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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

日本における「言論の自由」について - 啓蒙主義リベラリズムの立場からの「天皇制」擁護論

「ポピュリズム」の台頭ないし有権者の「右傾化」を受けて、ヨーロッパでも徐々に「言論の自由」への事実上の規制があまりに苛烈過ぎたのでは無いか、という声が「リベラル派」の内部にも生じてきているようです。私は体調不良で行けなかったのですが、先日ダラム大学でもリベラル派論客による「言論の自由」に関する公演があったようで、公演を聞きに行った友人は(勿論リベラル派ですが)「言論の自由はやはり大事だな、それが右寄りだったりracistだというだけで規制するよりも、規制の対象を脅迫のような本当に危険な発言のみに絞るべきという論者の意見は正当だと思った」と言っていて、ようやく私自身の立場についてちょっとだけ理解が得られた気分になりました。(私は最初から過剰な言論規制に反対していたので、こちらではかなり右寄りな人だと思われています。笑)

こうなれば、ヨーロッパに関してはリベラル派はやはりこれまで通り少しずつでもこのように色々な失敗を経て成長していくのでもう特に心配は要らないでしょう。最近の行き過ぎは彼らの理想を阻害する「障害」の不在によって生じていたに過ぎず、いざ「障害」が目の前に厳然と現れれば彼らはちゃんと反省し改善すべき点を見つける。この一連の流れそのものがヨーロッパの伝統的な知的思考習慣の枠組みの中で行われているので、別に「外圧」が加わらなくても自分で変わっていけるのです。

正直に言うと、この点はやはり見ていて羨ましいと思います。やっぱりヨーロッパは腐ってもヨーロッパだなあと。特に60年代の公民権運動やフェミニズムの興隆以来増長の一歩をたどってきたPolitical Correctnessが文字通り(デモ隊の奇声という)音を立てて崩れていく瞬間と、高学歴層の若者がこれをきっかけにある種の「反省的理性」を取り戻していく瞬間にヨーロッパに居合わせることが出来たのは幸運です。

とは言え、これで一見落着というわけには行きません。そもそも私はヨーロッパ人ではありません。あくまで日本国籍しか持たない日本人です。日本人である以上は、ヨーロッパだけでなく日本の知的状況に気を配る必要があるのは勿論です。では、日本における「言論の自由」はどうなっているのか。日本では言論の自由がきちんと保証されていると言えるのか。私は極めて懐疑的です。

まず、そもそもヨーロッパにおいてPolitical Correctnessが「右派」的言説を事実上圧殺してきたというのは事実ですが、日本ではそんなことは生じていません。日本で生じているのはその真逆であって、「左」の共産主義系の言説の方こそが圧殺されてきています。例えば廣松渉の「マルクスの根本意想は何であったか」という本は通常の書店で手に入るでしょうか。否、そもそも「情況出版」の本が一冊でも置いてあるでしょうか。国際派の活動家としてだけでなく学者としても名高い廣松渉でさえこれです。岩波から出ている「存在と意味」や「哲学辞典」なら学術書を専門に扱うような書店で手に入っても、本格的な左翼思想を扱う政治思想系のものは見つかりにくいのです。

対照的に、例えば有名な保守派論客の櫻井よしこさんの本はほとんどどこにでもあります。著書はなくても雑誌にひとつくらいコラムが載っているでしょう。あるいは佐伯啓思さん、渡部昇一さんといった保守系論客の方々の日本の出版業界の売り上げに対する貢献度には眼を見張るものがあると言えるでしょう。

この対照を示すだけでも、日本における「言論」の状況が西欧のそれとは似ても似つかない、つまり圧倒的に「保守」優勢の現状があるということがわかると思います。

勿論、大学の教授先生方の間では事情は違うでしょう。所謂「インテリ」層、特に文系の「インテリ」層の間では「保守派」はかなり下火です。否、実際には西欧の基準から見れば彼らも十分に「保守的」であったとしても、日本国内の独自基準ではインテリ層の「保守主義」は「国民」の「保守主義」とは異なるので、前者は後者に「左派」扱いされるという不思議な現象が生ずるという方が正しいでしょうか。

具体例を示しましょう。前回も言及した井上達夫先生は、西欧の基準で見れば相当に「保守的」な思想家です。ご本人はご自身を「リベラル」だと規定しておられますが、保守(右派)に対するリベラル(左派)という意味での「リベラル」でないのは明らかです。因みに米国の政治イデオロギーの場合、右派の共和党もリベラル派の民主党も、井上先生の重視する「立憲主義」あるいは「人権擁護」といった基本理念を受容しているという点では無論全員が「リベラル」です。西欧の文脈で言えば、「極右」政党から「極左」政党に至るまでが全て「リベラル」だと言っても良い。逆に言えば、この意味で「リベラル」でない考えが主流である日本の状況は極めて特殊で、語弊を恐れず言えば「オリエント的」であると言えます。

他には、「戦後リベラリズム」の元祖丸山真男先生も「保守リベラル」あるいは「old liberal」に近い立場であると言えるでしょうし、その師である南原繁先生に至っては完全にキリスト者なわけですからこれはもうゴリゴリの「保守」と言っても構わない。繰り返すようですが、本来的(欧米的)意味での「リベラリズム」とは「自由至上主義」ですので、伝統的倫理観に基づき個人の自由を制限すべきだという考えは全て保守派に属するわけです。「戦争」は個人としてよりも集団として行うものですが、しかし交戦権もまた自由のひとつであり、これを制限する方が反自由主義的です。勿論戦争状態においては個人の自由が制限されるという懸念から反戦を唱えるというリベラルな反戦主義もあり得ますが、南原先生のようにキリスト教倫理に基づき反戦を唱えるのは明確に保守的です。かつ南原先生は自衛や国際協力のための軍備の必要性を指摘されていたので、その政治思想は基本的に西欧の宗教保守系リベラリストにかなり近いものだったと言えると思います。

