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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

日本語のローマ字表記について

非ラテン語文化圏においては自国語表記のLatin Transliteration(ローマ字化)をするのは当たり前のことで、どこでもやることですが、日本語のtransliterationは実に混沌としていて、この無茶苦茶さは日本人の外国語発音及び外国人の日本語学習に非常に否定的影響を与えているのは明らかです。私も時折友達に「日本語教えてよ」と言われるので簡単に教えるのですが、このローマ字のせいで彼らは色々と混乱していて、いつもまず誤解を解くことから始めなければならないので正直に申し上げるとこの制度には辟易しています。

本来なら音声学者や外国人学習者、帰国子女等の日英バイリンガルらが協議して改革すべきですが、未だに1950年代に確立された古い様式に習っているのは何故でしょうか。まあ、行政府側の怠慢の分析などしても何も生産的なことは出てこないので、ここでは私が考える改善案をいくつか示したいと思います。

 

まず、最も重要なのは「ラ行」です。これは一応「r」で通していますが、特に英語が全くわからない外国人日本語学習者など今時は皆無ですので、基本的にすべての文字は英語と比較されるという前提で考えると、日本語のラ行を「r」のままにしておくのは問題です。というのも、この「r」はヨーロッパで一般的な巻き舌「r」(イタリア語、ロシア語、スウェーデン語など、英仏独語及びイディッシュ語から派生した現代ヘブライ語などの西欧中心部以外では基本的にこの巻き舌「r」が使われます)とも違います。実は日本語のラ行を最も頻繁に使うのはアメリカ人です。アメリカ発音(早口)でwater、better、あるいはtwitterと言う時のtあるいはttの部分は、実は日本語のラ行と音声学的に全く同じです。従って無理に「わーてる」(ちなみにフランス人も本当にこういう風に読みます。e.g. waterlooはフランス語で「ワーテルロー」ですよね。英語では「ウォータールー」(英国音)あるいは「ワラールー」(米国音)です。)のような変な発音にするよりも、「ワラ(藁)」と短めに言えばいいだけなのです。その方が「ウォーター」よりもアメリカ人には絶対通じます。(英国人にはウォーターでいいです)

ということで、私はrとtを混ぜたような記号、例えばrに横棒を一本入れたものなどを新たに作った方が、双方の誤解が解けるのではないかと考えています。(ちなみにこういうことはロシア語やポーランド語、アラビア語あるいはペルシャ語などをラテン化するときにも行われていますので、何らおかしなことではありません。ラテン語にない音を表すには新たな記号をつくっても良いのです)

次に重要なのは「ふ」の表記です。ハ行では「は」「ひ」「へ」「ほ」までは「h」で全く問題ありません。しかし、日本語で「f」音を表そうとする時、我々は「ふ」を常に使いますよね。「ファイト」、「フィールズ賞」、「フーリガン」、「フェンシング」、「フォント」など。この内紛らわしいのは「フー」の場合です。日本人も時折この音を完全に混同している場合があります。「ファイト」とはしっかり「f」音で言えるのに、「フード」がfoodなのかhoodなのかを区別できない。従って日本人が誤って「フーリッシュ」という時ほど滑稽なものはないという大問題が発生してしまいます。これを解消する為には、「ふ」を特殊記号化するか、あるいはもうひとつ別の記号をつくるかしなければなりません。つまり平仮名/片仮名に新たにひとつ「ファ行」を加えるのです。そうすれば、とりあえずこの無駄な混乱は防げます。また同様に、これによってbとvの区別も容易になります。今はv音のところはヴァンパイアなど「ウ」に濁点をつけるという実にad hocで意味不明なことをしていますが、「fa行」を創設すればこれに濁点を加えることで「va行」をつくることができ、実にすっきりした体系にできます。

後は、「タ行」と「サ行」ですね。まず、「ch」をどう使うかですが、これはフランス語話者にとって実に紛らわしいです。実際にフランスでは福島第一(Fukushima Daiichi)をそのままフランス語読みして、「ふ(f音)くしまだいーし」と読んでいます。これではまるでDaeshみたいに聞こえて縁起が悪いことこの上ないです。またドイツ語でもchは本来ならxで表現されるべき音を表すことになっているので、例えばChinisisch(中国人)は「ヒニーズィッシュ」という感じに聞こえます。(本来は清帝国あるいは秦帝国のshinがchiniとペルシャ語で読まれていたのをフランス語風にラテン化したところからきています。ちなみに「チェス」もペルシャ語由来ですが、ペルシャ語で「check」は「shah」のような音です。ロシア語ではこれに忠実に従い今でもチェスのことをшахматы (shah'matyi)と言います。ここからも、ペルシャ語の"sh"音がフランス語経由で"ch"と表記され、これが各国のch音に合わせて歪めらていったという経緯がはっきりします。ということで、chは紛らわしいのです。chを「チェ」と読むのは主に英語ですが、ラテン系の言語ではch音は「チェ」とは読みませんし、ゲルマン系の言語ではそもそも「チェ」という音が原則ありませんので必要ないか、Tschなどの形で適当につくられています(ドイツ語のTschüssなど)。加えて「ch」自体は「k」音として処理される場合が多いです。(例えば英語圏のドイツ語学習者は「ch」を「k」化する人が多いです)というわけで、私のお勧めはチェコ語に習ってCzで表記することです。これが最もシンプルで誤解が少ないと思います。

つまり、「ta」「czi」「 czu」「 te」「 to」にするということです。これなら、濁点の場合はtあるいはcをすべてdに変えればそのまま使えます。つまり「da」「 dzi」「 dzu」「 de」「 do」です。

サ行は一見ヘボン式のまま「sa」「shi」「su」「se」「so」で良いように思われますが、こうしてしまうと「ザ行」にs以外を使わねばならなくなります。で、zを使うとこれも紛らわしい。ドイツ語ではzはts音だからです。かといってjやgでも紛らわしい。ひとつの解決案は「サ行」をssで表記することです。「ssa」「 sshi」「 ssu」「 sse」「 sso」にする。で、ザ行はドイツ語風に 「sa」「 si」「 su」「 se」 「so」 で統一する。しかしこれだと煩雑なので、個人的にはサ行はそのままにしてザ行の方をs+zで統一して「sza」「szi」「szu」「sze」「szo」とした方がシンプルで一貫性がある(タ行との関連性が見やすい)かなと思います。

 

他にも直すべき点があるかもしれませんが、今パッと思い浮かぶのはこんなところです。皆さんはどう思われるでしょうか。

欧州の最近の動向(Feb-Mar 2017)

先日のオランダの選挙では「極右」政党は躍進できませんでしたが、非英語圏西欧において「ポピュリズム」を展開することの難しさを改めて立証することになりました。

フランスでももうすぐ大統領選挙がありますが、BFMの各社のアンケート調査(sondage)の集計をまとめた概算予想を見てみると、案の定ではありますが国民戦線(FN)にとっては厳しい戦いになりそうです。

というより、はっきり言ってFNがE. Macronに勝てる見込みはゼロに限りなく近いでしょう。絶対無理とまでは断言できませんが、フランスの状況は(FNにとって)絶望的です。ついこの間もParisのOrlyでテロがありましたが、これから何度テロが起ころうと、「FNに投票すること」=「racisme」だと捉えているフランス人の数が減るわけではありません。FN支持率は若年層の間に広がっているとも言われますが、仮にそうだとしても若年層は選挙に行きません。高齢者の投票が最も決定的影響を及ぼす「シルバーデモクラシー」が現実化しているのは、何も日本だけではなく英米もそうだし他の西欧諸国も同じだということは、Brexit、トランプ、またオランダの選挙でも十分に示されたと思います。

