哲学書簡 - lettres philosophiques sur les Anglais

英国在住の日本人の視点から英国人の考え方などについて徒然と書いていきます

六十干支と哲学者の基本的思想傾向について

今回はちょっと迷信じみた記事ですので普段とは色合いが違います。

 

六十干支による性格占いというのは日本や中国では昔からある伝統的な迷信で、現代でも例えば丙午の年には女児の出生率が著しく低下するなど、影響力をそれなりに持っているものです。

ですが、勿論迷信であることは百も承知した上で、あくまで与太話として西洋の有名な哲学者達の生年から彼らの六十干支を探ってみると、実に面白い結果になったのでこれはちょっと記事にしておこうと思った次第です。

では、早速有名どころから行ってみましょう!とはいえ、アリストテレスやプラトンのような古すぎる人だと誕生年がわからないので大体近代以降の人にします。となるとまずはデカルトですね。デカルトは1596年ですから丙申です。デカルトと対照的なブレーズ・パスカルは1623年で癸亥、ちょっと飛んでルソーは1712年の壬辰、モンテスキューは己巳、トクヴィルは1805年で乙丑、反動思想で有名なド・メーストルは1753年の癸酉です。

ここでちょっとフランスを離れてゲルマン語圏に移ると、デカルト哲学の解説書から哲学を始めたスピノザは1632年で壬申、またイギリスのジョン・ロックもスピノザと同い年なので当然壬申、デカルト、スピノザとよく並べられるライプニッツは1646年の丙戌です。デカルトとスピノザ(及びロック)が共に申年なのは面白いですね。ちょっと飛んでカントは1724年で甲辰、実はカントのことが大嫌いだったニーチェも1844年の二週周りの甲辰です。で、ニーチェの尊敬したショーペンハウアーの方は1788年の戊申です。また申年ですね。あとはヘーゲルは1770年の庚寅、マルクスが1818年の戊寅です。ここでちょっとイギリスに戻りますと、ヒュームは1711年で辛卯、古典リベラリズムの代表者ミルは1806年の丙寅です。ちょっとマイナーどころになりますが、自由思想家(free thinkers)の代表格の一人John Tolandは1670年で庚戌、同じく自由思想家のAnthony Collinsは1676年の丙辰です。

こうしてみると近代の有名どころ(+α)に限れば申、戌、寅、辰がやたらに目立つことがわかります。ヒュームだけが例外ですが、まあヒュームは哲学史の中でも異色の存在なので何となく筋は通っている気がします。笑

 

現代になると、まず絶対外せないのはハイデッガー、サルトル、カール・シュミット、ハンナ・アレントの四名ですね。ハイデッガーは1889年で己丑、シュミットはその前年の1888年戊子、サルトルが1905年の乙巳、アレントが翌年の丙午です。ここまでは上述の「申、辰、寅、戌」という近代のパターンとは異なるという意味で「アノマリー」の連続ですが、メルロ=ポンティが戊申、フーコーが丙寅です。そしてグラムシがなんとヒュームと同じ辛卯です。

またグラムシに影響を与えたクローチェは1866年の丙寅、ミルやフーコーと同じです。こうも見事に被ってくると恐ろしいですね。近代のイタリアの哲学者はあまり哲学史に出てこないので触れませんでしたが、実はマキャベリが1469年の己丑でハイデガーと同じです。後はアクィナスが1225年で乙酉、アンセルムスが1033年で癸酉です。

分析哲学系の方はどうかというと、ラッセルが1872年の壬申、フレーゲが1848年で戊申、ヴィトゲンシュタインがハイデガーと同じ1889年で己丑、現代倫理学の祖として知られるジョージ・ムーアが1873年が癸酉、論理実証主義で有名なエイヤーが1910年で庚戌です。

 

ということで、調べて見ると有名な哲学者の生まれる干支には一定のパターンが案外ありそうな感じがすることがわかりました。また、干支が完全に被っている哲学者同士は特に世代が異なっているほど性格というか思考傾向も通ずる部分が多少なりともあります。

例えば、敬虔なカトリックの思想家には酉年が圧倒的に多く、特にアンセルムスとド・メーストルは癸酉で完全に被っています。アクィナスも酉年ですし、カトリックではありませんが倫理学の擁護者であるムーアもやはり癸酉です。なんとなく道徳的な思想家が多そうな雰囲気が出ていますね。

申年はその真逆で、無神論者が非常に多く、伝統的迷信を徹底的に否定する傾向が見られます。まず壬申にスピノザとラッセルが揃っている時点で他はともかく壬申はイコノクラストの年だと言ってしまいたくなります。笑 (因みに私も92年生まれなので壬申ですが、私自身スピノツィストのバリバリのイコノクラストなので例に漏れません。) 他にもメルロ=ポンティ、ショーペンハウアー、フレーゲが揃って戊申ですが、前者二人は倫理思想の次元での理性主義に反対し基本的な人間の欲望に対して肯定的だったという点でスピノザやラッセルに通ずるものが確かにありますし、逆にフレーゲは形而上学的次元での理性(アプリオリ)中心主義を徹底している点でスピノザに通じます。デカルトとロックはまあ他の申年の哲学者に比べれば中途半端というかバランスがとれていますが、ロックの所有権論は実際現代のリバタリアンでもびっくりしそうなほど既得権益層に有利な理論で、全然理想主義という感じではありません。デカルトもあの徹底的な懐疑精神は申年のイコノクラストな側面の表れであると言っても良いような気もします。

またヒュームとグラムシの二人が共に「辛卯」で、他に卯年の哲学者があまりいない中でドンピシャで被っているのも面白いです。この二人に共通するのは共に非常に個性的で、あまり他の哲学者との共通点が少ない例外的存在であるという点です。

カントとニーチェが共に甲辰なのも面白いですね。この二人は全然気が合いそうにないようで、実際似た者同士というか、同じコインの表と裏なのかもしれません。あと、カントが尊敬しカントの人間観をも変えたルソーも辰年です。やっぱり何か通ずるものがあったのでしょうかね。

