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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

西欧大手メディアはやはり「フェイクニュース」だった - 知的エリートの凋落

今英語圏で大変な話題になっていることについて、日本では実に断片的で偏った報道した出ていないようなので、今の私が書いてもほとんど影響力は無いとは知りつつ一応書いておこうと思います。

YouTuberとして最も成功した人と言われているPewdiepie(本名:Felix Kjellberg)は、最近は特にネット上のコメディアンとして知られている人です。元々はテレビゲームなどのオタク的な趣味にコメディを混ぜたネット世代の若者向けの動画を配信していて、それを通じて有名になっていったのですが、有名になり「億万長者」とまで言われるようになって以降は、既存メディアの彼に対する態度や実態を徐々に知るようになったせいか、何かと「Political Correctness」を嘲笑する(英語ではこれをtrollingと言います)ような動画も出してきました。

その中の幾つかをWSJ(Wall Street Journal)のジャーナリストが三人がかりで入念に調べ上げ、彼に対する個人攻撃に使えそうな部分をほじくり出して繋ぎ合わせて、本人に全くそんな意図はないのは(ちゃんと動画を見ている人には)明らかであるにも関わらず「Pewdiepieは反ユダヤ主義者(anti-semite)である」というデマをでっち上げてしまったのです。J.K. Rowlingまでもがこれに加担し、「彼はファシストだ」などと断じています。

WSJはこの実に悪意ある報告をYouTubeとPewdiepieのスポンサーであるDisneyに対して送りつけ、事態を重く見た(というより、YouTubeとPewdiepieの関係はそもそもあまりよくなく、これまでも何度かYouTubeはPewdiepieに対して陰湿な嫌がらせをしてきているようです)YouTubeは彼のシリーズ(Scare Pewdiepie2)を中断し、また「advertiser friendly」なGoogle Preferred schemeのリストから外すなど、既に制裁を行なっているようです。またMaker Studiosを通じてPewdiepieとスポンサー契約を結んでいたDisneyは契約を解消したと報道されていますし、PewdiepieのTwitterアカウントは一時凍結されています。

では、何が「問題」となったのでしょうか。彼の動画の粗探しを徹底的に行なったWSJのジャーナリスト達によると、昨年8月から彼が発信した動画の内9つに問題があるようですが、決定的とされ今BBCやThe Guardian、The Independentなどの英国系主流メディアをも含むほぼ全ての既存メディアで繰り返し報道されているのが、次の動画です。(別人によって抜粋されたものです。)

www.youtube.com

ご覧いただけばわかりますが、英語はよくわからないという方の為に一応簡訳すると、要するに$5払えば「何でも言ってあげる」というクラウドサイトがあって、「本当に何でも言うんだな?」ということで、西欧人なら(仮令心の中でそう思っていたとしても)公衆の面前やネット上では絶対に言わない(というか言えばまず間違いなく逮捕される)「Death to all Jews(全てのユダヤ人に死を)」というメッセージを入力し、しかも「それはどのように発音するのですか」という項目には「Sub Scruibe 2 Keeeem Staaar」(Subscribe to keemstar - keemstarというのは別の有名なYouTuberです。)と入力するなど、明らかにふざけたもので、これを受け取ったFunnyguysというインド人?の二人組がこれを実行するのですが、注文通り「DEATH TO ALL JEWS」と書かれた紙を見せながら、「subscribe to keemstar」と高らかに宣言し、これを見たPewdiepieが「マジかよ」と言わんばかりの驚愕した顔でこれを見届けるという動画です。

これを「決定的証拠」として、WSJはPewdiepieを「Anti-semite」と決めつけオンラインの世界から叩き出そうと躍起になっているのです。英語圏では日本でいわゆる「パヨク」ないし「市民活動家」と揶揄されるような社会正義に燃え過ぎて空回りしている人々をSJW(Social Justice Warrior)と言いますが、WSJが本当にSJW化したという洒落にもならないジョークが現実となっているというわけです。

無論、日本のメディアは西欧の大手メディアを真に受けますし、しかもPewdiepieのことを単に世界で最も経済的に成功したYouTuberとしてしか知らない多くの日本人は特に関心さえ持たずに「ふーんそうなの、で?」で終わらせてしまうでしょうから、誰も何も言わなければメディアの報道をそのまま信じてしまうでしょう。かつ日本人で英語がわかる(聞き取れる!)人というのはほとんど帰国子女か相当な知的エリート、つまり「Politically correct」な文化にどっぷり浸かっている人が圧倒的に多いでしょうから、私のような無闇に「PC」に反抗的で、しかも比較的自由な立場にある「英語の出来る(読み書きだけではなく、会話や聴解も一応はそれなりに出来る、という意味です)日本人」というのは残念ながらそうそういない(本当はもっといてほしいと思うし、またいるなら是非もっとご活躍していただければ幸甚です)ようですので、つまり私が何も言わなければ誰も真実を知らずに「Pewdiepieは反ユダヤ主義者としてDisneyからスポンサー契約を切られた人」という報道だけが一人歩きしてしまうのかなと思い本稿を執筆しているという次第です。

これ、しかし実は大変なことですよ。今となってはアゴラに投稿してこの愚かしさを広く知らせることができないのは非常に残念ですが、しかしそれでもこの「事件」は日本でも「西欧メディアの歴史的大失態」として記憶されるべきものです。

というのも、実際に権力を得ようとしている政治家であるTrump氏に対するメディアの攻撃は、Trump氏側に非があると思われる部分も多少はあったしまたそもそも「権力のチェック」を最大の使命とするメディアが政治家を批判することは一応許容されるべき範囲だと私はこれまで思ってきました。

しかし単に億万長者だというだけでこんな酷いでっち上げをしてまで一人の人間の社会的生命を奪おうとするなんて、もう人道的に許される範囲を超えています。幸いPewdiepieは支持者の多い有名人なので、今英語圏のネットユーザーの間では彼を支持し守ろうという声が続々と集まってきてはいますが、これがそれほどの影響力を持たない名も無き一般のちょっとした有名人に過ぎない人だったとしたら。

トランプ氏は就任当初こんなことを言っていました。「私はまだ恵まれているよ、だって(Fake Newsに対して)言い返せますからね。しかしそうでない人、つまりこれ(マイク)が手元にない人、こういうメガフォンのようなものを(言い返す機会を)持たない人はどうなるだろう。とても悲しいことだが、私はメディアに社会的に殺されてきた人々をもう何人も見てきた。そして、こんなのはフェアじゃないと私は思います。」

今、Pewdiepieとの関連で改めてトランプ氏を見ると、なるほどねぇと思わざるを得ません。これが大手メディアというものなのかと。私もトランプ氏の躍進をある程度は期待していた方であるとはいえ、本当に勝てるとは思っていませんでしたし、大手メディアにもまだ一定の敬意を持っていたし、読むべき価値もあると思っていたし、また実際に(批判的にではあれ)読んでいました。

しかし今回のPewdiepie騒動にはさすがにもう擁護すべき点は全くありません。心底呆れるばかりです。確かに「Death to all Jews」は悪ふざけが過ぎているし、あまり褒められた冗談ではないでしょう。しかしだからこそ彼はそこを試したのであって、彼もまたこれを実行した"funnyguys"もこれについては公に謝罪しています。

とはいえそれ以外の「問題」は完全に言いがかりです。ただHitlerの映像を少しでも自分の動画で「ネタ」として流しただけでAnti-Semiteだと言うのですか?フランス映画の名作 Intouchablesでは少しだけ「ヒトラーネタ」が入っていますが、Pewdiepieの動画でもあの程度の扱いです。まさかSJWはIntouchablesまでAnti-semite扱いするのでしょうか。冗談が通じないにもほどがあります。

これで良いのでしょうか。こんな知的醜態を晒している知的エリート達は、他方では暴力的なデモでもその対象が「fascist」であるなら正当だなどと宣う御仁なのです。そういう過激性を持つ人々に「fascist」扱いされるというのは、今の西欧社会の文脈では経済的損失や社会的名誉への傷以上に脅迫状を堂々と公衆の面前で渡されるのと同じですよ。ましてPewdiepieはスウェーデン人ですからね。一応ヨーロッパなのでカリフォルニアやシカゴよりはマシだとはいえ、スウェーデンで「fascist」扱いされれば誰に何をされるかわかったものではありません。

本当に酷いことです。こんなのは「集団いじめ」以外の何でもありません。日本のメディアはせめてこんな下衆な「祭り」には加担しないでください。せめて日本だけでもユーモアを保てるようにしようじゃありませんか。以前から何度も指摘しているように、このような現代西欧の異常性から眼を背けて日本における「言論の自由」を当然視するのは危険ですし、そもそも日本には日本なりの別の「禁止コード」が存在しているので日本の「言論の自由」が完全だとも言えませんが、しかし西欧のこの残念な凋落には断固反対し、日本から率先して自由を守り、また拡大していこうじゃないか、というのが海外在住者である私の提言であり、また切なる願いでもあります。

無論Hate Speechを野放しにしようというのではありません。本当に脅迫的なものは当然取り締まられるべきでしょう。しかし人からユーモアを奪うのは、もはや独裁政治と変わりません。笑えない、というより冗談ですらないHate Speechは擁護する必要はありませんが、こんな風にジョークを殺してはいけない。

