哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

形而上学的立場と政治イデオロギーの関係について

経験論(empiricism)とは、雑に言えば形而上学(知識論、epistemology)において真理根拠を経験に求める立場です。勿論、経験論の中にも色々と種類がありますが、大まかに言えば「理性主義(rationalism)」と言われる、理性による直観的認識(a priori intuition)に真理根拠を求める立場への批判的立場という点で共通するのが経験論の基本的特徴であると言えると思います。

 

別にこのブログは日本語版の"Stanford Encyclopedia of Philosophy"ではありませんので、細かいことは詳しく議論しませんが、この経験論という立場は、今日の英米哲学や多くの現代思想において支配的な立場であって、日本でもカント主義者から「分析哲学」者まで、非常に広い範囲で「経験(empirical experiences)」との整合性の重要性は広く認識されていると思います。

 

似たような対立軸としては、「科学と宗教」というのがあります。科学はもちろん「経験論」の立場に立脚する側です。しかし「宗教」の根拠は必ずしも理性ではなく、むしろ一般的な宗教においては「啓示」(Revelation)あるいは「聖典(Torah, Gospels, Quran, Veda etc.)」であるとされやすい。従って、実は宗教も含めると世の中には知識根拠をどこに求めるかに関して三つの立場があるのです。

 

そして、「西」ヨーロッパの歴史においてはまず中世以前には歴史があってないようなものなのでいきなり中世からはじめると、まずカトリックの聖典主義からはじまります。人間に得られる全ての知識は聖書に記されていると考えるこの聖典主義は、実際長い間ヨーロッパを支配し、ロシアでは革命前夜までこの考えが基本であったほどです。従って「知識人」とは神学者であり、「知的権威」とは宗教権威そのものでした。

 

これに対して異を唱える「科学者」は中世の時代から少なからずいました。例えばロジャー・ベーコンなどはイスラーム科学との接触を通して13世紀に早くも経験主義的立場を表明しています。とはいえ、デカルトやガリレオが出てくる16世紀までは、まだ宗教の知的権威は重く、ガリレオの事例からも分かる通り、経験に即した知識も全く無視されたわけではないとはいえ、宗教知識と対立する場合には劣位にありました。

デカルトは近代哲学の祖として名高いですが、しかしデカルトはこの流れで言うと実は非常に特異な立場にあります。というのも、デカルトの同年代にはガリレオのように純粋に経験論的な「科学者」もおり、別に聖典主義から経験主義へと一直線で「パラダイム・シフト」が起こってもよかったし、実際にイギリスではそういう風に推移したのです。ところが大陸ヨーロッパではここでデカルトという極めて独創的な「哲学者」が現れ、聖典主義でもなければ経験主義でもない、「rationalism」(合理主義/合理論とも呼ばれますが、文脈上理性主義とした方がわかりやすいと思うのでここでは理性主義と呼びます)を唱えたのです。これは神学者兼科学者という、当時の多くの知識人の立場を根底的に否定するものなので、「デカルト主義(le cartésianisme)」というのは信仰心の厚い神学者からも、あるいは経験論的な科学者達からも非常に嫌われました。(特に英国系の知識人からはひどく嫌われ、かつこの状況は別に今でも変わっていません。笑)例をあげれば、ニュートン(Isaac Newton)、ロック(John Locke)、クラーク(Samuel Clarke)らは皆デカルト主義の批判者です。かつこのうちClarkeは神学者でもありますし、ニュートンは神学者ではありませんが篤信の人です。もちろん、イギリスに理性主義者がいなかったわけではありません。彼らの多くはFree Thinkersと呼ばれますが、Free Thinkersは主に教会権威や神学者の道徳的権威の嘲笑に精を出したので、哲学としては「二流」の烙印を押され続け今日までほとんど無視されています。現代では、例えばSam HarrisなんかはこうしたFree Thinkersの立場に近いものをがあると私は思いますが、やはり「傍流」として扱われていますね。

 

フランスやドイツは神学者の権威が高く、イギリスでは宗教に対して慎重な立場をとる経験科学者の権威が上昇しつつある中で、デカルト主義はこの両方を嘲笑する立場であるとされ、宗教権威からはほとんど感情的に否定され、科学者集団からは「取るに足らない戯論」という扱いを受けてきたわけです。

 

しかしデカルトは数学者としては実に優秀でした。従って数学や幾何学の絶対性を信じる数学主義的、あるいは論理主義的な立場に立つ人達は結構デカルト主義に「かぶれる」人も少なくなく、こっそりデカルト主義を奉じる大学教員達もフランスやオランダなどには結構いたとされています。スピノザは、神学政治論で神学者を完膚なきまでに批判する一方で、こうした「隠れデカルト主義」者の間で一等優れた「デカルト主義者」として認知されることでその名声を築いたのです。スピノザがデカルト以上の合理主義者であるのは、その形而上学から明らかですが、面白いのはスピノザは数学や論理学についてはほとんど何も書いていないというところです。合理主義者としてはこの点は異例です。例えばもっと最近の合理主義者というと有名どころではまずラプラス(LaPlace)がいますが、彼が主に数学者として知られていることは論を俟ちません。ただし、スピノザの「エチカ」のスタイルからして、スピノザがエウクレイデスの「幾何学」を読んでいたしかつ高く評価していたのは明らかです。このように、合理主義は数学と強く関連しています。

 

ということで、もし聖典主義が「人文主義」、経験主義が「科学主義」だとするなら、理性主義はさしずめ「数学主義」あるいは「論理主義」であるということになります。

 

さて、では本題ですが、この人文主義、経験主義、理性主義が政治思想として現れると何になるのでしょうか。

まず、人文主義あるいは聖典主義は、聖書の権威が絶対なのですから当然に神の教えに基づく政治が行われるべきという主張につながるのが自然でしょう。実際聖典主義が強い古代ユダヤ王国やイスラーム教国のようなケースでは神権政治に傾きますし、あるいはインドのバラモン教や仏教におけるような俗権を一切否定する「非政治主義」という形態ををとります。(キリスト教は例外的に聖俗折衷論で、俗権に妥協しつつ寄生する傾向があります。)

では経験主義はどうでしょうか。経験主義の場合、何でも経験してみなければわからない、最初から何が正しいかなんて聖書を読んでも、あるいは優れた理性を持っていてもわからないはずだ、と考えます。とすると、やはり「経験」を積んできた「ベテラン」に任せるのが良いし、そういった経験に基づく「伝統」を守り伝えていくべきだという考えが最も経験主義者の性にあっているでしょう。現に経験主義者であるロックやヒューム、あるいはバークはやはり世俗的保守主義で知られていますね。また、経験主義の立場からは別に宗教をそこまで否定する必要はないので、俗権に介入してこない「moderate」な宗教に対しては寛容主義になります。従ってキリスト教とは相性が良いですが、他のもっと神権主義的な宗教とは相性が悪いです。

最後に理性主義ですが、これは勿論正しい政治というのは当然に理性に基づくべきだと考えます。ここで何が「理性」かという点で意見が分かれ得るので理性主義の政治というのも決して一通りしかないわけではありませんが、仮に「理性」を数学におけるような論理的整合性とするならば、論理的に正しい政治というのは勿論「人間にとって欠くべからざる必然的欲望」という「前提」から演繹的に導かれる政治であるはずです。スピノザとルソーはともに人間の「自然状態」の推察から直接民主制が最も自然であると演繹します。とはいえ、国民が全員理性的な国などないので、直接民主制が現実に実現する可能性は限りなく低く、かつ実現したとしても、理性主義の浸透の結果というよりはむしろ総力戦的戦争の経験による平等意識の浸透などの方が重要な要因であったりします。とはいえ、フランス人の場合は実際に理性の導きによって民主制への移行を実現しようと試みます。フランス革命にあの数学者ガロワ(Évariste Galois)が参加していることが象徴的ですね。ちなみにルソーの母国スイスでは、今日でも直接民主制が比較的重視されていますが、やはり国民皆兵制(男子のみ)をとっています。ちなみに理由は違うでしょうが現代ギリシャも国民皆兵制(男子のみ)という点では同じです。

 

では、世間で最も嫌われるナチズムやファシズムはこの内のどれに当てはまるかと言うと、ナチズムに関しては実は神権政治です。少なくともヒトラー本人はそう思っており、自分を神に遣わされた僕に過ぎないと考えていました。ヒトラーの反ユダヤ主義には、彼あるいは当時の一般的な宗教観(ユダヤ人をキリスト教への脅威と看做す見解)も関係している、というのは学者の世界では密かにこっそり指摘されていることです。イタリアのファシズムもヴァチカンとの協約(ラテラノ協約)の下で成立しているので、宗教との関係は決して悪くはなかったと言えるでしょう。少なくとも現状維持を是とする保守主義や共和的民主主義を目指す方向よりは、神の承認を得た権力者と振る舞う方向にムッソリーニは向いていたと思います。帝国日本がファシズムと言えるかは微妙ですが、日本の場合でもやはり宗教的な天皇への崇敬に基づく忠誠を基礎としていた点で、神権政治的であったと言えると思います。

