哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais (par un Spinoziste Japonais)

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel)の「現実性(reality)」概念

先日(4月27日)は私が在籍しているダラム大学においてマルクス・ガブリエル氏が講演を行なっていたので、私も聴講してきました。*1(以下敬称略)

*これから書くことはあくまで私が理解する限りでの話ですので、「このブログの筆者が解釈する限りでの」マルクス・ガブリエルの議論である、という点に注意して頂ければ幸いです。もし以下の文章がガブリエル氏の主張を正確に反映することに失敗しているのならそれは私の責任であり、ご指摘を受け次第訂正させていただきます。

 

今回の本題は『なぜ「心/mind/Geist」に関する錯覚主義(Illusionism)は間違っているのか』というもので、基本的にはMichael Denettらの英語圏の意識(consciousness)に関する錯覚主義の論駁が中心でした。

 錯覚主義というのは、(ガブリエルによれば)「意識というのは我々の脳の認知プロセスが誤って生み出す錯覚である」という立場です。具体的な講演の内容は恐らく昨年同様いずれYouTubeにアップロードされるのでいずれそちらを参照していただくとして、ガブリエルはその錯覚主義が根本的に間違っているとします。

 

ですが、所謂「デカルト以来の心身問題」においてまず最初に問われるべきなのはまず何より「現実存在」をどのように定義するかという点です。ガブリエルは恐らくこの点をよく理解しているからでしょうか、今回は講演冒頭で予め「現実的/real」あるいは「現実性/reality」という言葉をどのように理解しているかを説明してくれました。(実は講演前に題目を見て、もしこの点を説明してくれなければ私はまずこれを質問しようと思っていましたが、ひとつ手間が省けたので有り難かったです。)ということで、今回はこの「現実性」あるいは「実在性」(reality)の概念について論じたいと思います。

 

さて、今回の講演においてガブリエルは「現実性」あるいは「実在性」(reality)を「認識論的可謬性(epistemic fallibility)」と定義しています。(注:ガブリエル本人はもう少し詳細な定義を提示しています。従ってこれはあくまでその定義の私の解釈です。)簡単に定式化すると、「およそ実在的(real)であるものは、すべてそれに関する認識が可謬的であるものである」といったところです。つまり、我々のそれに関する認識が必ず無謬的(infallible)であるような認識対象は実在性を欠くという主張です。

この主張は非常に抽象的です。従ってただそう言われても何故そんなに抽象的な定義をしなければならないのか一見ピンとこないかもしれません。18世紀以降の哲学、特に最近の分析哲学の文献的素養のある方なら、「可謬性(fallibility)即偶然性(contingency)」→「偶然的真実即経験的真実」→一種の経験主義(empiricism)の立場の表明という風にパッと思い浮かぶかもしれませんが、しかしガブリエルが敢えて「実在的なるものは、我々が感覚的に経験するもののことである」と言わずに、より抽象的に実在性を定義しているということは見逃せない重要なポイントだと思います。

というのも、ここでガブリエルが試みているのは「感覚経験(sense experience)」が実在性の基準となり得るのはそれが「可謬的」であるからだ、という「説明」だからです。つまりガブリエルは単に「感覚的に経験するものが実在的なのである」と定義して終わるのではなく、「そもそも感覚的に経験するものを実在的だと言えるのは、感覚経験は可謬的であるからに他ならない」と「説明」しているのです。

 

しかし、さすがにここまで抽象化されると果たしてそれが妥当な定義なのかという疑問が生じてくるのではないでしょうか。そもそも実在するものというのは、我々がその実在を知ろうと知るまいと実在しているはずのものではないか、というのが常識的な見方である限りにおいて、「我々の認識(的可謬性)」と「実在性」の間にどういう繋がりがあるのか、疑問に思われる方もあると思います。

ということで私は質疑応答の際にこの点の説明を求めたところ、ガブリエルは見事に私が望んでいた回答を返してくれました。簡潔に言えば、ガブリエルが実在性を認識的可謬性と定義する理由は、様相形而上学(modal metaphysics)上の問題意識に端を発している、と本人が明瞭に認めてくれたのです。様相形而上学というと物々しいですが、要するに「可能世界」論だとか「決定論」だとかいったような「様相(modality)」に関する形而上学的考察のことで、かつてなら決定論と非決定論の間の論争、最近なら可能世界論の検討などが中心となるものです。

 

以下はガブリエルの回答を私なりに理解した上で纏めたものです。

ガブリエルは、実はDavid Lewisの可能世界論(Possible Worlds Theory)に対しては批判的、というより否定的です。ところがスピノザ的、或いはアリストテレス-メガリア学派(Aristotelian-Megarian)的な「実現象主義(actualism - actualismを日本語に直訳しようとすると「現実主義」になってしまい却ってややこしいので、別に「現象」という言葉は入っておらずとも一応概念的に捉えて「実現象主義」とでも訳しておきます)」の立場ではあまりに多くの「様相的事実(modal fact)」を否定しなければならなくなるのでこれも取らない、とガブリエルは論じます。(「様相的事実」とは、例えば「私が昨日ドイツにいたということもあり得たはずだ」というような、日本語で言う「反実仮想」的「事実」のことです。)従ってこの「ジレンマ」を克服するひとつの代替案として、「認識的可謬性」を実在性あるいは事実性の根拠とすることをガブリエルは提案している、ということなのだそうです。従って、ガブリエルの「実在性」の概念は、そもそも「様相的事実」は実在的(real)あるいは真(true)であるという前提から出発しているということになります。