日本のネット上ではこれらの保守系リベラリスト達でさえ「左翼」だと言われていますが、これがネット上に限らず広く普及している認識なのだとすれば日本の「右派/左派」を区別する基準は西欧のそれとは全く別であるということになるでしょう。

いずれにせよ、日本では日本基準で「右」の意見が優先され「左」の意見は黙殺されるか批判され、しかも「左」とされている意見自体が西欧基準では既に「右」なので、本当に「左」の意見、つまり西欧で主流派をなす穏健左派リベラルの意見は日本では僅かに人文科学の学問世界で細々と命脈を保つ程度でしかないというのが現状だというのが私の認識です。

従って、西欧人の眼から見れば日本には未だに「言論の自由」はないに等しいと言えるでしょう。確かに戦前と違って苛烈な言論統制や思想警察制度があるわけではありません。しかし検閲や思想警察さえいなければ「言論の自由」が保証されていると言えるのでしょうか。

公式メディアにおける「右」と「左」のバランスがとれておらず、「左」に傾いた意見を表明すれば視聴者からネット上などで誹謗中傷を受けホームページやブログが「炎上」し、またこの現状を知っているメディア知識人や有名人が自ら積極的に「保守的」発言を発信していくことで人気を維持しようとする一方、無名の一般人のブログや匿名掲示板においてさえ「保守的」なものばかりが人気となり読者を増やす一方で「非保守的」ないし「反保守的」なものは執筆者によほどの経歴的強みでもない限り読者がほとんどつかず、無論支持も得られないという現実があるのなら、法律上「言論の自由」が認められていたとしても事実上は左派に「言論の自由」は無いということではないでしょうか。

朝日新聞は日本人から見れば「左傾新聞」に見えるかもしれませんが、西欧基準で見れば朝日も十分に保守的ですし、確かに朝日の論調は一応概ね「リベラル」であるとはいえ時折「これでも日本で最もリベラルだと言われる新聞なのか」という記事も出していますから、西欧のリベラル派が満足出来るようなレベルでは到底ないということを知っておいても良いと思います。

逆に言えば朝日新聞のようなリベラルメディアでさえ特に最近は国民感情に配慮して徐々に右傾化を強めつつあるということであって、それは「左」の言論が「国民感情」によって封殺されているということに他なりません。

私が西欧のPCに強い懸念を持っていたのは、単にそれ自体が西欧にいる私にとって不愉快であるというだけにとどまらず、西欧のリベラリズムがこのような形で劣化してしまっては、この西欧リベラリズムの失態が例えばトランプ氏当選という形で否が応でも知らされる時、それを以って日本の保守派が「我が意を得たり」とばかりに自己の立場が西欧においても認められたと勘違いして益々増長してしまうと思ったからです。

実際私の懸念通りに日本のメディアは動いています。日本のリベラル派へのバッシングは最早止むことはないでしょう。しかしこの状況が本当に「自由」と言えるのか。この点にはやはり疑問符がつきます。形式的自由が保証されていても、実質的自由がなければ結局意味はありません。例えば投票権だけ与えられても、投票できる政党が最初からひとつしかなく、対立政党がそもそも存在しないのであれば、この「投票の自由」は形式的に保証されているとはいえ事実上存在していないようなものでしょう。

日本の政治も実は似たようなものです。日本の政党は「右」から「左」まで全て保守的なので、選択肢は事実上最初からひとつしかありません。「保守政治」という選択しかない。誰がそれを担うのか、またどういうタイプの保守政治なのかという点が異なるだけで、その利益を受けるのは既得権益層であるという基本事実は絶対に変わりません。仮に日本共産党が第一党になったとしてもです。(共産党内にも実はかなり厳格な学歴主義が存在していると指摘する声もあります。)従って現状は投票によっては何も変わらないという有権者の判断は全く正当なものです。

 本当に革新的なことを知識人が提言する自由さえ事実上存在していないのに、それを公約化して実行することの出来る政党が存在できるはずもないでしょう。

従って日本の課題は西欧由来のPCを撲滅することというよりも、日本固有のもっと保守的なPC(政治的正しさ)を相対化していくことから始めることです。但し、日本的な「政治的正しさ」に挑戦する際には、保守派が設定している限界を超えてはなりません。

その限界は私はいわゆる「天皇制」であると考えています。ここだけは日本国籍を持つ日本人である以上、将来外国に帰化するつもりでもない限りは決して否定してはならない点です。陛下ないし皇室への忠義心を欠くことは、政治思想的欠陥である以上に人間的欠陥であると看做されるでしょう。私ももっと若い頃には何故日本人はこれほど皇室に拘っているのかよくわかりませんでしたが、読書を重ねる中で日本の現状が段々わかってくると、諸々の事情を考慮すれば確かに皇室の権威は日本では必要不可欠だという認識を持つようになりました。