ですから日本の皆様は、西欧の主流メディアだからって簡単に信用せず、批判的視点を持って読んでいただければと思います。もうメディア依存はやめましょう。常に信用できる「大手メディア」など、結局どこにもありません。少なくとも西欧にはありませんし、西欧にないなら政府系メディアの露骨な偏向を許している他の国にもないでしょう。大手メディアの著名人に対する人身攻撃からも、大衆的なHate Speechからも距離をおけるような批判的思考を養いましょう。こんな時代に信用できるのは結局はきちんと他人をも自分をも批判的に見られる人だけです。私は、わざわざこの私の長たらしい論考を読んで下さるような方々はそうした批判的思考を既に身につけておられる立派な方々であると信じています。(批判的にものを考えることもしないような人なら、何が嬉しくて何の権威も権力もお金もないただの若い変わり者である私の小難しい駄文を読むために貴重な時間を割くでしょうか。)

ということで私は自分の論考の読者をかなり信用していますので、その前提の上で敢えて言います。西欧の既存メディアが信用できるという時代はもう終わりました。もう大分前から終わっている、終わっているという指摘は方々から出ていましたが、今回のPewdiepieの騒動のおかげでほぼ完全に決着が着きました。既存メディアは終わりです。Pewdiepieは恐らくこの戦いに勝利するでしょう。その時、既存メディアの信用はもう地の底です。

彼らは世界情勢の分析や世界の貧困問題について真剣な論考を書くよりも、またお得意のトランプ批判に時間を割くよりも、人畜無害な一介の市民に過ぎないちょっとした有名人の「失言」をあげつらうことに三人もの人員を投入し「分析」させてまで「PV稼ぎ」に奔走する(しかもWSJのPewdiepieに関する記事はsubscribeしなければ読めません!)ほど凋落しているということを、全英語話者に対して自ら周知してしまったのです。Pewdiepieは、腐っても最も稼いでいるYouTuber、その影響力はWSJの「有料記事」とは比較にもなりません。

これからは、PV稼ぎに走っていない真面目な論考を読んでください。日本や海外の大手メディアではなく、池内先生のFBや中東風姿花伝など、日本の良心的な学者の方々が無料で公開しているブログなどを最初のスタート地点として、既存メディアを批判的に読む習慣を身につけてください。また学術書や古典は仮令それがエリート的なものでもどんどん読んでください。学問の世界には一応まだ批判精神の伝統がまだそれなりに残っていますから、それなりに得られるものもあります。

いやはや、それにしても西欧もいよいよこうなってしまったか、というのが私の正直な感想です。こうなってくると、リベラル派の凋落をもたらしたのは他でもない、案外リベラル派自身の「貧困」なのかもしれないと思わされます。

アサド政権について

Le Figaroにシリア大統領アサド氏のインタビューに関する記事が載っていました。

これまで通り、信用すべきなのか「レトリック」として冷笑すべきなのかわからないような妙なことを今回も述べているようです。上記リンク先の記事にはこうあります。

«La politique de la France depuis le premier jour est de soutenir les terroristes, d'être directement responsable des tueries dans notre pays», affirme Bachar el-Assad. Il accuse le président François Hollande d'avoir «envoyé de l'armement à des groupes modérés qui sont en fait des terroristes».

 また、トランプ氏の「ムスリム入国制限政策」に関しては、「理解できる」としています。

Interrogé sur le décret anti-immigration du nouveau président américain, qui vise notamment tous les immigrés en provenance de Syrie, il semble le trouver justifié: «Ce n'est pas le peuple syrien qui est visé ici. Ce sont les terroristes, qui pourraient s'infiltrer à travers certains immigrants venus à l'Ouest.» Il rend hommage à l'action de Vladimir Poutine dans son pays. «Les Russes respectent notre souveraineté, chaque étape est franchie en coopération avec la Syrie. Nous sommes les décideurs. Sans ce soutien des Russes les choses auraient été pires. 

 トランプ氏が制限しようとしているのは「テロリスト」であり、「(善良な)シリア市民」ではないので、アメリカがこのような行動を取るのも正当だ(justifié)だと考えているようだ、とこのジャーナリストは判断しています。またロシアがシリアの「主権」(souveraineté)を尊重しており、ロシアの援助がなければ状況はもっと悪くなっていたであろうと言っています。

またラッカを攻略したところで、ラッカはDaeshのシンボルに過ぎず、本拠地でも何でもないのでDaeshそのものを攻略したことにはならない、ラッカだけがDaeshではないと述べています。

 «Ces attaques n'ont pas nécessairement été préparées à Raqqa. Raqqa n'est qu'un symbole de Daech». «Il y a une présence de Daech près de Damas. Ils sont partout. Ils sont à Palmyre en ce moment et dans la partie Est de la Syrie: alors non. Il ne s'agit pas que de Raqqa». 

そして、問題の本質はDaeshではなく、Daeshは問題から生じる「結果」に過ぎないと述べています。真の問題は「イデオロギー」であり、かつその「イデオロギー」は別のアルカイダ系のグループal-Nosraにも共有されているものだ、とアサド氏は言います。

Pour lui «Daech est une conséquence et non le problème. Le problème d'origine, c'est l'idéologie, la même que le front al Nosra (NDLR: groupe islamiste issu des rangs d'al-Qaida et opposé au régime )».

池内先生の「イスラーム国の衝撃」においても「ラッカ」という地が「象徴的」意味を持つ地であること、またDaesh側も象徴効果を狙って演出しているという点が解説されていましたが、アサド氏もこの点の認識はほぼ同様のようですね。

問題の本質は「イデオロギー」であるという点も、大きく間違ってはいないと思います。つまりアサド氏は確かに自分の立場を弁解する為に自分に都合の良いプロパガンダ発言をしているという面は当然あるにしても、そもそも彼が残虐な独裁者として振る舞わざるを得ないのは彼の人間性や資質に問題があるというよりも、背景に強烈なスンナ派の過激思想があるからなのだとすれば、アサド批判にどれほどの道義的正当性があったのかは疑問視せざるを得ません。

あるいは逆にそう思わせて自己利益を確保することがアサド側の狙いなのでしょうか?しかし、シリアにおいてアサド家の属するアラウィー派どころかシーア派全体が常時危険に晒されているというのはやはり事実でしょう。そう考えると、アサド政権の勝手な言い訳と片付けられる話では必ずしもないように思います。

いずれにせよ、西欧の基準で非西欧地域の混乱の原因をつくっている「邪悪な支配者」を特定しようとしても何も見えてこないというのが実態なのかもしれませんね。

西欧側はどうしてもアサドが全てを支配し全てに対して責任を負っており、またラッカを攻略すればイスラーム国は壊滅するはずだと考えたいようですが、実際はどうなのでしょうか。

例えば戦前の日本を考えてみても、「天皇」はおろか「首相」でさえも必ずしも完全に自由に意思決定をしていたわけでもなく、また出来ていたわけでもない。「邪悪な独裁者」の実像が、実は強硬論に反対すれば殺されるか職を追われるという状況の中、出来る範囲で事態を沈静化させようとする「エリート」であることもあり得るし、またそのような強迫的状況をつくっているのは官製プロパガンダでも特定人物のイデオロギーでもなく、民衆に根ざした道徳感情であったりすることもまたあり得るわけで、そうだとするとこの状況を変える為にすべきことは、もっと破滅的な結果を招きかねないほど困難なことかもしれない。

「政治的安定」の為には「少数派優遇」などの厳格なリベラリズム(perfectionist liberalism)が認めない「逸脱」も多少は許されるどころか奨励されるとまで主張する(この主張はこれを広めたRawlsの命名に従ってPolitical Liberalismと呼ばれているようです)M. Nussbaumに代表されるような現代の「政治的リベラルリズム」(political liberalism)の代弁者も、こういう時には「安定性/stability」よりも「正義」を優先するのが常です。ですが、むしろこういう時にこそ「stability」を優先すべきで、対処できないほどの大規模な難民を生み出すような反独裁政権工作は必ずしも最善ではないとは考えないのでしょうか。

まあ、考えないでしょうね。彼らは「進歩」の為に何でもすべきことをとことんすべきで、一時的安定の為に妥協するつもりはありませんから。少数派を優遇するようなタイプの不正義は進歩的であるから許されても、独裁者を許容するような不正義は非進歩的なので許されない。

西欧がこういう姿勢を「非西欧」に対してもとり続けるようなら、この混乱は半永久的に永続化するでしょう。西欧側も最近は「疲れて」きているので、一時的に進歩主義を「中断」しようという機運が高まりつつあるのは事実ですが、トランプ氏や「極右」政党の路線が長期的に受け入れられ伝統化するという兆しは今の所全くありません。西欧はあくまで進歩のための努力をしていくでしょうし、反進歩的な思想の「体現」に対しては一切妥協することはありません。つまり個人レベルでの「信仰」には口出ししないしむしろ全力で保護しようとするとしても、それが「政権」として体現されればこれを全力で否定するのが西欧です。

このような形での「思想の脱政治化」を進めていくことが西欧的進歩の基本的方向性であって、思想を「現実化」する自由は、西欧の価値に反する思想にはありません。そういう意味では、laïcitéを強制しているのはフランスだけではなく英米も同じです。フランスは国内政策上でlaïcitéを法制化しているので、英米はこれをもってフランスを「暴力的」であると批判しますが、国際政治においてこれを事実上行動で示しているのはむしろ英米側でしょう。

ということで、アサド氏の対談に関しては以上です。ここからは完全に余談です。(あるいは独り言です。)