寅年にはどうも政治思想に関係する人が多いですね。まずいきなりヘーゲル、次にマルクスとミル、そしてクローチェときて最後にフーコーですからね。こうしてみると寅年は何か権力に対して何らかの強い思い入れを持っている人が多いのかなと思ってしまいます。

マキャヴェリとハイデッガー&ヴィトゲンシュタインが揃って己丑なのは一見意外ですが、実はちゃんと共通点があります。この三人に共通するのは乱世に生まれながらも上手く世の中を渡っていく柔軟性です。なんとなく「時代に翻弄される」という言葉がしっくりくるのがこの三人ですね。丑年という点だけならトクヴィルもそうですが、やはりトクヴィルも乱世の人です。

後はライプニッツとトーランド、またエイヤーが戌年ですが、彼らに共通するのは共に哲学者にしてはかなり社交的な方で、むしろ社交界で目立っていたという点でしょうかね。三人とも多才で常に社交界において注目を集めた華やかな人という印象です。

最後に、一応サルトルとモンテスキューがともに巳年ですが、この二人はどう考えてもフランス人であるという点以外にあんまり共通点があるようには思えません。強いて言えば現代の政治思想に多大な影響を与えているという点でしょうか。意地悪な言い方をすれば、教科書にも必ず出てくるし人気もあるのに、主著となる本に関しては非常に難解でかつ道徳的な意味で理性的であるため読むのが疲れるからかちゃんと読む人も熱心な信者も少ないという点が共通するかもしれません。笑

尤も、今回選んだのは誰もが知っている有名な近代以降の(主に形而上学や政治思想で知られる)哲学者+私が以前から個人的に好きな哲学者(スピノザは許されるとして、Toland, Collins, de Maistre, シュミットあたりは完全に趣味で入れました )に限るので、もっと別の分野の人も含めるとまた違った見方が出来るかもしれません。

私は基本的に占いは信じない方ですが、たまたま友達と話しをしていてなぜか干支の話題になり、そこで序でに哲学史上の有名人の干支を調べ出したら何と私が最も自分の思想に近いと思っているスピノザが私と同じ壬申だと知って若干寒気がしたのは確かです。笑

まあ、同じ年に生まれた人間が皆同じような思想を持つようになるわけがないし、生まれ年だけで個人の性格を判断するのはあまりに雑だと思いますが、しかしたまにはこういう雑な思考に身を委ねてみるのも面白いかなと思います。

それではまた次回はもう少し真面目な記事を書こうと思います。

 

日本のメディアによる「外国」に関する報道について

日本のメディアの外国で起こった事件の報道の仕方には、何か異常性を感じざるを得ません。特にロシアに関する報道はどうも中立性を全く欠いているように思えます。例えば、Yahooに出ている時事通信の以下の記事(

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170718-00000130-jij-int

)などは、ウクライナの東部勢力が新国家樹立宣言を勝手に行ったことに関しての記事ですが、まずそもそも本来「マラロシア」と現地で発音されるべき東部ドネツク周辺勢力の「新国家」「Малороссия」を「マロロシア」と読んでいて、この時点で既に現地メディアから情報を得たのではなく英語メディアからの情報を受け売りしている感を出してしまっています。

その上、時事通信の報道ではドネツク勢力の一方的新国家樹立宣言に対し、同じくウクライナ東部の大都市ルガンスクを支配する勢力は全く賛成していないという以下の英語メディア(

https://www.rferl.org/a/ukraine-separatists-malorussia-criticism-zakharchenko-plotnitsky-poroshenko/28623190.html

)で明記されている点に触れず、単に「ウクライナ東部武装勢力による新国家樹立宣言」とだけ書き、まるで東部側に統一的支配体制が既に確立されているかのごとき印象を与える書き方になっています。

かつ、この記事のコメント欄にはこれを「ロシアの軍事行動」と解釈するコメントが多数上がっていますが、既出の英語メディアにはロシア政府(Kremlin)はこの件に関して沈黙を守っていると書かれています。

つまり、この英語メディアを信頼する限りでは、これは明らかにロシア、ドネツク勢力及びルガンスク勢力の三者の中の不協和音を示唆する事件であって、決してロシア主導のウクライナ東部勢力一丸となった反西側体制の政治行動とは必ずしも言えないという読み方もできるわけですが、そんな解釈の余地は日本のメディアからは少しも出て来ません。

仮に嘘を書かず真実のみを伝えているのだとしても、敢えて伝える情報を制限し一方的な解釈のみに導くのはある意味「偏向報道」なのではないでしょうか。

 

この件に限らず、日本における外国の事件に関するニュース報道は実はかなり杜撰な部分があると私は感じています。そうして杜撰な報道をさらに杜撰に読む読者の偏見がコメントとしてソーシャルメディアや日常の私的会話に氾濫し、行ったこともない国に対する異様な偏見だけが日本の言説空間にやたらに大量生産されていくというのが、これまでの、そして現在の日本の外国報道ではないでしょうか。

 

確かに、外国でどんな事件が起きようと日本人にはそれほど関係はないかもしれません。そんなことは政治家や学者の「先生」方が考えればいいことだし、そういうエリートはどうせ英語できちんと情報を得ているんだから良いでしょうという意見にも一理あるかもしれません。ですが、こうした偏向報道が外交に与える影響が皆無だとは限りません。まず、日本国民の諸外国に対する印象には確実に否定的影響を与えるでしょう。フランスで国民戦線の勢いが少し出たからといって、日本人までをも差別するような差別主義者がフランス人の主流派であるわけではありません。むしろ事実は逆で、国民戦線の代表は訪日もしていますし、日本の一部政治家と多少の関係を持っています。文脈を無視した字面だけ英語メディアからとってきただけの翻訳報道をさらに単純化することで為されるこうした「偏向報道」は、明らかに誰の為にもなっていません。

 

なぜ日本のメディアがこんなお粗末な状態になっているのかはわかりませんが、もっと正確により多くの海外の情報を伝えるという作業を、日本という経済大国のメディアが怠っているという事態は真に問題視すべきものだと思います。

 