特に今上陛下は極めてリベラルな方です。歴代天皇の中でも最もリベラルな今上陛下が最も権力を制限されているというのは歴史の皮肉というより他ありませんが、日本の暴走的な保守化ないし排外主義化をある程度落ち着け、よりリベラルな方向へと導くことを最もスムーズに行うことができる可能性を持つのは天皇陛下の立場にある方を除いて他にないのは間違いないと思います。

尤も、戦前のように天皇陛下に全権委任するというのはやり過ぎですが、例えば陛下に最終的拒否権(veto)のみを行使して頂くことで、実質的承認機能を担って頂くというくらいであれば英国の王制ともそれほど変わりないでしょう。少なくとも、陛下の判断の独立性が担保されているという前提があればこれでポピュリズムの暴走に歯止めをかけることはできます。その上で、社会のリベラル化を進めていく、というのが、日本にリベラリズムを根付かせるという課題を最優先する場合の最短経路なのではないかと私は考えています。日本における「言論の自由」も、その先にしかないのではないでしょうか。

この点については更によく考えてみたいと思いますが、韓国や中国などの他の東アジア諸国を見ていると「王制」の廃止が必ずしも社会のリベラル化を促進しているわけではないように思われます。日本の場合も、「天皇制」無き後の日本はむしろ更に悪い方向の保守独裁化への道を進んでいくのではないかという漠然とした懸念があります。というのも、開国以前に天皇陛下の権威が最も弱体化していた時期というのは徳川幕府による武断政治の時代であり、あれがとても「自由」な時代とは思えないからです。

 むしろ天皇陛下の権威がある程度安定していた時期には仏教や老荘思想など政治思想的にはほとんど異端的なものまでもが貴族層に受け入れられており、堅苦しい朱子学一辺倒に染まっていた徳川時代よりも「思想の自由」があったように見えます。

日本に限らず中国でも、魏晋南北朝時代という「貴族の時代」はある意味「文化的自由」が最も花開いた時代であったように見えるのは私の勉強不足のせいでしょうか。

いずれにせよ、実質的な「言論の自由」はどうすれば実現できるのか、高度な文化的著作を産む背景は本当は何なのかを再考する視点で「天皇制」あるいは「王制/貴族制」を考えてみるのも面白いかなと私は考えています。

それでは、また。

 

そもそもリベラリズムとは何か

偖、では早速哲学の世界に入って行きましょう。と言っても、いきなり形而上学や言語哲学に入っていくのではなく、まずは一般的関心の強い政治哲学から入って行きたいと思います。本稿では、まず現代の政治思想を語る上で絶対に欠かせない「リベラリズム」の概念について考察することから始めましょう。

「アゴラ」でも私は結構頻繁に「リベラル派」あるいは「リベラリズム」という言葉を便宜上使って来ましたが、本来「リベラリズムとは何か」それ自体が議論の対象となるような曖昧な概念です。英語では特にネット上のメディアにおいて慣用的に「右派/right」の対義語として「リベラル派/liberals」は使われておりますが、そもそも「liberalism」とは何なのでしょうか。

Liberalism というのは、実はいくつか種類があって、Classical LiberalismだとかNew LibealismだとかNeo-Liberalismだとか色々とあるのですが、英語圏(というより英国)ではとりあえずJohn Stuart Millの"On Liberty"に端を発するNew Liberalismが正統であるとされています。詳細はStanford Encyclopedia of PhilosophyのLiberalismの頁をご覧頂ければ大まかなところはわかりますが、ここに載っていない議論も勿論あるでしょう。

例えば、John Kekesのような保守主義に基づくリベラリズム批判を展開している学者というのは非常に少ないとはいえ、今でも存在していますが、Stanfordの記事では勿論言及されていません。欧米における欧米人(白人)による(というのも、ムスリム系や東アジア系政治学者によるものは批判の性質が根本的に異なるので)リベラリズム批判というのはキリスト教的「罪/sin」ないし「邪悪/evil」を軸にした宗教的倫理観に基づくもの、あるいはそれに何らかの形で由来するか少なくとも呼応するものが基本となりますので、その時点で「反動的」であり「普遍性に欠ける」と判断されているきらいがあります。古くは(といってもそんなに古くもないですが)フランスのJoseph de Maistreから、現代のJohn Kekesに至るまでの保守的「反リベラリズム」の系譜は、しかし現在でもフランスでFront Nationalを支持する敬虔なキリスト教徒やアメリカのBible Belt以南を中心とする保守層の間では一定の影響力を持っている点は見逃せません。またマルクス主義に基づくリベラリズム批判にも言及されていないので、これはそもそもリベラリズムに対する反対論ををStanfordが丸ごと無視しているということです。とすると、このこと自体が興味深い現象だと言えるでしょう。

「リベラリズム」に話を戻します。さて、まずは上述のStanfordの記事における基本定義から見ていきましょう。

“By definition”, Maurice Cranston rightly points out, “a liberal is a man who believes in liberty” (1967: 459).

これではあまりに漠然としていますが、一応基本はやはりlibertyです。とはいえ、問われるべきは誰の、どういうlibertyなのかという点です。独裁政治下においては「自由がない」と言われますが、それは一般国民の自由が制限されているだけで、独裁者自身は完全に「自由」です。つまり「自由/liberty」の配分こそが「liberalism」というイデオロギーの肝であり、その意味では「liberalism」は「egalitarnianism as to the political liberty among all men (& women & those with other gender identities .. 一応書きましたが以下この部分は略します)」と言い換えた方がもっとはっきりとするでしょう。さらにStanfordの同記事から引用します。

freedom is normatively basic, and so the onus of justification is on those who would limit freedom, especially through coercive means. It follows from this that political authority and law must be justified, as they limit the liberty of citizens.

