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哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

フランスの大統領選挙 2017 第一次選

出口調査の結果が公表されました。Le Mondeの情報によると、今の所はMacron氏が23.7%で首位、次点でMarine Le Pen氏が21.9%、これをFillon氏が19.7%で、Mélanchon氏が19.2%で追う、という形になっています。(ちなみに社会党候補のHamon氏はわずか6.2%という不人気です。)

ということで、予想通りフランスでもシルバー・ポピュリズムが猛勢を振るい、Macron氏優勢のままで2017年の選挙は終わりそうな予兆を早くも見えてきました。

第一次選挙でならMarine Le Pen氏がMacron氏を上回る可能性もあったはずですが、第三候補のFillon氏がMacron氏支持を呼びかけるというどこまでも決まりきった儀式を恙無く遂行し終わった後ではMacron大統領の誕生を妨げるものはもう何もないと言っても過言ではありません。

恐らく多くの政治、まして外国の政治になど特に関心もない普通の日本人の方々にとってはマクロン勝利の兆しがはっきり見えたということで仏経済の悪化は免れることが確定し一安心というところかと思います。

逆にマリーンにトランプ氏のような快進撃を期待していた方々にとっては予想あるいは期待を裏切られ少々ガッカリされるかもしれません。

私はフランスの「ポピュリズム」は英米のそれとは大きく異なっているという視点で見ていたのでルペン・ファミリーよりはマクロン氏の方がよほどフランスの文脈で「大衆受け」する「ポピュリスト」であると思っていましたが、案の定マクロン流のサーチャー主義的ポピュリズム、つまり英国風ポピュリズムの直輸入は大ヒットしているようです。

といっても通常メディアのように「ポピュリズム」というマジックワードで読者に煙に巻くことはなるべくしたくないので、なぜマクロン氏が大衆受けするのかというフランス人独特の「ロジック」をより詳細に解説しますと、以下のようになります。

 

大前提: 多くの「普通のフランス人」(=無党派的浮動票層+中道派層)は、国民戦線あるいはルペン・ファミリーの誰かに大統領という権力的地位を絶対に与えないことは政治道徳的義務であると捉えている

 

テーゼ1:多くの「普通のフランス人」は第二次選に残る2名の両方を「右派」候補にはしたくない。

(一般的理由)特にシラク政権の統治に対し否定的印象を持っている中年以上の(リベラル寄りの)有権者層は、シラク政権が誕生した2002年選挙の経験から、最終候補が両方右派候補になることに対する嫌悪感を持っている。また中道派層も第二次選における「バランス」が損なわれることを嫌うフランス人独特の(不可思議な)道義感から、第二次選は右と左の両方から一名ずつ選ばれる方が望ましいと考えている人が多い。

(状況的理由)事前調査などの結果から、ルペン氏の優勢は明らかで、ルペン氏が第二次選挙まで残るのは確定事項とされていた。→ もしルペン氏が第一次選を通過しないのであれば右派候補のFillon氏に投票するつもりであったが、ルペン氏が来ることはわかっている以上、Fillon氏よりはもうすこし「左側」の候補に投票するのがより正しいと中道右派層が考えた原因

 

テーゼ2: 多くの「普通のフランス人」は、フランス(あるいはEUの主要メンバー国)がEUから離脱するなどというのは道義的に考えて「論外」であると考えている

(一般的理由):普通のフランス人は例え自国の選挙であっても自国の国益のみを考えて投票するのは自分勝手で悪いことだと考えている。

(状況的理由):英国における国民投票が行われBrexitが実現したという現状において、フランスが英国と同じ「過ち」を犯すことは何としても防がなければならないという道義的責任を感じる人々が少なくない。

(結論):EU離脱を唱える候補は例えルペン・ファミリーでなくとも当選させたくないという意見が主流

 

テーゼ3:多くの「普通のフランス人」は、国際標準から見れば「リベラル寄り」あるいは「左派寄り」であるはずの見解を「中庸を得た意見」だと理解している。換言すれば、フランスにおいては中線が若干左にずれている。

(一般的理由):一般には国民全体の思想傾向を分類し、「右寄り」か「左寄り」かを相対評価するが、フランスでは「理性/raison」を判断の基準とすることを良しとする人が比較的多く、また理性に基づく判断は「不偏不党の意見」であると考えられやすい。従って「左派」=「理性主義」という図式が成り立つ限りにおいて、フランス人は「左」を中心に据えていると言える。

(状況的理由):米大統領選や英国国民投票という2016年の政治的動きは、フランスにおいては否定的に捉えられており、肯定すべき「新しい潮流」とは捉えられていない。むしろ多くの有権者は一層「右派」に対する警戒を強めている。

 

テーゼ4:多くの「普通のフランス人」は、「テロリズム」を移民や難民、あるいは一般イスラム教徒と結びつけるのは定言的に間違っていると考えている。また、一般イスラム教徒は「過激派」と異なり、事実上「世俗化」させフランス社会に「統合(integration)」することが可能であると信じられており、これを否定することはタブーである。

(一般的理由):まず、そもそも「政治的に正しい」リベラル派のみならずイスラーム教徒側がこうした主張を繰り返すので、非イスラーム教徒がこれを否定することは道義的にも主張の正統性的にも説得力に欠けると思われやすい。また、特定の集団の特徴を一般化すること自体が、例外の存在を無視した非理性的で恣意的な悪意ある「racisme」であるなどとして否定されやすい。

(状況的理由):実際にイスラーム教徒が非常に多く「隣人」として居住している中で、彼らの気に触るようなことを公の場で公言することは道徳的正否以前に単純に原始的な恐怖を伴う。

 

テーゼ5:多くの「普通のフランス人」は、社会党候補は信用できないと考えている。

(理由)オランド政権の失敗。(公約違反など)

 

テーゼ6:多くの「普通のフランス人」は、極左は危ういと考えている。

(理由)あまりに地に足のつかない理想主義的議論ばかりを唱える人はさすがにダメだと通常は考えられている。

 

テーゼ7:多くの「普通のフランス人」は、フランス経済の現状に危機感を感じている。

(理由):経済には詳しくないので解説できませんが、フランス経済はあまり上手くいっていないと一般には言われています。

 

大結論:多くの「普通のフランス人」は、Fillon氏以外のリベラル系有力候補(社会党候補や極左・急進左派系を除く)に投票しなければならないと考える。=マクロン氏に投票するのが最も正しいと考える。

 

この論理は何名かの(普通の)フランス人の話を聞いていて、彼らの考えの共通項であった部分の一部を抜粋することで構築していますので、少ないサンプルに基づくとはいえ大きく間違ってはいないと思います。

 

ともかく、経済的に新自由主義的方向へ進むという点、また既に国民に受け入れられている倫理観に訴える政策を唱えるという点の2点から、マクロン氏は仏流ポピュリズムの権化であると私は見ています。

そもそも、選挙に勝てない人をポピュリストと呼ぶこと自体が矛盾を含んでいるのではないかなというのが私の個人的見解です。逆に常に選挙に勝つような常勝政治家こそが真のポピュリストではないでしょうか。どういう発言が大衆に受けるかというのは時代や国によって変わるでしょうが、この変化に合わせて権力にしがみついてこそポピュリストだろうと私は考えています。この視点から見れば、長年政治活動を続けているベテランでありながら選挙に勝てないFN候補はむしろ異端の革命家であって、パンとサーカスで民衆を愚弄することで権力を維持する真性のポピュリストとは似ても似つきません。

今回のルペン氏の第一次選におけるマクロン氏に対する敗北は、ルペン氏がポピュリストではなく異端の(反動的?)改革者であること、また欧州の政治家にとって「政治的正しさ」に逆行することがいかにリスクの大きいことであるかということを改めて示すことになったと思います。

そろそろ「政治的に正しくない」候補を権力を得ないうちからポピュリスト扱いするのは語義的に無理があるという認識が広まってきてもいいのではないでしょうかとぼやいて擱筆してしまいましょう。

 

既存政党という基盤を持たないマクロン政権が実際のところどういうものになっていくのかについては、詳細が判明し次第私の理解の範囲で適宜解説していきます。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

P.S. マクロン氏の経歴については、アゴラで八幡さんの記事に簡潔にまとめられています。 この経歴を見れば、マクロンという人がいかにも年上に好かれるタイプの「若者」として生きてきたこと、また彼がいかに権力志向の強い人かというのがよりはっきりします。

フランスの大統領選挙

2017年のフランス大統領選挙ですが、今月の23日にいよいよ第一次選挙が行われます。

当初は共和党候補の圧勝が予想されていましたが、有力候補だったAlain Jupé氏や前大統領のNicolas Sarkozy氏が敗退し、比較的宗教色の強いFrançois Fillon氏が共和党候補に選ばれたものの、Fillon夫人を虚偽雇用(emploi fictif)していた疑いでスキャンダルに見舞われて以降は支持率が激減していき、Fillon氏が大統領となる可能性は限りなくゼロに近づいていっています。

他方で、当初から安定の高支持率を維持している国民戦線(FN)のMarine Le Pen氏も、Fillon氏と同様の虚偽雇用の疑いをかけられ支持率に翳りが見えましたが、FN支持層の結束は固く、何とか持ちこたえています。とはいえ、無党派層を取り込むという点においてはFNは依然厳しい状況に置かれており、事前アンケート調査の結果などからも第二次選でも勝ち残れる可能性は低いと見られています。

落ち目の社会党候補には最初からさほど注目が集まっておらず、現在でも支持率は低迷したままですが、オランド大統領の下で経済大臣を経験しつつも社会党と決別し自ら新政党を立てるという暴挙に出たEmmanuel Macron氏は、Fillon氏の失墜以後急速に支持率を伸ばし、今ではLe Pen氏に並ぶ支持率を獲得しているとされています。

他方、終盤になって盛り返してきたのがメディア上では「極左」とされている左翼政党(Parti de Gauche)あるいは新政党「不屈のフランス」(La France insoumise)を率いるJean-luc Mélanchon氏です。