日本の仏教や神道、中国の儒教や老荘思想、またインドのヒンディー思想などは既に「西欧の視点」から「オリエンタルなもの」の代表として「平和思想」として体系化されてしまっています。かつて日本はこれに「大日本帝国」という新たな戦闘的イデオロギーによって挑戦しましたが、それでさえ「大東亜共栄圏」という「平和主義的なオリエント」という西欧的偏見を逆に利用したもので、オリエンタリズムをある部分では内面化していました。

イスラームもやはり一時はこの「オリエンタリズム」によって「平和化」されそうになっていましたが、プライドの高いアラブ人達は此の期に及んで抵抗を見せ、しかも聖典解釈を「過激化」する(コーランは確かに元々戦闘性の高いものですが、テキストに基づくオリエント化を拒むほどではありません)ことで「オリエンタリズム」に対して正面から挑戦状を叩きつけている。

暴力は決して正当化できないしまたされるべきでもないが、イスラームの「テロリズム」は、鳥瞰的に見れば「オリエント」を勝手に「平和化」しようとする西欧の「傲慢」に対して、「オリエントの暴力性」を誇示することで「オリエンタリズム」に抵抗しようとする、悲しき実験なのではないかという気がしなくもありません。

他方、最近は西欧でもリベラル派の間で「時には暴力も辞さない」という過激リベラリズムがにわかに流行しつつあり、例えばBerkeleyにおけるMiilo Yiannopoulosという人の講演に反対するデモ隊による暴力は「正当」でかつ「成功」であったという見方をする人もあります。また先日フランスでは悪名高きサン・ドニのBobignyという場所において「警察によるマイノリティに対する暴力」があったとして、これに反対するという名目の暴力的デモが生じましたが、これもパリやマルセイユで後に続くデモが発生するなど、全く否定的に捉えられていないどころかむしろ肯定的に正当化される向きがあります。

このように、西欧における「political correctness」は「トランプ大統領誕生」を経て新たな段階へ移行しているように思われますが、彼らもまた過激化していくことで大衆的支持を徐々に失っていくかもしれない一方、大衆がリベラリズムから決定的に離れた時にはこの過激リベラル層が本当にイスラーム主義と合流する可能性をも秘めていると見て私は個人的に注視しています。

 

参考文献:

Nussbaumは現代の西欧のリベラル派的な考えを最も的確に表現している論者の一人ですので、もし「西欧のリベラル派的な考え方」に関心を持たれておられる方がおられましたら以下を一読されることをお勧めいたします。

Nussbaum, M. (2011). Perfectionist Liberalism and Political Liberalism: Perfectionist Liberalism and Political Liberalism. Philosophy & Public Affairs, 39(1), 3-45.

米国政治学者Jennifer Lind氏の日本の再軍備容認論?

Jennifer Lindという米国の政治学者がForeign Affairsに寄稿していた記事、"Asia's Other Revisionist Power"にあった記述は、私の政治的立場を説明するのにちょうど使いやすいものであったので少し御紹介いたします。

まずは以下をご覧ください。Lind氏は中国の南沙諸島への進出等といった東アジアの地域的脅威という状況の中、日本はどのように行動することが期待されるかという点に関して以下のように述べています。

So far, Japan’s response to China has been restrained. Although changes in the Japanese defense posture often generate alarmist headlines, Japan’s actions to date have been modest, especially when compared with how great powers normally behave when confronted by a rising power in their neighborhood. The Japanese public is preoccupied with a lagging economy and an aging society; it has no interest in military statecraft and has disapproved of the security reforms pushed by Abe and other conservatives. But as the world’s third-largest economy, Japan has tremendous latent power; a sufficiently alarmed Tokyo could decide to increase its military spending from the current one percent of GDP to two or three percent—an undesirable outcome for Beijing.

つまり(英語圏では)日本の「防衛」に対する態度が変わるたびに警告的なニュース報道ばかりが出てくるが、これまでのところ日本の行動は「modest」であり、また日本人は「安倍首相の進める軍拡」に非常に批判的であって、危険なほど軍国化しているとは到底言えず、それよりも経済の停滞と高齢化社会への対応に追われている普通の国なのであるから、むしろその力を中国の脅威に対抗する米国の同盟国として使ってもらっても良いのでは、ということです。

また、Lind氏はこうも述べています。

Chinese officials argue that U.S. interference has caused its neighbors to respond with alarm, but China’s own revisionism is to blame. Consider that for the past 60 years, even as Washington constantly entreated Japan to play a more active military role in the U.S.-Japanese alliance, Tokyo stepped up only when it felt threatened, as it did in the late 1970s when the Soviet Union launched a military buildup in Asia. Today, Japan is responding not to U.S. pressure but to Chinese assertiveness. Beijing must understand how threatening its actions appear if it wishes to successfully manage its relations with its neighbors and with Washington.

簡単に言えばアメリカの介入こそが周辺国の過剰反応を起こしたと中国側は言っていますが、悪いのは明らかに周辺国を刺激している中国の方だということですね。

西欧による「revisionism」への批判が、日本に敵対的な態度をとる国家へと向けられている時にはこれが日本にとっていかに心強いものであるかは一目瞭然だと思います。Lind氏は中国に対する懸念と批判を強めるあまり、ほとんど日本の再軍備を認めるところまで行っています。大国によるrevisionismというのは、それほど政治学者の意見を硬化させる(のを正当化する)ものなのです。

私は以前も「revisionism」という批判(それが歴史に関してのものなら歴史修正主義と訳されますが、同じ言葉です)を英語圏からされることは非常に手痛い傷であるということを指摘しましたが、それが仮令日本の法律上は「言論の自由」の範囲とされるとしても、国際的な「公共の福祉」を害していると判断されればこういうところで決定的な批判理由とされてしまうわけです。幸い今は日本よりも中国に矛先が向いているので良いのですが、こちら側もなるべくこういう欠点を避けておくに越したことはありません。

歴史問題に関しては、共産党が瓦解し中国が自由化した後であれば、一般の中国人にも自由な歴史研究が解放されて自然に「真実」が明らかになってくるでしょう。少なくとも自由化した後であれば純粋に学問的な論争として展開し脱政治問題化できる希望があります。相手が共産党である間はこの問題の解決を焦ること自体が得策ではない。相手側が聞く耳をもっていないは明らかですからね。それよりもまず中国を解放して、イデオロギー的反日に終止符を打つことが先決です。そこまではアメリカも国際社会も望んでいることですから。

日本人ももっと大局的視点から言論をしていけば、西欧はちゃんと日本の冷静な姿勢を評価します。相手が不当な主張をしてきても、こちらが同じことをする必要はないのです。むしろ同じ土俵で戦うべきではないでしょう。日本人の「我慢」の成果は出ています。アジアに対する排外発言は抑えつつ、着々と西側の了承を得られる範囲で安全保障を拡充させて行きましょう。そうすることで「彼ら」は自然に黙るようになるはずです。日本人に不毛な論争なんて似合いません。実力を静かに示すだけで良いのです。

日本における哲学研究についての独り言

あの、突然ですがDavid LewisのOn the Plurality of Worldsって翻訳が出たの去年なんですね。てっきりどこかにあるものだと勝手に思っていましたが。。

まあ今更Lewisに戻っても仕方がない感じもしますが、じゃあKripkeは?さすがに日本でも話題になっているしあるよね?と思ってアマゾン(日本)で探して見ると「Naming and Necessity」の八木沢敬先生訳と、「Wittgenstein On Rules and Private Langauge」の黒崎宏先生訳があるだけでした。
この内Naming and Necessityを訳された八木沢先生は英国で学部を出て米国で教えておられるので最初から分析哲学「で」学んでいる方です。つまり日本の教育機関による純粋培養では全くありません。

黒崎先生の方は東大出の国産学者の方ですが、こちらも「On Rules and Private Language」を原著が出たすぐ後に翻訳を出されていて、結果としてはさすがに日本におけるKripkeの導入は早かったようですが、黒崎先生の場合はあくまでWittgenstein研究につられる形でKripkeの議論も訳されたという感じのようですね。実際最近のreference and existenceとかはまだ誰も訳していないようですし。他にも本になっていない論文など沢山あるのですが、無論訳されていないようですね。

私は別にPossible Worldsの議論が特に重要だと思っているわけでもありませんが、しかしこの辺りの議論(modalityに関する一連の議論)は英米分析哲学の肝となる部分で、合理的理由なく無視していい部分ではありません。というか、これやらないならむしろ日本の英米系哲学研究って何やってるのって話になってきてしまいますよね。まさかWittgestteinを永久に大陸哲学的なやり方で研究してるとかではないですよね。。ま、別にそれならそれでも良いのですが。。

ということでちょっと気になって東京大学哲学研究室の「論集」を確認してみると、やっぱりほとんど全てが大陸哲学の研究論文で、一ノ瀬先生だけが一人で(しかも英文で)英米系っぽいことをやっておられるようですね。。まあ東大でこれなら仕方がないか。。という気になりました。

ちなみに大陸哲学研究でも私はスピノザは結構好きなので笠松和也さんの「スピノザ哲学におけるコナトゥス概念の発展」を読んでみましたが、Wolfsonってちょっと古すぎませんかね。まあ今回の論文ではイントロでチラッと使われているだけなので単に枕詞として使われているだけなのはわかりますが、日本の研究だと「大家」とされる古い研究がいつまでも持ち上がられて、その後の(特に批判的)発展が比較的軽視される傾向はやはりあるような気はします。少なくとも英語の論文で「Wolfsonは...」とか「Guéroultによれば...」とか、古い大物研究者を大先生として特別扱いする印象を与えるようなのは見たことがありません。なんと言うか、論文全体に漂う雰囲気が全然違います。日本語論文は「権威への忠誠」を疑われまいという緊張感を読者にさえも与えますが、英語圏の論文は「indefensibleな発言を一言でも言ってはならない」という緊張感だけに支配されているという感覚です。これ、何なのでしょうね。

後、個人的にはSpinozaならDella Roccaの路線とか超有りだと思うのですが、日本では案の定総スカン食らっているようですね。もしDella Roccaの読みに基本的に賛成する路線でスピノザ研究しておられる日本人の学者(あるいは学生)の方がおられるなら名乗り出ていただければ私はあなたの論文、喜んで読みますよ!

