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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

そもそもリベラリズムとは何か

哲学

偖、では早速哲学の世界に入って行きましょう。と言っても、いきなり形而上学や言語哲学に入っていくのではなく、まずは一般的関心の強い政治哲学から入って行きたいと思います。本稿では、まず現代の政治思想を語る上で絶対に欠かせない「リベラリズム」の概念について考察することから始めましょう。

「アゴラ」でも私は結構頻繁に「リベラル派」あるいは「リベラリズム」という言葉を便宜上使って来ましたが、本来「リベラリズムとは何か」それ自体が議論の対象となるような曖昧な概念です。英語では特にネット上のメディアにおいて慣用的に「右派/right」の対義語として「リベラル派/liberals」は使われておりますが、そもそも「liberalism」とは何なのでしょうか。

Liberalism というのは、実はいくつか種類があって、Classical LiberalismだとかNew LibealismだとかNeo-Liberalismだとか色々とあるのですが、英語圏(というより英国)ではとりあえずJohn Stuart Millの"On Liberty"に端を発するNew Liberalismが正統であるとされています。詳細はStanford Encyclopedia of PhilosophyのLiberalismの頁をご覧頂ければ大まかなところはわかりますが、ここに載っていない議論も勿論あるでしょう。

例えば、John Kekesのような保守主義に基づくリベラリズム批判を展開している学者というのは非常に少ないとはいえ、今でも存在していますが、Stanfordの記事では勿論言及されていません。欧米における欧米人(白人)による(というのも、ムスリム系や東アジア系政治学者によるものは批判の性質が根本的に異なるので)リベラリズム批判というのはキリスト教的「罪/sin」ないし「邪悪/evil」を軸にした宗教的倫理観に基づくもの、あるいはそれに何らかの形で由来するか少なくとも呼応するものが基本となりますので、その時点で「反動的」であり「普遍性に欠ける」と判断されているきらいがあります。古くは(といってもそんなに古くもないですが)フランスのJoseph de Maistreから、現代のJohn Kekesに至るまでの保守的「反リベラリズム」の系譜は、しかし現在でもフランスでFront Nationalを支持する敬虔なキリスト教徒やアメリカのBible Belt以南を中心とする保守層の間では一定の影響力を持っている点は見逃せません。またマルクス主義に基づくリベラリズム批判にも言及されていないので、これはそもそもリベラリズムに対する反対論ををStanfordが丸ごと無視しているということです。とすると、このこと自体が興味深い現象だと言えるでしょう。

「リベラリズム」に話を戻します。さて、まずは上述のStanfordの記事における基本定義から見ていきましょう。

“By definition”, Maurice Cranston rightly points out, “a liberal is a man who believes in liberty” (1967: 459).

これではあまりに漠然としていますが、一応基本はやはりlibertyです。とはいえ、問われるべきは誰の、どういうlibertyなのかという点です。独裁政治下においては「自由がない」と言われますが、それは一般国民の自由が制限されているだけで、独裁者自身は完全に「自由」です。つまり「自由/liberty」の配分こそが「liberalism」というイデオロギーの肝であり、その意味では「liberalism」は「egalitarnianism as to the political liberty among all men (& women & those with other gender identities .. 一応書きましたが以下この部分は略します)」と言い換えた方がもっとはっきりとするでしょう。さらにStanfordの同記事から引用します。

freedom is normatively basic, and so the onus of justification is on those who would limit freedom, especially through coercive means. It follows from this that political authority and law must be justified, as they limit the liberty of citizens.

つまり、リベラリズムの論理構成はこうです。人間は全て規範的基礎として自由でなければならない。 →従ってその自由を苟も制限するに際しては、権力はその正当性の合理的論証義務を負うのが当然である。この考えが、とりあえず西欧の学界では大前提とされているとしましょう。(無論、これに対する異論や反論も上がっていますが、少なくとも自分はliberalだと自認している人の間ではこの点は疑われない大前提だということです。)

では、日本における「リベラリズム」の理解というのはどうなっているのでしょうか。日本における「リベラリズム」に関する研究の中で最も権威を認められている人と言えば上がるのはまず井上達夫先生でしょう。そこで井上先生の議論を少しだけ見て行きます。といっても、今は手元に先生の著書がないので記憶を辿りつつ、ネット上で手にはいるソースを使っていきます。ネット上で手にはいるソースというと何だか怪しい低級記事のようですが、今回私が参照し、また引用させて頂くのは何故かフランス語で書かれた井上先生の「リベラリズム」に関する論文ですので、ご安心下さい。