このLa France insoumiseという新政党名は、Michel Hoellebecq氏の「服従」Soumissionという、「イスラーム」 を想起させる(イスラームとはアラビア語で「神への服従/帰依」を意味します。つまりフランス語で「イスラーム」はSoumissionであるということです。)タイトルの2015年に出版された小説と合わせて考える時、「現代フランス」の文脈ではある種の特殊な意味を持っているようにも受け取れる党名です。少なくとも、Mélanchon氏がこの党名がどういう意味を持っているかを邪推出来る人に対して「愛国的」メッセージを発しているのは確かだと思われます。

ということで、今の所有力候補は第一次選通過可能性の高い順からMacron氏、Le Pen氏、Fillon氏及びMélanchon氏の4名です。

この顔ぶれは、フランス政治のいくつかの変化を示唆しています。

まず第一に、英国的な二大政党(社会党 vs 共和党)による政権交代制という枠組みが完全に崩れてしまったことが誰の目にも明らかになったことです。これは社会党のみならず、共和党までもが凋落しつつあることからも明白です。ほんのこの間までは、共和党候補あるいは中道右派候補がFNに第一次選支持率で劣るということ自体が冗談のような話だと思われていました。確かにFN候補のJean-Marie Le Pen氏が第二次選挙まで残ったことは過去にありましたが、その時もあくまで候補者の乱立による既存政党の分裂が招いた異常事態という扱いで、決してFN候補が安定の支持率を常に確保していたわけではありません。ところが2010年以降頃から状況が少しずつ変化し、今ではFN候補が第二次選まで残るのはほぼ確定事項であるかのように認識されています。この背景には、イデオロギー云々以前に「既存政党」そのものに対する不信感が存在しているように思われます。

第二に、前述の既存政党への不信感が一部の有権者をイデオロギー的に先鋭化しつつあるという点です。右陣営においては、共和党に対する幻滅や相次ぐテロリズムへの危機感、またFN自身の努力から、右派の間でFNに対する拒絶感が徐々に緩和されてきている一方で、左陣営においてはやはり社会党に対する幻滅や、テロリズムに対するオランド大統領の「反動的姿勢」に対する進歩的立場からの批判などから、よりイデオロギー的信念に忠実な「真の左翼」を求める声が強まっています。とはいえ、左翼的なユートピアを唱える政治家はあまり高い支持率を得られないので、あくまで内政の安定と国内における経済的平等を重視する国民主義的立場を取るMélanchon氏が左派陣営の中では最も支持され、かつ目立っています。

第三に、若年層のイデオロギー的先鋭化が顕著に見られる一方で、シルバー層の中道主義は相変わらずであり、かつこの層の動向が選挙を最も左右するという点は全く変わらないという点です。シルバー層の間ではJupé氏やFrançois Bayrou氏などが人気だったのですが、この2名は既に撤退しているので、上述の4名の中ではむしろBayrou氏や他の中道派政治家の支持を取り付けているMacron氏が最もシルバー層の支持を集めるのは確実と思われます。

従ってこの選挙はMacron氏に非常に有利な状況になりつつあるのですが、Macron氏の掲げる「政治的に正しいボーダーフリー型グローバリズム」+新自由主義的経済政策の組み合わせは、各国の経済界にとっては朗報であるかもしれません。その意味でフランスのさらなる「ドイツ化」あるいは「アメリカ化」が進むのはまず間違いないでしょう。しかしそれは他方で、フランスがフランス的な独自性を失うことをも意味します。教育の無償化や農業保護政策、あるいは環境保護政策など、フランスらしさを保つ上で不可欠とされてきた政策は廃止される可能性がある一方、法人税減税や外国人移民や難民受け入れの積極化、労働法の緩和や「英語化」などが進められ、要するにフランスも徐々にグローバル化させられていくかもしれません。それがフランスにとって、あるいはフランス人にとって良いことかどうかを決めるのはフランス人自身ですが、現代のフランス人はどう考えているかというと、多くのフランス人は様々なジレンマの中で政治的関心そのものを失い、フランスという国の将来に対して悲観的になっているのが現実です。

右派的傾向のあるフランス人の中では、フランスがどんどんグローバル化し、あるいはイスラーム化していくという「現実」はもはや変えられないものと諦観し、つまり「フランス」を愛するが故に逆にフランスの外(特に日本や香港、シンガポールなど)へと「脱出」して自分の中だけでフランス的なるものを守ろうとする極めて自己責任的倫理に従う人が増えてきています。要するに例のHouellebecqのSoumissionのLempereur氏のような人達ですね。

逆に左派的傾向のある人達の中では、むしろフランスでFNのような「極右」が台頭してきていることを憂い、そういう動きの比較的弱い英国やドイツ、あるいはスカンジナヴィアなどのより政治的に正しい国へと移ろうという人たちや、あるいはフランス国内で「移民」や「マイノリティ」との団結を強め、極右勢力を掃討するために「戦う」ことに自己の政治的存在意義を見出そうとする聖戦型の闘士達も僅かながら増加中です。

日本人として面白いのは、フランスのようなどっちつかずの国においては、左傾傾向のある人ほど英語を好みヨーロッパ的なるものに固執し「多文化混合主義」を好む一方で、右傾傾向のある人ほど東アジア、特に日本や台湾などに親近感を持ち、まるでNietzscheのように「ヨーロッパの凋落」を冷笑する一方で中国文明の「偉大さ」や仏教の「素晴らしさ」、あるいは日本の武士道の「かっこよさ」を絶賛するという「異文化」そのまま残すことに喜びを見出す骨董品収集家のような趣向を持っているという傾向が顕著に見られるという点です。

これは最近の英国やドイツなどでもある程度見られる傾向ですが、フランスはその中でも日本への肩入れが最も強い国です。相対的には、ドイツ人には韓国好きが比較的多く、英国人には東アジアを国別に区別せず「アジアが好き」という人が多く、フランスは圧倒的に日本好きが多いという感じです。ところがヨーロッパでは「日本=超保守主義」というイメージが知識層の間には浸透しているので、日本好きを公言することは保守主義者であると公言するのとほぼ同じです。ドイツや英国でそれをやるのは自滅的なのでその辺は適当に誤魔化す人が多いのですが、フランスの保守派は案外あっさり割り切っています。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言ってしまうフランス人らしさがここにも表れているわけですね。

 

それでは、選挙の結果が出たらそれを踏まえて分析を加えたいと思います。

ではまた。

東西の「名門大学」の違い、及び知的権威について

古典文献(哲学や神学をも含む)を読み解くことは、学問の祖型であろうと思われます。我が国においては、古くは儒学書を中心とする漢籍の研究や仏教経典に始まり、近代化以降はこれに加えて西欧の古典文献も学ばれるようになりました。現在では更に西欧の植民地主義時代からの遺産であるインド学やイスラーム学の研究も日本に根付き始めており、特にインド学においては日本の研究(といっても主には中村元先生及び前田専学先生の研究ですが)は英語圏でもよく参照されています。しかしいずれの場合でも、それぞれの文化圏で権威ある古典文献と認知されているテクスト群の解釈はそれ自体がある種の権威的な営為であり、従ってこれに関わる「専門家」という既存の権威によって厳しい精査を受けることになります。例えば、仏教経典の解釈には仏教界の知的権威の精査が伴う場合もあるでしょうし、あるいは西欧の仏教学界の権威による精査が伴う場合もあるでしょう。

仏教経典のように人によってはこれを宗教的「信仰」の対象と捉える場合もあるような「聖典」に関しては特に厳しい精査が伴いがちですが、哲学文献などに関してもこの点に関しては似たようなものです。アリストテレス研究者達の共通見解と矛盾するような独断的アリストテレス解釈はあまり褒められません。勿論それが原文テクストに十分に忠実な無理のない解釈であるということをテクストに基づき論証できればそれほど問題はないのですが、そもそも研究者の共通見解は通常そのような手続きで生まれてくるものなので、テクストに忠実な解釈が主流解釈とズレるというのはあり得なくもないにせよ稀です。勿論研究者の間でも意見の別れるような案件、例えばカントの「物自体」の概念をどう捉えるかというような問題に関しては学界にも様々な立場があるので、その内のどれをとるかは個人の感性の問題ですし、こういう共通見解が確立していない問題についてはこれまでにない斬新な独自見解を出しても良いでしょう。しかし、例えばデカルトは「本質二元論者(substance dualist)」ではなくて「本質一元論者(substance monist)」であるというような見解は、よほど綿密な論証をテクストに基づいて行わなければ単なる誤解であると一蹴されてしまいます。

また古典文献の解釈者に課される基本的な制約として、テクストに基づかない推論はあくまで仮説扱いにしかなりません。あるいは厳しい先生なら厳禁するかもしれません。なので、例えばアリストテレスが原子爆弾についてどう思っただろうかというような話はできません。無論アリストテレスの倫理学と原子爆弾投下を正当化する功利主義倫理学者の議論が矛盾するかどうかを論ずることはできますが、「アリストテレスの原爆論」なるものは存在できないのです。ということで、あくまでテクストに書かれていることが何かを解明することが古典哲学の研究であるということになります。かつ、実際には「現代哲学」の議論も多くの場合古典哲学における議論からの延長であるか、あるいは古典哲学の成果を参照しつつ発展してきたもので、また「現代哲学」そのものが既に「新しい古典」(例えばKripkeのNaming and NecessityやDavid LewisのOn the Plurality of Worlds、QuineのTwo Dogmas of EmpiricismやLakatosのThe Methodology of Scientific Research Programmesなどは最早「古典」化しています)となり常に参照すべき必読書扱いされてもいるので、その意味でも「学問的」な「哲学」はどうしても文献解釈学的になりがちです。宗教聖典の解釈学に関してはさらにこの傾向が著しいのは想像にかたくありません。このように権威的文献(Canonical texts)に一定以上の敬意を払いこれを丁寧に解釈していくという文献解釈学的伝統が生む知識の体系を仮に「正典知識」(Canonical knowledge)と名付けましょう。日本では、所謂「文系」の学問においては主にこの聖典知識の伝承が最も重視される傾向にあります。西欧でも「保守的」な学風の大陸ヨーロッパの大学は勿論、英語圏でも英国のオックスフォード大などは多少この傾向が今でもあるとされています。

 