つまり、リベラリズムの論理構成はこうです。人間は全て規範的基礎として自由でなければならない。 →従ってその自由を苟も制限するに際しては、権力はその正当性の合理的論証義務を負うのが当然である。この考えが、とりあえず西欧の学界では大前提とされているとしましょう。(無論、これに対する異論や反論も上がっていますが、少なくとも自分はliberalだと自認している人の間ではこの点は疑われない大前提だということです。)

では、日本における「リベラリズム」の理解というのはどうなっているのでしょうか。日本における「リベラリズム」に関する研究の中で最も権威を認められている人と言えば上がるのはまず井上達夫先生でしょう。そこで井上先生の議論を少しだけ見て行きます。といっても、今は手元に先生の著書がないので記憶を辿りつつ、ネット上で手にはいるソースを使っていきます。ネット上で手にはいるソースというと何だか怪しい低級記事のようですが、今回私が参照し、また引用させて頂くのは何故かフランス語で書かれた井上先生の「リベラリズム」に関する論文ですので、ご安心下さい。

井上先生は Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique(2011)という論文において以下のようなことを述べられています。

pour ma part, je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice et que par conséquent le libéralisme est d’abord une doctrine de la justice. Voici de manière très synthétique, les grandes lignes de ma pensée. (p.335)

勿論、これはあくまで井上先生の独自見解であり、日本でこのような「リベラリズム」観が浸透しているわけでも広く受け入れられ共有され常識化しているわけではないとする立場から見れば、これが「日本的リベラリズム理解」を示すのかどうかという点は確かに疑問が付されるべき点ではあります。然し乍ら、大衆の首尾一貫としない混乱した「リベラリズム」理解を基準にするよりは、日本で最も権威を認められているリベラリズムに関する研究における第一人者と呼ぶに相応しい、否、事実上の「最高権威」と少なくとも学界及び世論の中で目されているといって過言ではない井上達夫先生の見解を「日本的知性」を代表するものと見る方が良いと、この件に関しては判断したいので一応これが日本的「リベラリズム」観だということにしましょう。

(実際、井上先生の「リベラルのことは嫌いでも..」は商業的にもかなり成功しており、実際に先生の意図が伝わっているかどうかはともかく学界にとどまらず広く受け入れられている感もあるので、井上先生のリベラリズム理解は日本人の心性に十分合致するものであり、決して国民感情を逆撫でし拒絶反応を引き起こすようなものではないことは確かなので、井上流の「リベラリズム」がある程度大衆的支持を得ているというのものとも言えます。)

さて、その井上先生のリベラリズム理解は、上述のStanfordの基本理解を根底から否定するものです。それは明示的に" je considère en effet que « la pierre angulaire » du libéralisme n’est pas la liberté mais la justice"(リベラリズムの枢要は自由ではなく正義である、と私は考える)と述べられていることからも明らかでしょう。libertéが中心ではないのなら井上先生の思想をlibéralismeと呼ぶよりは"jusiticisme"とでも呼んだ方が適切なような気もしますが、それはともかくとして。井上先生はまた同論文中で欧米における「リベラリズム」の絶対的とも言える権威とされるJohn Rawlsの「リベラリズム」理解を痛烈に批判されています。

Ma conception de la justice est l’exigence d’une « équité envers l’autre » qui assume la responsabilité philosophique de se justifier par la raison et qui prend en considération le point de vue de l’autre susceptible d’être affecté par les conséquences d’une décision. En tournant le dos à cette exigence fondamentale de la justice universelle, Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations. Pour redonner toute sa vigueur philosophique au libéralisme, il faut donc lui redonner ses armes critiques et restituer l’idée de justice universelle. (p.342)

このように、Rawlsをほぼ完全否定しながらなお「リベラリズム」を擁護するというのは通常の西欧におけるリベラリズムに関する議論ではまず見られないような論理展開です。というのも、Rawlsを批判するのは通常政治哲学的には「保守」寄りの理論家であって、「リベラリズム」を理念的に受け入れているリベラル派は基本的にRawlsの方向性には概ね賛成するものだからです。(例えば、David Lewis ShaeferはRawlsを「liberalismの伝統に反している」という理由でRawlsのjusticeを「illiberal justice」だと批判していますが、これはより伝統的な古い「liberalism」に基づくRawls批判で、アメリカではこれは「conservative」とされる傾向があります。David Lewis Shaeferの論自体は私は高く評価していますが、多くのリベラル論者はRawlsをリベラルと認めるのに吝かでなく、Shaefer的な理解は極めて珍しいものとして際立っています。)特に"Rawls a privé le libéralisme de ses outils critiques de lutte contre les oppressions et les discriminations."の部分は、現在英語圏でも疑問視する声が増加傾向にあるPC(political correctness)に真っ向から対立するという点で、アカデミズム、特に欧米のリベラルな学者にショックを与える内容であるのは間違いないと思われます。とは言っても、私が勝手にそんなことを言うだけでは説得力が足りないので一応確認の為、いくつかの英語圏の論文を引用してみましょう。まずAbott(1976)はRawlsのTheory of Justiceが批判される理由を以下のように分析しています。

But certainly the most important reason for these attacks is that Rawls' political conclusions are so firmly grounded in the liberal tradition. Reviewers seem to be more incensed by the fact that there is a liberalism carefully and intricately fashioned than by the fact that there is a liberalism per se. 