逆に言えば、高級メディアが主張するような「(右寄り)ポピュリズムの台頭」という現象は、実際のところは虚妄です。右傾ポピュリズムが台頭しているように見えるのは、高級メディアの論調が若年層と一致し、「左傾若年層+エリート」vs「65歳以上の高齢者」という状況が生じる限りにおいてです。若年層が「右傾化」しエリートから乖離したり、その一方で高齢者が微かな戦前の記憶を頼りに「進歩主義」への絶対的信仰を守っているようなフランスやオランダのようなケースでは「右傾ポピュリズム」は決して影響力を若年層の外へは拡大できません。トランプ氏がアメリカにおいて大勝利できたり、Brexitが実現した背景には「古くて頑迷」とメディアに批判されつつも意地を貫く高齢者達の支持がありました。同じように、ナチス統治時代を大なり小なり経験している欧州大陸の高齢者は絶対に「極右」あるいは「raciste」を支持しませんから、一度「極右」とレッテルを貼られたら、あるいは一度人種問題についてタブーを破ったら最後、決して政権を取ることはできません。せいぜい若者のヒーローになるのが関の山です。

話が逸れますがこの意味では、Marion-Marechal Le Penの方がMarineよりも現実を弁えて分相応の地位をしっかり守っているという風に見ることもできます。今の欧州には、Marion以上の「極右」政治家はいません(実際、Jean-Marie Le Pen氏はMarineよりもMarionの方を高く評価していますし、また左派もやはりMarineよりもMarionの方をより厳しく批判しています)し、またMarionが今現実にできている以上のことをできる人間は(フランスの外にも)いません。そもそも、Le PenファミリーはJean-Marie le Pen以外は、生まれた時から「Le Pen」というstigmaを背負うことを強制されており、ある意味半ば社会の圧力によって政治家をやらされているようなものなので、つまりなんでもない人が挫折を通して捻くれて極右政治家になるというヒトラー以来のよくあるパターンではありません。言わば、欧州に唯一残る極右のエリートファミリーです。従ってLe Pen一族は極右政治家としては最高レベルの学力、学校歴及び能力を備えています。Marineも学歴は高く、修士号及び弁護士資格を持っていますし実際に弁護士として働いてもいます。親の地位を引き継ぐことができる世襲政治家としては、これだけでも相当高い学歴を得ている努力家であるということは、日本の世襲政治家と比べれば一目瞭然でしょう。Marionの方は逆にその美貌の恩恵を受けてかまだ学生の間に人気が出てしまい、少なくとも第五共和政史上では最年少で政治家に当選してしまったので、学歴的にはMarineに劣りますが、逆に言えばMarine以上に政治家としての総合的能力を有権者に認められているということでもあるので、彼女の持っているスター性は大きな強みです。従って欧州に本当に「Political Correctness」を打破し欧州政治を「現実」に戻すことの出来る人がいるか否かという視点では、既に高齢でかつ同世代に恵まれないMarineよりはMarionの方に注目する方が賢明であると思われます。

ということで、先進諸国では文化の差を超えて軒並みこれまで通り今後も各国のベビーブーマー達が退場するまでは「若者の動向」や、教育を通じて若者との接触機会が多い為感性が若者に非常に近くなっている大学教員を中心とする「知識人」の動向は現実政治に反映されず、シルバーデモクラシーの謳歌が続くだろうという実に凡庸な結論自体は変わりませんが、しかし欧州においては90年代以降に生まれた日本でいう「ゆとり世代」に該当する年齢層以降は、旧来の伝統的保守主義でも、ファシズムでも、マルクス主義でも、共産主義でも、またエリート風の旧式リベラリズムでも、ロールズ流の平等主義リベラリズムでもない、新しい「現実主義」的な思潮を育みつつあり、この世代が影響力を持つようになれば欧州の政治模様は一挙に変革されるだろうというのが私の見立てです。

一方で、欧州の中でも英米はやはりナチス統治を経ていない戦勝国であるという歴史的要因から全く別の方向へと進んでいくことが予想されます。というのも、英米の場合は現実主義的な保守政治はむしろ高齢者層の間で根強く残っているのであり、若年層は世代が降るごとにどんどん左傾化していっています。かつ、この流れは大きくは変わらないでしょう。無論新聞よりもYouTubeから情報を得る若年層は高級メディアを完全に無視しているので、「ポピュリズム化」しやすいという風に見えるかもしれませんが、YouTubeの英語コンテンツはサイト側から厳しく管理されていますし、人気動画の多くはむしろ社会面での「リベラル化」を促進する内容のものがほとんどです。従って、英米はますますリベラル化し理想主義が蔓延していくが、それが「英米=エリート=グローバリズム=リベラル」と「大陸欧州=反英米リジョナリズム=保守」という対立図式を固定化していくことになりそうです。

翻って、日本はどうなっていくでしょうか。実は日本の場合、英米的な側面と欧州的な側面が両方見られ、非常に複雑です。まず、英米的な側面としては、最近の若者は明らかにこれまで以上に英米化、リベラル化してきており、英語に対する抵抗感も薄れつつあり、というより英語の話せる人が相当増えてきています。大学生の間になんらかの海外経験を積む人も非常に多い。そういう意味では、日本も英米と足並みを揃えてリベラル化、特に経済面でのリベラル化やグローバル化へと進んでいくのは必定のように思われます。ですが、それはあくまで「高学歴」エリート、あるいは「語学エリート(主に女性)」の動向です。それ以外の層、つまり特に英語や西欧文化に魅力を感じない女性や非学歴エリートの男性層、及びインターネット高頻度利用者層に関しては、欧州的な「高齢者の頑固な左傾傾向 vs 若者の右傾化」という構図がやはり成り立っています。この層は英米化した英語エリートとは異なり、社会の急激な変革に強く抵抗するでしょう。かつ、日本の人口比率は異常に偏っているので、仮に最若年層の間に英米流のリベラリズムが徐々に浸透したとしても、同じ英米イデオロギーでも前世代の経済自由主義の影響を強く受けている分厚い現役世代(40-65歳まで)と「ネットで真実を知って」新たに保守化した若年保守層を合わせた数が英米系リベラル層を上回ることはないでしょう。(65歳以上の超高齢層になると上に行くほど「反右翼」的傾向が強まりますが、この層は英米系リベラル層から見れば十分に保守的ですし、また彼らは徐々に高齢化が進む中で影響力を失っていくでしょう。現に彼らは安倍政権の誕生を二度も許しているのですから、もはやこの世代のリベラル派は力を失ったと見て良いと私は考えています)従って結果としては主に現役世代の「エリート」層(=経済自由主義)、及び若年世代の「エリート」層(=反差別的平等主義)の二者が合意できるような「現実的」な政策が優先的に選ばれていくものと思われますが、その「現実的」政策というのはどうしても経済的なタカ派政策、つまり自由市場主義政策と大規模な移民歓迎政策のコンビネーションとして現れざるを得ない可能性が高いと思われます。

ちょうど今のフランスのMarcron氏のような政策を主張する、つまり「維新の党」や「みんなの党」に近似するような主張をする政治家が、今後も続々と出てきて今後20年以内には影響力を著しく強化すると思われます。こうした動きに反対する保守派を「ネトウヨ」と批判し、逆に社会主義政策に拘ったりあるいは警察権力や国防政策に執拗に反対する左派を「パヨク」と侮蔑する「現実的」な声こそが、最終的には力を得る。

安倍政権は、今まさにこの「現実」と「伝統保守」の間を揺れ動きつつ、何とか高齢保守層の支持のおかげで「伝統性」を保っていますが、ここが欠落したら自民党も一挙に「現実政策」へと傾いていくのではないかと私は予想しています。