非英語圏の大国で、英語圏以上に中立的報道をするメディアというのは実はほとんどありません。非英語圏の大国といえば中国とロシアですが、ともに中立性よりも国益(あるいは政権)を重視する傾向にあるのは明らかです。イスラーム圏のメディアも当然イスラーム的価値観に基づいているか、あるいは英語版では現代のリベラリズムの価値観を前面に押し出す形の報道になり、英語圏以上の多様性が確保出来ているかは疑問です。フランスやドイツも同様で、基本的にはリベラル一色であり、かつそれほど東アジアなど西欧人にとって関心の薄い地域に関しての報道はありません。日本というのはそんな中で異色の存在なのです。というのも、日本は中露やイスラーム圏のようにはっきりとした特定の英米や西欧とは異なる価値観を国是として掲げなければならないほど政治的に不安定なわけではないし、また西欧のように英米の主流リベラルメディアの流れに完全に押し流されてしまう危険性を生む原因になるような社会的状況が国内に存在しないからです。つまり日本の報道はそうしようとさえ思えばかなり自由になり得るはずなのですが、実際には杜撰な外国報道の受け売りが横行しているのが現状です。

 

「国際化」というのは英米のリベラリズムを受容して説教くさいトランプ批判者になることではないはずです。私は英語圏に滞在することで、むしろ英米よりも自由な報道を日本で実現することを目指したいと思うようになりました。幸い、日本には現代において言論の自由をめぐる問題の中で最も重要な課題のひとつである「イスラーム世界の論じ方」という問題を主題化して研究されている池内恵先生のような方もおられます。これは西欧に実際に来て見なければ実感がわきづらいかもしれませんが、池内先生のような自由でかつ学術的価値の高い詳細なイスラーム論を公表することは、英語圏でも非常に難しい状況です。無論日本でも決して容易なことではないはずですし、池内先生のケースは日本の社会システムよりもむしろご本人の資質に負う部分の多い「例外的事例」なのは明らかです。それでも東京大学という日本の最高学府から池内先生のような方が出て堂々と活躍されておられるというのは日本の強みだと私は思いますし、世界に誇るべき点であると思います。こうした土壌を無駄にしない為にも、より正確な報道をすること、また意見の多様性を最大限確保することは重要ではないでしょうか。

 

「真のリベラル」と擬似リベラルの見分け方

そもそもリベラリズム(自由主義)とは何であるべきか

近年「リベラル」を自称する人が本当は「自由」とは別の価値を「自由」と同程度、あるいはそれ以上に強調しているという点で「リベラル」とはいえないのではないか、という意識を持っているのは私だけではないと思います。現代の英語圏で主流の「リベラリズム」はRawlsの「政治的リベラリズム/political liberalism」だとされていますが、Rawlsの政治的リベラリズムは同時に「自由平等主義/liberal egalitarinism」とも呼ばれており、「自由」よりはむしろ「平等」の方を強調するものでもあるという点は広く認識されています。Rawls支持派(=主流派)の論理に従えば、「真の自由」は自由が平等に配分されることによって実現するので、平等主義と自由主義は矛盾しないということになります。確かに、有名なフランスの標語もLiberté, Egalité, Fraternité(自由、平等、友愛)の三つを並べており、西欧では既に自由と平等を共に実現することにさも何の矛盾もないと捉えることが伝統となっていると言えるかもしれません。

とはいえ、自由と平等は全く異なる価値であって、自由なき平等も有りうるし平等なき自由があり得るのもまた事実です。他にも政治によって実現すべきとされる価値はたくさんあります。例えば道徳(morality)、正義(justice)、治安維持(security)あるいは公共秩序(public order)などです。このように複数ある政治的価値の中で、特に「自由」を最優先すべきという立場こそ真の「自由主義/liberalism」であると仮に規定するとしましょう。

この定義に従えば、例えば現代のRawls支持派「リベラル」は、その実現しようとする価値が自由ではなく「公平としての正義」(Justice as fairness)であるという点で、リベラルというよりは平等主義者(egalitarian)に近い立場であるということになります。今日一般に「conservative」に対立する大勢力のひとつとして、つまり米国民主党や英国労働党、あるいはフランス社会党やマクロン新党、また日本の民進党などが代表する立場として理解されている「所謂リベラル」というのは、多少強調する点に違いはあっても概ね「平等」あるいは「正義=公平性」を最優先しようとする姿勢において共通するのではないでしょうか。上に挙げた具体的な政党がRawlsに忠実であるかどうかは議論の余地が大いにありますが、非常に大雑把に分ければ今日一般の言説空間で「liberal」と呼ばれる立場は、実際には平等主義であるというのが私の見方です。(間違っていれば訂正していただければ幸いです。)

他方で、一般には「保守派」とされるアメリカ共和党やフランス共和党、英国保守党や日本の自由民主党などに属する政治家やその支持者の中には、Rawls支持者に対する対抗心から「自分たちこそが真に自由を愛する本物のリベラルだ」という声を表明する人も少なくありません。しかし伝統的には「リベラル派」と「保守派」は常に対立しており、特に「保守派」に属する人々が自分の立場を「真のリベラル」という形で正当化しようとするというのは比較的新しい傾向であるように思われます。では何故現代の「保守派」の一部が自分たちこそ「真のリベラル」だと主張するようになったのか。これを説明するには、簡単に「自由」をめぐる哲学史を振り返る必要があります。蛇足かもしれませんが、一応以下に説明します。

「自由観」の哲学史

一般に保守主義の父とされるかのエドマンド・バーク(Edmund Burke)も、政治家としては実はWhig(Toryに対立する派閥)であり、Tory(現代の保守党に連なる派閥)ではありません。つまりバークは当時の英国の文脈ではむしろ「リベラル」な方だったわけで、今日でもバークの思想は「リベラルな保守主義」(liberal conservatism)として、より古い伝統的な保守主義とは区別されています。従って当時の英国のゴリゴリの保守派からすればバークでさえ「リベラル」なのであって、「自由」に特別の価値があるという議論を認めること自体が異端だったわけです。恐らく、明治時代の日本の支配層にもこうした「自由主義」に対する警戒心は共有されていたはずですが、バークの時代以前には英国の支配層も同種の懐疑を抱いていたものと思われます。それは例えば自由主義者(free thinker)として有名なJohn Tolandなどがどのように評価されていたかを考えれば一目瞭然でしょう。このように、17-18世紀頃における「自由」とは宗教及び道徳を挑戦する者が奉ずる価値だったのであり、無神論と共に既存権力から嫌悪乃至危険視されるものでした。