井上先生は Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique(2011)という論文において以下のようなことを述べられています。

pour ma part, je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice et que par conséquent le libéralisme est d’abord une doctrine de la justice. Voici de manière très synthétique, les grandes lignes de ma pensée. (p.335)

勿論、これはあくまで井上先生の独自見解であり、日本でこのような「リベラリズム」観が浸透しているわけでも広く受け入れられ共有され常識化しているわけではないとする立場から見れば、これが「日本的リベラリズム理解」を示すのかどうかという点は確かに疑問が付されるべき点ではあります。然し乍ら、大衆の首尾一貫としない混乱した「リベラリズム」理解を基準にするよりは、日本で最も権威を認められているリベラリズムに関する研究における第一人者と呼ぶに相応しい、否、事実上の「最高権威」と少なくとも学界及び世論の中で目されているといって過言ではない井上達夫先生の見解を「日本的知性」を代表するものと見る方が良いと、この件に関しては判断したいので一応これが日本的「リベラリズム」観だということにしましょう。

(実際、井上先生の「リベラルのことは嫌いでも..」は商業的にもかなり成功しており、実際に先生の意図が伝わっているかどうかはともかく学界にとどまらず広く受け入れられている感もあるので、井上先生のリベラリズム理解は日本人の心性に十分合致するものであり、決して国民感情を逆撫でし拒絶反応を引き起こすようなものではないことは確かなので、井上流の「リベラリズム」がある程度大衆的支持を得ているというのものとも言えます。)

さて、その井上先生のリベラリズム理解は、上述のStanfordの基本理解を根底から否定するものです。それは明示的に" je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice"(リベラリズムの枢要は自由ではなく正義である、と私は考える)と述べられていることからも明らかでしょう。libertéが中心ではないのなら井上先生の思想をlibéralismeと呼ぶよりは"jusiticisme"とでも呼んだ方が適切なような気もしますが、それはともかくとして。井上先生はまた同論文中で欧米における「リベラリズム」の絶対的とも言える権威とされるJohn Rawlsの「リベラリズム」理解を痛烈に批判されています。

Ma conception de la justice est l’exigence d’une « équité envers l’autre » qui assume la responsabilité philosophique de se justifier par la raison et qui prend en considération le point de vue de l’autre susceptible d’être affecté par les conséquences d’une décision. En tournant le dos à cette exigence fondamentale de la justice universelle, Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations. Pour redonner toute sa vigueur philosophique au libéralisme, il faut donc lui redonner ses armes critiques et restituer l’idée de justice universelle. (p.342)

このように、Rawlsをほぼ完全否定しながらなお「リベラリズム」を擁護するというのは通常の西欧におけるリベラリズムに関する議論ではまず見られないような論理展開です。というのも、Rawlsを批判するのは通常政治哲学的には「保守」寄りの理論家であって、「リベラリズム」を理念的に受け入れているリベラル派は基本的にRawlsの方向性には概ね賛成するものだからです。(例えば、David Lewis ShaeferはRawlsを「liberalismの伝統に反している」という理由でRawlsのjusticeを「illiberal justice」だと批判していますが、これはより伝統的な古い「liberalism」に基づくRawls批判で、アメリカではこれは「conservative」とされる傾向があります。David Lewis Shaeferの論自体は私は高く評価していますが、多くのリベラル論者はRawlsをリベラルと認めるのに吝かでなく、Shaefer的な理解は極めて珍しいものとして際立っています。)特に"Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations."の部分は、現在英語圏でも疑問視する声が増加傾向にあるPC(political correctness)に真っ向から対立するという点で、アカデミズム、特に欧米のリベラルな学者にショックを与える内容であるのは間違いないと思われます。とは言っても、私が勝手にそんなことを言うだけでは説得力が足りないので一応確認の為、いくつかの英語圏の論文を引用してみましょう。まずAbott(1976)はRawlsのTheory of Justiceが批判される理由を以下のように分析しています。

But certainly the most important reason for these attacks is that Rawls' political conclusions are so firmly grounded in the liberal tradition. Reviewers seem to be more incensed by the fact that there is a liberalism carefully and intricately fashioned than by the fact that there is a liberalism per se. 

 つまりRawlsの理論はliberal traditionに深く根ざした、しかも最も慎重を期して洗練されたものだという「雰囲気」がやはり英語圏の学界には存在しているのはこれだけでもわかると思います。さらにもっと最近発表されたものを見てみましょう。

これはOlney(2012)の梗概(Abstract)の部分なのですが、最も簡潔にRawls賛美を表現しているのでこの部分を引用します。

This article argues that the later work of John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism. The context for this concern is the work of Carl Schmitt, whose attack on liberal legal practices exposes a deep weakness in most liberal approaches to the concept of law. 