ということで、今の段階では日本が世界一安全で経済的にも安定した大先進国であったとしても、今後は徐々に盛り返していく欧州に対し、増加する移民や自然災害とエネルギー問題などの課題を抱える日本はゆっくりと、しかし着実に劣勢になっていくかもしれないという懸念は残ります。

日本のエリートは、この事態にどう対処するのでしょうか。何か少しでも対策できるのでしょうか。今の日本のニュース報道を見ていると、話題になっているのは著名人のゴシップネタばかりです。否、社会的に「エリート」と認められている人々は、これに抗して本来問題にすべき問題を語るのでもなく、むしろ彼らが率先してこの社会面の三面記事のような内容について喜んで発言し、注目を集め、原稿料を稼いでいる。これが現実なら、それに相応しい然るべき未来が待っているでしょう。

スピノザと日本の関係(1)スピノザの形而上学

Pierre Bayle(1647-1706)という、スピノザと同時代を生きたフランスのとある哲学者は、スピノザの哲学を「日本人の哲学だ」と評し批判しました。この時代の「日本人の哲学」がどんなものだと思われていたのか非常に興味がありますが、一般に西欧の研究者の間では「日本=中国」であるという前提で、「日本人の哲学」=「新儒教/朱子学」とし、しかしスピノザの哲学の中に儒教の影響など全く見られないので、このBayleのスピノザ批判は「荒唐無稽」として片付けられています。

しかし、Bayleが「日本の哲学」の特徴として記述しているのは、むしろ「一切の分別を拒絶する一元論」です。具体的には「天国もなければ地獄もない、善もなければ悪もない、知識も無知も同じこと」といった思想です。これは、確かに実に日本的な「禅的」感覚を表現しているようにも見えますし、禅の影響を受けた井筒俊彦の「一元論」という形で近代以降も日本人の中に根強く生きている思想の一つであるという意味で、Bayleはそんなに間違っていないように思われます。

実際、日本人の間ではスピノザの思想を「汎神論」であるとする教科書的説明が流布しているおかげで、スピノザの思想は日本人の宗教感覚に「近い」とか、あるいは「親和的」であるとかいう風に一般には捉えられているのも事実ではないでしょうか。

とはいえ、これはあくまで漠然とした「感覚的」理解の次元でそう思われているというだけです。本当に日本的思想とスピノザの哲学に内的連関があるかどうかはきちんと分析してみなければわかりません。

ところが、スピノザの形而上学をきちんと説明している「読みやすい」本は日本語ではほとんど出されていません。確かに学問研究のレベルでは松田克進さんの「スピノザの形而上学」など、良質の研究が出てはいますが、一般人向けにわかりやすく、しかし大衆的需要に迎合するのとは異なるしっかりした「入門書」が多く存在するわけではない。

ということで、今回は私の知る範囲で簡単にスピノザ哲学を日本的思想と比較しつつ解説してみたいと思います。

まず、スピノザの哲学を「汎神論(pantheism)」という言葉で呼ぶのは誤解を招きやすいのであまりお勧めしません。単純に「本質一元論(substance monism)」と呼ぶに留めた方が良いでしょう。というのも、スピノザに於いては「現象世界」は「実在」である「神」に比べて一段劣る「様態(mode)」に過ぎないとされており、「現象世界=神」であるなどとは全然されていないからです。

ちなみにスピノザといえばほとんど「エチカ/Ethica」しか知られていませんし、エチカでさえほとんどの人は知っているだけで読まないでしょうが、スピノザのファンだったWittgensteinの「Tractatus Logico-Philosophicus(論理哲学論考)」の元となるスピノザの「Tractatus Theologico-Politicus(神学政治論考)」において、スピノザははっきりと名指しで日本人を古代ギリシャ人やモーゼ以前のヘブライ人と並ぶ「Pagan(多神教徒)」であると位置づけています。(16章66節)

しかも、その「神学政治論考」の中で「Pagan」についてスピノザは実に面白いことを言っているのです。例えば、昔のヘブライ人はPaganであったが、その時代のヘブライ語では何でも人間の能力を超越するものを「神」と呼んだので、聖書にある「神の風」というのは単に「ものすごく強い風」を指しているに過ぎず、実際「創世記」においては「最も強く逞しい者」こそが - 例え彼らがどんなに不道徳な狼藉であっても - 「神の子」と呼ばれている(1章31節)、とスピノザは指摘しています。かつ、これを評して「ヘブライ人といえども多神教徒との違いは単に神の名前のみに過ぎなかった(=迷信深いという点では毫も違わなかった)」と言っている。

これなどは、確かに西欧人にはショッキングで徒らに挑戦的なことを言っているだけに思われそうな一節のひとつですが、古代ヘブライ人が実際何を考えて「神」という言葉を使っていたかはともかくとして、面白いのはスピノザの言っていることは少なくとも生粋の「Pagan」である日本人に関しては全く以って正しいということです。

我々は惜しげもなく何でもかんでも「神」扱いしますよね。ネットでも感謝を表す言葉や「すごい!」という驚嘆を表す言葉として頻繁に「神!」は使われていますし、現実にもよく使われている。こんな風に「神」という言葉を今日でも使っているのは日本人だけなので西欧人の中にはこれを「日本教」だとか妙な名前をつけて日本の特殊性のひとつだと思い込んでいる人もいますが、実は少なくともスピノザによればどうもPagan時代の古代ヘブライ人達も全く同じように「神」という言葉を使っていた、ということです。尤もスピノザはきっとあくまで聖書を研究した結果としてそんな結論にたどり着いたのでしょうが、Paganである日本人の言語習慣はこの「スピノザ説」を裏付けまではしないまでも矛盾しないので、この部分は日本人である私には直感的に説得力のある仮説だと読めるわけです。

とはいえ、スピノザは明らかにPaganを何となく下に見ています。しかし、一般の西欧人とは理由が違います。当時の通常の西欧人はPaganを「キリスト教徒でない」から侮蔑していたのに対し、スピノザは「迷信に惑わされている」から良くないと思っているわけで、しかもその点に関しては「ユダヤ人」も「キリスト教徒」も結局変わらないと指摘しているのですから、要するにどんな宗教だろうと理性が曇る原因になるものは全て等しく良くないと言っているのです。

因みに、スピノザはこの本の序論で梗概を簡単に述べた後、「哲学者でない方々には、私はこの本を届けたいとはあまり思っていない。どうせ彼らの喜ぶようなことはここには書いていない。」また「偏見や迷信に囚われている一般人や、一般人と同じような性向を持っている人々(=頑迷な神学者など)にはこの本は読まないで頂きたいし、むしろ完全に無視してほしいと思っている」とはっきり述べています。(序論、33-34節)

総合しましょう。スピノザは「多神教/Paganism」の何たるかを一応知っています。少なくともスピノザの描写する「Pagan」の宗教感覚と日本人のそれは私から見てもあまり大きな違いはありません。よくわからない、人知を超えた現象や自分より優れた他人をまで「神」扱いしたりするのが「Pagan」なら、日本人はまさに古代人の「Paganism」を最も純粋な形でそのまま残して現代にまで伝えている数少ない民族のひとつであると言えるでしょう。そうしてスピノザはこのPaganismを実にバカバカしい迷信の極致であると思っているのです。

従って多神教的な汎神論(八百万の神)的宗教感覚とスピノザの形而上学が「同じ」であるとか「近い」というのは、少なくともスピノザの意図とは大きく異なるものであるというのは、「エチカ」におけるスピノザの形而上学を検討するまでもなく神学政治論考を少し検討するだけでも明らかになります。