こうしてみると、反ファシズムというのは実は神権政治への批判であって、「全体主義」一般への批判とは一応区別できるということがわかると思います。勿論経験論的な保守主義者は共産主義に基づく「全体主義」も、あるいはフランス革命をも「全体主義」として否定するでしょうが、他方で理性主義の立場から見れば少なくともフランス革命は「歴史的前進」であったと評価されても不思議ではありません。

ただ、共産主義が理性主義かというとこれは微妙です。というのも理性主義においてはルソー的な直接民主制が理想なので、一党独裁制という形の共産主義というのはむしろ神権政治の巻き返しとも言えるからです。現に実際に現れた共産主義国家はそれ以前までは神の権威に基づく皇帝が政治を行なっていたような国家で、しかも共産主義を担った知識人も長い理性主義の伝統に基づくというよりは急に外来思想であるフランス思想やマルクスなどのドイツ共産主義思想(あるいはそれによって成り立つロシア共産思想)を持ってきて無理に運用したような感じなので、ちょっと歪だと思います。まあこういうハイブリッド的なのもあり得るとしても、もっと良い理性主義政治そのものの実例はやはりアテネの民主政と現代スイスの政治だと思います。これ以外に直接民主制の実例がないので。スイスを見れば、直接民主制を重視することが決してポピュリズムや全体主義に陥るわけでもなく、単純に優れて理性的な国家になることが出来るということがわかりますが、しかしスイスもアテネもやはり小国なので、もっと規模の大きい国で同じことができるかという疑問は残ります。

 

ということで、人文主義が神権政治や君主政治といった絶対的な権威をいただく権威主義的体制と相性が良く、また経験主義は貴族政治や議会制民主主義といった階級制的エリート主義体制と相性が良く、また理性主義は直接民主制(ただし市民の数が比較的少数であるのが前提)と相性が良い、ということに今回はとりあえずしておきます。

(ただしこれは単に形而上学的立場との相性によって概念的に区別しただけで、現実にはファシズムや共産主義全体主義のように、複数の要素を含む複雑あるいは変則的政体もあるので必ずしもこの三つが包括的なカテゴリであるわけではありません。)

哲学は役に立たない?

「哲学は役に立たない」という議論(いや、議論でさえなく、たいていの場合はassertionですね)は日本では非常に頻繁に見かけます。

実は西欧(特にイギリス)でも哲学を勉強しているなんて言うと、「で、就職はどうするの?」と聞かれることは多いです。笑

なのでまあ別に日本人だけが「反哲学的」だなどとは私は思いませんし言いませんが、一般的に哲学は役に立たないとか、哲学科に行くと就職できないとか言われているのは事実だという前提で、これについて少し私の思うところを書いてみたいと思います。

 

まず、私は自分が哲学を学んでいる身でありながら、哲学を学んでも就職に繋がらないというのは当然だと思いますし、別に企業の人事が意地悪なわけでもなんでもないと考えています。ただし、私はここで「哲学を学ぶ」という言葉を、例えばデカルトやカントの思想を丁寧に読み解き理解するといったような作業であったり、あるいは現代(分析)哲学で流行している理論を学ぶといったような、哲学を教える立場になるのであれば必要不可欠な、なんらかの形而上学的ないし歴史的「知識」を身につけるようなことを意味で理解して使っています。一般的に実社会で「役に立たない」と退けられているのはこうした専門的知識のことでしょう。

 

勿論この専門知識を持っていること自体には価値があるし、学者や哲学を教える立場にある人にとっては欠かせないものです。そう言う意味ではこの知識も必要だし役に立ちますが、「教える」という領域を超えて実社会でこうした哲学的知識が役に立つなどということはそうそうないか、あったとしても一般に企業はそんなことを直接求めていないのが通常だと思います。

 

なので、こうした哲学者としての専門知識が実社会で役に立たないという点は私は別に否定しません。ですが、哲学を学んできて、私は最近気づいたことがあるのですが、哲学を学んでいる人は(少なくとも英国では)、そうでない人よりもやはり論理的に思考する癖がしっかりついていて、様々な会話や作業がスムーズに進むのです。

別に哲学でなくとも数学や物理学をやっている人、あるいは経済学をやっている人なんかも常に論理的に考えていて話しやすいですが、学問の中で数学をがっつり使う人たちが論理的に思考できるのは別に不思議ではないですよね。

ところが、哲学をやっている人も実はこれらの数理系を専攻している人と同じくらい論理的に思考するタイプの人が多いのです。実際イギリスでは哲学科において「論理学」は初学年で必修として教えられますし、エッセイなどでも「論理」はかなり重視されています。

 

勿論哲学専攻でも倫理学やポストモダンの批判理論系などを専攻している場合はもっと「文学部」っぽいですが、科学哲学や論理学、あるいは形而上学をやっている人たちは基本的には数学部や物理学部出身の人が多いですし、実際これらの科目は哲学部の人よりは数学部や物理学部と哲学を両方専攻している人がとる場合が多いです。

 

後者のタイプの「哲学」の場合、論理的思考力は強烈に鍛えられます。慣れれば誰かと議論していても相手がどの種類の誤謬を犯したか瞬時に判断できるようになる。この能力は、ある程度までは本来なら知的労働者であるなら誰もが身につけるべき「基礎」であるはずです。かつ、この能力はビジネスマンにとっても必須であるはずですし、企業にとっても従業員のなるべく多くが基本的な論理的思考力がある方が直接利益になるはずです。

 

この意味では、基礎としての論理的思考力は必要不可欠だし、これが哲学の基礎をも構成するという限りでは哲学も役に立つのです。ただし、これは「哲学者」が役に立つというよりも、「なるべく多くの人がある程度哲学がわかる/論理的に思考できる」という状況が社会にとって有益であるという意味で役に立つのです。

 

従って、本当は哲学は「専門化」されるよりも、もっと一般に開かれているべきなんですね。ただし、一般に開かれるといっても、一般人(大衆)にも「わかる」ようにレベルを下げて、論理的に無茶苦茶だけど賢そうなこと、あるいは一般人が誰か知的権威のある人に肯定してほしいと思っている偏見を肯定する(かのように見せかける)ようなことを言って大衆を煙に巻くような商売をするという意味ではなく、そういう人をみて「残念だなあ」と思える哲学的素養(=論理的に思考する習慣)の裾野をなるべく広げるという意味です。

 

つまり、哲学は「文化」として広く社会に受け入られて初めて意味を持ち役に立つものであり、特定の天才的な個人が独りで真理を発見しても、それを共有しその価値を具現化する「知識社会」が現実に存在していなければ宝の持ち腐れになってしまうのです。

 

西洋で哲学者が活躍できるのは、西欧にしか天才的な哲学者が出てこないからではなくて、哲学者の言葉を実際にある程度までは理解し、これを現実に反映させる「知識人集団」というものが存在していて、そのおかげで哲学者の発言が実際に「社会的影響力」を持ち得るからです。もっとわかりやすくいうと、西欧では「哲学者は社会を変えられる」のですが、それは彼らの天才のおかげではなくて、彼らの論理的に正しい優れた議論を評価する「大衆」あるいは少なくとも「知識人集団」というものが存在しているおかげなのです。

これに対して、日本という国は時々現れる鋭く論理的な人という「宝」を散々無駄にしてきているというのは、私は否定すべからざる事実だと思います。

かつ、それは日本人が即物的で実利的なことのしか興味がない(ヨーロッパ人や特にアメリカ人の方がもっとそうです)からではなく、むしろ日本人が実利以上に伝統的な道徳的権威を重視し、これに完全に服従することを良しと考えているからだと私は思っています。

恐らく、「アゴラ」に集まる「自由(市場)主義」的な論客の方々も、ビジネス重視の観点からこの点を苦々しく思っていて、日本人がもっと道徳的権威よりも実利を重視し、「合理的」に物事を考えるようにならないものかなという思いで日常に潜在する様々な「道徳主義」的言説(たいていの場合は左派的道徳が対象になりますが、池田信夫さんに限っては時折右派の道徳主義もはっきり否定するので、その点実に徹底していると思います)を逐一批判し国民を啓蒙しようとなさっておられるのではないかなと、私は6ヶ月間書き手として参画しつつ考えておりました。