 つまり2012年になっても、"John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism"だという論文が発表されているのです。では批判する側はどうでしょうか。Mouffe(2009)の梗概にはこうあります。

This article argues that John Rawls' liberal philosophising is an inadequate means of facing today's varied social and political challenges, both domestic and international, because it is incapable of grasping the antagonistic dimension which is constitutive of the political. 

 これだけだとハッキリしないのでMouffe(2009)の議論をもう少し見てみましょう。

The conclusion that we can draw from those considerations is that,what this distinction between liberal and non-liberal decent peoples really expresses, is a distinction between a strong and a weak form of liberalism or rather an individualist liberalism versus a communitarian one. (p.11)

 その上で、Mouffe(2009)は「リベラリズム」を受け入れない非西欧的社会に対するRawlsの態度を痛烈に批判します。

What about the other societies? Rawls asserts that they are either to be treated as outlaws - which justifies the use of force to makethem comply - or induced to become liberal or decent. Who decides where to draw the frontier? Of course it is the liberals and the refusal to tolerate some societies is presented as 'a consequence of liberalism and decency'. Here again the frontier is drawn in a political way while the political nature of the discrimination is denied. Liberals dictate what is legitimate and they do it according to what fits with their basic premises but, since those premises are presented as the expression of the 'reasonable', they cannot be challenged and those who are outlawed cannot even 'protest their condemnation by the world society'.(p.11-12) 

斯様にRawlsを批判するMouffe(2009)の提案はこれです。

if we want to establish a more peaceful world, it is not under cosmopolitan lines that we should be envisaging it because, whatever their form (and in my view Rawls can be seen as advocating a weak version of cosmopolitanism), such a perspective is unable to make room for real pluralism. (p.13)

このように、 pluralismを支持する方向での、「リベラルな西欧」の「非リベラルな中東」に対する暴力という現実を念頭においた批判(つまりRawlsよりもさらにPCな立場からの批判)は存在しますが、これは結局そこに「リベラリズム」の本質的限界を見出し、「リベラリズム」そのものを否定する方向での議論であって、「だからRawlsのリベラリズムはリベラリズムではない」という方向には行きません。つまり、井上先生と批判とは完全に真逆の、リベラリズムの標榜する「普遍性」に対する「特殊性」を重視する立場からの批判、あるいはOlney(2012)が仮想敵としているCarl Schmittのような西欧内部の反リベラリズム側からの批判がRawls批判の軸となる、というのが西欧における知的状況であるように私には思われます。

つまり井上先生の議論は、欧米の文脈ではリベラル派よりは保守派(あるいは非西欧地域における強烈な保守主義を擁護する多文化主義に基づく事実上の「保守」派)が展開する「反リベラリズム」の議論に近く、かつ保守派でも学術論文の中ではここまでは言わないというほど痛烈にPCを批判されているので、日本語で読んだならまだしも英語やましてフランス語で読むとその異様さはより際立って強調されるように感じられるということです。

ともあれ、この井上先生の見解が日本のスタンダードだとすると、日本では「リベラリズム」の中核概念は「自由」ではなく「正義」であり、しかもそれは「他者への公正さ」という実に抽象的な概念だとされているということになります。あらゆる他者の見解に対し公正であるべきという主張は、非常にラディカルな「言論の自由」を認めるべきという主張とも繋がるものでしょう。実際日本ではこの方向の主張の方が広く受け入れられるようですが、しかし西欧では違います。白人男性の主張を、女性やマイノリティの主張と同等のもとの扱うのは間違いであり、現行社会における白人男性の圧倒的優位性という自然の「不公正」を考慮し、「女性やマイノリティ」の主張をより手厚く保護するべきだという主張の方が「倫理的に優れている」とされるのが西欧で、またこの状況は西欧が根本的に多民族社会である限り決して変わりようがないでしょう。というのも、もし白人男性が井上先生のような主張をすれば仮令他の一部の白人の支持を得られたとしても即座にマイノリティの反発を招き、メディアのバッシングを招き、その主張者の立場によっては最悪治安の混乱を招きかねないからです。最近の反トランプデモを見れば、それが決して戯言ではないことはおわかり頂けると思います。

では、この違いはどこから生ずるのか。

まず、日本においては「他者」の「他者性」がそれほど根本的な異質性だとは捉えられていないという点です。井上先生がéquité envers l’autreと言われる時、そのl'autreがこの文脈では西欧人の頭では「非白人」を、あるいは下手をすれば「政治的敵」を意味しているのであり、つまり場合によって絶滅すべき対象、もっと言えば「寛容」原理による人権保護が働く「市民社会」の外に存在する「subaltern」とさえ思念されかねないものだという認識を、恐らく井上先生は持っておられなくて、もっと日本的な「他所様」的な意味、あるいは「肌の色が違っても人間は人間だ」という感覚で「l'autre」と言われているのではないかという仮説がまず浮かびます。