他方、アメリカの名門大学を中心とする、所謂英語圏の「エリート」が共有する知識には、こうしたユーラジア的な正典知識とは異なる知的体系もあります。

まず、理科系(=科学系)の知識です。仮にこれを「科学的知識」(Scientific knowledge)と呼びましょう。科学的知識は日本でも当然ながら重視されていますが、特に西欧の科学者達は科学者としてのプライドを持っている人が多く、かつそれが「西欧知識人」としてのプライドにも繋がっている面があります。経験科学の世界においては知的権威の基本的泉源となるのは何よりもまず「実証」であり、次に理論的整合性です。分野によっては理論が先行することもあれば実証が先行することもありますが、いずれにせよ経験科学においては「権威的見解」を「実証」によって覆すことはむしろ奨励されます。テクスト以外の「証拠」がない文献解釈の世界よりも、経験科学の世界はある意味で「開かれている」と言える部分が確かにあると言える根拠の一つはこれです。

他方で、経験科学を何より重視する傾向が人文科学にも浸透することで発展してきた「特殊英米的」とも言える「新しい人文科学」とでも言うべきものがあります。日本や英国ではまだそれほど積極的に導入されているわけではありませんが、「ジェンダー論」や「女性(の社会進出及び権利に関する)科学(Women's studies)」、「アフリカ系アメリカ人論(African American studies)」や「人種差別論(Ethnicity and racism studies)」などいった「学際的研究(interdisciplnary studies)」がリベラル系(つまりほぼ全て)の米国名門大学を中心に活性化しています。これは冗談でも何でもなく、アメリカには本当に学部時代から博士号まで一貫して「女性科学」を専門として研究してきたという「研究者(scholar)」がもう何人も存在しているのです。これは一見通常の伝統的な解釈学を中心とする人文科学と似ているようですが、決定的に違うのはこれらの「新しい人文科学」においては基本的に「正典(Canon)」となるテクストがそれほど存在していないか、あるいは常に新しい世代の挑戦を受けて比較的早い速度で更新され続けていくという点です。つまり「伝統的権威」云々というのは、この「新しい人文科学」においては必ずしも肯定的なものではありません。むしろ「伝統」は常に「克服」すべき壁として認識され、前の世代よりもさらに「前へ進もう」という意気込みがあるという点で、経験科学のような「伝統に対する批判的姿勢」が強固に見られます。かつ、この「新しい人文科学」は同じ英語圏の英国においてさえ選択科目の中にジェンダー論やフェミニズムの議論を含むという程度の扱いにとどまっており、例えば「Women's studies」そのものを「医学部」や「哲学部」などのひとつの独立した「専攻学部」(faculty)として認め、オックスブリッジなどの名門大学内に新たに創設するには至っていません。(*但し大学院の専攻としてはオックスブリッジにも存在しています。)従ってこれは主にアメリカ発の新しい試みですので、一応旧来の人文科学とは区別すべきだと思います。ここまでは便宜上「新しい人文科学」と表現してきましたが、これを仮に「進歩主義的知識」とでも呼びましょう。

一見アメリカ以外の国では傍流的扱いを受けているかのごとく見えるこの「進歩主義的知識」は、しかし実はアメリカの外でも大きな影響力を及ぼしています。例えば私がアゴラで何度か話題にしてきた「政治的正しさ」などは、まさにこの「進歩主義的知識」の専門家達が中心となって広げてきたものです。「新しい人文科学」の成果は、大学入試における推薦条件、奨学金選考の基準や就職の際の採用基準、また大手メディアの政治ジャーナリズムや政治家の言動などに対する批判、あるいはより進歩的な政党への投票呼びかけや進歩政党による「〇〇差別に対する意識を高める為の公的政府機関」の創設など、現実政治にも少なからぬ影響を与えています。かつ、その影響はアメリカ政府や国連勧告、あるいは語学力を買われた留学帰りの日本人などを通して日本政府にもある程度影響を与えています。

例えば、日本人にとっては英語圏の大学への留学はどこへ行く場合でも通常は高額です。が、何らかの形で「学業・人物ともに優れた人材」と認められれば給付奨学金を得てほぼ無料で留学できる可能性もゼロではありません。というより、実際に留学する人の中では奨学金を一切貰わない方が少数派でしょう。というのも男子学生の場合は留学生は圧倒的に理科系(あるいは少なくともビジネスなどの商学系)が多く、また大学院からの留学が多いのに対し、女子学生の場合は年齢や学業段階に関わらず「学業・人物ともに優れ」ていて、また専攻内容もその「優れた人格」に関連するものである場合(e.g. 政治学、国際関係論、環境学、生物学、心理学など)が多いからです。当然ボランティア活動などの経験や部活動における部長などのリーダー経験を積んでいる場合も多いでしょう。このような西欧型の「エリート」として十分に通用する日本人学生も実はかなり沢山いますし、彼らは人知れず様々な活動に積極的に取り組みながら結果的には実に賢く社会的評価の最も高い「学歴」をほとんどお金をかけずに獲得していっているというわけです。私自身はそういう賢さが全く無い、悪い意味で「正直」な人なのですが、過去の自分への反省を込めて老婆心で敢えて言いますと、もしこのブログの読者に17歳未満で文系留学希望の学生さんがおられましたら、まずは英語云々よりもボランティア活動等を積極的に行なっていくことをお勧め致します。実際英語力は最悪ゼロでも問題ありません。(つまり、ちょっと意地悪な言い方をすれば奨学金を貰って留学に来ている人といえども英語力自体は必ずしも人並みはずれて高いわけではありません。また帰国子女やバイリンガルが常に優遇されるわけでもありません。)むしろ奉仕精神や社会正義への理念の方が何倍も評価されますし、英語はそういった慈善活動を国際的に行なって行く中で自然に身につく程度で十分です。例えば早慶程度には一般受験で普通に合格できる程度に学業成績優秀な学生なら、「純ジャパ」であったとしても大学に入ってから本格的に英語を勉強しはじめても全然間に合うと私は思います。(保証はできませんが。)ポイントは、少なくとも英語の勉強に時間をかけすぎてボランティア経験がゼロの「語学マスター」よりは英語の全然できない慈善活動家学生の方が圧倒的に無料で留学できるチャンスがあるということです。この辺りは「西欧エリート」界隈の雰囲気に実際に触れてみないとピンと来ないと思いますし、実際私も学生時代にはイマイチ納得できていませんでしたが、ともかくこのような形で「進歩主義的知識」の獲得は人生を有利に運ぶのに極めて重要なものとなっています。その意味でも、また現実に西欧における生活の際に役に立つという意味でも、これは「実践的人文知」とも言えるでしょう。

さて、これで一応一般に「知識」と認められているものの中には(1)伝統的な「正典知識」、(2)経験科学の成果の集大成である「科学知識」、そして(3)現代(西欧)社会で生活する上では避けては通れない「進歩主義的知識」という、大別して三つの体系があるということを簡単に紹介したことになります。

ということで、非常に前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

世間で「知識人」として活躍する、あるいは何らかの知的職業に就く為にはこの三つのうちのいずれかを大なり小なり身につける必要に迫られることでしょうが、日本で重視される「知性」ないし「知識」というのは、この三つのうちのいずれでしょうか。また西洋ではどうでしょうか。

もうある程度予想はつくと思いますが、日本では一般的には圧倒的に(1)が重要視されています。東京大学をどう見るかというのは難しい点ですが、少なくとも現行の一般入試制度を支持する多くの東京大学関係者はやはり(1)の伝統を重視する傾向が強いのではないかと思われます。尤も、文系で(1)が重視されるのはフランスやドイツでも同様で比較的当たり前の現象ですが、日本の特徴は本来(2)に該当するはずの科学的知識さえもがある種の正典知識化している点です。つまり、実証研究によって既存の理論に革新をもたらすことよりも既存理論の精緻化を目指す解釈学的研究(Kuhnの言うnormal scienceに近い研究)の方が尊敬されやすい傾向にあるということです。東大理系の間でも、機械工学系よりは理論物理学や航空宇宙系の方が「上」という見方はやはり根強いのではないでしょうか。

西欧ではこの辺りのバランスをどう取るべきかということを科学者も割と真剣に考えていて、だからこそ「科学哲学」という分野が発達してきているのですが、日本では原爆投下というトラウマや最近の原発事故などの影響もあり、「科学哲学」というのは哲学側からの科学に対する倫理的批判という方向に流れやすい土壌がある気がします。これに対して西欧ではむしろ如何に効率良く科学の進歩を促せるかという方向や、「科学的真実とは何か」という認識論的な方向の問いなどが中心課題とされていますので、こんなところにも伝統的な「倫理哲学」を重視する日本の知識人と、英米の「哲学者」の差が出ているとも言えるかもしれません。

他方で、西欧では逆に(3)の重要性がどんどん増しており、これはトランプ氏が当選し、英国でBrexitが本格的に始動しはじめている今でも全く衰えていません。「ポピュリズムの台頭」などといっても、それを批判しているのが西欧メディア自身である間は、その事実自体が「ポピュリズム」の傍流性を示す証左だと思っておけば間違いないでしょう。かつ以前も論じたようにこの「ポピュリズム」の流れは単にシルバーデモクラシーの完勝を記念するだけで、若年層の動向をほとんど反映していないということも一応再び指摘しておきます。ということで、若年層はどんどん(3)の方向へと進んでおり、進歩的知識を身につけた若手知識人達の中には既に(1)の伝統的解釈学を丸ごと否定するだけに留まらず、(2)の経験科学さえも科学界で「マイノリティ」が白人男性に比べて活躍できていないという理由等で「差別的」だとして拒絶する「原理主義者」(radicalsという意味です)も出て来ています。ここまでいくともう学校の先生や社会人に褒められるレベルを超えていますが、しかし若年層の間では(2)のみを重視し(3)を軽視する「科学主義者」はどこか後ろめたい立場であると認識されています。(1)は(3)を重視する立場から見れば基本的に「論外」です。稀に古典哲学の「feminist reading」ということが行われ、例えばデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ニーチェ、ショーペンハウアー、カント、ミル、ヒュームなどの近代哲学の担い手をフェミニストの視点で読み解くということが行われますが、こういった形の「現代性」を備えていれば解釈学的研究も高く評価されるものの、伝統哲学を伝統的なやり方で論じてもほとんど(3)のタイプの知識人の間では反響を呼ばないのが現実です。