さてちょっとどうでもいいことをだらだらと述べましたが、笠松論文の内容そのものに関しては、「conatus」が元はギリシャ語で何か、つまりアリストテレス哲学では何に該当するのかという点はまあ文献学の範囲だしよくわからないのでパスしますが、スピノザのconatus概念というと通常はホッブスやデカルトとは「異なる」点が強調されるのに笠松氏の論ではスピノザが「機械論の中で捉え直された、コナトゥス概念を確かに受容している。その点でスピノザはホッブスやデカルトと同じ側に立っていると言える」(p.195)と注釈もなく結論されているのはちょっと疑問ですね。結局は結論においてホッブスやデカルトと異なるスピノザの独自性が示されるとはいえ、その独自性は「短論文」まで遡らなくとも「エチカ」に表現されている時点でもホッブスやデカルトとは違って、スピノザは「conatus」を「自己保存」という極めて静的な原理として捉えている。つまり「conatus」を「自己保存」と捉えることそれ自体が独自的なものであるという指摘が他方ではあります。というのもデカルトとホッブスは「conatus」を「動的変化」を促す原理と捉えているからです。例えば、Harvey (2012)ではこうあります。

Spinoza’s theory of conatus differs distinctly from those held by Descartes and Hobbes. Defining “conatus” as the endeavor “to persevere in being” or “to preserve one’s being” (Ethics III 6–9; IV 18; et passim),he understood it to be a conservative principle. Descartes and Hobbes, however, took it to be a principle of change. (Harvey, 2012, p.292)

また続けてHarvey(2012)はこうも指摘しています。

Spinoza considered his own notion of conatus to be partially similar to Descartes’ “first law of nature” (ibid., II 37), which is in effect the law of inertia (“any object, in and of itself, always perseveres in the same state”), but insisted that conatus is “something outside the laws and nature of motion” (Cogitata metaphysica I 6).  (Harvey, 2012, p.292)

 つまり、スピノザの「conatus」原理は機械論的理解(laws of nature)の「外(outside)」にあるものとHarveyは理解しているわけです。ということは、「スピノザがconatusを機械論的に理解しているのか」という点からして一応議論の余地があるということではないでしょうか。まあ、別にそんな細かいことをネチネチと指摘しなくても良いのかもしれませんが。。

ただこうして色々振り返ってみると、やっぱり学部段階でこちらに来ておいてよかったなとは思います。無数の英語論文にアクセスできるというだけでも大きなメリットです。以上、ちょっとだけ「専門的(?)」な独り言でした。

 

参考文献:

Harvey, W. (2012). Gersonides and Spinoza on Conatus. Aleph, 12(2), 273-297. doi:10.2979/aleph.12.2.273

 

日本人知識人の責任 - 戦後リベラリズムが向き合わなかった問題 réflexions sur la question "non-japonaise"

「日本人」であることに伴う責任というのがあるとしたら、それはなんでしょうか。

よく言われるのは、以下の三つでしょう。

1. 旧植民地のアジア諸国に対して歴史的責任を負わねばならない

2. 戦勝国(特に米国)に対して彼らが日本に対してとった敗戦終盤における軍事行動(特に原爆投下)に対する人道的悲劇を再び繰り返さないことを求めねばならない

3.母国(日本)に対しても多数の「帝国臣民」を犠牲にした世界史上最悪の「敗戦」という政策的失敗を繰り返さぬよう提言し続けなければならない

確かにこの三つの課題を一つでも等閑にすれば、それは日本人としての責務を怠っていると言えるのではないかと私も思います。

この視点で見ると、日本の所謂「リベラル派」- 前稿で扱った井上達夫先生の「リベラリズム」ではなく、一般に大衆的保守派から侮蔑を込めて「左派」扱いされている、主に「朝日新聞読者層」を中心とする「リベラル派」- は、この「日本人としての責務」を確かに果たそうと努力してきたことは認められると思います。

ただ、その努力はある面では保守派に譲歩したせいで不十分であり、またある面では不用意に「行き過ぎ」ていたり、またある面では西洋に関する偏った見方や「誤解」に基づいたり、あるいは国民の誤解を招くものであったりなど様々な瑕疵が重なり、結果的に信用を失墜してしまっているように見えます。

と言ってもそれはあくまで「ネットの世界」や「保守界隈」において信用を失いつつあるというだけで、現実世界ではエリート層の大半は今でも朝日新聞の報道やコラムに一定の敬意を持っているでしょうし、むしろ朝日新聞を読まないような人は「ネトウヨ」であるという否定的イメージさえ漠然と抱いているかもしれません。慶應義塾大在学中には、私が法学部生だったこともあり、知り合った学生の大半がそういった「リベラル」な人たちでした。稀に「俺は愛国者です」と周りに宣言している人もいましたが、その口ぶりから自分が少数派であることを自覚しているのは明らかでした。その意味では、「教授」のみに限らず「名門大学の学生」というのはもう立派な「エスタブリッシュメント」の一部であって、この中では朝日新聞的リベラリズムはかなり浸透していると言えるでしょう。

だからこそこれを不満とする知識人の一部がネット上で「言論の自由」を行使して鬱憤を晴らしているのかもしれませんが、いずれにせよ「高学歴」若年層の間で「ネトウヨ」はまず流行りませんし私の知る限り流行っていません。「シールズ」的な運動が流行っているのかというとそれも違います。志向的には確かにむしろ「シールズ」に近い人が多いでしょうが、まずそもそも今の「エリート」学生は基本的に自分たち固有の「意見」が社会で影響力を持つことが出来るという可能性からして信じていません。

若者が言論人としてテレビや雑誌に出て「若手論客」となる為には「ネトウヨ化」するかあるいは逆に「朝日新聞」的な欺瞞に眼をつぶって50年以上も前から何度も繰り返し言われていることを自分も言うかしかないということは、若者は既にわかっています。だから最初から何も言わないのです。こうして脱政治的な日常を送る方が「合理的」だという判断は特に高学歴の「若者」の間では広く浸透しています。

ちょっと話が逸れましたが、本題に戻りましょう。

結果的には「エリート層」より先の大衆的支持を得られず、また「保守界隈」の逆鱗に触れてしまった朝日新聞的な「リベラル派」の方々の試みは、具体的にどの点が不味かったのか。

それはまず第一に「戦争への反省」を徹頭徹尾「内向き」なものにしてしまい、また「歴史化」してしまった点です。これは「戦後リベラリズム」の元祖とも言える丸山真男に対する批判としてよく挙げられる点でもありますが、丸山先生はあれほど軍国日本の無責任体制や天皇制ないし古層を徹底的に批判されたにも関わらず、何故か中国大陸や朝鮮半島の旧帝国日本植民地ないし戦地において「被害」を受けた人々と現代の日本人はどう向き合っていくべきかについてはほとんど語っていません。これに関しては現代のリベラル派に関しても同じことが言えます。

韓国や中国について(かなり否定的な形であるとはいえ)語っているのは保守派の方であり、リベラル派はほとんど語っていない。勿論従軍慰安婦については語っているでしょう。南京事件についても保守派を激怒させるほど語っているでしょう。ところが関東大震災の際に「朝鮮人」に対する大規模な加害行為が加えられた(これもデマだとかあるいは朝鮮人は実は皇室に対するテロ計画をしていたからあれは正当だった云々という話も「保守」界隈では広まっているようですが、今はリベラル派の話なのでそこは論じません)という点について、ここに「戦争」とは直接関係のない、現代の日本社会そのものに内在する問題にもつながるものとして論ずるような「リベラル派」は何人いたでしょうか。あるいは現代の「中韓」に関する日本の「論壇」における「言説」を、リベラル派はどの程度真剣に受け止め、問題視してきたのでしょうか。

今や現代においても日本人が朝鮮人や中国人に対しある種の差別感情を持っているのは明らかなのに、リベラル派はそのことをさほど問題にしてこなかったのではないでしょうか。部落差別や「人種」差別については比較的熱心に取り組んで来たようですが、同じ「東アジア人」の間に残る国籍や文化ないし思想に基づく差別を解消しようという「リベラル派」の動きは非常に弱かったのではないかという気がします。

