良識ある生まれの良い行儀正しい日本人」から区別した上で、なるべく多くの「日本人」を彼らの側へ「改宗」させようとしてきたに過ぎなかったのだとしたら。彼らが「大衆的日本人」を見る眼が、大衆的日本人が「朝鮮人」を見る眼と同じものだったとしたら、あるいは彼ら自身もやはり同じ眼で「朝鮮人」をも見ていたのだとしたら。この「nous」から除外された人々に対する侮蔑的目線の問題は、知識人の側も全く克服できていないどころか、彼らの「日本の西欧に対する遅れ」論こそがそのまま日本人の中国大陸や朝鮮半島に対する差別感情に繋がってしまっていた可能性さえあるのではないでしょうか。

この点を反省しなければ、日本のリベラリズムに未来はないでしょう。