 

ということで、今回は「保守/リベラル」という政治イデオロギーとは若干異なる、知的権威として尊敬される対象や方法の差に基づく知識体系の類別という認識論的な方向からの東西論(及び現代論)を簡単にやってみました。

一応政治イデオロギーと無理矢理対応させるならば、(1)の正典知識は保守主義と最も親和的で、(2)は経済自由主義と協力関係にあると言えるし、(3)は勿論進歩的リベラリズムや西欧マルクス主義に親和的だとは言えるかもしれませんが、必ずしも綺麗に対応するわけではないので悪しからず。

 

*ここからはブログらしいと言えばブログらしい個人的な戯言です。お忙しい方は飛ばしていただいて構いません。さて、私自身はこれらの全てを丸ごと否定したいブルーハーツ的な気分をどこかに持っています。(あの「今まで覚えた全部〜」ってヤツです。)そんなことを言うと「ポピュリスト」だとかあるいは単純に「ダメな奴」だと言われそうなのであまり大きな声で言いたくはありませんが、まあ東大生でもなければ理系エリートでもなく、また西欧人でもない私の性分に適合するのは上の三つのいずれの知識体系でもないのは確かです。強いて言えば(1)が最も受け入れられますし、(2)も有益だとは思いますし、(3)も現実にマイノリティの生活の惨状を目の当たりにすれば進歩派の主張も誇張されているとはいえ荒唐無稽ではないということは嫌でも思い知らされます。それでも、私がやりたいのは伝統的な権威ある文献の「正しい」読み方を教わり、またそれをそのまま伝えることではありません。また理工系の研究によって産業界に貢献する能力が私にないこともわかっているし、社会正義の為に「不正義」と戦うことが私の人生の最優先課題だとも思えません。このように中途半端に反抗的で、肉体労働に適する体を持つわけでもスポーツや音楽などの才能があるわけでもない、つまりあらゆる意味で「凡庸」な私のような人は、一体どうしたら良いのでしょう?

特に文学者に敵意があるわけでは全くありませんが、かつてはこういう無用人の受け入れ先として「文学界」や「サブカルチャー界」というものがあったというようなことを仰る謙遜的な文学者の方もおられます。が、今の「文学界」はむしろある種の芸術的才能を持つエリートの世界であるように私には思えます。知り合いに作家がいるわけでもない私にとってはちょっと近づきがたい雰囲気が出ていますし、少なくともちょっとdilettantな知識があるくらいで通用する世界ではないのは確かでしょう。今のご時世、大衆娯楽の世界というのも、それはそれで厳しい競争があって、「(お笑い)芸人」や水商売の世界でさえ高学歴化やエリート教育が浸透してきているなどと言われているくらいですからね。そう人様に見せびらかすべき才能を持たない身分としては、実に困ったことになったなぁと嘆息せざるを得ません。

荘周や兼好法師、あるいは夏目漱石のような大文豪と肩を並べることが出来なくとも、せめて私にも「俺ガイル」のようなラノベの名作を残せる程度の才能があれば良いのになぁと思いつつ、迫害や不運に見舞われながらも名作を後世に残した過去の異端の文筆家達に不遜な羨望感を抱きつつ古典哲学を斜め読みする日々を送っている私はやはり山月記の主人公を全然笑えないほどに正真正銘のダメ人間かもしれません。笑

いやはや、私はどこで間違ったのでしょうね。否、そもそも私が正しかったことなどあったのかなと、自己懐疑に陥りそうになってきたのでここらで辞めておきます。

ではでは。

92年生まれということ

先日「忘れ去られたゴミの92年生まれの私が見つけた、個性という名の呪いに効く薬」という記事を見つけました。「ゆとり世代」論は無数にありますが、ピンポイントで92年生まれに焦点を当てているのは面白いなと思い、私も同じ92年生まれとして92年生まれ論を書いてみようと思います。

まず、確かに92年生まれというのは「ゆとり最盛期」にも該当するとされ、かつこの「ゆとり最盛期」世代は「草食系」だとか「さとり世代」などと、メディアで色々言われてきているなという印象はあります。元気がない、車に乗らない、欲がない、飽きっぽくて堪え性がない、云々。実はほぼ同じことが英語圏でも言われています。日本では「ゆとり教育」という教育制度やその理念に対する批判をも込めて「ゆとり世代」と言われますが、ほぼ同じ世代を英語では「Millenials」あるいは「generation Y」と言います。そしてMillenialsについて言われていることはほぼ「ゆとり世代」と同じです。例えば、このHuffingtonpostの記事には以下のような記述があります。

"Millennials are the worst generation. They’re lazy, unmotivated, disconnected and they want a trophy for every little thing they do.”

中国にも似たような現象があると聞いていますが、詳しくはわかりません。いずれにせよ、「ゆとり世代」はそもそも特殊日本的現象ではなく、国際的に広く見られる現象です。「働きたくない」とぼやいているのは日本の「ゆとり」だけではなく、海外の同世代も同じなのです。従って「ゆとり世代」と「ゆとり教育」はそんなに関係ありません。単純にそれが万国共通の時流なのだというわけです。この背景にはゲームや漫画、アニメや音楽などのポップカルチャーの共通言語化があるかもしれませんが、ともかく私の世代、つまり90年代生まれというのはゲームやアニメと共に育ってきた世代だというのは間違いありません。

無論、そんなのは非常に大雑把な一般化であって、例外はいくらでもあるでしょう。しかし、私自身に関して言うと、メディアで挙げられているような「ゆとり世代」の特徴に「ギクリ」とさせられる時は正直結構あります。具体的に言うと、例えば私は(愛知県出身なのに)車にはほとんど興味はありませんし、というより機械全般に興味はありません。また私はテレビもさほど見ません。家族と暮らしていた時は見たい人が他にいれば見ていましたが、一人の時は基本的に消していました。かといって別にニコニコ動画やYouTubeを見て育ったわけでもないし、2chやニュー速に「民」として生息していたわけでもありません。勿論人並み程度には知っているつもりですが、別にそれほど詳しいわけでも興味があるわけでもない。少なくともこれらのオンライン・プラットフォームの主体が自分の世代ではないこと、あるいは少なくとも自分と同じような考えの人が多いわけではないことは少し見ればわかります。テレビや新聞も同じです。もっといえば学校や大学もそうでしょう。同級生でさえ、テレビやネットで言われていることを鸚鵡のように繰り返す人が多く、何でもいいから独自の意見を持っている人でさえ少ない。別に個性的でなければいけないというわけではありませんが、あまりに均質的で退屈だなとは感じていました。私は万事こんな感じですので、確かにメディアで言われているように何においても冷めているところはあると思います。そして、私の周りには大なり小なり私と同じように冷めている人も多かった気がしますが、それでも世間と折り合いをつけて、バカバカしいとは思いつつもと表面上は普通に楽しんでいるふりをしたりしていて、皆んな偉いなぁと私は遠くから見ていました。

とはいえ、これらは「ゆとり世代」にも「Millenials」にも共通する特徴を私も共有しているというに過ぎないでしょう。実際私は同世代の西洋人と話していても特に違いを感じません。むしろ上の世代の日本人よりも自分に近いと感じます。確かにイタリアやギリシャなど地中海系や東欧系、またイスラーム圏出身者からは「昭和の香り」のようなものを少し感じますが、英語圏やドイツ、フランス、スカンディナヴィアなどの所謂「先進国」の西欧人は本当にほとんど同じで違いがない。というのも、これらの西欧先進国と日本においては共に「過去の否定」と「非歴史性」(=普遍性)が現代文化教育の主軸となっているので、「普遍主義教育」の洗礼を受けた世代においては横軸の差(外国の同世代との差)よりも縦軸の差(同じ国の異世代との差)の方が大きいのです。

とはいえ、90年代生まれ、特に92年生まれは「ゆとり最盛期」などと言われはするものの、実は「昭和」から「平成」への移行期に該当する世代だと私は思っています。例えば、私が小学生の時にはまだ「体罰」は普通にありましたし、(とはいえ私が通っていたのは愛知県内の公立小学校です。東京ではこの時期にはもうなくなっていたかもしれません。)中学校になってもまだあったと思います。いや、高校でも場合によってはあったかもしれません。

そのことは文化面にも反映されています。まず音楽に関して言えば、92年生まれにとっては「オレンジレンジ」、「ポルノグラフティ」や「Bump of Chicken」、「Jeanne Da Arc」「Gazette」や「L'arc-en-ciel」、「浜崎あゆみ」、「大塚愛」や「YUI」、「ゆず」や「B’z」などが最も流行した時代が「青春時代」です。これは私の経験に基づく推測ですが、92年生まれの多くは恐らく小学校の音楽の時間に「世界に一つだけの花」を歌い、また校内放送では「以心伝心」や「さくらんぼ」が毎日のように放送され、中学校時代には携帯電話(携帯電話です、スマホはまだありませんでした。最初のiphoneが出たのは確か私が高校生の時です。)でダウンロードした「着うた」で自分の「個性」を表現しようとし、意味もわからないのに「のまのまいぇい」(本当は「Nu  nu  iei」で、原語はルーマニア語らしいです。意味は例えばフランス語に訳せば「pas moi pas moi, (tu) ne prends (pas moi)」という感じ。日本語なら「あなたは私を取らない(選ばない/連れて行かない)」という意味です。)は良い歌だと言ってみたり、高校時代には邦楽派は「GreeeN」やら「AKB」やらを聞き、洋楽派は「Lady Gaga」や人によっては「paramore」、「Taylor Swift」、「Miley Cyrus」などを聞いて育ったのではないかと思います。「きゃりーぱみゅぱみゅ」は本人が92年生まれですが、彼女のスタイルは同世代が慣れ親しんできたものとは異質です。むしろ彼女は自分が知っている音楽とは違うものを意識的に表現しようとしているのかなと私は考えています。