しかし18世紀後半になるとカント(カントとバークは同時代人です)が「自由」を「理性」と同一視し、かつ「理性」を「道徳」と結びつけることで「義務論的自由主義」(deontological liberalism)を生み出し、「自由主義」=「不道徳主義」という図式を大きく変革します。これによってカント派の間では今度は道徳主義派の方が「自由」の重要性を強調するようになり、「反自由主義」の方に「不道徳」の烙印が押されるようになるわけですが、このカント的な「自由」観が知識人の間で広く受け入れられたわけでは必ずしもありません。例えばニーチェはカントを「馬鹿者(idiot)」と侮蔑し、「自由」とは本質的に「理性」及び「道徳」と対立するものであって、特に「(奴隷)道徳」と「(貴族的価値である)自由」が両立することなどあってはならないし有り得ないと主張します。19世紀頃の知識世界における自由観はこのようにカント派とニーチェを始めとするロマン派(あるいは古典派)に分断されますが、しかしいずれの場合も「自由」は肯定的価値と捉えられ、従来のように否定すべきものとは捉えられていません。また、カントもニーチェも既に神学や宗教の権威をほとんど認めていません。このように知識人達の間では徐々に「自由」をそれぞれの仕方で何か価値のあるものと捉えるという習慣が浸透していくのですが、他方で19世紀後半から20世紀初頭頃になってもまだ国民の大多数は宗教的であり、「自由」また「自由」の毒に侵された「知識人」そのものを悪しきものと見る伝統的な議論は一定の力を持っていました。例えばドストエフスキーなどはこのような感覚を強く持っていた一人でしょう。

ところが、ヒトラーの第三帝国の出現がこの伝統を完膚なきまでに崩します。というのも、「自由」や「知識人」を敵視する伝統を最も極端な形で具現化したヒトラー及びナチス・ドイツが「悪の権化」として表象されることになったからです。従って西欧(及び日本)における「自由」観は、1940年代以前と以後では根本的に別物です。ほぼ180度転換したと言ってもいいでしょう。これまでは自由や知識人に懐疑的だった大衆や道徳家が、1950年代以降はこれまで批判され、投獄され、あるいは悪魔とさえ呼ばれてきた自由思想家達を逆にこの上ない人格者として、天使にも勝る正義の代弁者として再評価するようになります。例えばスピノザなどはこうした極端な評価の転換に晒された思想家の一人です。あるいはミル(John Stuart Mill)もそうかもしれません。

しかしながら、自由主義の再評価は自由主義が自由主義として繁栄する端緒とはならず、むしろ自由主義を新たな道徳的ドグマとして再構築するという流れをつくります。これに貢献したのが例えばサルトル(Sartre)などの20世紀以降の「実存主義者」らであり、またマルクス主義をベースにした「critical theorists」と呼ばれる、フランクフルト学派の特にマルクーゼの思想に代表される現代左翼思想家達です。今話題の「PC(日本では何故か「ポリコレ」と呼ばれていますが、ここではPCを使います)」も、基本的にはこのcritical theoryに由来しますが、この新しい「自由主義という道徳的ドグマ」の中心概念は、アリストテレス的な「本質主義」の否定と「自由意志」の絶対化です。つまり、人間は「自由意志」によって如何様にも変化するし、我々は「未来を変える」力を常に持っている。従って未来をより良き方向へと変えることができるかどうかは、現代を生きる我々の責任であり、未来を改善しようとしないことは道徳的怠慢であり、自由への叛逆であるとされます。この部分はカント的な倫理学と親和的という点で、伝統的な道義主義に連なるものです。ところが「自由主義」は同時に、他人を何か特定の枠にはめ、決して変化しない本質を持っているかのように表象することは単に哲学的誤謬であるにとどまらず、道徳的に許されない「悪い信念」(mauvaise foi)であると規定します。そしてこれが人種主義(racism)や性差別(sexism)への反対というドグマの根拠の一つです。この部分こそが「現代思想」を「近代思想」と区別する最も顕著な特徴だと私は思います。そして、この特殊な道徳観を奉ずる人こそが50年代から今日まで「戦後リベラル」と呼ばれてきたわけです。つまり、「戦後リベラル」の奉ずる「自由」とは「自由意志」の「自由」であり、つまり形而上学的(=存在論的/認識論的)「無規定性」のことなのです。これは従来の権利概念としての「権力からの自由」や、スピノザの決定論的世界観における「外在的圧力からの自由」とは全く異なる種類の「自由」です。しかもこの「自由」の行使はある道徳的基準(徹底した反ナチズム)に従わなければならないので、国家権力は反ナチズムを法制化する絶対的権利を与えられ、かつそれが「自由」と全く矛盾しないものと考えられます。もっと単純化して言えば、「ナチズム、人種主義、性差別及びアリストテレス的本質主義からの自由」こそが現代西欧における「自由」の内実なのです。ナチスこそが不自由の象徴だと言えばもっとわかりやすいでしょう。自由と不自由の線引きがナチスを軸に引かれているのだとしたら、マルクス主義者や共産主義者ではなく「トランプ」こそが「自由への脅威」とされ、「トランプ」に全力で反対することが「リベラル」だとされていることにも納得がいきます。