というわけで、ここまではスピノザの僅かな記述から「日本論」ないし「多神教論」という形で日本的な宗教性に対するスピノザの姿勢を簡単に示唆してきました。この時点で「なーんだ、スピノザも結局理性中心主義の西欧人か」とがっかりされた方はもうここで辞めて頂いても構いませんが、具体的にスピノザの形而上学がどういうものかを知りたい方の為に、ここからはスピノザの一元論を簡単に解説したいと思います。

まず、スピノザの一元論(monism)というのは、主にデカルトの二元論(dualism)と対比されるものです。デカルト(Descartes)においては、「心」と「体」、あるいは「精神」と「物質」はそれぞれ別の「substance(ここでは仮に「本質」と訳します)」であるとされます。つまり、デカルトは「心」というのは本質として実在するもので、その存在は創造神以外の何にも由来せず、それそのものが独立に存在できる基本的なものだと考えたわけです。今日の物理学で例えるなら、例えば仮に「クォーク」を成立させる超基本物質Aがあって、Aはもうこれ以上分割できない、つまりこの世界の全ては究極的には全てAであると言えるようなものがあるとしましょう。デカルトは、このAのような存在として、「精神」が実在すると考えたのです。また、デカルトは精神とは別に「物質」という本質も実在すると考えましたが、現象世界はこの二つの実在によって成り立つとデカルトは主張したのです。しかしデカルトは物質は永久に分割できると考えていたので、単に「物質的なるもの」という基本存在が存在するというような考えだったと思っていただければ良いと思います。これに対し、例えばライプニッツ(Leibniz)は「monad」という精神的実在のみが「substance」であり、物質は永久に分割できるが故に「substance」の名に値しない、「物質」は「精神」によって創り出される次元的に一段低い存在であるとして、モナドあるいは精神一元論、あるいは精神主義(Idealism)を唱えます。これと逆に「精神よりも物質が本質的であり、精神は物質より生ずる」と考えるのが物質主義(materialism)です。

では、スピノザの考えはどうだったのかというと、スピノザは「物質も精神も本質的ではない」と述べたのです。「本質的なのは、神のみである。物質及び精神は、それぞれ神の様態に過ぎない」というのがスピノザ形而上学の真髄です。Einsteinが「信じた」「スピノザの神」というのは、まさにこの「神」、つまり究極の本質であり、かつその本性より必然的に存在する唯一の存在のことなのです。「神」というのが神学的過ぎると思われるなら、単に「第一原因」と言い換えても構わないでしょう。一切の現象はこの第一原因の様態である、というのが「スピノザ主義」なわけです。

というわけでスピノザはこんな妙な「神」観を主張して神の人格性云々を丸ごと否定したので「無神論者」として非難され、ユダヤ教社会から追い出されます。因みにデカルトも無神論者として批判されましたが、ライプニッツは神の人格性を否定しなかった上に、むしろ神の「善性」を自己の形而上学の中心に据えているくらいなので、今日でも西欧人の間ではライプニッツの思想は比較的評価が高いし人気です。

というわけで、スピノザの形而上学はむしろ徹底的に理性的な現象世界の論理的分析によって成り立つものであり、漠然と「全ては神である」という「体感的」な神秘思想を説いているのではありません。むしろそういった迷信的で道徳的な偏見に彩られた「非科学的」なるものを徹底的に退ける為の知的格闘の結果生まれた実に冷徹な思想であるとさえ言えるでしょう。はっきり言って、スピノザの形而上学は後のカントやサルトル、あるいはハイデガーのような自称「無神論者」よりも更に冷徹で、西欧的に言うなら更に「無神論的」です。というのも、この3名はいずれも無神論者でありながらなおかつ神学に代わる「道徳の基礎」を作るための形而上学をそれぞれ構想しているからです。カント以降から現代のロールズに至るまでの西欧現代哲学の歴史はいわば現代道徳を支える「世俗神学」構築の担い手の歴史であるとも言えるでしょう。

スピノザは、こういう形而上学における神学的ないし道徳的要素を徹底的に廃し、しかもそれを実に論理整合的に表現したので、ユダヤ人のみならずキリスト教の道徳家から現代の無数の哲学者に至るまでの実に広大な範囲から(半ば道徳的なモチベーションから)「嫌われて」います。(Zizekは逆にスピノザを「愛する」ことが現代哲学学会におけるルールになっていると述べていますが、これは特にフランスや日本、アメリカなどにおける、「生の哲学」などをキーワードとする「文学的」大陸哲学という限られた領域における現象であって、かつこの世界における「スピノザ」理解は誤解とまでは言わないにしても非常に偏った側面、つまり「生の肯定」という「現代哲学的関心」に繋がる「conatus論」のみに着眼し、全体としてスピノザ思想を「倫理的」な思想として「捉え直す」限りにおいて愛されているというに過ぎません。分析哲学の世界ではそもそもそんな妙な「現代的意義」探求型の読み方をしませんし、従ってスピノザ哲学はあらゆる意味で異端のままです。この点に関する詳細は柴田健志先生の2001年論文をご参照ください。)日本でもスピノザの形而上学の何たるかを理解している数少ない人々はやはりスピノザをある意味批判するか、あるいは何とか「再解釈」して道徳的要素を解釈によって埋め込んでスピノザを「救おう」とする優しい研究者の方々もいます。西欧にももちろんそういう人々はいますが、多くの「倫理的」哲学者にとって「スピノザ」は今でもある種の哲学的「スキャンダル」です。

先のBayleの「スピノザの哲学は日本人の哲学と類似している」という批判は、そういう文脈の中で行われたものであるわけで、つまりこの時代には「日本人」は(キリスト教を受け入れないどころか禁止するような)「不道徳」な存在であると思われていたわけですね。尤も、こういう時は通常なら「中国」がスケープゴートに使われることが多いのですが、なぜか「日本」が出てくるのが17世紀から18世紀の面白い点です。

スピノザは当時日本が唯一交易を行なっていたオランダに生きていたわけですから、もしかすると実は何か関係があるかもしれませんし、あるいは単にこの事実にかこつけた(フランス人による「キリスト教布教」という目標を商業利益の為に捨てたオランダ批判を含めた)言いがかりなのかもしれません。この辺りの歴史研究も面白そうだなと思いつつ、やりたいことばかりが積もっていって実際には大して何もできていない現状が歯がゆく思われます。

 

それでは、次回にはまた別の側面からスピノザについて少し述べたいと思います。

ではでは。 

西欧大手メディアはやはり「フェイクニュース」だった - 知的エリートの凋落

今英語圏で大変な話題になっていることについて、日本では実に断片的で偏った報道した出ていないようなので、今の私が書いてもほとんど影響力は無いとは知りつつ一応書いておこうと思います。

YouTuberとして最も成功した人と言われているPewdiepie(本名:Felix Kjellberg)は、最近は特にネット上のコメディアンとして知られている人です。元々はテレビゲームなどのオタク的な趣味にコメディを混ぜたネット世代の若者向けの動画を配信していて、それを通じて有名になっていったのですが、有名になり「億万長者」とまで言われるようになって以降は、既存メディアの彼に対する態度や実態を徐々に知るようになったせいか、何かと「Political Correctness」を嘲笑する(英語ではこれをtrollingと言います)ような動画も出してきました。

その中の幾つかをWSJ(Wall Street Journal)のジャーナリストが三人がかりで入念に調べ上げ、彼に対する個人攻撃に使えそうな部分をほじくり出して繋ぎ合わせて、本人に全くそんな意図はないのは(ちゃんと動画を見ている人には)明らかであるにも関わらず「Pewdiepieは反ユダヤ主義者(anti-semite)である」というデマをでっち上げてしまったのです。J.K. Rowlingまでもがこれに加担し、「彼はファシストだ」などと断じています。