ゲームに関して言えば、92年生まれは最も純粋な「ポケモン世代」です。幼稚園の頃に初期版が、小学校低学年の頃に金銀版が、小学校高学年でルビー・サファイアが、中学校でダイヤモンド・パールが出てきて、つまり我々が成長すればするほどポケモンが増えていったわけです。この感覚は87-93年生まれくらいまでにしかわからない感覚だと思います。これより上の世代にとってはポケモンは「下らないガキのゲーム」ですし、下の世代にとっては最初からポケモンが沢山いる状態からスタートするからです。同じことが「遊戯王」についても言えるでしょう。92年生まれの子ども時代は無数の名作アニメの黄金時代と重なっているのです。ポケモンや遊戯王に限らず、「ワンピース」もそうですし、「ナルト」や「鋼の錬金術師」もそう。「20世紀少年」も「デスノート」も、92年生まれにとっては馴染み深いもので、ジャンプに掲載されている頃から読んでいる人も多いはず。従って92年生まれは実は昭和世代とある程度共通する基準でアニメや漫画を評価しているのです。「ワンパンマン」を見て「面白い」と思える土壌を持っている最後の世代が92年生まれと言ってもいいかもしれません。

またテレビ番組に関して言えば、92年生まれは「エンタの神様」を知っていますし、「笑う犬の発見」も知っていますし、また「はねるのとびら」を知っています。ドラマに関しては「ごくせん」や「マイボスマイヒーロー」、「野ブタをプロデュース」や「イケメンパラダイス」などを知っています。パーソナリティとしては、92年生まれは「島田紳助」さんや「みのもんた」さんを知っています。私は特にテレビが好きな方ではないのでそれほど詳しくないですが、それでもこの程度は日常会話等から自然に入ってくる情報で、私の世代においては「常識」となっていたように感じます。

ということで、総合すれば92年生まれは「昭和世代に育てられたゆとり世代」なわけです。我々が学生だった頃は、先生方もテレビや漫画の世界で活躍している人々もまだ昭和世代でした。従ってこれらの昭和時代の名残を全く知らない「下の世代」とはとてつもないギャップを「92年生まれ」は感じていると思います。「上の世代」に反発しながらも、しかしその方が理解は出来て、かつ「下の世代」の変わり様には何となくついていけないと感じているのが90-93年生まれくらいの特徴ではないでしょうか。

西欧の例を挙げると、90-93年生まれ、つまり92年生まれにとって「同世代」と思える範囲の人々はイデオロギー的に非常に中立的であるか、あるいは懐疑的です。これより上の80年代生まれ世代はネオリベ全盛の世代で、その上は新左翼世代ですが、逆に93年以降に生まれた下の世代は100%「リベラル」で「政治的に正しい」完全なPC世代です。もっとわかりやすく言えば、「pro-EU/pro-globalism世代」です。ネオリベ世代のThatcherismと下の世代の「Globalism」に対する無邪気な盲信を苦々しく見ているのが、その間に挟まれた90-93年生まれだとも言えるでしょう。

日本の場合は、92年生まれにとっての最初の選挙は民主党の没落に伴う自民党の復活選挙でした。もう選挙をする前から結果がわかっていたような選挙です。自民党が既得権益層だとするならば、結局野党に投票しても何もできないということを選挙権を持つ前に見せつけられて、自分たちが投票に行こうと行かなかろうと自民党が勝つのは必定である上に、その方が結局日本の為なのだということを飲み込まされているのが我々です。そういう意味では、シルバーデモクラシーに対し白旗をあげた最初の世代が我々の世代ということになるでしょう。「軍靴の音」云々というのもピンとこないが、かといって原発は明らかに問題だし、とはいえ景気が悪く就職氷河期などと脅されてきた我々にとっては有効な経済政策が最優先事項であるのも事実だし、ということで何となく「現実社会」に流されてきている90年代前半生まれ世代。そのちょうど中間に位置する92年生まれは、西でも東でもとにかく全てに関して冷めていて、他人や政治に期待していないというのは事実だと思います。もっといえば、我々は自分自身の能力にも期待していないし、将来に希望を持っているわけでもありません。

「終わった」世界を静かに生きて行く。高校を卒業してさあこれから大人になるという時期に東日本大震災を経験した92年生まれは、そんな感覚をどこかで持っているのではないでしょうか。

 

 

「真の哲学」とは何か

日本では「真の〇〇」というフレーズは至る所でよく聞かれますが、哲学に関してもこれは同様です。「アカデミック哲学」あるいは『「哲学」学』などと揶揄される、大学における研究者の哲学研究に対置されるものとしての「真の哲学」あるいは「本物の哲学」を希求する声は少なくともネット上では良く散見されます。

これに対し、例えば東洋経済に掲載されている、中島義道先生の『巷にばら撒かれる「ニセ哲学」に警戒せよ - 「趣味としての哲学」は成り立つのか?』(2015年3月27日掲載)という記事では、アカデミアの立場にありながら哲学の裾野を広げようと活動されている中島先生ならではの経験に基づく視点から、巷の「ニセ哲学」に対する批判を展開されています。

無論、巷の趣味的「哲学」を冷ややかな眼で見ているのは中島先生だけではなく、他の大学に所属する「アカデミック哲学者」(ちなみに英語圏では card-holding philosophers ないし card-holdersと言います)の方々におかれましても同様であろうと思われますが、一般人に親切な中島先生だからこそ敢えて普通の研究者なら言わないことを公に公開されているのだろう、と私は勝手に想像しております。

ところが、面白いのは上記記事中における中島先生の「ニセ哲学」の範疇は実は一般に思われているよりも遥かに広く、よくある「アカデミア」vs「大衆世論」という形をとっているわけでは実はない点です。というのも、中島先生は「ニセ哲学」陣営に「マイケル・サンデル教授」までをも含めておられるからです。この部分の中島先生の記述は重要なので引用しましょう。

しかし、物騒なことに、あのハーバード大学のマイケル・サンデル教授のように、いろいろな人がまったく哲学とは縁もゆかりもないものを「哲学」と称して全世界にばらまいているのですから、困ります。

では、ホンモノの哲学とは何か? 前回にもちょっと触れましたが、存在とか認識とか自我とか時間とか、いやずっと絞っていくと、「存在」と「認識」だけでいいかもしれない、アリストテレス、いやもっと前から天才哲学者たちが問い続けてきた根源的テーマに関わり続けることです。存在論とも認識論とも格闘していない人が、いかにほかの分野で機転の利いたことを喋っても、それは中身のない金メッキにすぎません。

すなわち、中島先生は大衆の政治的ないし倫理的立場の表明を粉飾する為に「哲学」という言葉が使われることに対する批判的視座を示すのみならず、そもそもここで挙げられているサンデル教授が専門とする「政治哲学」を含むいわゆる「応用哲学」(applied philosophy)は全て本来は哲学の名に値しない「ニセ哲学」であって、「ホンモノの哲学」とは存在論及び認識論、即ち伝統的(アリストテレス的)「形而上学」のみである、と述べられているわけです。

応用哲学の範囲には政治哲学のみならず、倫理学ないし道徳哲学、法哲学、美学などが含まれますが、これらは中島先生にとっては全て「中身のない金メッキ」だということになるわけです。つまり中島先生の立場は単に「俗流哲学」を批判するのみに留まらず、アカデミアの一部に対する批判をも含む非常に挑戦的な立場なのです。

正直に申し上げると、私自身は中島先生の仰ることには一理あると思います。つまり、やはり西洋由来のPhilosophyの核心にあるのは形而上学(Metaphysics)であって、哲学の父はAristotelesであってSocratesやPlantonではないという見解には一定の説得力があると私は考えています。そうしてだからこそ「真の哲学」は「趣味的」ではあり得ないというのも確かにわかります。少なくとも、形而上学はそれ自体が自己目的性を持ち、かつ排他性を有する分野であること、つまり形而上学的探求とは全く関係のない活動を通して形而上学が発展するわけではないという点は端的に事実でしょう。

逆に言えば、これは形而上学以外の全ての応用的「哲学」に関しては、象牙の塔の研究者よりも現場の人間の方がより「真理」に近づくという点で有利な立場にあるかもしれないということを示唆します。「理論」をつくるよりも「実践」することが重要であるような全ての分野は純粋に学問的とはいえないので、つまり「哲学的」ではないという見解は、生活の現場にある「大衆」の立場からの「哲学は役に立たない」という哲学批判とも呼応するものです。

しかしながら、ここでひとつの疑問が生じます。歴史上において、この「真の哲学」、すなわち形而上学に貢献してきたのはどのような人達だったでしょうか。まずはアリストテレスが挙げられます。とはいえ高度な形而上学を展開したのはギリシャを含む古代ヨーロッパではアリストテレスが最初で最後です。プロティノスやアウグスティヌスを数えてもいいかもしれませんが、彼らは神秘主義や神学などの宗教的なるものと密接に関係しており、アリストテレスほど純粋に学理的であったとは言えません。

その後は回教圏においてアリストテレスが再発見され、Ibn TufailやIbn Rushd、またIbn Arabiといった、Ibn Sinaなどのあくまでイスラーム的正統性の枠内に収まった「本流」知識人達から異端視された「傍流」の知識人達によって「形而上学」が一時的に復活しますが、やはり宗教の桎梏は重く、アリストテレスの形而上学の「再生」以上のことを試みることは時代が許しませんでした。

他方、中世期にはインドにおいて逆に宗教が形而上学の発展を促し、サーンキヤ学派の二元論やヴェーダンタ学派の様々な一元論的存在論が展開され、またニヤーヤ学派が論理学を発展させ他学派に多大な影響を与える一方で、仏教徒も独自の論理学を発展させ、ディグナーガやダルマキールティなどの優れた論理学者を輩出します。形而上学の発展という点では初代シャンカラの他学派批判は非常に高度で最も純粋に学理的と言えるでしょう。残念ながらシャンカラによる自己の奉ずる不二一元論擁護論は、部分的に学理的でもあるとはいえヴェーダ聖典の権威に基づく「直証」に頼る部分が多く、従って神秘主義的色彩を色濃く帯びていますが、それでもシャンカラの他学派批判はライプニッツに並べても良いほど高度に学理的なものです。その意味では、7世紀から8世紀の時点では、インドの方が西欧よりも「真の哲学」が発達していたと言えるでしょう。