とはいえ、この線引きは政治的に意義のあるものであったとしても哲学的には筋が通りません。現代の反ナチリベラルを「政治的リベラル」と呼ぶとすれば、政治的リベラルが優先している価値というのは「ナチスの不在」という否定的なものであり、何かを肯定するものではないのです。「自由」といっても、彼らは「自由」を何らかの道徳的理由で制限することに何の躊躇も感じないのですから、複数の対立する価値群の中から敢えて自由を優先しているとはいえません。日本では「ナチス」の部分が「軍国主義」に変わりますが、同じことです。従って政治的リベラルの思想は厳密に言えば「リベラリズム」ではなく反ファシズム(anti-fascism)であると言えるでしょう。他方で、今日の保守派は経済分野における資本主義を背景とする産業自由主義を受け入れている場合が多いわけです。これはあくまで企業が政府の介入から自由な状態で活動することを肯定する思想なので、必ずしも法的あるいは倫理的な次元における個人の自由を重視する自由主義とは重なりませんが、一応企業という「法人」の自由への規制に反対するという意味では自由主義です。これが経済的保守派の言う「真の自由主義」、あるいは「リバタリアニズム/libertarianism」です。また、以前なら一部にカント倫理学を基にした自由概念を奉ずる「保守的自由主義者」もいたでしょう。実はアメリカのRawlsはこのカント主義の系譜と反ファシズムの政治的リベラリズムを上手く組み合わせています。知識人の間でRawlsがやたらと持ち上げられるのは伝統的なカント主義者と戦後のサルトル的な実存主義者が合流できる地平を開いたが故に、哲学界における賛同者が殺到したという事情があるわけです。というわけでカント派はRawlsによって見事にリベラル陣営に引き込まれたので、現在の保守派の「自由主義」はリバタリアンが中心となっています。

 真のリベラルの見分け方

以上を踏まえた上で、世に数多く存在する自称「リベラル」が本当に「リベラル」(自由こそが最優先されるべき価値であるという思想を持つ人)なのか、それとも単に歴史のトラウマを引きずって「反ファシズム」の流れに従っているだけなのかをテストする簡単な方法がいくつかあります。最も単純明快な方法の一つは、急に下衆な話題を持ち込んで恐縮ですが、例えば「ポルノ規制」の是非を問うことです。自由の価値を最優先とする古典リベラリズムに忠実なリベラリストなら、(特に合意している成人の)ポルノ規制には反対するはずです。一見ポルノなど政治的に価値のないどうでも良いことだと思われるかもしれませんが、しかしポルノ規制の議論というのはリベラル派と保守派が共闘する数少ない議題のひとつだという点で興味深い議題のひとつです。実際、戦後「反リベラル派」につけられたレッテルを嫌悪するあまり仕方なくリベラルを自称しているだけの「regressive liberal」をあぶり出す手段としては、ポルノ規制論は有効です。公的にはリベラルを自称しつつも実際には古典リベラリズムが克服しようとした倫理規範に基づく自由規制に全力で肩入れする「リベラル」は、ポルノ規制に関しては最も頑迷な保守派とも簡単に合意できるという事実は、彼らを「regressive/退行的」(=進歩的の対義語)であると規定する十分な理由になり得るでしょう。ポルノ規制以外にも、例えば選挙権や被選挙権、あるいは飲酒やタバコの最低年齢の引き下げや、ドラッグや売春、あるいは賭博の合法化、また同性愛の合法化など、一般に直接的な物理的暴力や損害を受ける被害者が存在しないにも関わらず、「公序良俗」規定違反で憲法上正当に違法化されて良いとされる所謂「被害者なき犯罪」(victimless crime)に対する国家的規制を批判する動きに対して反対するような「リベラル」は、「自由」とは異なる価値を自由の上位に置き、かつこの為に自由を規制することを正当化する非自由主義者であると規定されるべきです。他方、ヘイトスピーチ規制や人種差別表現規制、女性差別規制や性的マイノリティー差別規制等を肯定するかどうかを聞くというのも有効でしょう。

共産主義や社会主義が廃れ、英語圏のliberal vs. conservativeの二分法が世界的に広がっている現代においては、従来の「右翼」と「左翼」あるいは「共産主義」と「資本主義」の二分法よりも、legal moralism (anti-liberal) vs. anti-moralism (liberal) という二分法の方が便利ではないかと私は思います。少なくとも、こうすれば「リベラル派は嫌いだけど表現規制には反対」という人の立場を「正統リベラル」と位置付けることができるし、また「リベラルだけど(だから?)人種差別には反対」という人を実は全然リベラルとは異なる、また旧来の保守的道徳家(儒者のイメージ)とも異なる「新・道徳主義者」と位置付けることが可能になり、語義との矛盾を解消することができます。また、こう見ることで西欧社会と日本における「体感自由度」に関する懸隔が、国際機関の表面的評価に反して実はそれほどないという、日本をよく知る西欧人や西欧をよく知る日本人なら肌で実感している事態を上手く説明できるでしょう。というのも、日本は西欧に比べて「公序良俗」規定による被害者なき犯罪の取り締まりが際立って厳しいとは言えないからです。賭博に関しては西欧の方が自由であるのは間違いありませんが、性犯罪や人種犯罪に関しては西欧の厳しさは日本とは比べものになりません。例えば、西欧では児ポ単純所持だけで重罪、felonyであり、しかも単に自分の写真をとっただけの児童本人でさえ厳しく罰せられる可能性があります。これは冗談ではなく、アメリカでは実際に自分の写真をとったという理由で逮捕されている児童は既に多数おり、子供を守るどころかむしろ恐怖に陥れているという批判さえ生じています。また、窃盗や傷害などの通常の犯罪でも、被害者がマイノリティーでかつ犯行が差別主義的動機(人種ないし性)に基づくものと認められる場合には、それが例え軽微な被害であっても重罪/felonyになる可能性があります。他方、性犯罪の取り締まりに関しては加害者が人種的マイノリティーである場合も多く、警察側の偏見を指摘する声が常に出てくるなど、現代西欧社会の闇の深さを雄弁に物語る状況が何の改善もされないまま既に十年以上も放置されているのが現状です。これに比較すれば、現代日本の司法は西欧ほどには不合理でも過剰反応状態にあるとも言えないでしょう。政治思想における「自由主義」が国家の規制からの自由によって規定される以上は、刑法規定とその運用状況も重要な「自由」の一つの指標です。そう考えるとき、西欧や特にアメリカは決して「自由の国」ではないし、また日本が「不自由」であるわけでもありません。合法的な社会活動の範囲における心理的な「自由感」 と、法的に国民一般が自由かどうかというのは別の話です。前者の意味では西欧の方が自由であったとしても、後者の意味では日本の方が自由というのは十分に有り得ます。というのも、日本では法によって公式に命せずとも、単に有力者が非公式に命じれば国民の多くはそれに従うからです。つまり罰則規定の無い単なる「きまり」でも、多くの国民は敢えてそれに逆らおうとはしないのです。これは国民が旧習に縛られた「不自由」な状態だから改善すべきだと近代主義者達は主張してきましたが、最近では日本人も旧習から解放され、かつそれに伴い今度は西欧と同じように刑法による厳罰化を求める声が強まっているようにも思われます。とすれば、結局は西欧にも日本にも真の「自由主義者」は希少な存在だということです。あるいは人間は自分や他人が共に自由であることよりも他人の倫理違反を罰することの方が好きだということかもしれません。そんな野蛮な加罰感情を捨て、人間はもっと自由に生きるべきだと唱えた最初の人が西欧道徳の基礎となるキリスト教の始祖とされるイエスであるというのは倫理思想史上最大の皮肉です。