WSJはこの実に悪意ある報告をYouTubeとPewdiepieのスポンサーであるDisneyに対して送りつけ、事態を重く見た(というより、YouTubeとPewdiepieの関係はそもそもあまりよくなく、これまでも何度かYouTubeはPewdiepieに対して陰湿な嫌がらせをしてきているようです)YouTubeは彼のシリーズ(Scare Pewdiepie2)を中断し、また「advertiser friendly」なGoogle Preferred schemeのリストから外すなど、既に制裁を行なっているようです。またMaker Studiosを通じてPewdiepieとスポンサー契約を結んでいたDisneyは契約を解消したと報道されていますし、PewdiepieのTwitterアカウントは一時凍結されています。

では、何が「問題」となったのでしょうか。彼の動画の粗探しを徹底的に行なったWSJのジャーナリスト達によると、昨年8月から彼が発信した動画の内9つに問題があるようですが、決定的とされ今BBCやThe Guardian、The Independentなどの英国系主流メディアをも含むほぼ全ての既存メディアで繰り返し報道されているのが、次の動画です。(別人によって抜粋されたものです。)

www.youtube.com

ご覧いただけばわかりますが、英語はよくわからないという方の為に一応簡訳すると、要するに$5払えば「何でも言ってあげる」というクラウドサイトがあって、「本当に何でも言うんだな?」ということで、西欧人なら(仮令心の中でそう思っていたとしても)公衆の面前やネット上では絶対に言わない(というか言えばまず間違いなく逮捕される)「Death to all Jews(全てのユダヤ人に死を)」というメッセージを入力し、しかも「それはどのように発音するのですか」という項目には「Sub Scruibe 2 Keeeem Staaar」(Subscribe to keemstar - keemstarというのは別の有名なYouTuberです。)と入力するなど、明らかにふざけたもので、これを受け取ったFunnyguysというインド人?の二人組がこれを実行するのですが、注文通り「DEATH TO ALL JEWS」と書かれた紙を見せながら、「subscribe to keemstar」と高らかに宣言し、これを見たPewdiepieが「マジかよ」と言わんばかりの驚愕した顔でこれを見届けるという動画です。

これを「決定的証拠」として、WSJはPewdiepieを「Anti-semite」と決めつけオンラインの世界から叩き出そうと躍起になっているのです。英語圏では日本でいわゆる「パヨク」ないし「市民活動家」と揶揄されるような社会正義に燃え過ぎて空回りしている人々をSJW(Social Justice Warrior)と言いますが、WSJが本当にSJW化したという洒落にもならないジョークが現実となっているというわけです。

無論、日本のメディアは西欧の大手メディアを真に受けますし、しかもPewdiepieのことを単に世界で最も経済的に成功したYouTuberとしてしか知らない多くの日本人は特に関心さえ持たずに「ふーんそうなの、で?」で終わらせてしまうでしょうから、誰も何も言わなければメディアの報道をそのまま信じてしまうでしょう。かつ日本人で英語がわかる(聞き取れる!)人というのはほとんど帰国子女か相当な知的エリート、つまり「Politically correct」な文化にどっぷり浸かっている人が圧倒的に多いでしょうから、私のような無闇に「PC」に反抗的で、しかも比較的自由な立場にある「英語の出来る(読み書きだけではなく、会話や聴解も一応はそれなりに出来る、という意味です)日本人」というのは残念ながらそうそういない(本当はもっといてほしいと思うし、またいるなら是非もっとご活躍していただければ幸甚です)ようですので、つまり私が何も言わなければ誰も真実を知らずに「Pewdiepieは反ユダヤ主義者としてDisneyからスポンサー契約を切られた人」という報道だけが一人歩きしてしまうのかなと思い本稿を執筆しているという次第です。

これ、しかし実は大変なことですよ。今となってはアゴラに投稿してこの愚かしさを広く知らせることができないのは非常に残念ですが、しかしそれでもこの「事件」は日本でも「西欧メディアの歴史的大失態」として記憶されるべきものです。

というのも、実際に権力を得ようとしている政治家であるTrump氏に対するメディアの攻撃は、Trump氏側に非があると思われる部分も多少はあったしまたそもそも「権力のチェック」を最大の使命とするメディアが政治家を批判することは一応許容されるべき範囲だと私はこれまで思ってきました。

しかし単に億万長者だというだけでこんな酷いでっち上げをしてまで一人の人間の社会的生命を奪おうとするなんて、もう人道的に許される範囲を超えています。幸いPewdiepieは支持者の多い有名人なので、今英語圏のネットユーザーの間では彼を支持し守ろうという声が続々と集まってきてはいますが、これがそれほどの影響力を持たない名も無き一般のちょっとした有名人に過ぎない人だったとしたら。

トランプ氏は就任当初こんなことを言っていました。「私はまだ恵まれているよ、だって(Fake Newsに対して)言い返せますからね。しかしそうでない人、つまりこれ(マイク)が手元にない人、こういうメガフォンのようなものを(言い返す機会を)持たない人はどうなるだろう。とても悲しいことだが、私はメディアに社会的に殺されてきた人々をもう何人も見てきた。そして、こんなのはフェアじゃないと私は思います。」

今、Pewdiepieとの関連で改めてトランプ氏を見ると、なるほどねぇと思わざるを得ません。これが大手メディアというものなのかと。私もトランプ氏の躍進をある程度は期待していた方であるとはいえ、本当に勝てるとは思っていませんでしたし、大手メディアにもまだ一定の敬意を持っていたし、読むべき価値もあると思っていたし、また実際に(批判的にではあれ)読んでいました。

しかし今回のPewdiepie騒動にはさすがにもう擁護すべき点は全くありません。心底呆れるばかりです。確かに「Death to all Jews」は悪ふざけが過ぎているし、あまり褒められた冗談ではないでしょう。しかしだからこそ彼はそこを試したのであって、彼もまたこれを実行した"funnyguys"もこれについては公に謝罪しています。

とはいえそれ以外の「問題」は完全に言いがかりです。ただHitlerの映像を少しでも自分の動画で「ネタ」として流しただけでAnti-Semiteだと言うのですか?フランス映画の名作 Intouchablesでは少しだけ「ヒトラーネタ」が入っていますが、Pewdiepieの動画でもあの程度の扱いです。まさかSJWはIntouchablesまでAnti-semite扱いするのでしょうか。冗談が通じないにもほどがあります。

これで良いのでしょうか。こんな知的醜態を晒している知的エリート達は、他方では暴力的なデモでもその対象が「fascist」であるなら正当だなどと宣う御仁なのです。そういう過激性を持つ人々に「fascist」扱いされるというのは、今の西欧社会の文脈では経済的損失や社会的名誉への傷以上に脅迫状を堂々と公衆の面前で渡されるのと同じですよ。ましてPewdiepieはスウェーデン人ですからね。一応ヨーロッパなのでカリフォルニアやシカゴよりはマシだとはいえ、スウェーデンで「fascist」扱いされれば誰に何をされるかわかったものではありません。

本当に酷いことです。こんなのは「集団いじめ」以外の何でもありません。日本のメディアはせめてこんな下衆な「祭り」には加担しないでください。せめて日本だけでもユーモアを保てるようにしようじゃありませんか。以前から何度も指摘しているように、このような現代西欧の異常性から眼を背けて日本における「言論の自由」を当然視するのは危険ですし、そもそも日本には日本なりの別の「禁止コード」が存在しているので日本の「言論の自由」が完全だとも言えませんが、しかし西欧のこの残念な凋落には断固反対し、日本から率先して自由を守り、また拡大していこうじゃないか、というのが海外在住者である私の提言であり、また切なる願いでもあります。