確かに実利重視という意味での「合理主義」と、論理的思考は重なる部分が多いです。(だから論理的思考のできる人はビジネスの役に立つわけです。)とはいえ、アメリカ流の実利主義的「合理主義」は、必ずしも「論理」そのものの重視と常に同じ方向を向いているわけではありません。例えばフランス人はアメリカ人よりも一般的にもっと論理的ですが、フランス人は必ずしも実利主義的ではありません。もっといえば、数学者や論理学者が必ずしも大富豪ではないし、逆に大富豪が論理的思考において優れているわけでもありません。(これがヨーロッパ人相手との会話であれば、ここでトランプ氏の名が必ず出ます。笑)

しかしこれは論理的思考の弱点なのではなく、論理的思考を徹底するという意味での「合理主義/rationalism」というのは、単なる実利主義的合理性よりももっと公益性があるということなのです。

私的利益を追求するのであれば、時には嘘をついたり、論理的に滅茶苦茶なことを言ったり、人を騙したりする方が「得」な場合もあるかもしれません。勿論人格者として振る舞うことがビジネスにおける成功にも繋がるという幸運なケースも多数あるでしょうが、いつもそう理想通りにいかないこともあるというのもまた多くの人が認めるところではないでしょうか。

しかし、論理的思考はこういう時に「非論理的」なことを許容しません。それは正義の為ではなく単に論理的に間違っていることを間違っていると言わなければすまないのが論理的「理性」の本質でありかつ限界だからです。明らかに筋の通らない嘘がまかり通っていても、私的利益の為を思って黙っていることは「実利的」な人にはできるでしょう。しかし「論理的」な人にはこれができない。論理的に間違っていることは単純に「論理的に間違っている」からです。こう言う瞬間には、「論理」は意図せずして道徳と一致することがあるかもしれませんが、しかし論理的思考が常に道徳的に正しいというわけでも別にありません。

しかし、それは裏をかえせば「論理」は誰か特定のタイプの人のためにあるのでもなく、万人に開かれた、万人のものであるということです。論理に基づく意思決定や行動は、その意味で常に「公益性」を帯びています。

従ってもし「公益」へ貢献することが「役に立つ」ことなのだとしたら、哲学は実に「役に立つ」ものなのです。

自分の為でも、親のためでも、会社のためでも、国のためでも、あるいは恋人のためでもなく、ただ抽象的な「理性的存在」のために真実を明かすことが、この真実が現実に真実と受け止められそれをもとに様々な誤解が解消される限りで公益に貢献するのです。そう言う意味では、哲学は本来「公務」であるべきと言ってもいいかもしれません。実際ギリシャでは「哲学」は直接民主制の時代に政治参加そのものが「公務」であった時代に発展してきたものです。ヨーロッパの中でも特にフランスを中心に近代哲学が発展したきたのも、哲学が知識人の合理的思考、また特に革命以降は「民主主義」を支えるという「公務」を果たしてきたからで、今日でもフランス及びドイツでは「哲学」と「公共性」は密接に関連づけられています。(フランスとドイツでは大学は全て税金で賄われるので、大学教員は事実上公務員です。従って大学に所属する「哲学者」も当然公務員です。)

 

翻って、日本ではどうでしょうか。哲学は公共的なものとして受け止められているでしょうか。私は違うと思います。日本では哲学というのは奇人か天才のやることで、一般人にはおよそ関係のない、社会から遊離したものであると考えられているのではないでしょうか。かつ、日本では「役に立つ」という時、主に「私的利益」を得るのに有用であるということが意味されているのではないでしょうか。だとしたら、日本では哲学は二重に否定されているわけです。まず、そもそも公共の役に立つとも思われておらず、次に公共の役に立つこと自体が「無意味」であると思われているからです。

 

とはいえ、私は別に後者の観点を否定するつもりはありません。私的利益は大事です。フランスやドイツのように公共性を最重要視するよりも、英米社会のように私的利益を優先する社会の方が結果としては良いという見方は別にそういう立場として理解できます。しかし、前者は端的に間違っています。哲学は本来公共の役に立つものですし、公共の役に立たない哲学(=論理的でない哲学)など哲学(philosophy)ではありません。そういう非論理的な「思想」も宗教や文学の範疇で育むのは良いと思いますが、私はそういった思想まで役に立つとまでは言いません。あくまで「論理的正しさ」を社会全体で大事にしていくことが、公共の役に立つと言いたいだけです。

 

ということで、哲学(論理的思考)は哲学者本人の為になるわけではないけど、公共の役には立つんだ、というのが私の哲学擁護論ということになります。また、論理的思考がある程度実利的合理性を追求する際にも役に立つという限りで、私企業の役にも立ちます。が、まあ勿論徹底的に実利的に物事を考えられる人と比べれば哲学者は相対的に不利という点は認めます、というくらいでまとめようと思います。笑

 

 

 

 

スピノザ及びライプニッツの「充足理由律」について

日本ではスピノザってどう読まれているのかなと思って2chねるでスピノザに関するスレッドを見ていたら、スピノザと「充足理由律」の関係がどう捉えられているのかという質問を見つけ、答えようかと思いましたがスレッド自体が古いのでどうせならブログに書いた方がいいなと思い直して書き直すことにしました。

 

ということで、もし他にこの点が気になっている人がいたら参考になれば幸いです。

 

まず、「充足理由律」と日本語(漢語?)で言っても、正直何のことだか全くピンとこないと思います。(これはスピノザに限りませんが、一般的に西洋哲学は日本語訳で読む方が余計に難しいです。ドイツ語やフランス語、ラテン語が辛くとも、英語なら大体の人は読めるはずですので、基本的にせめて英訳で読むことをお勧めします。)

 

これは英語ではThe Principle of Sufficient Reason (以下 PSR) と言い、元はライプニッツがモナドロジー(32節)の中で提唱した概念です。ライプニッツはモナドロジーをフランス語で書いているので、元々はフランス語で "Le priniciple de raison suffisante"と呼ばれていました。

 

従って本来PSRとはライプニッツ哲学を議論する際に頻出するものなのですが、現代の英米(分析)形而上学においても例えばAlexander Pruss (2006) などがPrinciple of Sufficient Reasonという本を出しており、この中でライプニッツのそれよりもっと経験論に譲歩したより穏健なPSRを擁護しているなど、決して過去の遺物として捨て去られているわけではありません。

 

さて、principle de raison suffisanteという言葉を最初に使ったのはライプニッツが初めてであるというのが通説なのは間違いありませんが、その具体的な内容はなんなのかというと、ライプニッツの定義に従えばこうです。説明の為31節から引用します。

 

31. Nos raisonnements sont fondés sur deux grands principes, celui de la Contradiction, en vertu duquel nous jugeons faux ce qui en enveloppe, et vrai ce qui est opposé ou contradictiore au faux. 

 

32. Et celui de la Raison suffisante, en vertu duquel nous considérons qu'aucun fait ne saurait se trouver vrai ou existant, aucune énontation véritable, sans qu'il y ait une raison suffisante pourquoi il en soit ainsi et non pas autrement, quoique ces raisons le plus souvent ne puissent point nous êtres connues.

(Leibniz, La Monadologie: 31-32)

 

簡単に訳しましょう。

 

31. 我々の理性的思考は二つの大原理に基づいている。一つは矛盾律であり、我々はこれによってこれ(=矛盾)を含むものを「誤謬」と判断し、また誤謬と矛盾するものを「正しい」と判断する。

 

32. もう一つは「充足理由律」であり、我々はこれによってなぜそれが生じ、かつそれが生じないという事態が起こらないのかを説明する十分な理由なくしては、いかなる事象も生じあるいは存在することがないと思考する。その際、この十分な理由が我々に知り得るかどうかは問題にならない。

 

 

頑張ればもっと綺麗に訳せるでしょうが、とりあえず今回はこのくらいにしておきます。ご覧頂ければわかる通り、充足理由律(PSR)というのは要するに「全ての事象には理由がある」という「基本原理」です。

 

先ほどPrussがPSRを擁護していると言いましたが、「擁護」する人がいるということはこの「原理」は前者の矛盾律とは異なり、批判する人が(少なくとも英語圏では)非常に多いということです。Bertrand Russellをはじめ、もう少し新しいところではvan Inwagenなどの英米の経験論者は皆一様にPSRを一蹴しています。

 

その理由の一つには、PSRを受け入れることがそのまま決定論を受け入れることに繋がるからです。もし全ての事象に理由があるなら、全ての事象はそれを引き起こす理由によって必然的に生じさせられているということになります。つまり全ての事象は必然的に起こるのであり、神あるいは人間の「自由意志」ないし「偶然性」が介在する余地は全くないということになります。

 