自由主義は不道徳を勧める邪教でしょうか、それとも何かと理由をつけては国家権力を笠に着て他人を罰しようとする人間の傲慢を批判する崇高な教えでしょうか。どちらにせよ、自由主義の根源には公式の「キリスト教」とは区別される、ゴスペルに書かれた「歴史上のイエス」の倫理思想の断片があるように私には思われます。その点を無視し、パリサイ派的な道徳主義的ポピュリズムに順応するような人をリベラルと呼ぶのはやっぱり違うだろう、というのが私の勝手な見解です。

 

フランスの大統領選挙 2017 第一次選

出口調査の結果が公表されました。Le Mondeの情報によると、今の所はMacron氏が23.7%で首位、次点でMarine Le Pen氏が21.9%、これをFillon氏が19.7%で、Mélanchon氏が19.2%で追う、という形になっています。(ちなみに社会党候補のHamon氏はわずか6.2%という不人気です。)

ということで、予想通りフランスでもシルバー・ポピュリズムが猛勢を振るい、Macron氏優勢のままで2017年の選挙は終わりそうな予兆を早くも見えてきました。

第一次選挙でならMarine Le Pen氏がMacron氏を上回る可能性もあったはずですが、第三候補のFillon氏がMacron氏支持を呼びかけるというどこまでも決まりきった儀式を恙無く遂行し終わった後ではMacron大統領の誕生を妨げるものはもう何もないと言っても過言ではありません。

恐らく多くの政治、まして外国の政治になど特に関心もない普通の日本人の方々にとってはマクロン勝利の兆しがはっきり見えたということで仏経済の悪化は免れることが確定し一安心というところかと思います。

逆にマリーンにトランプ氏のような快進撃を期待していた方々にとっては予想あるいは期待を裏切られ少々ガッカリされるかもしれません。

私はフランスの「ポピュリズム」は英米のそれとは大きく異なっているという視点で見ていたのでルペン・ファミリーよりはマクロン氏の方がよほどフランスの文脈で「大衆受け」する「ポピュリスト」であると思っていましたが、案の定マクロン流のサーチャー主義的ポピュリズム、つまり英国風ポピュリズムの直輸入は大ヒットしているようです。

といっても通常メディアのように「ポピュリズム」というマジックワードで読者に煙に巻くことはなるべくしたくないので、なぜマクロン氏が大衆受けするのかというフランス人独特の「ロジック」をより詳細に解説しますと、以下のようになります。

 

大前提: 多くの「普通のフランス人」(=無党派的浮動票層+中道派層)は、国民戦線あるいはルペン・ファミリーの誰かに大統領という権力的地位を絶対に与えないことは政治道徳的義務であると捉えている

 

テーゼ1:多くの「普通のフランス人」は第二次選に残る2名の両方を「右派」候補にはしたくない。

(一般的理由)特にシラク政権の統治に対し否定的印象を持っている中年以上の(リベラル寄りの)有権者層は、シラク政権が誕生した2002年選挙の経験から、最終候補が両方右派候補になることに対する嫌悪感を持っている。また中道派層も第二次選における「バランス」が損なわれることを嫌うフランス人独特の(不可思議な)道義感から、第二次選は右と左の両方から一名ずつ選ばれる方が望ましいと考えている人が多い。

(状況的理由)事前調査などの結果から、ルペン氏の優勢は明らかで、ルペン氏が第二次選挙まで残るのは確定事項とされていた。→ もしルペン氏が第一次選を通過しないのであれば右派候補のFillon氏に投票するつもりであったが、ルペン氏が来ることはわかっている以上、Fillon氏よりはもうすこし「左側」の候補に投票するのがより正しいと中道右派層が考えた原因

 

テーゼ2: 多くの「普通のフランス人」は、フランス(あるいはEUの主要メンバー国)がEUから離脱するなどというのは道義的に考えて「論外」であると考えている

(一般的理由):普通のフランス人は例え自国の選挙であっても自国の国益のみを考えて投票するのは自分勝手で悪いことだと考えている。

(状況的理由):英国における国民投票が行われBrexitが実現したという現状において、フランスが英国と同じ「過ち」を犯すことは何としても防がなければならないという道義的責任を感じる人々が少なくない。

(結論):EU離脱を唱える候補は例えルペン・ファミリーでなくとも当選させたくないという意見が主流

 

テーゼ3:多くの「普通のフランス人」は、国際標準から見れば「リベラル寄り」あるいは「左派寄り」であるはずの見解を「中庸を得た意見」だと理解している。換言すれば、フランスにおいては中線が若干左にずれている。

(一般的理由):一般には国民全体の思想傾向を分類し、「右寄り」か「左寄り」かを相対評価するが、フランスでは「理性/raison」を判断の基準とすることを良しとする人が比較的多く、また理性に基づく判断は「不偏不党の意見」であると考えられやすい。従って「左派」=「理性主義」という図式が成り立つ限りにおいて、フランス人は「左」を中心に据えていると言える。

(状況的理由):米大統領選や英国国民投票という2016年の政治的動きは、フランスにおいては否定的に捉えられており、肯定すべき「新しい潮流」とは捉えられていない。むしろ多くの有権者は一層「右派」に対する警戒を強めている。