次に、日本ではそもそも「人間は自由でなければならない」 というリベラリズムの根本信条がそもそも共有されておらず、「人間は結局ある程度は不自由なのが自然状態であり、これを受け入れてこそ大人である」あるいは「人間はあまりに自由であってはならない」という考えの方がかえって人口に膾炙しており、つまり自由を制限する側がその論証責任を負うのではなく、逆に自由を「無闇に」主張する側がその正当性の論証責任を負うべきだという観念が事実上強固に存在しているのではないか、という仮説も一応成り立つかと思われます。

また、日本のアカデミズムでは「自由」には「責任」が伴うという点が強調され、しかもそれは他者の自由を尊重しなければならないというだけではなく、他者の自由を直接侵害するわけではない場合でさえその行動が何らかの「義務感/責任感」に基づかないのであればそれは真に自由な行動とはいえないというカント的な理解に基づく「リベラリズム」論が、より「権威」のある「哲学的に優れた」ものとして尊敬を集めているのではないでしょうか。

この三つの仮説はあくまで仮説であって、基本的に私の勝手な推論に過ぎずデータに基づくものでも何でもありませんので瑕疵も多いでしょう。とはいえ、西欧において(大衆メディアの粗雑な議論ではなく)学界で公式に採用されている(Stanford Encyclopedia of Philosophyの記事とはそういう性質のものとされています)「リベラリズム」理解と日本の学界で「優越性」を認められている「真のリベラリズム」の間には、後者が前者を乗り越える為に生じたのだという背景を考慮すれば一定の「ズレ」があるのは当然です。無論西欧側は西欧的な「リベラリズム」こそ「普遍的」なものであると主張し、日本のリベラリズムを「人種的多様性のない特殊東アジア的なもの」と簡単に切り捨ててしまうでしょう。特に「マイノリティに対するaffirmative actionは不公正」などと主張すれば、下手をすれば「人種差別主義者」のレッテルを貼られ学者生命はおろか社会生命を絶たれかねない恐れさえあります。(本稿では日本に焦点を当てていますが、逆に何故西欧では原理原則を曲げた少数派優遇に倫理的優越性が認められてしまうのかという点に関しては別稿で論じたいと思います。が、先に仮説的結論だけ申し上げると、西欧では特に政治思想においては理論的一貫性よりもそれが公共社会に秩序をもたらすという「実践的価値」の方が重視されるという事情があるのではないかと私は思っています。)

とはいえ、日本人が「普遍」とは何かを絶えず問い直していくことの重要性は強調されるべきで、日本の文脈では単に「さすが東大法学部教授先生の言うことはその辺のリベラルとは違う」と肯定的に受け止められるとはいえ、西欧の文脈では相当勇気ある発言をされている井上先生の理論的挑戦への意志は高く評価されるべきものだと私は思います。

さてこんな風に大権威である井上先生に対しほとんど「上から目線」で批判的に論ずるようなことをすると多方面から「お前は何もわかっていない」等といった私の不見識を批判する声が飛んできそうですが、確かに私の見識が足りていない部分も多いのは予め認めておきます。とはいえ、粗雑ながらも私なりの見方を一応示しておくことで他の方々からの反論や有益な助言を得られ、それによって「日本におけるリベラリズムとは何か」あるいは「日本における哲学とは何か」という点の理解がより進む面もあるだろうという考えで敢えてこの推敲の不十分な論考をそのまま発表している次第ですので、その点ご理解頂ければ幸いです。

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。何か異論等ございましたらコメントを頂ければ幸甚です。

 

参考文献:

Abbott, P. (1976). With Equality & Virtue for All: John Rawls & the Liberal Tradition. Polity, 8(3), 339-357. doi:10.2307/3234357

Mouffe, C. (2009). The Limits of John Rawls' Pluralism. Theoria: A Journal of Social and Political Theory,56(118), 1-14. Retrieved from http://www.jstor.org.ezphost.dur.ac.uk/stable/41802423

Olney, C. (2012) Justice and Legitimacy: Rawls, Schmitt and the Normativity of Law. Law, Culture and the Humanities Vol 12, Issue 1, pp. 49 - 69 First published date: December-04-2012

Stanford Encyclopedia of Philosophy "Liberalism" 

Tatsuo Inoue, « Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique », Revue philosophique de la France et de l'étranger 2011/3 (Tome 136), p. 323-346.
DOI 10.3917/rphi.113.0323