 つまりRawlsの理論はliberal traditionに深く根ざした、しかも最も慎重を期して洗練されたものだという「雰囲気」がやはり英語圏の学界には存在しているのはこれだけでもわかると思います。さらにもっと最近発表されたものを見てみましょう。

これはOlney(2012)の梗概(Abstract)の部分なのですが、最も簡潔にRawls賛美を表現しているのでこの部分を引用します。

This article argues that the later work of John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism. The context for this concern is the work of Carl Schmitt, whose attack on liberal legal practices exposes a deep weakness in most liberal approaches to the concept of law. 

 つまり2012年になっても、"John Rawls offers the best hope for establishing a justifiable and sustainable concept of liberalism"だという論文が発表されているのです。では批判する側はどうでしょうか。Mouffe(2009)の梗概にはこうあります。

This article argues that John Rawls' liberal philosophising is an inadequate means of facing today's varied social and political challenges, both domestic and international, because it is incapable of grasping the antagonistic dimension which is constitutive of the political. 

 これだけだとハッキリしないのでMouffe(2009)の議論をもう少し見てみましょう。

The conclusion that we can draw from those considerations is that,what this distinction between liberal and non-liberal decent peoples really expresses, is a distinction between a strong and a weak form of liberalism or rather an individualist liberalism versus a communitarian one. (p.11)

 その上で、Mouffe(2009)は「リベラリズム」を受け入れない非西欧的社会に対するRawlsの態度を痛烈に批判します。

What about the other societies? Rawls asserts that they are either to be treated as outlaws - which justifies the use of force to makethem comply - or induced to become liberal or decent. Who decides where to draw the frontier? Of course it is the liberals and the refusal to tolerate some societies is presented as 'a consequence of liberalism and decency'. Here again the frontier is drawn in a political way while the political nature of the discrimination is denied. Liberals dictate what is legitimate and they do it according to what fits with their basic premises but, since those premises are presented as the expression of the 'reasonable', they cannot be challenged and those who are outlawed cannot even 'protest their condemnation by the world society'.(p.11-12) 

斯様にRawlsを批判するMouffe(2009)の提案はこれです。

if we want to establish a more peaceful world, it is not under cosmopolitan lines that we should be envisaging it because, whatever their form (and in my view Rawls can be seen as advocating a weak version of cosmopolitanism), such a perspective is unable to make room for real pluralism. (p.13)

このように、 pluralismを支持する方向での、「リベラルな西欧」の「非リベラルな中東」に対する暴力という現実を念頭においた批判(つまりRawlsよりもさらにPCな立場からの批判)は存在しますが、これは結局そこに「リベラリズム」の本質的限界を見出し、「リベラリズム」そのものを否定する方向での議論であって、「だからRawlsのリベラリズムはリベラリズムではない」という方向には行きません。つまり、井上先生と批判とは完全に真逆の、リベラリズムの標榜する「普遍性」に対する「特殊性」を重視する立場からの批判、あるいはOlney(2012)が仮想敵としているCarl Schmittのような西欧内部の反リベラリズム側からの批判がRawls批判の軸となる、というのが西欧における知的状況であるように私には思われます。

つまり井上先生の議論は、欧米の文脈ではリベラル派よりは保守派(あるいは非西欧地域における強烈な保守主義を擁護する多文化主義に基づく事実上の「保守」派)が展開する「反リベラリズム」の議論に近く、かつ保守派でも学術論文の中ではここまでは言わないというほど痛烈にPCを批判されているので、日本語で読んだならまだしも英語やましてフランス語で読むとその異様さはより際立って強調されるように感じられるということです。

ともあれ、この井上先生の見解が日本のスタンダードだとすると、日本では「リベラリズム」の中核概念は「自由」ではなく「正義」であり、しかもそれは「他者への公正さ」という実に抽象的な概念だとされているということになります。あらゆる他者の見解に対し公正であるべきという主張は、非常にラディカルな「言論の自由」を認めるべきという主張とも繋がるものでしょう。実際日本ではこの方向の主張の方が広く受け入れられるようですが、しかし西欧では違います。白人男性の主張を、女性やマイノリティの主張と同等のもとの扱うのは間違いであり、現行社会における白人男性の圧倒的優位性という自然の「不公正」を考慮し、「女性やマイノリティ」の主張をより手厚く保護するべきだという主張の方が「倫理的に優れている」とされるのが西欧で、またこの状況は西欧が根本的に多民族社会である限り決して変わりようがないでしょう。というのも、もし白人男性が井上先生のような主張をすれば仮令他の一部の白人の支持を得られたとしても即座にマイノリティの反発を招き、メディアのバッシングを招き、その主張者の立場によっては最悪治安の混乱を招きかねないからです。最近の反トランプデモを見れば、それが決して戯言ではないことはおわかり頂けると思います。

では、この違いはどこから生ずるのか。

まず、日本においては「他者」の「他者性」がそれほど根本的な異質性だとは捉えられていないという点です。井上先生がéquité envers l’autreと言われる時、そのl'autreがこの文脈では西欧人の頭では「非白人」を、あるいは下手をすれば「政治的敵」を意味しているのであり、つまり場合によって絶滅すべき対象、もっと言えば「寛容」原理による人権保護が働く「市民社会」の外に存在する「subaltern」とさえ思念されかねないものだという認識を、恐らく井上先生は持っておられなくて、もっと日本的な「他所様」的な意味、あるいは「肌の色が違っても人間は人間だ」という感覚で「l'autre」と言われているのではないかという仮説がまず浮かびます。