 

テーゼ4:多くの「普通のフランス人」は、「テロリズム」を移民や難民、あるいは一般イスラム教徒と結びつけるのは定言的に間違っていると考えている。また、一般イスラム教徒は「過激派」と異なり、事実上「世俗化」させフランス社会に「統合(integration)」することが可能であると信じられており、これを否定することはタブーである。

(一般的理由):まず、そもそも「政治的に正しい」リベラル派のみならずイスラーム教徒側がこうした主張を繰り返すので、非イスラーム教徒がこれを否定することは道義的にも主張の正統性的にも説得力に欠けると思われやすい。また、特定の集団の特徴を一般化すること自体が、例外の存在を無視した非理性的で恣意的な悪意ある「racisme」であるなどとして否定されやすい。

(状況的理由):実際にイスラーム教徒が非常に多く「隣人」として居住している中で、彼らの気に触るようなことを公の場で公言することは道徳的正否以前に単純に原始的な恐怖を伴う。

 

テーゼ5:多くの「普通のフランス人」は、社会党候補は信用できないと考えている。

(理由)オランド政権の失敗。(公約違反など)

 

テーゼ6:多くの「普通のフランス人」は、極左は危ういと考えている。

(理由)あまりに地に足のつかない理想主義的議論ばかりを唱える人はさすがにダメだと通常は考えられている。

 

テーゼ7:多くの「普通のフランス人」は、フランス経済の現状に危機感を感じている。

(理由):経済には詳しくないので解説できませんが、フランス経済はあまり上手くいっていないと一般には言われています。

 

大結論:多くの「普通のフランス人」は、Fillon氏以外のリベラル系有力候補(社会党候補や極左・急進左派系を除く)に投票しなければならないと考える。=マクロン氏に投票するのが最も正しいと考える。

 

この論理は何名かの(普通の)フランス人の話を聞いていて、彼らの考えの共通項であった部分の一部を抜粋することで構築していますので、少ないサンプルに基づくとはいえ大きく間違ってはいないと思います。

 

ともかく、経済的に新自由主義的方向へ進むという点、また既に国民に受け入れられている倫理観に訴える政策を唱えるという点の2点から、マクロン氏は仏流ポピュリズムの権化であると私は見ています。

そもそも、選挙に勝てない人をポピュリストと呼ぶこと自体が矛盾を含んでいるのではないかなというのが私の個人的見解です。逆に常に選挙に勝つような常勝政治家こそが真のポピュリストではないでしょうか。どういう発言が大衆に受けるかというのは時代や国によって変わるでしょうが、この変化に合わせて権力にしがみついてこそポピュリストだろうと私は考えています。この視点から見れば、長年政治活動を続けているベテランでありながら選挙に勝てないFN候補はむしろ異端の革命家であって、パンとサーカスで民衆を愚弄することで権力を維持する真性のポピュリストとは似ても似つきません。

今回のルペン氏の第一次選におけるマクロン氏に対する敗北は、ルペン氏がポピュリストではなく異端の(反動的?)改革者であること、また欧州の政治家にとって「政治的正しさ」に逆行することがいかにリスクの大きいことであるかということを改めて示すことになったと思います。

そろそろ「政治的に正しくない」候補を権力を得ないうちからポピュリスト扱いするのは語義的に無理があるという認識が広まってきてもいいのではないでしょうかとぼやいて擱筆してしまいましょう。

 

既存政党という基盤を持たないマクロン政権が実際のところどういうものになっていくのかについては、詳細が判明し次第私の理解の範囲で適宜解説していきます。

 

ここまでお読みいただきありがとうございました。

 

P.S. マクロン氏の経歴については、アゴラで八幡さんの記事に簡潔にまとめられています。 この経歴を見れば、マクロンという人がいかにも年上に好かれるタイプの「若者」として生きてきたこと、また彼がいかに権力志向の強い人かというのがよりはっきりします。

フランスの大統領選挙

2017年のフランス大統領選挙ですが、今月の23日にいよいよ第一次選挙が行われます。

当初は共和党候補の圧勝が予想されていましたが、有力候補だったAlain Jupé氏や前大統領のNicolas Sarkozy氏が敗退し、比較的宗教色の強いFrançois Fillon氏が共和党候補に選ばれたものの、Fillon夫人を虚偽雇用(emploi fictif)していた疑いでスキャンダルに見舞われて以降は支持率が激減していき、Fillon氏が大統領となる可能性は限りなくゼロに近づいていっています。

他方で、当初から安定の高支持率を維持している国民戦線(FN)のMarine Le Pen氏も、Fillon氏と同様の虚偽雇用の疑いをかけられ支持率に翳りが見えましたが、FN支持層の結束は固く、何とか持ちこたえています。とはいえ、無党派層を取り込むという点においてはFNは依然厳しい状況に置かれており、事前アンケート調査の結果などからも第二次選でも勝ち残れる可能性は低いと見られています。

落ち目の社会党候補には最初からさほど注目が集まっておらず、現在でも支持率は低迷したままですが、オランド大統領の下で経済大臣を経験しつつも社会党と決別し自ら新政党を立てるという暴挙に出たEmmanuel Macron氏は、Fillon氏の失墜以後急速に支持率を伸ばし、今ではLe Pen氏に並ぶ支持率を獲得しているとされています。

他方、終盤になって盛り返してきたのがメディア上では「極左」とされている左翼政党(Parti de Gauche)あるいは新政党「不屈のフランス」(La France insoumise)を率いるJean-luc Mélanchon氏です。

このLa France insoumiseという新政党名は、Michel Hoellebecq氏の「服従」Soumissionという、「イスラーム」 を想起させる(イスラームとはアラビア語で「神への服従/帰依」を意味します。つまりフランス語で「イスラーム」はSoumissionであるということです。)タイトルの2015年に出版された小説と合わせて考える時、「現代フランス」の文脈ではある種の特殊な意味を持っているようにも受け取れる党名です。少なくとも、Mélanchon氏がこの党名がどういう意味を持っているかを邪推出来る人に対して「愛国的」メッセージを発しているのは確かだと思われます。