ところが現代の物理学を知る人は、特に物理的に決定論は成り立たないという立場からPSRを誤謬であると看做す人が多い。尤も、物理学だけがPSRに反対する理由ではありません。西洋思想においてはキリスト教化した以後から現代に至るまで、人間の「自由意志」というものの存在に対する信仰は非常に強く、自由意志を否定することは倫理的あるいは政治的スキャンダルであるという風に見られやすい、というのもPSRに反対する人がスピノザやライプニッツの時代から少なくない理由の一つでしょう。ということで、現代形而上学の中ではPSRは厳しく批判され、擁護する人がほとんどいない原理と一般的には認知されています。

 

ライプニッツは政治的感性が鋭い社交人でしたので、なるべく世間を刺激するようなことを言うのは避けていました。ライプニッツも決定論者ではありますが、彼はこれをスキャンダルにしないように、事象の究極原因を「(人格)神」であるとし、この神に自由意志が存すると主張することで一応正統派として名を通すことに成功したのです。

 

ところで、ライプニッツよりスピノザは年上でかつライプニッツがモナドロジーを書く前にスピノザは亡くなっています。しかし実はスピノザもライプニッツのPSRと同じような原理を「エチカ」の中で表明しているのです。Della Roccaがスピノザ哲学をPSRによって説明できると論じるのも、これが理由です。ただしスピノザの言い回しはライプニッツのそれとは微妙に違います。

 

For each thing there must be assigned a cause, or reason, as much for its existence as for its nonexistence. For example, if a triangle exists, there must be a reason or cause why it exists; but if it does not exist, there must also be a reason or cause which prevents it from existing, or which takes its existence away. [E1P11dem., Curley's (1985) translation]

 

スピノザが強調しているのは、存在だけでなく「不存在」にも、その存在を阻止する理由が必要だという点です。ここからスピノザは「神(あるいは自然、あるいは実体/substance)の存在を阻止するものは何も存在しない」のだから神は当然に存在するという帰結を導きます。というのも、神の存在を阻止できるのは神と同程度の「存在する力」を持つものだけであり、もし神が存在しないとしたらその原因として神の存在を阻止する強力な「存在する力」を持つ何かが代わりに存在しなければならず、かつもしそれの「存在する力」が神の存在を阻止する程度に強力なのであれば、それは最早「実体」(=神)そのものでなければならないからです。

何故なら、スピノザにとっては「神」あるいは「実体」とは「存在することをその本性とするもの(Ad naturam substantiae pertinet existere, E1P7)」だからです。

 

この時点で現代の哲学者にPSRが受けない理由ももう明らかだと思いますが、スピノザはライプニッツと違い世間に遠慮することなくこの原理を貫徹し、決定論を主張するのみならず自由意志を明確に否定します。(E2P48)決定論自体は当時のオランダのプロテスタント主義の風潮の中では他にも擁護者がいましたが、スピノザは人間の自由意志のみならず神の意志をも否定するので、宗教勢力の大反発を招くのです。

 

しかしそういう歴史的なことよりも現代においては物理学との整合性の方がもっと深刻な問題でしょう。Pruss (2006)の著書は、如何にしてPSRを現代物理学と矛盾しない原理として再解釈するかという試みです。

 

ただ、私自身はPSRを経験科学を理由に否定するのはそもそも根本的に間違っていると考えています。というのもPSRはあくまで論理的、あるいは先見的(a priori)な思考の範疇の話であって、我々の経験世界の理解が先見的思考と合致するかどうかは別の問題なのです。これは例えば数学に関して「虚数など存在しない。虚数は決して経験できないから」と言うのと同じです。しかし経験世界に虚数があるかどうかなど、数学の論理の上では関係ありません。ただ虚数を用いれば説明できる数学的原理ないし定理があるというだけなのです。

 

これと同様に、ライプニッツが予め指摘しているように、「充足理由」が我々に知りうるかどうかはPSRが正しいかどうかと関係ないのです。物理学は確かに「充足理由」が我々に経験的に知られ得ない領域があることを示すかもしれませんが、だから充足理由が「ない」とは言い切れないはずです。否、ただ知られないというだけの理由で「ない」と言い切ることは、ちょっと言い過ぎなのではないでしょうか。無論「絶対にあるはず」と言い切るのも言い過ぎかもしれませんが、どうせなら「ない」よりも「ある」という方が論理的に筋が通るのでは、というのが私の提案です。とはいえ、この件は恐らく決して決着がつかないでしょう。最終的にはあくまでどちらを信じたいかという問題になってしまいそうな気がします。

 

(PSRの説明は以上です。以下からは私の個人的な雑感やどうでも良い情報の羅列になりますので飛ばしていただいて構いません。)

 

ただ、PSRを受け入れるとすればスピノザの思想は概ね全て真理となり、現代英米哲学の大部分が単なる妄想ないし誤謬として無に帰することになります。しかもこれは形而上学に留まらず、政治哲学や倫理学にまでも及びます。序でに日本で一般に信じられていることや政治的あるいは倫理的言説の大部分も誤謬ないし虚妄であるということになるでしょう。PSRあるいはスピノザの思想にはそれだけの破壊力があるのです。

 

この際なのでついでに言っておくと、スピノザ思想は全体としてよく言われるような「生の哲学」でも生易しい「人生肯定の哲学」でもありません。強いて言えば「論理的に肯定されるべきことを絶対的かつ徹底的に容赦なく肯定する哲学」と言った方がいいでしょう。

 

確かにスピノザは存在しつづけることを欲するのはあらゆる存在者の本性であるとは言っています。しかしこれは「生きることは素晴らしい」「人生は素晴らしい」「どんなに苦しいことがあっても生きるべきだ、生きていれば良いことがきっとある」といった類の人生訓では全くありません。スピノザの「conatus」論というのは、単に「存在するものが外的要因もなしに自己破壊することは合理性の原則に反する。」というだけのことです。

 

例えば人間が自殺することに関しては、別にスピノザは良いとも悪いとも言っていません。単に人間が外的理由もなく自殺するというのは不合理であって、そんなことは決して起こらないが、しかしもし外的要因(例えば極度の苦痛や悲しみなど)に大きく影響されているような場合、より悪い状況を避ける為に人が自殺するということも無論あり得る(=合理的に説明できる範囲の現象である)と論じています。

 

ということで、もし誰か精神的に憂鬱状態にある自殺希望者がスピノザに「死にたくてたまりません。どうしたら良いでしょう」と相談したとしても、スピノザの答えは「生きることは良いことだ。是非生きなさい。」ではないと私は思います。むしろスピノザならまず「何故ですか。」と訊くでしょう。もし自殺希望者がそこで「理由は特にありません」と答えるなら、スピノザは「それは実に不合理ですね。私にはあなたが理解できませんが、それがあなたを悩ませるほどなら医者に診てもらうことを勧めます。」と答えるかもしれません。逆にその理由が十分に合理的であれば「そうですか。それなら仕方ありませんね。残念です。」と答えるでしょう。

 

勿論これはあくまで私の理解するスピノザ像であり、本当はもう少し違う人かもしれません。まあ、それならそれで私としてはむしろ嬉しいです。

というのも、正直に言うと私は自力で結構時間をかけて育ててきた思想が何故かほとんどスピノザと被ってしまっていることを最近発見して非常に愕然としながらスピノザを読んできたからです。笑

ここからは完全に個人的などうでもいい話になりますが、私としてはむしろ誰かに私の思想とスピノザの違いを、つまり私の独自性を発見して欲しいとさえ思います。とはいえスピノザに独自性を奪われた代償として、スピノザの思想は正直何も読まなくても大体わかるので、スピノザに関してのエッセイなんかは面白いように書けます。これは学生としては結構便利です。というのも「スピノザの〇〇思想」というタイトルで自分の考えていることをそのまま書いて、その後でそれらしく全集から引用をつけておけば割としっかりとしたエッセイが完成してしまうからです。笑 スピノザは何故か難解だと思われているので(実際には常識的ドグマを拒絶しているだけで、別に難しい言葉や意味不明な概念を乱用しているわけではありません)、これだけで「よく読んでいる」と思われます。(実際私の場合は課題論文等を読まなければ読まないほどスピノザっぽくなるので、事実は逆なのです。)

ただしこれには無論逆効果もあって、逆にヒュームや現代分析哲学となるとまるでダメです。実際私にはヒュームやミルは全然わかりません。あと「心の哲学」という分野は丸ごとわからないですね。もし「存在」というのが「空間を占める何か」であるとするなら、心なんて明らかに存在していないし何でそんなことが形而上学の分野の一つになってしまうのか理解に苦しみます。存在論の中で「精神存在とは何か」を問うならわかりますが、「心とは何か」というより曖昧な問いに変える必要があるのでしょうか?こんな風に問われたら、私ならブッダ的に「虚妄である」、あるいは「我々の誤解によって生ずる一種の存在論的カテゴリーミステイクである」と一言で終わらせたくなってしまいます。(ちなみにこれに関してはスピノザは「Mind is an idea of a body」と言っていますが、この部分は結構説明が複雑になるので省きます。短く言うと「心とは限定された神の思考であり、かつそれはそれが対応する身体に関しての思考である」というのがスピノザ説です。これだとまるで思考が脳と独立に存在するかのようで妙な感じがしますが、よく考えるとなぜ脳という思考する器官が存在するのか、あるいはどうやって脳が生ずるのかはよくわからないし、今でも意識のHard Problemだとか大真面目に言われているくらいなので、この辺り結局科学的に考えてもよくわからないようですし、そうだとすると別に脳に生ずる意識は実は実体の思考に由来するとしてもまあそうかもねというくらいには納得できます。)

とまれ、こんな有様なのになんでわざわざイギリスで哲学を勉強しているのか、自分でも最近疑問に思います。笑 

 

References: 

Leibniz, G. (1909). La monadologie. Paris. Tredition Classics.