次に、日本ではそもそも「人間は自由でなければならない」 というリベラリズムの根本信条がそもそも共有されておらず、「人間は結局ある程度は不自由なのが自然状態であり、これを受け入れてこそ大人である」あるいは「人間はあまりに自由であってはならない」という考えの方がかえって人口に膾炙しており、つまり自由を制限する側がその論証責任を負うのではなく、逆に自由を「無闇に」主張する側がその正当性の論証責任を負うべきだという観念が事実上強固に存在しているのではないか、という仮説も一応成り立つかと思われます。

また、日本のアカデミズムでは「自由」には「責任」が伴うという点が強調され、しかもそれは他者の自由を尊重しなければならないというだけではなく、他者の自由を直接侵害するわけではない場合でさえその行動が何らかの「義務感/責任感」に基づかないのであればそれは真に自由な行動とはいえないというカント的な理解に基づく「リベラリズム」論が、より「権威」のある「哲学的に優れた」ものとして尊敬を集めているのではないでしょうか。

この三つの仮説はあくまで仮説であって、基本的に私の勝手な推論に過ぎずデータに基づくものでも何でもありませんので瑕疵も多いでしょう。とはいえ、西欧において(大衆メディアの粗雑な議論ではなく)学界で公式に採用されている(Stanford Encyclopedia of Philosophyの記事とはそういう性質のものとされています)「リベラリズム」理解と日本の学界で「優越性」を認められている「真のリベラリズム」の間には、後者が前者を乗り越える為に生じたのだという背景を考慮すれば一定の「ズレ」があるのは当然です。無論西欧側は西欧的な「リベラリズム」こそ「普遍的」なものであると主張し、日本のリベラリズムを「人種的多様性のない特殊東アジア的なもの」と簡単に切り捨ててしまうでしょう。特に「マイノリティに対するaffirmative actionは不公正」などと主張すれば、下手をすれば「人種差別主義者」のレッテルを貼られ学者生命はおろか社会生命を絶たれかねない恐れさえあります。(本稿では日本に焦点を当てていますが、逆に何故西欧では原理原則を曲げた少数派優遇に倫理的優越性が認められてしまうのかという点に関しては別稿で論じたいと思います。が、先に仮説的結論だけ申し上げると、西欧では特に政治思想においては理論的一貫性よりもそれが公共社会に秩序をもたらすという「実践的価値」の方が重視されるという事情があるのではないかと私は思っています。)

とはいえ、日本人が「普遍」とは何かを絶えず問い直していくことの重要性は強調されるべきで、日本の文脈では単に「さすが東大法学部教授先生の言うことはその辺のリベラルとは違う」と肯定的に受け止められるとはいえ、西欧の文脈では相当勇気ある発言をされている井上先生の理論的挑戦への意志は高く評価されるべきものだと私は思います。

さてこんな風に大権威である井上先生に対しほとんど「上から目線」で批判的に論ずるようなことをすると多方面から「お前は何もわかっていない」等といった私の不見識を批判する声が飛んできそうですが、確かに私の見識が足りていない部分も多いのは予め認めておきます。とはいえ、粗雑ながらも私なりの見方を一応示しておくことで他の方々からの反論や有益な助言を得られ、それによって「日本におけるリベラリズムとは何か」あるいは「日本における哲学とは何か」という点の理解がより進む面もあるだろうという考えで敢えてこの推敲の不十分な論考をそのまま発表している次第ですので、その点ご理解頂ければ幸いです。

それでは、ここまでお読みいただきありがとうございました。何か異論等ございましたらコメントを頂ければ幸甚です。

 

参考文献:

Abbott, P. (1976). With Equality & Virtue for All: John Rawls & the Liberal Tradition. Polity, 8(3), 339-357. doi:10.2307/3234357

Mouffe, C. (2009). The Limits of John Rawls' Pluralism. Theoria: A Journal of Social and Political Theory,56(118), 1-14. Retrieved from http://www.jstor.org.ezphost.dur.ac.uk/stable/41802423

Olney, C. (2012) Justice and Legitimacy: Rawls, Schmitt and the Normativity of Law. Law, Culture and the Humanities Vol 12, Issue 1, pp. 49 - 69 First published date: December-04-2012

Stanford Encyclopedia of Philosophy "Liberalism" 

Tatsuo Inoue, « Le libéralisme comme recherche de la justice. Sens pratique et philosophique », Revue philosophique de la France et de l'étranger 2011/3 (Tome 136), p. 323-346.
DOI 10.3917/rphi.113.0323

 

 

自己紹介&本ブログの趣旨、及び英国留学のもうひとつの方法について

初めまして。神谷と申します。

 