同じ時期の中国では、「格義仏教」と呼ばれる初期中国仏教の時代に、僧肇という実に優れた学問僧が、老荘思想と仏教思想の共通部分を一元論的なものと理解する見解を非常に学理的に示しています。しかしこれはあくまで初期仏教徒の間で一時的に生じた奇跡であり、その後日本を含む中華圏では一切形而上学的発展は見られず、むしろ格義仏教時代に提出された見解を宗教化、倫理化し、つまり「実践的」なものへと変えていく試みが興隆します。禅宗の成立はこのひとつの現れでしょう。また同時に仏教や老荘思想を含む「異端」思想は朱子学の成立以降極度に嫌われるようになったので、東アジアではこれ以降「思想/哲学」=倫理・政治思想という図式が確立し今日に至ります。

西欧に戻りましょう。西欧では中世になるとAnselmusやAquinasが出てきます。この二名の「聖人」は西欧の形而上学の発展史の上で決定的に重要です。特にAnselmusによる神の「存在論的論証」の反駁こそが、カントの「純粋理性批判」の肝であり、つまりカントが「純粋理性(reine Vernunft)」と呼ぶこの哲学的直観の能力こそ、所謂「形而上学」の核心なわけです。それ故、カントはこの存在論的論証の反駁を以って「形而上学の終焉」を宣言しますが、カント研究者であられる中島先生がむしろカントが捨て去ろうとした「存在論」という「形而上学」を「真の哲学」であると認識されているというのは実に興味深いことです。(中島先生は実はカント主義者なのではなくて「カント哲学というトラウマ」を乗り越えようとしておられるのでしょうか?)

ともかく、Anselmusの存在論はほぼそのままデカルトに引き継がれます。デカルトの場合はAnselmusの「偉大さ/Greatness」ではなく「完全性/perfection」を基にしましたが、論理的にはほぼ同型の構造です。デカルトの形而上学はスピノザにおいて美しい形而上学体系に昇華され、この美しさを犠牲にしつつもより分析的・経験論的な英米人にとって理解し得るもの、つまり経験科学と親和的なものへと変換しようと試みたのがライプニッツです。現代の英米形而上学は基本的にライプニッツを原点(=仮想敵)とし、これに対する英米的(=経験科学主義的)批判によって成り立っています。実はDavid LewisのPossible Worldsの概念も、最初に提言したのはライプニッツです。(尤も、ライプニッツはLewisのようなconcretismの立場よりもabstractism/actualismに近い立場でした。)逆に、現代の大陸形而上学はカント以降の「無神論的」形而上学をハイデガー、またサルトルを始めとする幾多のマルクス主義・左傾哲学者達が展開しいったことで発展してきましたが、第二次大戦以降の大陸哲学は極度に倫理化・実践化していったので形而上学思考は自然消滅し、近年は英米分析形而上学の強い影響下にあります。強いて言えば、Deleuzeらによるスピノザの「無神論的」再解釈が最近の大陸哲学における唯一の形而上学的側面であると言えるかもしれません。

というわけで、世に数多くの哲学者ありといえども、「真の哲学」たる形而上学は最初の原点となるアリストテレス、次にアリストテレスの形而上学を神学と親和的なものとして展開したアンセルムスとアクィナス、アクィナスの影響の下で再びアリストテレス的形而上学を復興したデカルト、スピノザとライプニッツ、最終的にこれら一切を批判し「克服」したと信じたカント、の約七名の思想を基礎として成立しているに過ぎないのです。私自身はこの中でもアリストテレス、アンセルムス、スピノザが最も重要であると考えていますが、最近の英米形而上学界ではプラトン主義(Platonism)も復権してきており、アリストテレスからライプニッツまでの「合理主義」に対し、ヒューム(カントの合理主義批判はカント自身が認めるようにヒュームに負う部分が大きいとされます)をベースにプラトン思想の一部を利用することで成立する「新・経験主義」が現代の英米形而上学の主流派を形成しつつあります。

これはどういうことを意味するかというと、まず第一に、中島先生の仰る「形而上学」、特にアリストテレス以来の「合理主義形而上学」(デカルトの時代にはこれが「第一哲学」と呼ばれていました)こそが「真の哲学」だという見解を取るならば、現代の経験主義的な「哲学」、すなわち一切の分析哲学は「金メッキ」に過ぎない「ニセ哲学」であるという結論を導くことになります。かつ、この「ニセ哲学」の跋扈が「真の哲学」をフランスからも、ドイツからも、また日本からさえも放逐してしまいつつあるので、要するに「真の哲学」は実は日本のみならず世界中どこにも存在していないか、あるいは絶滅が危惧されている(endangered)ということになるわけです。

第二に、そもそも形而上学を担った過去の哲学者は、誰もアカデミックポストを持っていません。アリストテレスは教師でしたが、アレクサンドロス大王など、王族や貴族の家庭教師です。デカルトやライプニッツもやはり社交界の知識人であり、例えばデカルトもアリストテレスのようにベーメンのエリザベス女王やスウェーデンのクリステーィナ女王など、数々の王侯貴族の招聘を受けています。ライプニッツは更に社交上手で実に広い範囲の人々と関わっていますが、教壇に立っていたわけではありません。スピノザもデカルトやライプニッツほど派手ではありませんが、一応ライプニッツやその友人などと一定の関わりを持っており、あくまで知識人サークルの内側に留まっていました。そのおかげか、ファルツ選帝侯から大学教師として招聘を受けてもいます。ところがスピノザ自身は「研究に支障が出る上、私の思想は公衆に説くためのものではない」とこれを明確に断っているので、そこがスピノザらしいところですね。また、最も徹底した経験論を展開したヒュームも、皮肉なことに最も徹底した合理主義者であるスピノザと同様に独学の哲学者であり、形而上学を本業としていたわけではありません。ヒュームを有名にしたのは「イングランド史」という政治的な歴史書であり、スピノザを有名にしたのも「神学政治論考」という政治思想書です。元々貴族で環境に恵まれたデカルトやライプニッツは最初から知識人サークルでも持て囃される存在でしたが、スピノザの場合は政治的に論争的な書を、ヒュームの場合は純粋に売れそうな大衆向けの書を世に出すことでその名を世間に知らしめたのです。そういう意味では、ヒュームまでの哲学者は全て経済的に不自由のない貴族であるか、あるいは「ニセ哲学」を世間に提供することで何とか名を残しつつその合間に「第一哲学」をこっそり「趣味的」に温めてきた人々ばかりで、「第一哲学」それ自体を生業として生計を立てていた人はいないと言えるでしょう。言うまでもなく、インドのバラモン聖者達や仏教徒も例外ではありません。彼らはあくまで宗教者であるから生計が立っていたのであって、思想を売っていたわけではないのです。イスラーム知識人も、イスラーム独特のマドラサ制度や信者の「喜捨」に頼る部分が多かったはずです。宗教あるいは特権階級の保護という背景無くして第一哲学は成り立たないのです。

皮肉にも、形而上学を批判したカントこそが形而上学史の中で重要な哲学者の中では最初の「アカデミズム哲学者」の例です。こうしてみると、「アカデミズム」それ自体が「第一哲学」ないし「形而上学」との相性が悪いものであるということが何となく見えてきます。実際、伝統的な形而上学「だけ」を専門とする職業哲学者は英米でも非常に少ないです。多くは「哲学史」研究あるいは「科学哲学」という隠れ蓑に助けられ何とか生きながらえているに過ぎず、哲学史とも科学哲学とも関連しない純粋な「形而上学」は、既にアカデミアの内側においてもほぼ絶滅しているか、「宗教哲学」(philosophy of religion)という神学や心理学に隣接する分野(つまり真理の探究とは関係の無いもの)として扱われることで辛うじて残存しているに過ぎません。最近はやりの英米流の「言語哲学」というのも、「現代形而上学」の一大分野と公式にされていますが、これ自体が伝統的な第一哲学の否定をそもそもの出発点にしています。ということで、「真の哲学」あるいは「第一哲学」の専門家は今も昔も存在していないか、散発的に出現するだけであり、かつ彼らの多くは「第一哲学」を生業とはせず、「趣味的」に、とはいえ多大な時間をかけて、発展させてきたと言うべきだと私は思います。そもそも現代の大学の職業学者というのも、公式的には「研究者」というよりは「教師/教授」としての仕事に給与が払われているわけで、「研究」に対しての報酬もあるとはいっても「質より量」で評価されているのは事実ではないでしょうか。執筆した論文の本数や被引用数のみが評価軸になれば、必然一般の関心を呼びやすい「より実戦的」な方向へと流れていくのは当然です。それが「社会に対して責任を負う」アカデミズアという教育機関の宿命ならば、「大学の外でしか真の哲学は生まれない」という命題は一応論理的には正しいでしょう。

尤も、「大学の外」で「哲学者」を自称する人々の中に「ただのひとりもその(哲学的)才能を見いだしたことはない」という中島先生の個人的経験則の真実性を否定はしません。そもそも、そんな特別な才能を持った人はキリスト生誕以降この2000年の間に全世界を合わせても百人も出ていないのです。第一哲学の歴史的あるいは文化的土壌が存在しておらず、一般に人々の倫理的・政治的関心が非常に強いとされる日本においてそう簡単に見つかるはずもないでしょう。よほど特殊な条件が揃わなければ、純粋に第一哲学に人生の貴重な時間を割こうと思うような人は出てきません。

とはいえ、アカデミズムの世界に入れば「真の哲学」が出来るし、また「哲学の才能」に溢れた「真の哲学者」が沢山いるというのも非現実的な楽観論だと私は思います。大学やアカデミア自体はそんな特別な場所ではない。結局は本人次第ですし、大学に所属することによって得られるのは才能を開花する機会ではなく、単に研究成果を発表する権利であって、つまり形式的なものに過ぎないのではないでしょうか。「発表する権利を持たないこと」=「才能がないこと」という図式は、あまりに「世間」の才能評価能力を過大評価し過ぎているというか、あるいはopportunisticな見方であるように思われます。