Spinoza, B., & Curley, E. M. (1985). The collected works of Spinoza. Vol.1. Princeton ; Guildford: Princeton University Press

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代ドイツの闇

以下のニュース、地味ですが色々と気になる点の多いニュースです。

http://www.bbc.co.uk/news/world-europe-41075710

 

概略すると、警察官と仲間の一人に対し、「左翼政治家」を殺害する計画を立てていたという疑いがかけられ、彼らはまだ逮捕はされていないものの家宅捜索などをされているとのことです。

 

どうして事件を起こす前にこんな疑いがかかったのかはわかりませんが、彼らがメルケル政権の移民政策に不満を持っていたことが記事中で示唆されています。

 

これは危険思想取り締まりなのか、テロリズム防止なのか。報道が事実なら両方であると言えますが、この種の人々はそもそも誤解されやすい上に不用意な発言をしがちなのであらぬ疑いをかけられている可能性も一応なくはありません。

 

いずれにしても、この事件は端的にドイツ国内の政治的状況に暗雲が漂っていることをはっきり示しています。

 

主流メディアの考え方に肯定的な立場から見ればナチスの悍ましい人種差別主義の再来の影が、逆に批判的な立場から見れば旧東ドイツ的な国家権力による思想統制の影が垣間見えるという意味で、視点は全く異なるとはいえ両方の立場から見て不吉な事件です。

 

それはかつ、主流派と懐疑派の溝が一段と深まりつつあるということを意味してもいます。

 

最近はアメリカで過去の偉人の銅像などを「白人至上主義」の象徴であるとして撤去を求める声が過激化しつつあり、かつこの動きに批判的な立場の人物が反白人至上主義活動家を殺害した事件が公になることでいよいよ暴走をはじめている感がありますが、今や西欧も単にインターネット上や私的空間で「政治的正しさ」の支配が広がるというだけにとどまらず、より公的な次元で政治的自由を本格的に失いつつあるのかもしれません。

六十干支と哲学者の基本的思想傾向について

今回はちょっと迷信じみた記事ですので普段とは色合いが違います。

 

六十干支による性格占いというのは日本や中国では昔からある伝統的な迷信で、現代でも例えば丙午の年には女児の出生率が著しく低下するなど、影響力をそれなりに持っているものです。

ですが、勿論迷信であることは百も承知した上で、あくまで与太話として西洋の有名な哲学者達の生年から彼らの六十干支を探ってみると、実に面白い結果になったのでこれはちょっと記事にしておこうと思った次第です。

では、早速有名どころから行ってみましょう!とはいえ、アリストテレスやプラトンのような古すぎる人だと誕生年がわからないので大体近代以降の人にします。となるとまずはデカルトですね。デカルトは1596年ですから丙申です。デカルトと対照的なブレーズ・パスカルは1623年で癸亥、ちょっと飛んでルソーは1712年の壬辰、モンテスキューは己巳、トクヴィルは1805年で乙丑、反動思想で有名なド・メーストルは1753年の癸酉です。

ここでちょっとフランスを離れてゲルマン語圏に移ると、デカルト哲学の解説書から哲学を始めたスピノザは1632年で壬申、またイギリスのジョン・ロックもスピノザと同い年なので当然壬申、デカルト、スピノザとよく並べられるライプニッツは1646年の丙戌です。デカルトとスピノザ(及びロック)が共に申年なのは面白いですね。ちょっと飛んでカントは1724年で甲辰、実はカントのことが大嫌いだったニーチェも1844年の二週周りの甲辰です。で、ニーチェの尊敬したショーペンハウアーの方は1788年の戊申です。また申年ですね。あとはヘーゲルは1770年の庚寅、マルクスが1818年の戊寅です。ここでちょっとイギリスに戻りますと、ヒュームは1711年で辛卯、古典リベラリズムの代表者ミルは1806年の丙寅です。ちょっとマイナーどころになりますが、自由思想家(free thinkers)の代表格の一人John Tolandは1670年で庚戌、同じく自由思想家のAnthony Collinsは1676年の丙辰です。

こうしてみると近代の有名どころ(+α)に限れば申、戌、寅、辰がやたらに目立つことがわかります。ヒュームだけが例外ですが、まあヒュームは哲学史の中でも異色の存在なので何となく筋は通っている気がします。笑

 

現代になると、まず絶対外せないのはハイデッガー、サルトル、カール・シュミット、ハンナ・アレントの四名ですね。ハイデッガーは1889年で己丑、シュミットはその前年の1888年戊子、サルトルが1905年の乙巳、アレントが翌年の丙午です。ここまでは上述の「申、辰、寅、戌」という近代のパターンとは異なるという意味で「アノマリー」の連続ですが、メルロ=ポンティが戊申、フーコーが丙寅です。そしてグラムシがなんとヒュームと同じ辛卯です。

またグラムシに影響を与えたクローチェは1866年の丙寅、ミルやフーコーと同じです。こうも見事に被ってくると恐ろしいですね。近代のイタリアの哲学者はあまり哲学史に出てこないので触れませんでしたが、実はマキャベリが1469年の己丑でハイデガーと同じです。後はアクィナスが1225年で乙酉、アンセルムスが1033年で癸酉です。

分析哲学系の方はどうかというと、ラッセルが1872年の壬申、フレーゲが1848年で戊申、ヴィトゲンシュタインがハイデガーと同じ1889年で己丑、現代倫理学の祖として知られるジョージ・ムーアが1873年が癸酉、論理実証主義で有名なエイヤーが1910年で庚戌です。

 

ということで、調べて見ると有名な哲学者の生まれる干支には一定のパターンが案外ありそうな感じがすることがわかりました。また、干支が完全に被っている哲学者同士は特に世代が異なっているほど性格というか思考傾向も通ずる部分が多少なりともあります。

例えば、敬虔なカトリックの思想家には酉年が圧倒的に多く、特にアンセルムスとド・メーストルは癸酉で完全に被っています。アクィナスも酉年ですし、カトリックではありませんが倫理学の擁護者であるムーアもやはり癸酉です。なんとなく道徳的な思想家が多そうな雰囲気が出ていますね。

申年はその真逆で、無神論者が非常に多く、伝統的迷信を徹底的に否定する傾向が見られます。まず壬申にスピノザとラッセルが揃っている時点で他はともかく壬申はイコノクラストの年だと言ってしまいたくなります。笑 (因みに私も92年生まれなので壬申ですが、私自身スピノツィストのバリバリのイコノクラストなので例に漏れません。) 他にもメルロ=ポンティ、ショーペンハウアー、フレーゲが揃って戊申ですが、前者二人は倫理思想の次元での理性主義に反対し基本的な人間の欲望に対して肯定的だったという点でスピノザやラッセルに通ずるものが確かにありますし、逆にフレーゲは形而上学的次元での理性(アプリオリ)中心主義を徹底している点でスピノザに通じます。デカルトとロックはまあ他の申年の哲学者に比べれば中途半端というかバランスがとれていますが、ロックの所有権論は実際現代のリバタリアンでもびっくりしそうなほど既得権益層に有利な理論で、全然理想主義という感じではありません。デカルトもあの徹底的な懐疑精神は申年のイコノクラストな側面の表れであると言っても良いような気もします。

またヒュームとグラムシの二人が共に「辛卯」で、他に卯年の哲学者があまりいない中でドンピシャで被っているのも面白いです。この二人に共通するのは共に非常に個性的で、あまり他の哲学者との共通点が少ない例外的存在であるという点です。