2016年10月から2017年1月終わり頃まで「アゴラ 言論プラットフォーム」に正式メンバーの一員として寄稿させて頂いておりましたが、「歴史修正主義」に関する見解の相違をきっかけに池田信夫氏から叱責を受け、現在アカウント凍結状態になっております。(この件に関しては私の知らぬ間に「まとめ」て下さった方がおられましたので、その詳細については以下でご確認頂ければと思います。)そこでどうしたものかと考えていたところ、「イスラーム国の衝撃」という名著あるいは「中東風姿花伝」というブログで知られる東京大学助教授の池内恵先生から直々に、あくまで勉強に支障が出ない範囲で個人ブログにて「時事問題の背後にある哲学問題について、100人ぐらいに向けて独り言」(この部分は直接引用です。これ以上良い言い方が見つからないのでそのまま使わせて頂きました。)を発信していけばどうかとのアドバイスを頂きましたので、ここに改めてブログを開設したいと考えるに至った次第であります。

とはいえ、「アゴラ」では全く自己紹介のようなことはしなかったので、拙稿を読まれた方々の中には「神谷匠蔵って誰」という疑問を持たれた方々も多くいらっしゃることでしょう。

そこで今回は少しだけ自己紹介のような部分を含めようかと思ったのですが、大した人間でもない私の個人情報を知っても読者様の側に得られるものはさほどないだろうと思い直し、私が英国留学に至った経緯のみを「あまり知られていないもうひとつの留学方法」の紹介という形で簡単に紹介するに留めたいと思います。

さて、私は現在英国のダラム大学(Durham University)というところで哲学を専攻している大学二年生です。(英国の大学学部過程は三年制なので、来年卒業ということになります。)大学院じゃないのかよ、という話ですが、学士号をとっていないので大学院には入れませんでした。

通常日本人が高校卒業後に英国の大学に入る場合、普通は入れてもらえません。時々灘や開成の卒業生がさも「現役」で「オックスフォード」やら「ケンブリッジ」に合格しているかのような印象を与えるニュースが飛んできますが、灘や開成だけ特別扱いされているのでもない限り、通常は日本の高校を卒業してもオックスブリッジはおろか英国の大学の受験資格は一切ありません。

そこで、多くの日本人学生は「Foundation Course」という「基礎固めコース」とでも言うべき準備過程にまず入学し、一年かけてこれを卒業、その際に十分な成績を収めれば正式に学部過程に入学できる、という経路を辿ります。従って日本で高校を卒業した人(インターナショナルスクール出身者や学校がA levelsコースを提供している場合を除く)の場合、英国の大学に入学するには19歳、誕生日が10月以前の場合は20歳が最年少です。

とはいえ、「Foundation」をやるだけでは「オックスブリッジ」の受験資格はもらえません。というのも、Foundation Courseは多くの場合各大学が独自に設置しており、その大学への入学資格を与えるものに過ぎない一方で、オックスブリッジ自身はオックスブリッジ専用のFoundation Courseを設けていないからです。ということで、日本の高校を卒業した人がオックスブリッジに学部から入りたい場合はまず他の英国人の学生のように「A-levels」試験を受ける必要があります。(詳細は以下参照)つまり、「高校レベル」からやり直すわけです。従って速習の場合でも大体2年程度かかるようです。しかも成績が悪い場合はオックスブリッジの場合は足切りされてしまうので、高額の授業料を払ってA levelsからやり直し、2年間も勉強した上でさらにオックスブリッジに三年間「international student」としてやはり高額の授業料を払い続ける、というのはよほど時間的、金銭的及び精神的余裕がなければやれないことでしょう。

また最近は中国において国内でA-levels試験を受けれる学校も出てきており、激増する中国富裕層の間では英国留学を視野に入れている人々も少なくないので、「東アジア人枠」は経済的に安定している中国富裕層や、香港やシンガポールなどの「英語圏」化したアジア諸国出身者で埋まりやすく、また同じ日本人でもインター出身の完全バイリンガルが当然名門大学を狙ってくるので、「帰国子女」でもない「純ジャパ」の日本人にとっては非常に厳しい競争を強いられる可能性もあるかもしれません。

とはいえ、私自身はそういった高額かつ困難な道を辿ったわけではないので、オックスブリッジは最初から選択肢に入っていませんでした。というのも、私はほとんど「転学」に近い形をとったからです。どういうことかと言いますと、私は日本の大学の一年時修了の「学歴」で以って「Foundation」に代わるものとして大学側に認めてもらったのです。留学したいなと考えはじめた時にComplete University Guideの「Philosophy」の欄で上から順に英国の大学にコンタクトをとってみたところ、この形での入学も考慮する場合があるとしている大学もいくつかあり、その中でも最も積極的に受け入れの姿勢を示してくれたのがダラム大学なのですが、ダラム大学は「哲学/philosophy」ではオックスブリッジに次ぐ第三番手の入試難易度(entry standards)の大学であるとのことだったのでこれは願ってもないチャンスだと思い、そのまま入学手続きに進むことにしたわけです。その際に必要だったのはこれまでの日本の大学在学時の「成績」(最高成績Aの比率が75%以上)と、IELTSで総合6.5以上(各項目6.0以上)という英語資格でした。

こんな例外的な方法で入学する例は極めて珍しいと思いますのであまり参考にならないかもしれませんが、英国に来て FoundationやA levelsをやるよりは一般の日本人にとってはむしろ現実的かつ経済的な方法とも考えられなくはないので、具体的に私が何をしたのかを簡単に説明します。

まずは、大学一年時はなるべく良い成績をとること。私が在学していたのは慶應義塾大学法学部法律学科ですが、慶應の法学部にも単位さえとれれば良いということで「楽単」を選ぼうとする学生は少なくとも一定数います。逆にそういう人たちを怪訝な顔で見ている真面目な学生も少なからずいます。この「楽単主義」は大学自身が世間に対して学問の価値を強く主張できなくなってきた中で成立した現行の日本的教育制度の中では確かに賢い選択ですが、D(不可)を絶対につけないがA(最優)も出さないような「楽単」は果たして楽単と言えるのか、留学志望者なら考えた方が良いでしょう。