ちなみに、最近の英米系のアカデミック哲学者にも優れた「真の哲学者」は少ないですが実は結構います。中でも最も輝いている哲学者の一人に私はLaurence Bonjourを数えたいと考えています。そのBonjourによる名著のタイトルは「In Defense of Pure Reason」です。形而上学を破壊したカント(の「純粋理性批判」の英語名はCritique of Pure Reasonです)への批判的視座から本書が成り立っていることはこのタイトルからも明らかでしょう。これは全てのカント主義者が一度は目を通すべき名著だと私は思います。またAlexander Prussも哲学史的なアプローチとはいえ、最近の研究者の中では群を抜いて優れている。

しかしこれはあくまで英米分析哲学の世界においては、の話です。彼らの貢献に思想史に残るほどの体系性があるかと言われればその点はよくわかりません。個人的には、あくまで分析哲学の脅威から第一哲学を分析哲学の手法で守るきっかけを提供してくれている、というくらいの感じかなと私は思っています。

ということで、結論としては私自身は「学歴」や「学位」の有無と「(第一)哲学的才能」には相関関係も因果関係も全く無いという、Ibn Tufail以来の独学主義(autodidactism)の立場を擁護したいと思っています。

試しに、歴史上の例を挙げていきましょう。シャンカラは30代(諸説ありますが、一般には32歳説が通説です)で、スピノザは44歳で夭折していますが、とはいえスピノザが短論文を書いたのはもっと若い頃(約28歳頃)なので、「哲学的才能」が30代以前の非常に若い頃に発現するというケースは決して珍しくはない。デカルトも省察を出したのは45歳の時で、スピノザが死没した時期とほぼ同じです。実はアンセルムスがProslogionを書いたのも約44-45歳の時で、またアクィナスがSumma Theologicaを書き終えたのは45-47歳の頃ですから、通常は40代前半までには壮大な体系に仕上がるという傾向があることがわかります。その意味で、主著となる書物を57歳という老齢になってから発表したカントは、私が先に挙げた七名の中ではむしろ例外的存在です。

かつ、シャンカラは伝統的な出家修行者で、アンセルムスやアクィナスも当然神学教育しか受けていません。スピノザの場合もユダヤ教の伝統的ラビ訓練教育、つまり神学教育を受けただけで、デカルト哲学は自分で本を読んで学んだだけです。そのデカルトは高等教育を受けたとはいえ、学んだのは神学、医学、法学という伝統科目であり、しかもこれらを20歳までに修了しています。つまりデカルトは神童ですが、あくまで知識吸収型の教育を超特急で突破したに過ぎず、別に「哲学」を「専門的に学んで」はいないのです。アリストテレスについては記録が少ないのでよくわかりませんが、アリストテレス以前に第一哲学はそもそもないという立場を取るのなら、アリストテレス自身はプラトンが教えていないことについては基本的に独学したのだと考えるのが自然でしょう。とすると、この面でもやはりカントだけが例外ということになります。

ということで、本来は才能のある人が20代頃から40代前半頃までにかけて第一哲学を基本的には独力で開発する、というのが事実上の「伝統」であったのに、これをカントが「コペルニクス的に転回」してしまったというのが実相だとするなら、カントを基準に形而上学を語るのはちょっと違うということになるのではないかなと私は思います。

換言すれば、人間は生得的に真実を知る能力を持っているが、これが「道徳教育」や「経験」によって形成される偏見によって歪められることで濁っていくのであり、「哲学者」というのはこうした「偏見」から免れている状態にある人のことを指し、また「哲学的才能」というのは意識的に偏見に囚われることを避けようとする傾向のことを指すのではないかなというのが私のa priori主義的哲学観です。

もっと俗な言い方をすれば、誰もが生まれた時は哲学者的だが、大人になっても哲学者であり続けることが出来る人は非常に少なく、また哲学者とは意識的に永久に子供であり続けようとしている人のことを言う、とも言えます。

更にざっくり言えば、いかなる倫理的感情にも動かされずに直観的真実を歪めることなく受け止められる冷めた眼こそが哲学的才能なのではないでしょうか。そう言う意味では、私は老獪な高齢の知的権威よりも子供の純粋無垢な濁りなき批判精神からこそ哲学者は学ぶべきだと思います。

 

日本語のローマ字表記について

非ラテン語文化圏においては自国語表記のLatin Transliteration(ローマ字化)をするのは当たり前のことで、どこでもやることですが、日本語のtransliterationは実に混沌としていて、この無茶苦茶さは日本人の外国語発音及び外国人の日本語学習に非常に否定的影響を与えているのは明らかです。私も時折友達に「日本語教えてよ」と言われるので簡単に教えるのですが、このローマ字のせいで彼らは色々と混乱していて、いつもまず誤解を解くことから始めなければならないので正直に申し上げるとこの制度には辟易しています。

本来なら音声学者や外国人学習者、帰国子女等の日英バイリンガルらが協議して改革すべきですが、未だに1950年代に確立された古い様式に習っているのは何故でしょうか。まあ、行政府側の怠慢の分析などしても何も生産的なことは出てこないので、ここでは私が考える改善案をいくつか示したいと思います。

 

まず、最も重要なのは「ラ行」です。これは一応「r」で通していますが、特に英語が全くわからない外国人日本語学習者など今時は皆無ですので、基本的にすべての文字は英語と比較されるという前提で考えると、日本語のラ行を「r」のままにしておくのは問題です。というのも、この「r」はヨーロッパで一般的な巻き舌「r」(イタリア語、ロシア語、スウェーデン語など、英仏独語及びイディッシュ語から派生した現代ヘブライ語などの西欧中心部以外では基本的にこの巻き舌「r」が使われます)とも違います。実は日本語のラ行を最も頻繁に使うのはアメリカ人です。アメリカ発音(早口)でwater、better、あるいはtwitterと言う時のtあるいはttの部分は、実は日本語のラ行と音声学的に全く同じです。従って無理に「わーてる」(ちなみにフランス人も本当にこういう風に読みます。e.g. waterlooはフランス語で「ワーテルロー」ですよね。英語では「ウォータールー」(英国音)あるいは「ワラールー」(米国音)です。)のような変な発音にするよりも、「ワラ(藁)」と短めに言えばいいだけなのです。その方が「ウォーター」よりもアメリカ人には絶対通じます。(英国人にはウォーターでいいです)

ということで、私はrとtを混ぜたような記号、例えばrに横棒を一本入れたものなどを新たに作った方が、双方の誤解が解けるのではないかと考えています。(ちなみにこういうことはロシア語やポーランド語、アラビア語あるいはペルシャ語などをラテン化するときにも行われていますので、何らおかしなことではありません。ラテン語にない音を表すには新たな記号をつくっても良いのです)

次に重要なのは「ふ」の表記です。ハ行では「は」「ひ」「へ」「ほ」までは「h」で全く問題ありません。しかし、日本語で「f」音を表そうとする時、我々は「ふ」を常に使いますよね。「ファイト」、「フィールズ賞」、「フーリガン」、「フェンシング」、「フォント」など。この内紛らわしいのは「フー」の場合です。日本人も時折この音を完全に混同している場合があります。「ファイト」とはしっかり「f」音で言えるのに、「フード」がfoodなのかhoodなのかを区別できない。従って日本人が誤って「フーリッシュ」という時ほど滑稽なものはないという大問題が発生してしまいます。これを解消する為には、「ふ」を特殊記号化するか、あるいはもうひとつ別の記号をつくるかしなければなりません。つまり平仮名/片仮名に新たにひとつ「ファ行」を加えるのです。そうすれば、とりあえずこの無駄な混乱は防げます。また同様に、これによってbとvの区別も容易になります。今はv音のところはヴァンパイアなど「ウ」に濁点をつけるという実にad hocで意味不明なことをしていますが、「fa行」を創設すればこれに濁点を加えることで「va行」をつくることができ、実にすっきりした体系にできます。

後は、「タ行」と「サ行」ですね。まず、「ch」をどう使うかですが、これはフランス語話者にとって実に紛らわしいです。実際にフランスでは福島第一(Fukushima Daiichi)をそのままフランス語読みして、「ふ(f音)くしまだいーし」と読んでいます。これではまるでDaeshみたいに聞こえて縁起が悪いことこの上ないです。またドイツ語でもchは本来ならxで表現されるべき音を表すことになっているので、例えばChinisisch(中国人)は「ヒニーズィッシュ」という感じに聞こえます。(本来は清帝国あるいは秦帝国のshinがchiniとペルシャ語で読まれていたのをフランス語風にラテン化したところからきています。ちなみに「チェス」もペルシャ語由来ですが、ペルシャ語で「check」は「shah」のような音です。ロシア語ではこれに忠実に従い今でもチェスのことをшахматы (shah'matyi)と言います。ここからも、ペルシャ語の"sh"音がフランス語経由で"ch"と表記され、これが各国のch音に合わせて歪めらていったという経緯がはっきりします。ということで、chは紛らわしいのです。chを「チェ」と読むのは主に英語ですが、ラテン系の言語ではch音は「チェ」とは読みませんし、ゲルマン系の言語ではそもそも「チェ」という音が原則ありませんので必要ないか、Tschなどの形で適当につくられています(ドイツ語のTschüssなど)。加えて「ch」自体は「k」音として処理される場合が多いです。(例えば英語圏のドイツ語学習者は「ch」を「k」化する人が多いです)というわけで、私のお勧めはチェコ語に習ってCzで表記することです。これが最もシンプルで誤解が少ないと思います。

つまり、「ta」「czi」「 czu」「 te」「 to」にするということです。これなら、濁点の場合はtあるいはcをすべてdに変えればそのまま使えます。つまり「da」「 dzi」「 dzu」「 de」「 do」です。

サ行は一見ヘボン式のまま「sa」「shi」「su」「se」「so」で良いように思われますが、こうしてしまうと「ザ行」にs以外を使わねばならなくなります。で、zを使うとこれも紛らわしい。ドイツ語ではzはts音だからです。かといってjやgでも紛らわしい。ひとつの解決案は「サ行」をssで表記することです。「ssa」「 sshi」「 ssu」「 sse」「 sso」にする。で、ザ行はドイツ語風に 「sa」「 si」「 su」「 se」 「so」 で統一する。しかしこれだと煩雑なので、個人的にはサ行はそのままにしてザ行の方をs+zで統一して「sza」「szi」「szu」「sze」「szo」とした方がシンプルで一貫性がある(タ行との関連性が見やすい)かなと思います。