カントとニーチェが共に甲辰なのも面白いですね。この二人は全然気が合いそうにないようで、実際似た者同士というか、同じコインの表と裏なのかもしれません。あと、カントが尊敬しカントの人間観をも変えたルソーも辰年です。やっぱり何か通ずるものがあったのでしょうかね。

寅年にはどうも政治思想に関係する人が多いですね。まずいきなりヘーゲル、次にマルクスとミル、そしてクローチェときて最後にフーコーですからね。こうしてみると寅年は何か権力に対して何らかの強い思い入れを持っている人が多いのかなと思ってしまいます。

マキャヴェリとハイデッガー&ヴィトゲンシュタインが揃って己丑なのは一見意外ですが、実はちゃんと共通点があります。この三人に共通するのは乱世に生まれながらも上手く世の中を渡っていく柔軟性です。なんとなく「時代に翻弄される」という言葉がしっくりくるのがこの三人ですね。丑年という点だけならトクヴィルもそうですが、やはりトクヴィルも乱世の人です。

後はライプニッツとトーランド、またエイヤーが戌年ですが、彼らに共通するのは共に哲学者にしてはかなり社交的な方で、むしろ社交界で目立っていたという点でしょうかね。三人とも多才で常に社交界において注目を集めた華やかな人という印象です。

最後に、一応サルトルとモンテスキューがともに巳年ですが、この二人はどう考えてもフランス人であるという点以外にあんまり共通点があるようには思えません。強いて言えば現代の政治思想に多大な影響を与えているという点でしょうか。意地悪な言い方をすれば、教科書にも必ず出てくるし人気もあるのに、主著となる本に関しては非常に難解でかつ道徳的な意味で理性的であるため読むのが疲れるからかちゃんと読む人も熱心な信者も少ないという点が共通するかもしれません。笑

尤も、今回選んだのは誰もが知っている有名な近代以降の(主に形而上学や政治思想で知られる)哲学者+私が以前から個人的に好きな哲学者(スピノザは許されるとして、Toland, Collins, de Maistre, シュミットあたりは完全に趣味で入れました )に限るので、もっと別の分野の人も含めるとまた違った見方が出来るかもしれません。

私は基本的に占いは信じない方ですが、たまたま友達と話しをしていてなぜか干支の話題になり、そこで序でに哲学史上の有名人の干支を調べ出したら何と私が最も自分の思想に近いと思っているスピノザが私と同じ壬申だと知って若干寒気がしたのは確かです。笑

まあ、同じ年に生まれた人間が皆同じような思想を持つようになるわけがないし、生まれ年だけで個人の性格を判断するのはあまりに雑だと思いますが、しかしたまにはこういう雑な思考に身を委ねてみるのも面白いかなと思います。

それではまた次回はもう少し真面目な記事を書こうと思います。

 

日本のメディアによる「外国」に関する報道について

日本のメディアの外国で起こった事件の報道の仕方には、何か異常性を感じざるを得ません。特にロシアに関する報道はどうも中立性を全く欠いているように思えます。例えば、Yahooに出ている時事通信の以下の記事(

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170718-00000130-jij-int

)などは、ウクライナの東部勢力が新国家樹立宣言を勝手に行ったことに関しての記事ですが、まずそもそも本来「マラロシア」と現地で発音されるべき東部ドネツク周辺勢力の「新国家」「Малороссия」を「マロロシア」と読んでいて、この時点で既に現地メディアから情報を得たのではなく英語メディアからの情報を受け売りしている感を出してしまっています。

その上、時事通信の報道ではドネツク勢力の一方的新国家樹立宣言に対し、同じくウクライナ東部の大都市ルガンスクを支配する勢力は全く賛成していないという以下の英語メディア(

https://www.rferl.org/a/ukraine-separatists-malorussia-criticism-zakharchenko-plotnitsky-poroshenko/28623190.html

)で明記されている点に触れず、単に「ウクライナ東部武装勢力による新国家樹立宣言」とだけ書き、まるで東部側に統一的支配体制が既に確立されているかのごとき印象を与える書き方になっています。

かつ、この記事のコメント欄にはこれを「ロシアの軍事行動」と解釈するコメントが多数上がっていますが、既出の英語メディアにはロシア政府(Kremlin)はこの件に関して沈黙を守っていると書かれています。

つまり、この英語メディアを信頼する限りでは、これは明らかにロシア、ドネツク勢力及びルガンスク勢力の三者の中の不協和音を示唆する事件であって、決してロシア主導のウクライナ東部勢力一丸となった反西側体制の政治行動とは必ずしも言えないという読み方もできるわけですが、そんな解釈の余地は日本のメディアからは少しも出て来ません。

仮に嘘を書かず真実のみを伝えているのだとしても、敢えて伝える情報を制限し一方的な解釈のみに導くのはある意味「偏向報道」なのではないでしょうか。

 

この件に限らず、日本における外国の事件に関するニュース報道は実はかなり杜撰な部分があると私は感じています。そうして杜撰な報道をさらに杜撰に読む読者の偏見がコメントとしてソーシャルメディアや日常の私的会話に氾濫し、行ったこともない国に対する異様な偏見だけが日本の言説空間にやたらに大量生産されていくというのが、これまでの、そして現在の日本の外国報道ではないでしょうか。

 

確かに、外国でどんな事件が起きようと日本人にはそれほど関係はないかもしれません。そんなことは政治家や学者の「先生」方が考えればいいことだし、そういうエリートはどうせ英語できちんと情報を得ているんだから良いでしょうという意見にも一理あるかもしれません。ですが、こうした偏向報道が外交に与える影響が皆無だとは限りません。まず、日本国民の諸外国に対する印象には確実に否定的影響を与えるでしょう。フランスで国民戦線の勢いが少し出たからといって、日本人までをも差別するような差別主義者がフランス人の主流派であるわけではありません。むしろ事実は逆で、国民戦線の代表は訪日もしていますし、日本の一部政治家と多少の関係を持っています。文脈を無視した字面だけ英語メディアからとってきただけの翻訳報道をさらに単純化することで為されるこうした「偏向報道」は、明らかに誰の為にもなっていません。

 

なぜ日本のメディアがこんなお粗末な状態になっているのかはわかりませんが、もっと正確により多くの海外の情報を伝えるという作業を、日本という経済大国のメディアが怠っているという事態は真に問題視すべきものだと思います。

 

非英語圏の大国で、英語圏以上に中立的報道をするメディアというのは実はほとんどありません。非英語圏の大国といえば中国とロシアですが、ともに中立性よりも国益(あるいは政権)を重視する傾向にあるのは明らかです。イスラーム圏のメディアも当然イスラーム的価値観に基づいているか、あるいは英語版では現代のリベラリズムの価値観を前面に押し出す形の報道になり、英語圏以上の多様性が確保出来ているかは疑問です。フランスやドイツも同様で、基本的にはリベラル一色であり、かつそれほど東アジアなど西欧人にとって関心の薄い地域に関しての報道はありません。日本というのはそんな中で異色の存在なのです。というのも、日本は中露やイスラーム圏のようにはっきりとした特定の英米や西欧とは異なる価値観を国是として掲げなければならないほど政治的に不安定なわけではないし、また西欧のように英米の主流リベラルメディアの流れに完全に押し流されてしまう危険性を生む原因になるような社会的状況が国内に存在しないからです。つまり日本の報道はそうしようとさえ思えばかなり自由になり得るはずなのですが、実際には杜撰な外国報道の受け売りが横行しているのが現状です。

 

「国際化」というのは英米のリベラリズムを受容して説教くさいトランプ批判者になることではないはずです。私は英語圏に滞在することで、むしろ英米よりも自由な報道を日本で実現することを目指したいと思うようになりました。幸い、日本には現代において言論の自由をめぐる問題の中で最も重要な課題のひとつである「イスラーム世界の論じ方」という問題を主題化して研究されている池内恵先生のような方もおられます。これは西欧に実際に来て見なければ実感がわきづらいかもしれませんが、池内先生のような自由でかつ学術的価値の高い詳細なイスラーム論を公表することは、英語圏でも非常に難しい状況です。無論日本でも決して容易なことではないはずですし、池内先生のケースは日本の社会システムよりもむしろご本人の資質に負う部分の多い「例外的事例」なのは明らかです。それでも東京大学という日本の最高学府から池内先生のような方が出て堂々と活躍されておられるというのは日本の強みだと私は思いますし、世界に誇るべき点であると思います。こうした土壌を無駄にしない為にも、より正確な報道をすること、また意見の多様性を最大限確保することは重要ではないでしょうか。

 