 

ですが、「様相的事実」というのは本当に「事実」の名に値するでしょうか?例えば、「大日本帝国は太平洋戦争でアメリカに勝ったかもしれない」という命題は、どこまで「事実」と言えるでしょうか。少なくとも、この「事実」は明らかにもっと普通の意味での「事実」、つまり「大日本帝国は太平洋戦争でアメリカに敗北した」という命題とは明確に異なる性格のものだということまでは了解が得られると思います。

仮に上述の様相命題が真だとして、そもそも「かもしれない」というのはどういった「事実」なのでしょうか。ひとつの立場は、「かもしれない」とは「そういった事態が想像し得る」という「事実」を指すとします(この立場を可能性概念は単に想像可能性に過ぎないというものと理解するなら、現実世界そのものには「可能性」はないという立場も導けます。例えばMichael Jubienの「actualism」あるいは「Platonism」はそのようなものと理解し得ます)。また別の立場によれば、「かもしれない」とは「ある特定の時点において、現実がそのように展開する十分な要因は存在していた」というような「実現力」の存在という事実を指すとします(アリストテレスからヒントを得た現代のPower Theoryなど)。しかし私がここで注目したいのはやはりスピノザの立場です。スピノザは「かもしれない」というのは単に完全な因果的説明を知らないが故に生ずるいわば「無明(ignorance)の産物」でしかなく、完全な因果的説明を理解する視点からは「可能性」概念は全く意味を持たない無効概念であるとするのです。つまり「〜かもしれない」という命題の一切は決して事実でも真でもあり得ず、単にその命題を真と信じる者の無知を示すに過ぎないとするわけです。従って、スピノザの立場とJubienらの英米の「actualists」の違いは、英米actualismにおいては「想像し得る」という事実、つまり可能世界のプラトン的なイデア界における「実在」を主張するのに対し、スピノザはイデア界(精神的現実)は基本的に現実世界と並行しているので、現実世界に存在しないものはイデア界にも存在しない、即ち「可能世界」の概念とは実は不完全な、実際には自己矛盾した、妥当な概念(adequate idea)として成立しない概念、すなわち誤謬を含む妄想の産物(imaginatio)であるとする点です。

 

つまり、スピノザは「可能性」という概念をどこまでも徹底的に否定してかかるわけです。私はこの可能性概念の形而上学的否定こそスピノザ哲学の真髄だと理解していますが、この点に対する明晰かつ判明な反論を私は未だ見たことも聞いたこともありません。こう言うと、多くの人(=哲学者)から『「私は今朝コーヒを飲むことができただろう」という命題は真では?』等といった趣旨の反論をいただくのですが、先ほどのスピノザの立場の解説で述べた通り、私はこれは真ではあり得ないと思うわけです。私が「今朝コーヒを飲むこともできただろう」と思うのは私自身がなぜ今朝自分はコーヒーを飲まなかったのかを知らないからであり、つまり自分自身の行動を導く因果的に必然な原理を完全には理解していないからそのような誤った考えを持つに至るのであって、この考えはスピノザの定義する「正しさ」、すなわち合理性あるいは因果的説明可能性(causal explicability)という基準に照らせば決して「正しく」ないからです。

故にもし(私が解釈する限りでの)スピノザが正しいのであれば、そもそもガブリエルが解決しようとしている様相形而上学的問題は生じないので、彼の実在性の定義に従う必要性も生じません。故にスピノザに従って実在性を必然的存在、あるいはその無限の属性(infinite attributes)の下における無限の様態(infinite modes)であると理解することも可能になりますし、また「意識/心は実在(real)ではなく、実在するもの(=自然/natura naturans)の思惟属性(attribute of Thought)の様態(=natura naturata)である」と理解することもできます。だとすれば、この意味で(我々の個別の)意識(=自意識)というのは幻想あるいは不完全な概念であって、実在ではないという錯覚主義的主張は一応通ります。(ただし自然の属性としての思惟は必然的に存在するものとされますので、この意味では意識的なるものの大元は実在の属性として肯定されます)。

 

ということで、今回は最近大陸哲学系の世界で話題のマルクス・ガブリエルの(恐らくこれまで明確には表明されていなかった)形而上学の核心的部分を明らかにし、さらにスピノザや分析哲学の論者と対比することでより明確にするという作業に僅かながら貢献するということを目標に本稿を書いてみました。何かの参考になれば幸いです。

 

Reference:

Gabriel, Markus. “'Are We Real? Consciousness and Fiction'” Durham Castle Lecture Series, 25 April 2018, Senate Room, Durham Castle, University College (Durham University), UK. 

*1:まだ動画が上がってないと思うので、詳細は以下リンク先をご参照ください。Durham Castle Lecture - Professor Markus Gabriel - Durham University