かつ、その理由は明白です。それは日本以外の東アジアが戦後は「共産主義」に支配されていたりあるいは戦争状態にあったので、「東アジア人同士の結束」などを進めようとすれば「共産主義」を拡大しようという意図があるのではないかとアメリカに疑われるリスクがある。逆に共産主義をはっきりと否定しアジア諸国を自由化する意志を表明した上で「アジアの結束」などと主張すれば、今度はアジア諸国の共産独裁政府が「大東亜共栄圏の焼き回しだ」などと言いがかりをつけて批判してくる恐れもある。(丸山先生は米国批判を躊躇する方ではなかったようなので恐らくこの後者の方を懸念されていたのではないかと想像します)つまり東西冷戦の構造の中では「東アジアの結束」を主張すること自体が極めて難しかったのは容易に想像がつきます。まして中国や韓国の大衆には強い「反日」感情があるので、主張してみたところで容易に実現しないのも目に見えている。それなら最初からこの件には「触れない」でおこうということにされてきていたのではないかな、と私は勝手に想像しております。

しかしやはりこの点は現在にも禍根を残しているのは最早明らかです。島崎藤村の時代にはあれほど深刻だった(一部では今でもあるのかもしれませんが)部落差別も、今日ではほとんど忘れ去れています。「破戒」の光景がそのまま今日でも見られるとまでは誰も思わないでしょう。しかし「アジア人差別」はほとんどそのまま残ってしまっている。「在日」というワードが本来なら在日外国人全般を指すはずなのに事実上「日本に帰化することを拒否しつつ日本滞在をつづける朝鮮人」を指す侮蔑語として使われてしまっていることからもわかるように、この差別感情は相当強固です。私自身、思想や見た目云々よりは高学歴であるにも関わらず挙動があまりに不審であったり異常に暴力的で危険そうな人に出会うと「この人は本当に日本人なのか?」という疑問が一瞬過ぎることはあります。しかし、もしこの「本当に日本人?」という感覚が「アジア人差別」に繋がっているのだとしたら、これはSartreがRéflexions sur la Question Juiveで述べている通り、『「ユダヤ人」とは「我々」の側が創り出す虚像である』、つまり日本の文脈に置き換えれば『「朝鮮人/支那人」とは「日本人である我々」が創り出す虚像である』ということになるでしょう。無論フランスにおけるユダヤ人の問題と日本における朝鮮人の問題は類似点も多いとはいえ基本的に全く違いますが、しかし別に朝鮮半島出身であることが明らかではない有名人や犯罪者をなんの決定的証拠となる情報もないうちから「在日」認定したり、挙句には匿名掲示板においてさえ顔も見えない相手に純粋にその発言の思想的傾向のみから判断して「在日」と認定したりするに至っては、「在日認定」はもはや実際に朝鮮半島出身であるか否かによって決まるというよりは、日本人の側が「在日」であると判断した人が「在日」と認定されるに過ぎないという方が正しいでしょう。だからこそこの問題は根深いのです。

しかしこの問題を解決する為に最も重要なのは、誰がその差別の対象となっているかという点ではありません。そこも被害者にとっては重要ではありますが、加害者側にとっては別に対象は何であってもいいのです。

仮に本当に「朝鮮人」を全員追い出したところで、日本人はまた「朝鮮人」に代わる別の「問題グループ」を見つけるだけでしょう。例えば戦前では「アカ」も差別対象でしたし、あるいは部落差別や犯罪加害者やその周辺が差別されるという事態が再び復活ないし強化されるかもしれません。だとすれば、この「対象の定まらない差別感情」そのものとどう向き合うかという点こそが枢要です。

『日本にはそもそもユダヤ人がほとんどいないし、従って「ユダヤ人問題」なんてないから関係ない』というのはその意味では間違いです。ユダヤ人問題(la question juive)の問題点は実在するユダヤ人ではなく、あくまで我々(nous/les français)が創り出す虚像としての「ユダヤ人(juifs)」が問題なのです。つまりこれは「我々」の側の問題なのであって、その認識から出発しなければ絶対に解決しないわけです。ところが、日本の戦後リベラリズムはこのサルトル的視点を「自分の問題」として強く意識してきたのでしょうか?私はこの点が強く疑問だし、かつこれこそが戦後リベラリズムを退廃させた原因であると考えています。もっと解りやすく言えば、戦後リベラリスト達が大衆のみならず自分自身にも潜むこの「闇」ときちんと向き合わないまま、戦中における「戦争犯罪」ばかりを強調することでかえって問題をさも過去のものであるかのように「歴史化」してしまい、要するにその責任を戦前の軍国日本に全部押し付けてしまって、現代にも続いている「差別感情」の面を無視してきたのではないかということです。これはもはや「戦後の無責任の体系」の一部と言っても良いでしょう。

もちろん、日本人の朝鮮人や中国人、あるいは「在日」に対する差別感情を問題視する際には、ユダヤ人問題とは別の配慮が必要だというのは一理あります。1945年以前のユダヤ人とは異なり、朝鮮人にも中国人にも国家が存在し、かつ韓国や中国の中では逆に日本人が「ユダヤ人」的存在として扱われる可能性も十分にあり得るからです。つまり、現代においては日本人が常に絶対的強者というわけではないし、例えば韓国においても在日朝鮮人が差別されるという問題もあるので、一概に日本人と他のアジア諸国民が抑圧者と被圧者の関係にあるとも言えない。しかし、それでも国力や文化水準という点では日本が依然相対的に高い地位にあるわけですから、やはりそれに伴う責任というのも生じてくるかと思います。

とはいえ、やはり朝鮮人や中国人とどう向き合っていくのかというのは非常に難しい問題です。簡単な答えは出ないし、正直に言うと私もわかりません。今のままではダメだというのが明らかなだけで、ではどうすればいいのかというのはわからない。

ただ、とりあえず大衆間で行われている「在日認定」をサルトルのréflexions sur la question juiveの視点から問題視していくというところから始めるのは重要なのではないかということだけは言えるかなと思います。逆に言えば、それさえしてこなかった戦後のリベラリズムはその時点でそもそも内部に矛盾を含んでいたわけです。

つまり、彼らは民間で行われる「朝鮮人・在日」の「ユダヤ人化」に同じ土俵で対抗する形で「日本人・右翼・低学歴保守層・大衆」を「ユダヤ人化」し、自分達「良識ある生まれの良い行儀正しい日本人」から区別した上で、なるべく多くの「日本人」を彼らの側へ「改宗」させようとしてきたに過ぎなかったのだとしたら。彼らが「大衆的日本人」を見る眼が、大衆的日本人が「朝鮮人」を見る眼と同じものだったとしたら、あるいは彼ら自身もやはり同じ眼で「朝鮮人」をも見ていたのだとしたら。この「nous」から除外された人々に対する侮蔑的目線の問題は、知識人の側も全く克服できていないどころか、彼らの「日本の西欧に対する遅れ」論こそがそのまま日本人の中国大陸や朝鮮半島に対する差別感情に繋がってしまっていた可能性さえあるのではないでしょうか。

この点を反省しなければ、日本のリベラリズムに未来はないでしょう。

日本における「言論の自由」について - 啓蒙主義リベラリズムの立場からの「天皇制」擁護論

「ポピュリズム」の台頭ないし有権者の「右傾化」を受けて、ヨーロッパでも徐々に「言論の自由」への事実上の規制があまりに苛烈過ぎたのでは無いか、という声が「リベラル派」の内部にも生じてきているようです。私は体調不良で行けなかったのですが、先日ダラム大学でもリベラル派論客による「言論の自由」に関する公演があったようで、公演を聞きに行った友人は(勿論リベラル派ですが)「言論の自由はやはり大事だな、それが右寄りだったりracistだというだけで規制するよりも、規制の対象を脅迫のような本当に危険な発言のみに絞るべきという論者の意見は正当だと思った」と言っていて、ようやく私自身の立場についてちょっとだけ理解が得られた気分になりました。(私は最初から過剰な言論規制に反対していたので、こちらではかなり右寄りな人だと思われています。笑)

こうなれば、ヨーロッパに関してはリベラル派はやはりこれまで通り少しずつでもこのように色々な失敗を経て成長していくのでもう特に心配は要らないでしょう。最近の行き過ぎは彼らの理想を阻害する「障害」の不在によって生じていたに過ぎず、いざ「障害」が目の前に厳然と現れれば彼らはちゃんと反省し改善すべき点を見つける。この一連の流れそのものがヨーロッパの伝統的な知的思考習慣の枠組みの中で行われているので、別に「外圧」が加わらなくても自分で変わっていけるのです。

正直に言うと、この点はやはり見ていて羨ましいと思います。やっぱりヨーロッパは腐ってもヨーロッパだなあと。特に60年代の公民権運動やフェミニズムの興隆以来増長の一歩をたどってきたPolitical Correctnessが文字通り(デモ隊の奇声という)音を立てて崩れていく瞬間と、高学歴層の若者がこれをきっかけにある種の「反省的理性」を取り戻していく瞬間にヨーロッパに居合わせることが出来たのは幸運です。

とは言え、これで一見落着というわけには行きません。そもそも私はヨーロッパ人ではありません。あくまで日本国籍しか持たない日本人です。日本人である以上は、ヨーロッパだけでなく日本の知的状況に気を配る必要があるのは勿論です。では、日本における「言論の自由」はどうなっているのか。日本では言論の自由がきちんと保証されていると言えるのか。私は極めて懐疑的です。

まず、そもそもヨーロッパにおいてPolitical Correctnessが「右派」的言説を事実上圧殺してきたというのは事実ですが、日本ではそんなことは生じていません。日本で生じているのはその真逆であって、「左」の共産主義系の言説の方こそが圧殺されてきています。例えば廣松渉の「マルクスの根本意想は何であったか」という本は通常の書店で手に入るでしょうか。否、そもそも「情況出版」の本が一冊でも置いてあるでしょうか。国際派の活動家としてだけでなく学者としても名高い廣松渉でさえこれです。岩波から出ている「存在と意味」や「哲学辞典」なら学術書を専門に扱うような書店で手に入っても、本格的な左翼思想を扱う政治思想系のものは見つかりにくいのです。