無論Hate Speechを野放しにしようというのではありません。本当に脅迫的なものは当然取り締まられるべきでしょう。しかし人からユーモアを奪うのは、もはや独裁政治と変わりません。笑えない、というより冗談ですらないHate Speechは擁護する必要はありませんが、こんな風にジョークを殺してはいけない。

ですから日本の皆様は、西欧の主流メディアだからって簡単に信用せず、批判的視点を持って読んでいただければと思います。もうメディア依存はやめましょう。常に信用できる「大手メディア」など、結局どこにもありません。少なくとも西欧にはありませんし、西欧にないなら政府系メディアの露骨な偏向を許している他の国にもないでしょう。大手メディアの著名人に対する人身攻撃からも、大衆的なHate Speechからも距離をおけるような批判的思考を養いましょう。こんな時代に信用できるのは結局はきちんと他人をも自分をも批判的に見られる人だけです。私は、わざわざこの私の長たらしい論考を読んで下さるような方々はそうした批判的思考を既に身につけておられる立派な方々であると信じています。(批判的にものを考えることもしないような人なら、何が嬉しくて何の権威も権力もお金もないただの若い変わり者である私の小難しい駄文を読むために貴重な時間を割くでしょうか。)

ということで私は自分の論考の読者をかなり信用していますので、その前提の上で敢えて言います。西欧の既存メディアが信用できるという時代はもう終わりました。もう大分前から終わっている、終わっているという指摘は方々から出ていましたが、今回のPewdiepieの騒動のおかげでほぼ完全に決着が着きました。既存メディアは終わりです。Pewdiepieは恐らくこの戦いに勝利するでしょう。その時、既存メディアの信用はもう地の底です。

彼らは世界情勢の分析や世界の貧困問題について真剣な論考を書くよりも、またお得意のトランプ批判に時間を割くよりも、人畜無害な一介の市民に過ぎないちょっとした有名人の「失言」をあげつらうことに三人もの人員を投入し「分析」させてまで「PV稼ぎ」に奔走する(しかもWSJのPewdiepieに関する記事はsubscribeしなければ読めません!)ほど凋落しているということを、全英語話者に対して自ら周知してしまったのです。Pewdiepieは、腐っても最も稼いでいるYouTuber、その影響力はWSJの「有料記事」とは比較にもなりません。

これからは、PV稼ぎに走っていない真面目な論考を読んでください。日本や海外の大手メディアではなく、池内先生のFBや中東風姿花伝など、日本の良心的な学者の方々が無料で公開しているブログなどを最初のスタート地点として、既存メディアを批判的に読む習慣を身につけてください。また学術書や古典は仮令それがエリート的なものでもどんどん読んでください。学問の世界には一応まだ批判精神の伝統がまだそれなりに残っていますから、それなりに得られるものもあります。

いやはや、それにしても西欧もいよいよこうなってしまったか、というのが私の正直な感想です。こうなってくると、リベラル派の凋落をもたらしたのは他でもない、案外リベラル派自身の「貧困」なのかもしれないと思わされます。

アサド政権について

国際政治

Le Figaroにシリア大統領アサド氏のインタビューに関する記事が載っていました。

これまで通り、信用すべきなのか「レトリック」として冷笑すべきなのかわからないような妙なことを今回も述べているようです。上記リンク先の記事にはこうあります。

«La politique de la France depuis le premier jour est de soutenir les terroristes, d'être directement responsable des tueries dans notre pays», affirme Bachar el-Assad. Il accuse le président François Hollande d'avoir «envoyé de l'armement à des groupes modérés qui sont en fait des terroristes».

 また、トランプ氏の「ムスリム入国制限政策」に関しては、「理解できる」としています。

Interrogé sur le décret anti-immigration du nouveau président américain, qui vise notamment tous les immigrés en provenance de Syrie, il semble le trouver justifié: «Ce n'est pas le peuple syrien qui est visé ici. Ce sont les terroristes, qui pourraient s'infiltrer à travers certains immigrants venus à l'Ouest.» Il rend hommage à l'action de Vladimir Poutine dans son pays. «Les Russes respectent notre souveraineté, chaque étape est franchie en coopération avec la Syrie. Nous sommes les décideurs. Sans ce soutien des Russes les choses auraient été pires. 

 トランプ氏が制限しようとしているのは「テロリスト」であり、「(善良な)シリア市民」ではないので、アメリカがこのような行動を取るのも正当だ(justifié)だと考えているようだ、とこのジャーナリストは判断しています。またロシアがシリアの「主権」(souveraineté)を尊重しており、ロシアの援助がなければ状況はもっと悪くなっていたであろうと言っています。

またラッカを攻略したところで、ラッカはDaeshのシンボルに過ぎず、本拠地でも何でもないのでDaeshそのものを攻略したことにはならない、ラッカだけがDaeshではないと述べています。

 «Ces attaques n'ont pas nécessairement été préparées à Raqqa. Raqqa n'est qu'un symbole de Daech». «Il y a une présence de Daech près de Damas. Ils sont partout. Ils sont à Palmyre en ce moment et dans la partie Est de la Syrie: alors non. Il ne s'agit pas que de Raqqa». 

そして、問題の本質はDaeshではなく、Daeshは問題から生じる「結果」に過ぎないと述べています。真の問題は「イデオロギー」であり、かつその「イデオロギー」は別のアルカイダ系のグループal-Nosraにも共有されているものだ、とアサド氏は言います。

Pour lui «Daech est une conséquence et non le problème. Le problème d'origine, c'est l'idéologie, la même que le front al Nosra (NDLR: groupe islamiste issu des rangs d'al-Qaida et opposé au régime )».

池内先生の「イスラーム国の衝撃」においても「ラッカ」という地が「象徴的」意味を持つ地であること、またDaesh側も象徴効果を狙って演出しているという点が解説されていましたが、アサド氏もこの点の認識はほぼ同様のようですね。

問題の本質は「イデオロギー」であるという点も、大きく間違ってはいないと思います。つまりアサド氏は確かに自分の立場を弁解する為に自分に都合の良いプロパガンダ発言をしているという面は当然あるにしても、そもそも彼が残虐な独裁者として振る舞わざるを得ないのは彼の人間性や資質に問題があるというよりも、背景に強烈なスンナ派の過激思想があるからなのだとすれば、アサド批判にどれほどの道義的正当性があったのかは疑問視せざるを得ません。

あるいは逆にそう思わせて自己利益を確保することがアサド側の狙いなのでしょうか?しかし、シリアにおいてアサド家の属するアラウィー派どころかシーア派全体が常時危険に晒されているというのはやはり事実でしょう。そう考えると、アサド政権の勝手な言い訳と片付けられる話では必ずしもないように思います。

いずれにせよ、西欧の基準で非西欧地域の混乱の原因をつくっている「邪悪な支配者」を特定しようとしても何も見えてこないというのが実態なのかもしれませんね。

西欧側はどうしてもアサドが全てを支配し全てに対して責任を負っており、またラッカを攻略すればイスラーム国は壊滅するはずだと考えたいようですが、実際はどうなのでしょうか。

例えば戦前の日本を考えてみても、「天皇」はおろか「首相」でさえも必ずしも完全に自由に意思決定をしていたわけでもなく、また出来ていたわけでもない。「邪悪な独裁者」の実像が、実は強硬論に反対すれば殺されるか職を追われるという状況の中、出来る範囲で事態を沈静化させようとする「エリート」であることもあり得るし、またそのような強迫的状況をつくっているのは官製プロパガンダでも特定人物のイデオロギーでもなく、民衆に根ざした道徳感情であったりすることもまたあり得るわけで、そうだとするとこの状況を変える為にすべきことは、もっと破滅的な結果を招きかねないほど困難なことかもしれない。