 

他にも直すべき点があるかもしれませんが、今パッと思い浮かぶのはこんなところです。皆さんはどう思われるでしょうか。

欧州の最近の動向(Feb-Mar 2017)

先日のオランダの選挙では「極右」政党は躍進できませんでしたが、非英語圏西欧において「ポピュリズム」を展開することの難しさを改めて立証することになりました。

フランスでももうすぐ大統領選挙がありますが、BFMの各社のアンケート調査(sondage)の集計をまとめた概算予想を見てみると、案の定ではありますが国民戦線(FN)にとっては厳しい戦いになりそうです。

というより、はっきり言ってFNがE. Macronに勝てる見込みはゼロに限りなく近いでしょう。絶対無理とまでは断言できませんが、フランスの状況は(FNにとって)絶望的です。ついこの間もParisのOrlyでテロがありましたが、これから何度テロが起ころうと、「FNに投票すること」=「racisme」だと捉えているフランス人の数が減るわけではありません。FN支持率は若年層の間に広がっているとも言われますが、仮にそうだとしても若年層は選挙に行きません。高齢者の投票が最も決定的影響を及ぼす「シルバーデモクラシー」が現実化しているのは、何も日本だけではなく英米もそうだし他の西欧諸国も同じだということは、Brexit、トランプ、またオランダの選挙でも十分に示されたと思います。

逆に言えば、高級メディアが主張するような「(右寄り)ポピュリズムの台頭」という現象は、実際のところは虚妄です。右傾ポピュリズムが台頭しているように見えるのは、高級メディアの論調が若年層と一致し、「左傾若年層+エリート」vs「65歳以上の高齢者」という状況が生じる限りにおいてです。若年層が「右傾化」しエリートから乖離したり、その一方で高齢者が微かな戦前の記憶を頼りに「進歩主義」への絶対的信仰を守っているようなフランスやオランダのようなケースでは「右傾ポピュリズム」は決して影響力を若年層の外へは拡大できません。トランプ氏がアメリカにおいて大勝利できたり、Brexitが実現した背景には「古くて頑迷」とメディアに批判されつつも意地を貫く高齢者達の支持がありました。同じように、ナチス統治時代を大なり小なり経験している欧州大陸の高齢者は絶対に「極右」あるいは「raciste」を支持しませんから、一度「極右」とレッテルを貼られたら、あるいは一度人種問題についてタブーを破ったら最後、決して政権を取ることはできません。せいぜい若者のヒーローになるのが関の山です。

話が逸れますがこの意味では、Marion-Marechal Le Penの方がMarineよりも現実を弁えて分相応の地位をしっかり守っているという風に見ることもできます。今の欧州には、Marion以上の「極右」政治家はいません(実際、Jean-Marie Le Pen氏はMarineよりもMarionの方を高く評価していますし、また左派もやはりMarineよりもMarionの方をより厳しく批判しています)し、またMarionが今現実にできている以上のことをできる人間は(フランスの外にも)いません。そもそも、Le PenファミリーはJean-Marie le Pen以外は、生まれた時から「Le Pen」というstigmaを背負うことを強制されており、ある意味半ば社会の圧力によって政治家をやらされているようなものなので、つまりなんでもない人が挫折を通して捻くれて極右政治家になるというヒトラー以来のよくあるパターンではありません。言わば、欧州に唯一残る極右のエリートファミリーです。従ってLe Pen一族は極右政治家としては最高レベルの学力、学校歴及び能力を備えています。Marineも学歴は高く、修士号及び弁護士資格を持っていますし実際に弁護士として働いてもいます。親の地位を引き継ぐことができる世襲政治家としては、これだけでも相当高い学歴を得ている努力家であるということは、日本の世襲政治家と比べれば一目瞭然でしょう。Marionの方は逆にその美貌の恩恵を受けてかまだ学生の間に人気が出てしまい、少なくとも第五共和政史上では最年少で政治家に当選してしまったので、学歴的にはMarineに劣りますが、逆に言えばMarine以上に政治家としての総合的能力を有権者に認められているということでもあるので、彼女の持っているスター性は大きな強みです。従って欧州に本当に「Political Correctness」を打破し欧州政治を「現実」に戻すことの出来る人がいるか否かという視点では、既に高齢でかつ同世代に恵まれないMarineよりはMarionの方に注目する方が賢明であると思われます。

ということで、先進諸国では文化の差を超えて軒並みこれまで通り今後も各国のベビーブーマー達が退場するまでは「若者の動向」や、教育を通じて若者との接触機会が多い為感性が若者に非常に近くなっている大学教員を中心とする「知識人」の動向は現実政治に反映されず、シルバーデモクラシーの謳歌が続くだろうという実に凡庸な結論自体は変わりませんが、しかし欧州においては90年代以降に生まれた日本でいう「ゆとり世代」に該当する年齢層以降は、旧来の伝統的保守主義でも、ファシズムでも、マルクス主義でも、共産主義でも、またエリート風の旧式リベラリズムでも、ロールズ流の平等主義リベラリズムでもない、新しい「現実主義」的な思潮を育みつつあり、この世代が影響力を持つようになれば欧州の政治模様は一挙に変革されるだろうというのが私の見立てです。

一方で、欧州の中でも英米はやはりナチス統治を経ていない戦勝国であるという歴史的要因から全く別の方向へと進んでいくことが予想されます。というのも、英米の場合は現実主義的な保守政治はむしろ高齢者層の間で根強く残っているのであり、若年層は世代が降るごとにどんどん左傾化していっています。かつ、この流れは大きくは変わらないでしょう。無論新聞よりもYouTubeから情報を得る若年層は高級メディアを完全に無視しているので、「ポピュリズム化」しやすいという風に見えるかもしれませんが、YouTubeの英語コンテンツはサイト側から厳しく管理されていますし、人気動画の多くはむしろ社会面での「リベラル化」を促進する内容のものがほとんどです。従って、英米はますますリベラル化し理想主義が蔓延していくが、それが「英米=エリート=グローバリズム=リベラル」と「大陸欧州=反英米リジョナリズム=保守」という対立図式を固定化していくことになりそうです。

翻って、日本はどうなっていくでしょうか。実は日本の場合、英米的な側面と欧州的な側面が両方見られ、非常に複雑です。まず、英米的な側面としては、最近の若者は明らかにこれまで以上に英米化、リベラル化してきており、英語に対する抵抗感も薄れつつあり、というより英語の話せる人が相当増えてきています。大学生の間になんらかの海外経験を積む人も非常に多い。そういう意味では、日本も英米と足並みを揃えてリベラル化、特に経済面でのリベラル化やグローバル化へと進んでいくのは必定のように思われます。ですが、それはあくまで「高学歴」エリート、あるいは「語学エリート(主に女性)」の動向です。それ以外の層、つまり特に英語や西欧文化に魅力を感じない女性や非学歴エリートの男性層、及びインターネット高頻度利用者層に関しては、欧州的な「高齢者の頑固な左傾傾向 vs 若者の右傾化」という構図がやはり成り立っています。この層は英米化した英語エリートとは異なり、社会の急激な変革に強く抵抗するでしょう。かつ、日本の人口比率は異常に偏っているので、仮に最若年層の間に英米流のリベラリズムが徐々に浸透したとしても、同じ英米イデオロギーでも前世代の経済自由主義の影響を強く受けている分厚い現役世代(40-65歳まで)と「ネットで真実を知って」新たに保守化した若年保守層を合わせた数が英米系リベラル層を上回ることはないでしょう。(65歳以上の超高齢層になると上に行くほど「反右翼」的傾向が強まりますが、この層は英米系リベラル層から見れば十分に保守的ですし、また彼らは徐々に高齢化が進む中で影響力を失っていくでしょう。現に彼らは安倍政権の誕生を二度も許しているのですから、もはやこの世代のリベラル派は力を失ったと見て良いと私は考えています)従って結果としては主に現役世代の「エリート」層(=経済自由主義)、及び若年世代の「エリート」層(=反差別的平等主義)の二者が合意できるような「現実的」な政策が優先的に選ばれていくものと思われますが、その「現実的」政策というのはどうしても経済的なタカ派政策、つまり自由市場主義政策と大規模な移民歓迎政策のコンビネーションとして現れざるを得ない可能性が高いと思われます。

ちょうど今のフランスのMarcron氏のような政策を主張する、つまり「維新の党」や「みんなの党」に近似するような主張をする政治家が、今後も続々と出てきて今後20年以内には影響力を著しく強化すると思われます。こうした動きに反対する保守派を「ネトウヨ」と批判し、逆に社会主義政策に拘ったりあるいは警察権力や国防政策に執拗に反対する左派を「パヨク」と侮蔑する「現実的」な声こそが、最終的には力を得る。

安倍政権は、今まさにこの「現実」と「伝統保守」の間を揺れ動きつつ、何とか高齢保守層の支持のおかげで「伝統性」を保っていますが、ここが欠落したら自民党も一挙に「現実政策」へと傾いていくのではないかと私は予想しています。

ということで、今の段階では日本が世界一安全で経済的にも安定した大先進国であったとしても、今後は徐々に盛り返していく欧州に対し、増加する移民や自然災害とエネルギー問題などの課題を抱える日本はゆっくりと、しかし着実に劣勢になっていくかもしれないという懸念は残ります。

日本のエリートは、この事態にどう対処するのでしょうか。何か少しでも対策できるのでしょうか。今の日本のニュース報道を見ていると、話題になっているのは著名人のゴシップネタばかりです。否、社会的に「エリート」と認められている人々は、これに抗して本来問題にすべき問題を語るのでもなく、むしろ彼らが率先してこの社会面の三面記事のような内容について喜んで発言し、注目を集め、原稿料を稼いでいる。これが現実なら、それに相応しい然るべき未来が待っているでしょう。