対照的に、例えば有名な保守派論客の櫻井よしこさんの本はほとんどどこにでもあります。著書はなくても雑誌にひとつくらいコラムが載っているでしょう。あるいは佐伯啓思さん、渡部昇一さんといった保守系論客の方々の日本の出版業界の売り上げに対する貢献度には眼を見張るものがあると言えるでしょう。

この対照を示すだけでも、日本における「言論」の状況が西欧のそれとは似ても似つかない、つまり圧倒的に「保守」優勢の現状があるということがわかると思います。

勿論、大学の教授先生方の間では事情は違うでしょう。所謂「インテリ」層、特に文系の「インテリ」層の間では「保守派」はかなり下火です。否、実際には西欧の基準から見れば彼らも十分に「保守的」であったとしても、日本国内の独自基準ではインテリ層の「保守主義」は「国民」の「保守主義」とは異なるので、前者は後者に「左派」扱いされるという不思議な現象が生ずるという方が正しいでしょうか。

具体例を示しましょう。前回も言及した井上達夫先生は、西欧の基準で見れば相当に「保守的」な思想家です。ご本人はご自身を「リベラル」だと規定しておられますが、保守(右派)に対するリベラル(左派)という意味での「リベラル」でないのは明らかです。因みに米国の政治イデオロギーの場合、右派の共和党もリベラル派の民主党も、井上先生の重視する「立憲主義」あるいは「人権擁護」といった基本理念を受容しているという点では無論全員が「リベラル」です。西欧の文脈で言えば、「極右」政党から「極左」政党に至るまでが全て「リベラル」だと言っても良い。逆に言えば、この意味で「リベラル」でない考えが主流である日本の状況は極めて特殊で、語弊を恐れず言えば「オリエント的」であると言えます。

他には、「戦後リベラリズム」の元祖丸山真男先生も「保守リベラル」あるいは「old liberal」に近い立場であると言えるでしょうし、その師である南原繁先生に至っては完全にキリスト者なわけですからこれはもうゴリゴリの「保守」と言っても構わない。繰り返すようですが、本来的(欧米的)意味での「リベラリズム」とは「自由至上主義」ですので、伝統的倫理観に基づき個人の自由を制限すべきだという考えは全て保守派に属するわけです。「戦争」は個人としてよりも集団として行うものですが、しかし交戦権もまた自由のひとつであり、これを制限する方が反自由主義的です。勿論戦争状態においては個人の自由が制限されるという懸念から反戦を唱えるというリベラルな反戦主義もあり得ますが、南原先生のようにキリスト教倫理に基づき反戦を唱えるのは明確に保守的です。かつ南原先生は自衛や国際協力のための軍備の必要性を指摘されていたので、その政治思想は基本的に西欧の宗教保守系リベラリストにかなり近いものだったと言えると思います。

日本のネット上ではこれらの保守系リベラリスト達でさえ「左翼」だと言われていますが、これがネット上に限らず広く普及している認識なのだとすれば日本の「右派/左派」を区別する基準は西欧のそれとは全く別であるということになるでしょう。

いずれにせよ、日本では日本基準で「右」の意見が優先され「左」の意見は黙殺されるか批判され、しかも「左」とされている意見自体が西欧基準では既に「右」なので、本当に「左」の意見、つまり西欧で主流派をなす穏健左派リベラルの意見は日本では僅かに人文科学の学問世界で細々と命脈を保つ程度でしかないというのが現状だというのが私の認識です。

従って、西欧人の眼から見れば日本には未だに「言論の自由」はないに等しいと言えるでしょう。確かに戦前と違って苛烈な言論統制や思想警察制度があるわけではありません。しかし検閲や思想警察さえいなければ「言論の自由」が保証されていると言えるのでしょうか。

公式メディアにおける「右」と「左」のバランスがとれておらず、「左」に傾いた意見を表明すれば視聴者からネット上などで誹謗中傷を受けホームページやブログが「炎上」し、またこの現状を知っているメディア知識人や有名人が自ら積極的に「保守的」発言を発信していくことで人気を維持しようとする一方、無名の一般人のブログや匿名掲示板においてさえ「保守的」なものばかりが人気となり読者を増やす一方で「非保守的」ないし「反保守的」なものは執筆者によほどの経歴的強みでもない限り読者がほとんどつかず、無論支持も得られないという現実があるのなら、法律上「言論の自由」が認められていたとしても事実上は左派に「言論の自由」は無いということではないでしょうか。

朝日新聞は日本人から見れば「左傾新聞」に見えるかもしれませんが、西欧基準で見れば朝日も十分に保守的ですし、確かに朝日の論調は一応概ね「リベラル」であるとはいえ時折「これでも日本で最もリベラルだと言われる新聞なのか」という記事も出していますから、西欧のリベラル派が満足出来るようなレベルでは到底ないということを知っておいても良いと思います。

逆に言えば朝日新聞のようなリベラルメディアでさえ特に最近は国民感情に配慮して徐々に右傾化を強めつつあるということであって、それは「左」の言論が「国民感情」によって封殺されているということに他なりません。

私が西欧のPCに強い懸念を持っていたのは、単にそれ自体が西欧にいる私にとって不愉快であるというだけにとどまらず、西欧のリベラリズムがこのような形で劣化してしまっては、この西欧リベラリズムの失態が例えばトランプ氏当選という形で否が応でも知らされる時、それを以って日本の保守派が「我が意を得たり」とばかりに自己の立場が西欧においても認められたと勘違いして益々増長してしまうと思ったからです。

実際私の懸念通りに日本のメディアは動いています。日本のリベラル派へのバッシングは最早止むことはないでしょう。しかしこの状況が本当に「自由」と言えるのか。この点にはやはり疑問符がつきます。形式的自由が保証されていても、実質的自由がなければ結局意味はありません。例えば投票権だけ与えられても、投票できる政党が最初からひとつしかなく、対立政党がそもそも存在しないのであれば、この「投票の自由」は形式的に保証されているとはいえ事実上存在していないようなものでしょう。

日本の政治も実は似たようなものです。日本の政党は「右」から「左」まで全て保守的なので、選択肢は事実上最初からひとつしかありません。「保守政治」という選択しかない。誰がそれを担うのか、またどういうタイプの保守政治なのかという点が異なるだけで、その利益を受けるのは既得権益層であるという基本事実は絶対に変わりません。仮に日本共産党が第一党になったとしてもです。(共産党内にも実はかなり厳格な学歴主義が存在していると指摘する声もあります。)従って現状は投票によっては何も変わらないという有権者の判断は全く正当なものです。

 本当に革新的なことを知識人が提言する自由さえ事実上存在していないのに、それを公約化して実行することの出来る政党が存在できるはずもないでしょう。

従って日本の課題は西欧由来のPCを撲滅することというよりも、日本固有のもっと保守的なPC(政治的正しさ)を相対化していくことから始めることです。但し、日本的な「政治的正しさ」に挑戦する際には、保守派が設定している限界を超えてはなりません。

その限界は私はいわゆる「天皇制」であると考えています。ここだけは日本国籍を持つ日本人である以上、将来外国に帰化するつもりでもない限りは決して否定してはならない点です。陛下ないし皇室への忠義心を欠くことは、政治思想的欠陥である以上に人間的欠陥であると看做されるでしょう。私ももっと若い頃には何故日本人はこれほど皇室に拘っているのかよくわかりませんでしたが、読書を重ねる中で日本の現状が段々わかってくると、諸々の事情を考慮すれば確かに皇室の権威は日本では必要不可欠だという認識を持つようになりました。

特に今上陛下は極めてリベラルな方です。歴代天皇の中でも最もリベラルな今上陛下が最も権力を制限されているというのは歴史の皮肉というより他ありませんが、日本の暴走的な保守化ないし排外主義化をある程度落ち着け、よりリベラルな方向へと導くことを最もスムーズに行うことができる可能性を持つのは天皇陛下の立場にある方を除いて他にないのは間違いないと思います。

尤も、戦前のように天皇陛下に全権委任するというのはやり過ぎですが、例えば陛下に最終的拒否権(veto)のみを行使して頂くことで、実質的承認機能を担って頂くというくらいであれば英国の王制ともそれほど変わりないでしょう。少なくとも、陛下の判断の独立性が担保されているという前提があればこれでポピュリズムの暴走に歯止めをかけることはできます。その上で、社会のリベラル化を進めていく、というのが、日本にリベラリズムを根付かせるという課題を最優先する場合の最短経路なのではないかと私は考えています。日本における「言論の自由」も、その先にしかないのではないでしょうか。

この点については更によく考えてみたいと思いますが、韓国や中国などの他の東アジア諸国を見ていると「王制」の廃止が必ずしも社会のリベラル化を促進しているわけではないように思われます。日本の場合も、「天皇制」無き後の日本はむしろ更に悪い方向の保守独裁化への道を進んでいくのではないかという漠然とした懸念があります。というのも、開国以前に天皇陛下の権威が最も弱体化していた時期というのは徳川幕府による武断政治の時代であり、あれがとても「自由」な時代とは思えないからです。

 むしろ天皇陛下の権威がある程度安定していた時期には仏教や老荘思想など政治思想的にはほとんど異端的なものまでもが貴族層に受け入れられており、堅苦しい朱子学一辺倒に染まっていた徳川時代よりも「思想の自由」があったように見えます。