「真のリベラル」と擬似リベラルの見分け方

そもそもリベラリズム(自由主義)とは何であるべきか

近年「リベラル」を自称する人が本当は「自由」とは別の価値を「自由」と同程度、あるいはそれ以上に強調しているという点で「リベラル」とはいえないのではないか、という意識を持っているのは私だけではないと思います。現代の英語圏で主流の「リベラリズム」はRawlsの「政治的リベラリズム/political liberalism」だとされていますが、Rawlsの政治的リベラリズムは同時に「自由平等主義/liberal egalitarinism」とも呼ばれており、「自由」よりはむしろ「平等」の方を強調するものでもあるという点は広く認識されています。Rawls支持派(=主流派)の論理に従えば、「真の自由」は自由が平等に配分されることによって実現するので、平等主義と自由主義は矛盾しないということになります。確かに、有名なフランスの標語もLiberté, Egalité, Fraternité(自由、平等、友愛)の三つを並べており、西欧では既に自由と平等を共に実現することにさも何の矛盾もないと捉えることが伝統となっていると言えるかもしれません。

とはいえ、自由と平等は全く異なる価値であって、自由なき平等も有りうるし平等なき自由があり得るのもまた事実です。他にも政治によって実現すべきとされる価値はたくさんあります。例えば道徳(morality)、正義(justice)、治安維持(security)あるいは公共秩序(public order)などです。このように複数ある政治的価値の中で、特に「自由」を最優先すべきという立場こそ真の「自由主義/liberalism」であると仮に規定するとしましょう。

この定義に従えば、例えば現代のRawls支持派「リベラル」は、その実現しようとする価値が自由ではなく「公平としての正義」(Justice as fairness)であるという点で、リベラルというよりは平等主義者(egalitarian)に近い立場であるということになります。今日一般に「conservative」に対立する大勢力のひとつとして、つまり米国民主党や英国労働党、あるいはフランス社会党やマクロン新党、また日本の民進党などが代表する立場として理解されている「所謂リベラル」というのは、多少強調する点に違いはあっても概ね「平等」あるいは「正義=公平性」を最優先しようとする姿勢において共通するのではないでしょうか。上に挙げた具体的な政党がRawlsに忠実であるかどうかは議論の余地が大いにありますが、非常に大雑把に分ければ今日一般の言説空間で「liberal」と呼ばれる立場は、実際には平等主義であるというのが私の見方です。(間違っていれば訂正していただければ幸いです。)

他方で、一般には「保守派」とされるアメリカ共和党やフランス共和党、英国保守党や日本の自由民主党などに属する政治家やその支持者の中には、Rawls支持者に対する対抗心から「自分たちこそが真に自由を愛する本物のリベラルだ」という声を表明する人も少なくありません。しかし伝統的には「リベラル派」と「保守派」は常に対立しており、特に「保守派」に属する人々が自分の立場を「真のリベラル」という形で正当化しようとするというのは比較的新しい傾向であるように思われます。では何故現代の「保守派」の一部が自分たちこそ「真のリベラル」だと主張するようになったのか。これを説明するには、簡単に「自由」をめぐる哲学史を振り返る必要があります。蛇足かもしれませんが、一応以下に説明します。

「自由観」の哲学史

一般に保守主義の父とされるかのエドマンド・バーク(Edmund Burke)も、政治家としては実はWhig(Toryに対立する派閥)であり、Tory(現代の保守党に連なる派閥)ではありません。つまりバークは当時の英国の文脈ではむしろ「リベラル」な方だったわけで、今日でもバークの思想は「リベラルな保守主義」(liberal conservatism)として、より古い伝統的な保守主義とは区別されています。従って当時の英国のゴリゴリの保守派からすればバークでさえ「リベラル」なのであって、「自由」に特別の価値があるという議論を認めること自体が異端だったわけです。恐らく、明治時代の日本の支配層にもこうした「自由主義」に対する警戒心は共有されていたはずですが、バークの時代以前には英国の支配層も同種の懐疑を抱いていたものと思われます。それは例えば自由主義者(free thinker)として有名なJohn Tolandなどがどのように評価されていたかを考えれば一目瞭然でしょう。このように、17-18世紀頃における「自由」とは宗教及び道徳を挑戦する者が奉ずる価値だったのであり、無神論と共に既存権力から嫌悪乃至危険視されるものでした。

しかし18世紀後半になるとカント(カントとバークは同時代人です)が「自由」を「理性」と同一視し、かつ「理性」を「道徳」と結びつけることで「義務論的自由主義」(deontological liberalism)を生み出し、「自由主義」=「不道徳主義」という図式を大きく変革します。これによってカント派の間では今度は道徳主義派の方が「自由」の重要性を強調するようになり、「反自由主義」の方に「不道徳」の烙印が押されるようになるわけですが、このカント的な「自由」観が知識人の間で広く受け入れられたわけでは必ずしもありません。例えばニーチェはカントを「馬鹿者(idiot)」と侮蔑し、「自由」とは本質的に「理性」及び「道徳」と対立するものであって、特に「(奴隷)道徳」と「(貴族的価値である)自由」が両立することなどあってはならないし有り得ないと主張します。19世紀頃の知識世界における自由観はこのようにカント派とニーチェを始めとするロマン派(あるいは古典派)に分断されますが、しかしいずれの場合も「自由」は肯定的価値と捉えられ、従来のように否定すべきものとは捉えられていません。また、カントもニーチェも既に神学や宗教の権威をほとんど認めていません。このように知識人達の間では徐々に「自由」をそれぞれの仕方で何か価値のあるものと捉えるという習慣が浸透していくのですが、他方で19世紀後半から20世紀初頭頃になってもまだ国民の大多数は宗教的であり、「自由」また「自由」の毒に侵された「知識人」そのものを悪しきものと見る伝統的な議論は一定の力を持っていました。例えばドストエフスキーなどはこのような感覚を強く持っていた一人でしょう。

ところが、ヒトラーの第三帝国の出現がこの伝統を完膚なきまでに崩します。というのも、「自由」や「知識人」を敵視する伝統を最も極端な形で具現化したヒトラー及びナチス・ドイツが「悪の権化」として表象されることになったからです。従って西欧(及び日本)における「自由」観は、1940年代以前と以後では根本的に別物です。ほぼ180度転換したと言ってもいいでしょう。これまでは自由や知識人に懐疑的だった大衆や道徳家が、1950年代以降はこれまで批判され、投獄され、あるいは悪魔とさえ呼ばれてきた自由思想家達を逆にこの上ない人格者として、天使にも勝る正義の代弁者として再評価するようになります。例えばスピノザなどはこうした極端な評価の転換に晒された思想家の一人です。あるいはミル(John Stuart Mill)もそうかもしれません。

しかしながら、自由主義の再評価は自由主義が自由主義として繁栄する端緒とはならず、むしろ自由主義を新たな道徳的ドグマとして再構築するという流れをつくります。これに貢献したのが例えばサルトル(Sartre)などの20世紀以降の「実存主義者」らであり、またマルクス主義をベースにした「critical theorists」と呼ばれる、フランクフルト学派の特にマルクーゼの思想に代表される現代左翼思想家達です。今話題の「PC(日本では何故か「ポリコレ」と呼ばれていますが、ここではPCを使います)」も、基本的にはこのcritical theoryに由来しますが、この新しい「自由主義という道徳的ドグマ」の中心概念は、アリストテレス的な「本質主義」の否定と「自由意志」の絶対化です。つまり、人間は「自由意志」によって如何様にも変化するし、我々は「未来を変える」力を常に持っている。従って未来をより良き方向へと変えることができるかどうかは、現代を生きる我々の責任であり、未来を改善しようとしないことは道徳的怠慢であり、自由への叛逆であるとされます。この部分はカント的な倫理学と親和的という点で、伝統的な道義主義に連なるものです。ところが「自由主義」は同時に、他人を何か特定の枠にはめ、決して変化しない本質を持っているかのように表象することは単に哲学的誤謬であるにとどまらず、道徳的に許されない「悪い信念」(mauvaise foi)であると規定します。そしてこれが人種主義(racism)や性差別(sexism)への反対というドグマの根拠の一つです。この部分こそが「現代思想」を「近代思想」と区別する最も顕著な特徴だと私は思います。そして、この特殊な道徳観を奉ずる人こそが50年代から今日まで「戦後リベラル」と呼ばれてきたわけです。つまり、「戦後リベラル」の奉ずる「自由」とは「自由意志」の「自由」であり、つまり形而上学的(=存在論的/認識論的)「無規定性」のことなのです。これは従来の権利概念としての「権力からの自由」や、スピノザの決定論的世界観における「外在的圧力からの自由」とは全く異なる種類の「自由」です。しかもこの「自由」の行使はある道徳的基準(徹底した反ナチズム)に従わなければならないので、国家権力は反ナチズムを法制化する絶対的権利を与えられ、かつそれが「自由」と全く矛盾しないものと考えられます。もっと単純化して言えば、「ナチズム、人種主義、性差別及びアリストテレス的本質主義からの自由」こそが現代西欧における「自由」の内実なのです。ナチスこそが不自由の象徴だと言えばもっとわかりやすいでしょう。自由と不自由の線引きがナチスを軸に引かれているのだとしたら、マルクス主義者や共産主義者ではなく「トランプ」こそが「自由への脅威」とされ、「トランプ」に全力で反対することが「リベラル」だとされていることにも納得がいきます。