そもそも理想としては単位を取るのが楽かどうかという基準で科目を選ぶのは学生としてのモラルハザードと言うより他なく、むしろ密度の濃い「エグ単」を取ることに意味があるのですが、そうすることに純粋に知性が磨かれるという以上の外面的メリットが全くなく、日本で就職や進学する際には別個に「入社試験」なり「入学試験」があるので大学時代の成績はさほど重視されず、また海外留学の際にも問題になるのはどの先生のどの科目をとったかではなく、「総合成績」という表面的な部分しか評価されないのが現実なので、実際にはAをとれる科目から優先していくのも自分の身を守る為の一つの有効な手段であることは認めざるを得ません。

私自身は一年生の時は「楽単」は一切取らず、純粋に知的好奇心に基づき、あるいは制度上取らなければいけない科目を難易度を度外視して取りましたが、このやり方が効率的であるとは全く思えませんでした。結果的に難易度の高い科目でもそれなりに勉強すればAはとれましたが、しかし1日の時間は限られているので、全科目を「エグ単」で埋めてしまうと時間が足りなくなる危険があります。それが本来のあるべき学生の姿なのかもしれませんが、周りの学生が楽々と良い成績をとりつつプライベートも楽しんでいる中で自律的にカントのような禁欲生活を送るのは決して簡単なことではありません。

ということで、理想的には難易度に関わらず良質な授業をとってAを揃えることですが、実践的にはAをとれそうな科目をしたたかにかつ確実にとっていくのが現実的戦略となるでしょう。とはいえ、実際のところ往々にして重要なのは自分が興味を持っているかどうかであって一般的難易度そのものではないので、特に東大のように自由度のある制度の中では興味のある科目からとっていけば結果として成績も付いてくるとは思います。言うまでもなくある程度以上の大学ではAを連発する先生というのはほとんどいないと思うので、まずは興味のある科目をしっかり勉強することが一番の近道です。

次に、何でも良いので何らかの学問に関わる「賞」を貰うことです。私の場合選択科目としてとっていた英語上級クラスで書いた小論文は、是非学内コンテストにも出すようにと先生から言われていたので、これはチャンスだと思ってかなり時間をかけてコンテストに提出したところ、最高賞を頂きました。佳作程度ならもしかしたら貰えるかなというくらいの気持ちで提出したのですが、予想以上の高評価を受け吃驚しました。とはいえそれなりに努力はしたので達成感はありましたし、何よりこれは少なくとも人並み以上の学習意欲を示す論拠にはなりますし、また英語圏に留学する場合には欠かせない「推薦状」を書いてもらう際のしっかりとした理由になる点も案外重要です。学問分野での受賞経験は直接推薦状を書いてもらう際の確固とした理由に繋がるので、正規留学のみならず交換留学の場合でも、受賞経験は手続きを円滑に進める上で大いに役立ちます。

あとは、これは今更言うまでもないことのようで案外忘れがちなことなので一応言いますが、語学力の証明書類を揃えることですね。実は私の場合IELTSもTOEFLも一度も受けたことがなかった上に留学を決めたのがあまりに遅かったせいで、留学を決めた時点で予めIELTSの受験申し込みをしていたにも関わらず、受験結果の提出期限までに提出できる結果が存在しないという危機的状況で、大学側に事情を説明し少しだけ期限を延長してもらうという土壇場具合でした。というわけで失敗の許されない中でのIELTS初受験でしたが、思っていたよりも難しくあまり捗々しくなかったものの、とりあえず基準点はクリアしていたので何とかなりました。とはいえ、これに関しては私は完全に準備不足だったなと今更後悔している部分もあるので、最初から定期的にIELTSなりTOEFLを受けておくに越したことはないと念押ししておこうと思います。やはりその方が無駄なプレッシャーを感じることもないし、ベストな成績を提出できるのは明らかです。

概ね以上の三点さえクリアすれば、一年日本の大学を試した後に2年次の途中から英国の大学に入り直す(卒業は半年遅れるだけです)ということは一応可能だと思われます。

実際私はそんな感じで本当に英国にやって来たわけですので、日本人にもA levelsやIBを介さず、その意味では若干格安で英国の大学(オックスブリッジを除く)に入れる可能性はあるということです。勿論オックスブリッジでないなら東大の方が上だからわざわざ留学しないという考えも一応有りですので、そういう方には是非A levelsなり東大受験なりを頑張っていただければと思いますが、特にオックスブリッジにこだわっているわけでもなく、とにかく英国に正規留学したいのだけれど、「Foundationからやるのもなぁ」という風に考えて日本の大学に入ってしまった方には、私のとった選択肢は参考になるかもしれません。

さて、そんな私ですが、このブログでは主に英国における動向や「日本」について今私が考えていることなどについて少しずつ書いていきたいと思っています。「アゴラ」では読者傾向に合わせて比較的右寄りの話題を中心に扱ってきましたが、個人ブログなのでもっと自由に、つまりもっとバランスのとれた、専門性が高く読者を選ぶような内容を扱っていきたいと思います。それでは、長くなりましたがどうぞよろしくお願いいたします。