日本に限らず中国でも、魏晋南北朝時代という「貴族の時代」はある意味「文化的自由」が最も花開いた時代であったように見えるのは私の勉強不足のせいでしょうか。

いずれにせよ、実質的な「言論の自由」はどうすれば実現できるのか、高度な文化的著作を産む背景は本当は何なのかを再考する視点で「天皇制」あるいは「王制/貴族制」を考えてみるのも面白いかなと私は考えています。

それでは、また。

 

そもそもリベラリズムとは何か

偖、では早速哲学の世界に入って行きましょう。と言っても、いきなり形而上学や言語哲学に入っていくのではなく、まずは一般的関心の強い政治哲学から入って行きたいと思います。本稿では、まず現代の政治思想を語る上で絶対に欠かせない「リベラリズム」の概念について考察することから始めましょう。

「アゴラ」でも私は結構頻繁に「リベラル派」あるいは「リベラリズム」という言葉を便宜上使って来ましたが、本来「リベラリズムとは何か」それ自体が議論の対象となるような曖昧な概念です。英語では特にネット上のメディアにおいて慣用的に「右派/right」の対義語として「リベラル派/liberals」は使われておりますが、そもそも「liberalism」とは何なのでしょうか。

Liberalism というのは、実はいくつか種類があって、Classical LiberalismだとかNew LibealismだとかNeo-Liberalismだとか色々とあるのですが、英語圏(というより英国)ではとりあえずJohn Stuart Millの"On Liberty"に端を発するNew Liberalismが正統であるとされています。詳細はStanford Encyclopedia of PhilosophyのLiberalismの頁をご覧頂ければ大まかなところはわかりますが、ここに載っていない議論も勿論あるでしょう。

例えば、John Kekesのような保守主義に基づくリベラリズム批判を展開している学者というのは非常に少ないとはいえ、今でも存在していますが、Stanfordの記事では勿論言及されていません。欧米における欧米人(白人)による(というのも、ムスリム系や東アジア系政治学者によるものは批判の性質が根本的に異なるので)リベラリズム批判というのはキリスト教的「罪/sin」ないし「邪悪/evil」を軸にした宗教的倫理観に基づくもの、あるいはそれに何らかの形で由来するか少なくとも呼応するものが基本となりますので、その時点で「反動的」であり「普遍性に欠ける」と判断されているきらいがあります。古くは(といってもそんなに古くもないですが)フランスのJoseph de Maistreから、現代のJohn Kekesに至るまでの保守的「反リベラリズム」の系譜は、しかし現在でもフランスでFront Nationalを支持する敬虔なキリスト教徒やアメリカのBible Belt以南を中心とする保守層の間では一定の影響力を持っている点は見逃せません。またマルクス主義に基づくリベラリズム批判にも言及されていないので、これはそもそもリベラリズムに対する反対論ををStanfordが丸ごと無視しているということです。とすると、このこと自体が興味深い現象だと言えるでしょう。

「リベラリズム」に話を戻します。さて、まずは上述のStanfordの記事における基本定義から見ていきましょう。

“By definition”, Maurice Cranston rightly points out, “a liberal is a man who believes in liberty” (1967: 459).

これではあまりに漠然としていますが、一応基本はやはりlibertyです。とはいえ、問われるべきは誰の、どういうlibertyなのかという点です。独裁政治下においては「自由がない」と言われますが、それは一般国民の自由が制限されているだけで、独裁者自身は完全に「自由」です。つまり「自由/liberty」の配分こそが「liberalism」というイデオロギーの肝であり、その意味では「liberalism」は「egalitarnianism as to the political liberty among all men (& women & those with other gender identities .. 一応書きましたが以下この部分は略します)」と言い換えた方がもっとはっきりとするでしょう。さらにStanfordの同記事から引用します。

freedom is normatively basic, and so the onus of justification is on those who would limit freedom, especially through coercive means. It follows from this that political authority and law must be justified, as they limit the liberty of citizens.

つまり、リベラリズムの論理構成はこうです。人間は全て規範的基礎として自由でなければならない。 →従ってその自由を苟も制限するに際しては、権力はその正当性の合理的論証義務を負うのが当然である。この考えが、とりあえず西欧の学界では大前提とされているとしましょう。(無論、これに対する異論や反論も上がっていますが、少なくとも自分はliberalだと自認している人の間ではこの点は疑われない大前提だということです。)

では、日本における「リベラリズム」の理解というのはどうなっているのでしょうか。日本における「リベラリズム」に関する研究の中で最も権威を認められている人と言えば上がるのはまず井上達夫先生でしょう。そこで井上先生の議論を少しだけ見て行きます。といっても、今は手元に先生の著書がないので記憶を辿りつつ、ネット上で手にはいるソースを使っていきます。ネット上で手にはいるソースというと何だか怪しい低級記事のようですが、今回私が参照し、また引用させて頂くのは何故かフランス語で書かれた井上先生の「リベラリズム」に関する論文ですので、ご安心下さい。

井上先生は Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique(2011)という論文において以下のようなことを述べられています。

pour ma part, je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice et que par conséquent le libéralisme est d’abord une doctrine de la justice. Voici de manière très synthétique, les grandes lignes de ma pensée. (p.335)

勿論、これはあくまで井上先生の独自見解であり、日本でこのような「リベラリズム」観が浸透しているわけでも広く受け入れられ共有され常識化しているわけではないとする立場から見れば、これが「日本的リベラリズム理解」を示すのかどうかという点は確かに疑問が付されるべき点ではあります。然し乍ら、大衆の首尾一貫としない混乱した「リベラリズム」理解を基準にするよりは、日本で最も権威を認められているリベラリズムに関する研究における第一人者と呼ぶに相応しい、否、事実上の「最高権威」と少なくとも学界及び世論の中で目されているといって過言ではない井上達夫先生の見解を「日本的知性」を代表するものと見る方が良いと、この件に関しては判断したいので一応これが日本的「リベラリズム」観だということにしましょう。

(実際、井上先生の「リベラルのことは嫌いでも..」は商業的にもかなり成功しており、実際に先生の意図が伝わっているかどうかはともかく学界にとどまらず広く受け入れられている感もあるので、井上先生のリベラリズム理解は日本人の心性に十分合致するものであり、決して国民感情を逆撫でし拒絶反応を引き起こすようなものではないことは確かなので、井上流の「リベラリズム」がある程度大衆的支持を得ているというのものとも言えます。)

さて、その井上先生のリベラリズム理解は、上述のStanfordの基本理解を根底から否定するものです。それは明示的に" je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice"(リベラリズムの枢要は自由ではなく正義である、と私は考える)と述べられていることからも明らかでしょう。libertéが中心ではないのなら井上先生の思想をlibéralismeと呼ぶよりは"jusiticisme"とでも呼んだ方が適切なような気もしますが、それはともかくとして。井上先生はまた同論文中で欧米における「リベラリズム」の絶対的とも言える権威とされるJohn Rawlsの「リベラリズム」理解を痛烈に批判されています。

Ma conception de la justice est l’exigence d’une « équité envers l’autre » qui assume la responsabilité philosophique de se justifier par la raison et qui prend en considération le point de vue de l’autre susceptible d’être affecté par les conséquences d’une décision. En tournant le dos à cette exigence fondamentale de la justice universelle, Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations. Pour redonner toute sa vigueur philosophique au libéralisme, il faut donc lui redonner ses armes critiques et restituer l’idée de justice universelle. (p.342)

このように、Rawlsをほぼ完全否定しながらなお「リベラリズム」を擁護するというのは通常の西欧におけるリベラリズムに関する議論ではまず見られないような論理展開です。というのも、Rawlsを批判するのは通常政治哲学的には「保守」寄りの理論家であって、「リベラリズム」を理念的に受け入れているリベラル派は基本的にRawlsの方向性には概ね賛成するものだからです。(例えば、David Lewis ShaeferはRawlsを「liberalismの伝統に反している」という理由でRawlsのjusticeを「illiberal justice」だと批判していますが、これはより伝統的な古い「liberalism」に基づくRawls批判で、アメリカではこれは「conservative」とされる傾向があります。David Lewis Shaeferの論自体は私は高く評価していますが、多くのリベラル論者はRawlsをリベラルと認めるのに吝かでなく、Shaefer的な理解は極めて珍しいものとして際立っています。)特に"Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations."の部分は、現在英語圏でも疑問視する声が増加傾向にあるPC(political correctness)に真っ向から対立するという点で、アカデミズム、特に欧米のリベラルな学者にショックを与える内容であるのは間違いないと思われます。とは言っても、私が勝手にそんなことを言うだけでは説得力が足りないので一応確認の為、いくつかの英語圏の論文を引用してみましょう。まずAbott(1976)はRawlsのTheory of Justiceが批判される理由を以下のように分析しています。

But certainly the most important reason for these attacks is that Rawls' political conclusions are so firmly grounded in the liberal tradition. Reviewers seem to be more incensed by the fact that there is a liberalism carefully and intricately fashioned than by the fact that there is a liberalism per se. 

 つまりRawlsの理論はliberal traditionに深く根ざした、しかも最も慎重を期して洗練されたものだという「雰囲気」がやはり英語圏の学界には存在しているのはこれだけでもわかると思います。さらにもっと最近発表されたものを見てみましょう。

これはOlney(2012)の梗概(Abstract)の部分なのですが、最も簡潔にRawls賛美を表現しているのでこの部分を引用します。

This article argues that the later work of John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism. The context for this concern is the work of Carl Schmitt, whose attack on liberal legal practices exposes a deep weakness in most liberal approaches to the concept of law. 