「政治的安定」の為には「少数派優遇」などの厳格なリベラリズム(perfectionist liberalism)が認めない「逸脱」も多少は許されるどころか奨励されるとまで主張する(この主張はこれを広めたRawlsの命名に従ってPolitical Liberalismと呼ばれているようです)M. Nussbaumに代表されるような現代の「政治的リベラルリズム」(political liberalism)の代弁者も、こういう時には「安定性/stability」よりも「正義」を優先するのが常です。ですが、むしろこういう時にこそ「stability」を優先すべきで、対処できないほどの大規模な難民を生み出すような反独裁政権工作は必ずしも最善ではないとは考えないのでしょうか。

まあ、考えないでしょうね。彼らは「進歩」の為に何でもすべきことをとことんすべきで、一時的安定の為に妥協するつもりはありませんから。少数派を優遇するようなタイプの不正義は進歩的であるから許されても、独裁者を許容するような不正義は非進歩的なので許されない。

西欧がこういう姿勢を「非西欧」に対してもとり続けるようなら、この混乱は半永久的に永続化するでしょう。西欧側も最近は「疲れて」きているので、一時的に進歩主義を「中断」しようという機運が高まりつつあるのは事実ですが、トランプ氏や「極右」政党の路線が長期的に受け入れられ伝統化するという兆しは今の所全くありません。西欧はあくまで進歩のための努力をしていくでしょうし、反進歩的な思想の「体現」に対しては一切妥協することはありません。つまり個人レベルでの「信仰」には口出ししないしむしろ全力で保護しようとするとしても、それが「政権」として体現されればこれを全力で否定するのが西欧です。

このような形での「思想の脱政治化」を進めていくことが西欧的進歩の基本的方向性であって、思想を「現実化」する自由は、西欧の価値に反する思想にはありません。そういう意味では、laïcitéを強制しているのはフランスだけではなく英米も同じです。フランスは国内政策上でlaïcitéを法制化しているので、英米はこれをもってフランスを「暴力的」であると批判しますが、国際政治においてこれを事実上行動で示しているのはむしろ英米側でしょう。

ということで、アサド氏の対談に関しては以上です。ここからは完全に余談です。(あるいは独り言です。)

日本の仏教や神道、中国の儒教や老荘思想、またインドのヒンディー思想などは既に「西欧の視点」から「オリエンタルなもの」の代表として「平和思想」として体系化されてしまっています。かつて日本はこれに「大日本帝国」という新たな戦闘的イデオロギーによって挑戦しましたが、それでさえ「大東亜共栄圏」という「平和主義的なオリエント」という西欧的偏見を逆に利用したもので、オリエンタリズムをある部分では内面化していました。

イスラームもやはり一時はこの「オリエンタリズム」によって「平和化」されそうになっていましたが、プライドの高いアラブ人達は此の期に及んで抵抗を見せ、しかも聖典解釈を「過激化」する(コーランは確かに元々戦闘性の高いものですが、テキストに基づくオリエント化を拒むほどではありません)ことで「オリエンタリズム」に対して正面から挑戦状を叩きつけている。

暴力は決して正当化できないしまたされるべきでもないが、イスラームの「テロリズム」は、鳥瞰的に見れば「オリエント」を勝手に「平和化」しようとする西欧の「傲慢」に対して、「オリエントの暴力性」を誇示することで「オリエンタリズム」に抵抗しようとする、悲しき実験なのではないかという気がしなくもありません。

他方、最近は西欧でもリベラル派の間で「時には暴力も辞さない」という過激リベラリズムがにわかに流行しつつあり、例えばBerkeleyにおけるMiilo Yiannopoulosという人の講演に反対するデモ隊による暴力は「正当」でかつ「成功」であったという見方をする人もあります。また先日フランスでは悪名高きサン・ドニのBobignyという場所において「警察によるマイノリティに対する暴力」があったとして、これに反対するという名目の暴力的デモが生じましたが、これもパリやマルセイユで後に続くデモが発生するなど、全く否定的に捉えられていないどころかむしろ肯定的に正当化される向きがあります。

このように、西欧における「political correctness」は「トランプ大統領誕生」を経て新たな段階へ移行しているように思われますが、彼らもまた過激化していくことで大衆的支持を徐々に失っていくかもしれない一方、大衆がリベラリズムから決定的に離れた時にはこの過激リベラル層が本当にイスラーム主義と合流する可能性をも秘めていると見て私は個人的に注視しています。

 

参考文献:

Nussbaumは現代の西欧のリベラル派的な考えを最も的確に表現している論者の一人ですので、もし「西欧のリベラル派的な考え方」に関心を持たれておられる方がおられましたら以下を一読されることをお勧めいたします。

Nussbaum, M. (2011). Perfectionist Liberalism and Political Liberalism: Perfectionist Liberalism and Political Liberalism. Philosophy & Public Affairs, 39(1), 3-45.

米国政治学者Jennifer Lind氏の日本の再軍備容認論?

国際政治

Jennifer Lindという米国の政治学者がForeign Affairsに寄稿していた記事、"Asia's Other Revisionist Power"にあった記述は、私の政治的立場を説明するのにちょうど使いやすいものであったので少し御紹介いたします。

まずは以下をご覧ください。Lind氏は中国の南沙諸島への進出等といった東アジアの地域的脅威という状況の中、日本はどのように行動することが期待されるかという点に関して以下のように述べています。

So far, Japan’s response to China has been restrained. Although changes in the Japanese defense posture often generate alarmist headlines, Japan’s actions to date have been modest, especially when compared with how great powers normally behave when confronted by a rising power in their neighborhood. The Japanese public is preoccupied with a lagging economy and an aging society; it has no interest in military statecraft and has disapproved of the security reforms pushed by Abe and other conservatives. But as the world’s third-largest economy, Japan has tremendous latent power; a sufficiently alarmed Tokyo could decide to increase its military spending from the current one percent of GDP to two or three percent—an undesirable outcome for Beijing.

つまり(英語圏では)日本の「防衛」に対する態度が変わるたびに警告的なニュース報道ばかりが出てくるが、これまでのところ日本の行動は「modest」であり、また日本人は「安倍首相の進める軍拡」に非常に批判的であって、危険なほど軍国化しているとは到底言えず、それよりも経済の停滞と高齢化社会への対応に追われている普通の国なのであるから、むしろその力を中国の脅威に対抗する米国の同盟国として使ってもらっても良いのでは、ということです。

また、Lind氏はこうも述べています。

Chinese officials argue that U.S. interference has caused its neighbors to respond with alarm, but China’s own revisionism is to blame. Consider that for the past 60 years, even as Washington constantly entreated Japan to play a more active military role in the U.S.-Japanese alliance, Tokyo stepped up only when it felt threatened, as it did in the late 1970s when the Soviet Union launched a military buildup in Asia. Today, Japan is responding not to U.S. pressure but to Chinese assertiveness. Beijing must understand how threatening its actions appear if it wishes to successfully manage its relations with its neighbors and with Washington.