とはいえ、この線引きは政治的に意義のあるものであったとしても哲学的には筋が通りません。現代の反ナチリベラルを「政治的リベラル」と呼ぶとすれば、政治的リベラルが優先している価値というのは「ナチスの不在」という否定的なものであり、何かを肯定するものではないのです。「自由」といっても、彼らは「自由」を何らかの道徳的理由で制限することに何の躊躇も感じないのですから、複数の対立する価値群の中から敢えて自由を優先しているとはいえません。日本では「ナチス」の部分が「軍国主義」に変わりますが、同じことです。従って政治的リベラルの思想は厳密に言えば「リベラリズム」ではなく反ファシズム(anti-fascism)であると言えるでしょう。他方で、今日の保守派は経済分野における資本主義を背景とする産業自由主義を受け入れている場合が多いわけです。これはあくまで企業が政府の介入から自由な状態で活動することを肯定する思想なので、必ずしも法的あるいは倫理的な次元における個人の自由を重視する自由主義とは重なりませんが、一応企業という「法人」の自由への規制に反対するという意味では自由主義です。これが経済的保守派の言う「真の自由主義」、あるいは「リバタリアニズム/libertarianism」です。また、以前なら一部にカント倫理学を基にした自由概念を奉ずる「保守的自由主義者」もいたでしょう。実はアメリカのRawlsはこのカント主義の系譜と反ファシズムの政治的リベラリズムを上手く組み合わせています。知識人の間でRawlsがやたらと持ち上げられるのは伝統的なカント主義者と戦後のサルトル的な実存主義者が合流できる地平を開いたが故に、哲学界における賛同者が殺到したという事情があるわけです。というわけでカント派はRawlsによって見事にリベラル陣営に引き込まれたので、現在の保守派の「自由主義」はリバタリアンが中心となっています。

 真のリベラルの見分け方

以上を踏まえた上で、世に数多く存在する自称「リベラル」が本当に「リベラル」(自由こそが最優先されるべき価値であるという思想を持つ人)なのか、それとも単に歴史のトラウマを引きずって「反ファシズム」の流れに従っているだけなのかをテストする簡単な方法がいくつかあります。最も単純明快な方法の一つは、急に下衆な話題を持ち込んで恐縮ですが、例えば「ポルノ規制」の是非を問うことです。自由の価値を最優先とする古典リベラリズムに忠実なリベラリストなら、(特に合意している成人の)ポルノ規制には反対するはずです。一見ポルノなど政治的に価値のないどうでも良いことだと思われるかもしれませんが、しかしポルノ規制の議論というのはリベラル派と保守派が共闘する数少ない議題のひとつだという点で興味深い議題のひとつです。実際、戦後「反リベラル派」につけられたレッテルを嫌悪するあまり仕方なくリベラルを自称しているだけの「regressive liberal」をあぶり出す手段としては、ポルノ規制論は有効です。公的にはリベラルを自称しつつも実際には古典リベラリズムが克服しようとした倫理規範に基づく自由規制に全力で肩入れする「リベラル」は、ポルノ規制に関しては最も頑迷な保守派とも簡単に合意できるという事実は、彼らを「regressive/退行的」(=進歩的の対義語)であると規定する十分な理由になり得るでしょう。ポルノ規制以外にも、例えば選挙権や被選挙権、あるいは飲酒やタバコの最低年齢の引き下げや、ドラッグや売春、あるいは賭博の合法化、また同性愛の合法化など、一般に直接的な物理的暴力や損害を受ける被害者が存在しないにも関わらず、「公序良俗」規定違反で憲法上正当に違法化されて良いとされる所謂「被害者なき犯罪」(victimless crime)に対する国家的規制を批判する動きに対して反対するような「リベラル」は、「自由」とは異なる価値を自由の上位に置き、かつこの為に自由を規制することを正当化する非自由主義者であると規定されるべきです。他方、ヘイトスピーチ規制や人種差別表現規制、女性差別規制や性的マイノリティー差別規制等を肯定するかどうかを聞くというのも有効でしょう。

共産主義や社会主義が廃れ、英語圏のliberal vs. conservativeの二分法が世界的に広がっている現代においては、従来の「右翼」と「左翼」あるいは「共産主義」と「資本主義」の二分法よりも、legal moralism (anti-liberal) vs. anti-moralism (liberal) という二分法の方が便利ではないかと私は思います。少なくとも、こうすれば「リベラル派は嫌いだけど表現規制には反対」という人の立場を「正統リベラル」と位置付けることができるし、また「リベラルだけど(だから?)人種差別には反対」という人を実は全然リベラルとは異なる、また旧来の保守的道徳家(儒者のイメージ)とも異なる「新・道徳主義者」と位置付けることが可能になり、語義との矛盾を解消することができます。また、こう見ることで西欧社会と日本における「体感自由度」に関する懸隔が、国際機関の表面的評価に反して実はそれほどないという、日本をよく知る西欧人や西欧をよく知る日本人なら肌で実感している事態を上手く説明できるでしょう。というのも、日本は西欧に比べて「公序良俗」規定による被害者なき犯罪の取り締まりが際立って厳しいとは言えないからです。賭博に関しては西欧の方が自由であるのは間違いありませんが、性犯罪や人種犯罪に関しては西欧の厳しさは日本とは比べものになりません。例えば、西欧では児ポ単純所持だけで重罪、felonyであり、しかも単に自分の写真をとっただけの児童本人でさえ厳しく罰せられる可能性があります。これは冗談ではなく、アメリカでは実際に自分の写真をとったという理由で逮捕されている児童は既に多数おり、子供を守るどころかむしろ恐怖に陥れているという批判さえ生じています。また、窃盗や傷害などの通常の犯罪でも、被害者がマイノリティーでかつ犯行が差別主義的動機(人種ないし性)に基づくものと認められる場合には、それが例え軽微な被害であっても重罪/felonyになる可能性があります。他方、性犯罪の取り締まりに関しては加害者が人種的マイノリティーである場合も多く、警察側の偏見を指摘する声が常に出てくるなど、現代西欧社会の闇の深さを雄弁に物語る状況が何の改善もされないまま既に十年以上も放置されているのが現状です。これに比較すれば、現代日本の司法は西欧ほどには不合理でも過剰反応状態にあるとも言えないでしょう。政治思想における「自由主義」が国家の規制からの自由によって規定される以上は、刑法規定とその運用状況も重要な「自由」の一つの指標です。そう考えるとき、西欧や特にアメリカは決して「自由の国」ではないし、また日本が「不自由」であるわけでもありません。合法的な社会活動の範囲における心理的な「自由感」 と、法的に国民一般が自由かどうかというのは別の話です。前者の意味では西欧の方が自由であったとしても、後者の意味では日本の方が自由というのは十分に有り得ます。というのも、日本では法によって公式に命せずとも、単に有力者が非公式に命じれば国民の多くはそれに従うからです。つまり罰則規定の無い単なる「きまり」でも、多くの国民は敢えてそれに逆らおうとはしないのです。これは国民が旧習に縛られた「不自由」な状態だから改善すべきだと近代主義者達は主張してきましたが、最近では日本人も旧習から解放され、かつそれに伴い今度は西欧と同じように刑法による厳罰化を求める声が強まっているようにも思われます。とすれば、結局は西欧にも日本にも真の「自由主義者」は希少な存在だということです。あるいは人間は自分や他人が共に自由であることよりも他人の倫理違反を罰することの方が好きだということかもしれません。そんな野蛮な加罰感情を捨て、人間はもっと自由に生きるべきだと唱えた最初の人が西欧道徳の基礎となるキリスト教の始祖とされるイエスであるというのは倫理思想史上最大の皮肉です。

自由主義は不道徳を勧める邪教でしょうか、それとも何かと理由をつけては国家権力を笠に着て他人を罰しようとする人間の傲慢を批判する崇高な教えでしょうか。どちらにせよ、自由主義の根源には公式の「キリスト教」とは区別される、ゴスペルに書かれた「歴史上のイエス」の倫理思想の断片があるように私には思われます。その点を無視し、パリサイ派的な道徳主義的ポピュリズムに順応するような人をリベラルと呼ぶのはやっぱり違うだろう、というのが私の勝手な見解です。