 つまり2012年になっても、"John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism"だという論文が発表されているのです。では批判する側はどうでしょうか。Mouffe(2009)の梗概にはこうあります。

This article argues that John Rawls' liberal philosophising is an inadequate means of facing today's varied social and political challenges, both domestic and international, because it is incapable of grasping the antagonistic dimension which is constitutive of the political. 

 これだけだとハッキリしないのでMouffe(2009)の議論をもう少し見てみましょう。

The conclusion that we can draw from those considerations is that,what this distinction between liberal and non-liberal decent peoples really expresses, is a distinction between a strong and a weak form of liberalism or rather an individualist liberalism versus a communitarian one. (p.11)

 その上で、Mouffe(2009)は「リベラリズム」を受け入れない非西欧的社会に対するRawlsの態度を痛烈に批判します。

What about the other societies? Rawls asserts that they are either to be treated as outlaws - which justifies the use of force to makethem comply - or induced to become liberal or decent. Who decides where to draw the frontier? Of course it is the liberals and the refusal to tolerate some societies is presented as 'a consequence of liberalism and decency'. Here again the frontier is drawn in a political way while the political nature of the discrimination is denied. Liberals dictate what is legitimate and they do it according to what fits with their basic premises but, since those premises are presented as the expression of the 'reasonable', they cannot be challenged and those who are outlawed cannot even 'protest their condemnation by the world society'.(p.11-12) 

斯様にRawlsを批判するMouffe(2009)の提案はこれです。

if we want to establish a more peaceful world, it is not under cosmopolitan lines that we should be envisaging it because, whatever their form (and in my view Rawls can be seen as advocating a weak version of cosmopolitanism), such a perspective is unable to make room for real pluralism. (p.13)

このように、 pluralismを支持する方向での、「リベラルな西欧」の「非リベラルな中東」に対する暴力という現実を念頭においた批判(つまりRawlsよりもさらにPCな立場からの批判)は存在しますが、これは結局そこに「リベラリズム」の本質的限界を見出し、「リベラリズム」そのものを否定する方向での議論であって、「だからRawlsのリベラリズムはリベラリズムではない」という方向には行きません。つまり、井上先生と批判とは完全に真逆の、リベラリズムの標榜する「普遍性」に対する「特殊性」を重視する立場からの批判、あるいはOlney(2012)が仮想敵としているCarl Schmittのような西欧内部の反リベラリズム側からの批判がRawls批判の軸となる、というのが西欧における知的状況であるように私には思われます。

つまり井上先生の議論は、欧米の文脈ではリベラル派よりは保守派(あるいは非西欧地域における強烈な保守主義を擁護する多文化主義に基づく事実上の「保守」派)が展開する「反リベラリズム」の議論に近く、かつ保守派でも学術論文の中ではここまでは言わないというほど痛烈にPCを批判されているので、日本語で読んだならまだしも英語やましてフランス語で読むとその異様さはより際立って強調されるように感じられるということです。

ともあれ、この井上先生の見解が日本のスタンダードだとすると、日本では「リベラリズム」の中核概念は「自由」ではなく「正義」であり、しかもそれは「他者への公正さ」という実に抽象的な概念だとされているということになります。あらゆる他者の見解に対し公正であるべきという主張は、非常にラディカルな「言論の自由」を認めるべきという主張とも繋がるものでしょう。実際日本ではこの方向の主張の方が広く受け入れられるようですが、しかし西欧では違います。白人男性の主張を、女性やマイノリティの主張と同等のもとの扱うのは間違いであり、現行社会における白人男性の圧倒的優位性という自然の「不公正」を考慮し、「女性やマイノリティ」の主張をより手厚く保護するべきだという主張の方が「倫理的に優れている」とされるのが西欧で、またこの状況は西欧が根本的に多民族社会である限り決して変わりようがないでしょう。というのも、もし白人男性が井上先生のような主張をすれば仮令他の一部の白人の支持を得られたとしても即座にマイノリティの反発を招き、メディアのバッシングを招き、その主張者の立場によっては最悪治安の混乱を招きかねないからです。最近の反トランプデモを見れば、それが決して戯言ではないことはおわかり頂けると思います。

では、この違いはどこから生ずるのか。

まず、日本においては「他者」の「他者性」がそれほど根本的な異質性だとは捉えられていないという点です。井上先生がéquité envers l’autreと言われる時、そのl'autreがこの文脈では西欧人の頭では「非白人」を、あるいは下手をすれば「政治的敵」を意味しているのであり、つまり場合によって絶滅すべき対象、もっと言えば「寛容」原理による人権保護が働く「市民社会」の外に存在する「subaltern」とさえ思念されかねないものだという認識を、恐らく井上先生は持っておられなくて、もっと日本的な「他所様」的な意味、あるいは「肌の色が違っても人間は人間だ」という感覚で「l'autre」と言われているのではないかという仮説がまず浮かびます。

次に、日本ではそもそも「人間は自由でなければならない」 というリベラリズムの根本信条がそもそも共有されておらず、「人間は結局ある程度は不自由なのが自然状態であり、これを受け入れてこそ大人である」あるいは「人間はあまりに自由であってはならない」という考えの方がかえって人口に膾炙しており、つまり自由を制限する側がその論証責任を負うのではなく、逆に自由を「無闇に」主張する側がその正当性の論証責任を負うべきだという観念が事実上強固に存在しているのではないか、という仮説も一応成り立つかと思われます。

また、日本のアカデミズムでは「自由」には「責任」が伴うという点が強調され、しかもそれは他者の自由を尊重しなければならないというだけではなく、他者の自由を直接侵害するわけではない場合でさえその行動が何らかの「義務感/責任感」に基づかないのであればそれは真に自由な行動とはいえないというカント的な理解に基づく「リベラリズム」論が、より「権威」のある「哲学的に優れた」ものとして尊敬を集めているのではないでしょうか。

この三つの仮説はあくまで仮説であって、基本的に私の勝手な推論に過ぎずデータに基づくものでも何でもありませんので瑕疵も多いでしょう。とはいえ、西欧において(大衆メディアの粗雑な議論ではなく)学界で公式に採用されている(Stanford Encyclopedia of Philosophyの記事とはそういう性質のものとされています)「リベラリズム」理解と日本の学界で「優越性」を認められている「真のリベラリズム」の間には、後者が前者を乗り越える為に生じたのだという背景を考慮すれば一定の「ズレ」があるのは当然です。無論西欧側は西欧的な「リベラリズム」こそ「普遍的」なものであると主張し、日本のリベラリズムを「人種的多様性のない特殊東アジア的なもの」と簡単に切り捨ててしまうでしょう。特に「マイノリティに対するaffirmative actionは不公正」などと主張すれば、下手をすれば「人種差別主義者」のレッテルを貼られ学者生命はおろか社会生命を絶たれかねない恐れさえあります。(本稿では日本に焦点を当てていますが、逆に何故西欧では原理原則を曲げた少数派優遇に倫理的優越性が認められてしまうのかという点に関しては別稿で論じたいと思います。が、先に仮説的結論だけ申し上げると、西欧では特に政治思想においては理論的一貫性よりもそれが公共社会に秩序をもたらすという「実践的価値」の方が重視されるという事情があるのではないかと私は思っています。)

とはいえ、日本人が「普遍」とは何かを絶えず問い直していくことの重要性は強調されるべきで、日本の文脈では単に「さすが東大法学部教授先生の言うことはその辺のリベラルとは違う」と肯定的に受け止められるとはいえ、西欧の文脈では相当勇気ある発言をされている井上先生の理論的挑戦への意志は高く評価されるべきものだと私は思います。

さてこんな風に大権威である井上先生に対しほとんど「上から目線」で批判的に論ずるようなことをすると多方面から「お前は何もわかっていない」等といった私の不見識を批判する声が飛んできそうですが、確かに私の見識が足りていない部分も多いのは予め認めておきます。とはいえ、粗雑ながらも私なりの見方を一応示しておくことで他の方々からの反論や有益な助言を得られ、それによって「日本におけるリベラリズムとは何か」あるいは「日本における哲学とは何か」という点の理解がより進む面もあるだろうという考えで敢えてこの推敲の不十分な論考をそのまま発表している次第ですので、その点ご理解頂ければ幸いです。

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。何か異論等ございましたらコメントを頂ければ幸甚です。

 

参考文献:

Abbott, P. (1976). With Equality & Virtue for All: John Rawls & the Liberal Tradition. Polity, 8(3), 339-357. doi:10.2307/3234357

Mouffe, C. (2009). The Limits of John Rawls' Pluralism. Theoria: A Journal of Social and Political Theory,56(118), 1-14. Retrieved from http://www.jstor.org.ezphost.dur.ac.uk/stable/41802423

Olney, C. (2012) Justice and Legitimacy: Rawls, Schmitt and the Normativity of Law. Law, Culture and the Humanities Vol 12, Issue 1, pp. 49 - 69 First published date: December-04-2012

Stanford Encyclopedia of Philosophy "Liberalism" 

Tatsuo Inoue, « Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique », Revue philosophique de la France et de l'étranger 2011/3 (Tome 136), p. 323-346.
DOI 10.3917/rphi.113.0323