簡単に言えばアメリカの介入こそが周辺国の過剰反応を起こしたと中国側は言っていますが、悪いのは明らかに周辺国を刺激している中国の方だということですね。

西欧による「revisionism」への批判が、日本に敵対的な態度をとる国家へと向けられている時にはこれが日本にとっていかに心強いものであるかは一目瞭然だと思います。Lind氏は中国に対する懸念と批判を強めるあまり、ほとんど日本の再軍備を認めるところまで行っています。大国によるrevisionismというのは、それほど政治学者の意見を硬化させる(のを正当化する)ものなのです。

私は以前も「revisionism」という批判(それが歴史に関してのものなら歴史修正主義と訳されますが、同じ言葉です)を英語圏からされることは非常に手痛い傷であるということを指摘しましたが、それが仮令日本の法律上は「言論の自由」の範囲とされるとしても、国際的な「公共の福祉」を害していると判断されればこういうところで決定的な批判理由とされてしまうわけです。幸い今は日本よりも中国に矛先が向いているので良いのですが、こちら側もなるべくこういう欠点を避けておくに越したことはありません。

歴史問題に関しては、共産党が瓦解し中国が自由化した後であれば、一般の中国人にも自由な歴史研究が解放されて自然に「真実」が明らかになってくるでしょう。少なくとも自由化した後であれば純粋に学問的な論争として展開し脱政治問題化できる希望があります。相手が共産党である間はこの問題の解決を焦ること自体が得策ではない。相手側が聞く耳をもっていないは明らかですからね。それよりもまず中国を解放して、イデオロギー的反日に終止符を打つことが先決です。そこまではアメリカも国際社会も望んでいることですから。

日本人ももっと大局的視点から言論をしていけば、西欧はちゃんと日本の冷静な姿勢を評価します。相手が不当な主張をしてきても、こちらが同じことをする必要はないのです。むしろ同じ土俵で戦うべきではないでしょう。日本人の「我慢」の成果は出ています。アジアに対する排外発言は抑えつつ、着々と西側の了承を得られる範囲で安全保障を拡充させて行きましょう。そうすることで「彼ら」は自然に黙るようになるはずです。日本人に不毛な論争なんて似合いません。実力を静かに示すだけで良いのです。

日本における哲学研究についての独り言

雑記

あの、突然ですがDavid LewisのOn the Plurality of Worldsって翻訳が出たの去年なんですね。てっきりどこかにあるものだと勝手に思っていましたが。。

まあ今更Lewisに戻っても仕方がない感じもしますが、じゃあKripkeは?さすがに日本でも話題になっているしあるよね?と思ってアマゾン(日本)で探して見ると「Naming and Necessity」の八木沢敬先生訳と、「Wittgenstein On Rules and Private Langauge」の黒崎宏先生訳があるだけでした。
この内Naming and Necessityを訳された八木沢先生は英国で学部を出て米国で教えておられるので最初から分析哲学「で」学んでいる方です。つまり日本の教育機関による純粋培養では全くありません。

黒崎先生の方は東大出の国産学者の方ですが、こちらも「On Rules and Private Language」を原著が出たすぐ後に翻訳を出されていて、結果としてはさすがに日本におけるKripkeの導入は早かったようですが、黒崎先生の場合はあくまでWittgenstein研究につられる形でKripkeの議論も訳されたという感じのようですね。実際最近のreference and existenceとかはまだ誰も訳していないようですし。他にも本になっていない論文など沢山あるのですが、無論訳されていないようですね。

私は別にPossible Worldsの議論が特に重要だと思っているわけでもありませんが、しかしこの辺りの議論(modalityに関する一連の議論)は英米分析哲学の肝となる部分で、合理的理由なく無視していい部分ではありません。というか、これやらないならむしろ日本の英米系哲学研究って何やってるのって話になってきてしまいますよね。まさかWittgestteinを永久に大陸哲学的なやり方で研究してるとかではないですよね。。ま、別にそれならそれでも良いのですが。。

ということでちょっと気になって東京大学哲学研究室の「論集」を確認してみると、やっぱりほとんど全てが大陸哲学の研究論文で、一ノ瀬先生だけが一人で(しかも英文で)英米系っぽいことをやっておられるようですね。。まあ東大でこれなら仕方がないか。。という気になりました。

ちなみに大陸哲学研究でも私はスピノザは結構好きなので笠松和也さんの「スピノザ哲学におけるコナトゥス概念の発展」を読んでみましたが、Wolfsonってちょっと古すぎませんかね。まあ今回の論文ではイントロでチラッと使われているだけなので単に枕詞として使われているだけなのはわかりますが、日本の研究だと「大家」とされる古い研究がいつまでも持ち上がられて、その後の(特に批判的)発展が比較的軽視される傾向はやはりあるような気はします。少なくとも英語の論文で「Wolfsonは...」とか「Guéroultによれば...」とか、古い大物研究者を大先生として特別扱いする印象を与えるようなのは見たことがありません。なんと言うか、論文全体に漂う雰囲気が全然違います。日本語論文は「権威への忠誠」を疑われまいという緊張感を読者にさえも与えますが、英語圏の論文は「indefensibleな発言を一言でも言ってはならない」という緊張感だけに支配されているという感覚です。これ、何なのでしょうね。

後、個人的にはSpinozaならDella Roccaの路線とか超有りだと思うのですが、日本では案の定総スカン食らっているようですね。もしDella Roccaの読みに基本的に賛成する路線でスピノザ研究しておられる日本人の学者(あるいは学生)の方がおられるなら名乗り出ていただければ私はあなたの論文、喜んで読みますよ!

さてちょっとどうでもいいことをだらだらと述べましたが、笠松論文の内容そのものに関しては、「conatus」が元はギリシャ語で何か、つまりアリストテレス哲学では何に該当するのかという点はまあ文献学の範囲だしよくわからないのでパスしますが、スピノザのconatus概念というと通常はホッブスやデカルトとは「異なる」点が強調されるのに笠松氏の論ではスピノザが「機械論の中で捉え直された、コナトゥス概念を確かに受容している。その点でスピノザはホッブスやデカルトと同じ側に立っていると言える」(p.195)と注釈もなく結論されているのはちょっと疑問ですね。結局は結論においてホッブスやデカルトと異なるスピノザの独自性が示されるとはいえ、その独自性は「短論文」まで遡らなくとも「エチカ」に表現されている時点でもホッブスやデカルトとは違って、スピノザは「conatus」を「自己保存」という極めて静的な原理として捉えている。つまり「conatus」を「自己保存」と捉えることそれ自体が独自的なものであるという指摘が他方ではあります。というのもデカルトとホッブスは「conatus」を「動的変化」を促す原理と捉えているからです。例えば、Harvey (2012)ではこうあります。

Spinoza’s theory of conatus differs distinctly from those held by Descartes and Hobbes. Defining “conatus” as the endeavor “to persevere in being” or “to preserve one’s being” (Ethics III 6–9; IV 18; et passim),he understood it to be a conservative principle. Descartes and Hobbes, however, took it to be a principle of change. (Harvey, 2012, p.292)

また続けてHarvey(2012)はこうも指摘しています。

Spinoza considered his own notion of conatus to be partially similar to Descartes’ “first law of nature” (ibid., II 37), which is in effect the law of inertia (“any object, in and of itself, always perseveres in the same state”), but insisted that conatus is “something outside the laws and nature of motion” (Cogitata metaphysica I 6).  (Harvey, 2012, p.292)

 つまり、スピノザの「conatus」原理は機械論的理解(laws of nature)の「外(outside)」にあるものとHarveyは理解しているわけです。ということは、「スピノザがconatusを機械論的に理解しているのか」という点からして一応議論の余地があるということではないでしょうか。まあ、別にそんな細かいことをネチネチと指摘しなくても良いのかもしれませんが。。

ただこうして色々振り返ってみると、やっぱり学部段階でこちらに来ておいてよかったなとは思います。無数の英語論文にアクセスできるというだけでも大きなメリットです。以上、ちょっとだけ「専門的(?)」な独り言でした。

 

参考文献:

Harvey, W. (2012). Gersonides and Spinoza on Conatus. Aleph, 12(2), 273-297. doi:10.2979/aleph.12.2.273