ということで、今の所有力候補は第一次選通過可能性の高い順からMacron氏、Le Pen氏、Fillon氏及びMélanchon氏の4名です。

この顔ぶれは、フランス政治のいくつかの変化を示唆しています。

まず第一に、英国的な二大政党(社会党 vs 共和党)による政権交代制という枠組みが完全に崩れてしまったことが誰の目にも明らかになったことです。これは社会党のみならず、共和党までもが凋落しつつあることからも明白です。ほんのこの間までは、共和党候補あるいは中道右派候補がFNに第一次選支持率で劣るということ自体が冗談のような話だと思われていました。確かにFN候補のJean-Marie Le Pen氏が第二次選挙まで残ったことは過去にありましたが、その時もあくまで候補者の乱立による既存政党の分裂が招いた異常事態という扱いで、決してFN候補が安定の支持率を常に確保していたわけではありません。ところが2010年以降頃から状況が少しずつ変化し、今ではFN候補が第二次選まで残るのはほぼ確定事項であるかのように認識されています。この背景には、イデオロギー云々以前に「既存政党」そのものに対する不信感が存在しているように思われます。

第二に、前述の既存政党への不信感が一部の有権者をイデオロギー的に先鋭化しつつあるという点です。右陣営においては、共和党に対する幻滅や相次ぐテロリズムへの危機感、またFN自身の努力から、右派の間でFNに対する拒絶感が徐々に緩和されてきている一方で、左陣営においてはやはり社会党に対する幻滅や、テロリズムに対するオランド大統領の「反動的姿勢」に対する進歩的立場からの批判などから、よりイデオロギー的信念に忠実な「真の左翼」を求める声が強まっています。とはいえ、左翼的なユートピアを唱える政治家はあまり高い支持率を得られないので、あくまで内政の安定と国内における経済的平等を重視する国民主義的立場を取るMélanchon氏が左派陣営の中では最も支持され、かつ目立っています。

第三に、若年層のイデオロギー的先鋭化が顕著に見られる一方で、シルバー層の中道主義は相変わらずであり、かつこの層の動向が選挙を最も左右するという点は全く変わらないという点です。シルバー層の間ではJupé氏やFrançois Bayrou氏などが人気だったのですが、この2名は既に撤退しているので、上述の4名の中ではむしろBayrou氏や他の中道派政治家の支持を取り付けているMacron氏が最もシルバー層の支持を集めるのは確実と思われます。

従ってこの選挙はMacron氏に非常に有利な状況になりつつあるのですが、Macron氏の掲げる「政治的に正しいボーダーフリー型グローバリズム」+新自由主義的経済政策の組み合わせは、各国の経済界にとっては朗報であるかもしれません。その意味でフランスのさらなる「ドイツ化」あるいは「アメリカ化」が進むのはまず間違いないでしょう。しかしそれは他方で、フランスがフランス的な独自性を失うことをも意味します。教育の無償化や農業保護政策、あるいは環境保護政策など、フランスらしさを保つ上で不可欠とされてきた政策は廃止される可能性がある一方、法人税減税や外国人移民や難民受け入れの積極化、労働法の緩和や「英語化」などが進められ、要するにフランスも徐々にグローバル化させられていくかもしれません。それがフランスにとって、あるいはフランス人にとって良いことかどうかを決めるのはフランス人自身ですが、現代のフランス人はどう考えているかというと、多くのフランス人は様々なジレンマの中で政治的関心そのものを失い、フランスという国の将来に対して悲観的になっているのが現実です。

右派的傾向のあるフランス人の中では、フランスがどんどんグローバル化し、あるいはイスラーム化していくという「現実」はもはや変えられないものと諦観し、つまり「フランス」を愛するが故に逆にフランスの外(特に日本や香港、シンガポールなど)へと「脱出」して自分の中だけでフランス的なるものを守ろうとする極めて自己責任的倫理に従う人が増えてきています。要するに例のHouellebecqのSoumissionのLempereur氏のような人達ですね。

逆に左派的傾向のある人達の中では、むしろフランスでFNのような「極右」が台頭してきていることを憂い、そういう動きの比較的弱い英国やドイツ、あるいはスカンジナヴィアなどのより政治的に正しい国へと移ろうという人たちや、あるいはフランス国内で「移民」や「マイノリティ」との団結を強め、極右勢力を掃討するために「戦う」ことに自己の政治的存在意義を見出そうとする聖戦型の闘士達も僅かながら増加中です。

日本人として面白いのは、フランスのようなどっちつかずの国においては、左傾傾向のある人ほど英語を好みヨーロッパ的なるものに固執し「多文化混合主義」を好む一方で、右傾傾向のある人ほど東アジア、特に日本や台湾などに親近感を持ち、まるでNietzscheのように「ヨーロッパの凋落」を冷笑する一方で中国文明の「偉大さ」や仏教の「素晴らしさ」、あるいは日本の武士道の「かっこよさ」を絶賛するという「異文化」そのまま残すことに喜びを見出す骨董品収集家のような趣向を持っているという傾向が顕著に見られるという点です。

これは最近の英国やドイツなどでもある程度見られる傾向ですが、フランスはその中でも日本への肩入れが最も強い国です。相対的には、ドイツ人には韓国好きが比較的多く、英国人には東アジアを国別に区別せず「アジアが好き」という人が多く、フランスは圧倒的に日本好きが多いという感じです。ところがヨーロッパでは「日本=超保守主義」というイメージが知識層の間には浸透しているので、日本好きを公言することは保守主義者であると公言するのとほぼ同じです。ドイツや英国でそれをやるのは自滅的なのでその辺は適当に誤魔化す人が多いのですが、フランスの保守派は案外あっさり割り切っています。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いとはっきり言ってしまうフランス人らしさがここにも表れているわけですね。

 

それでは、選挙の結果が出たらそれを踏まえて分析を加えたいと思います。

ではまた。

東西の「名門大学」の違い、及び知的権威について

古典文献(哲学や神学をも含む)を読み解くことは、学問の祖型であろうと思われます。我が国においては、古くは儒学書を中心とする漢籍の研究や仏教経典に始まり、近代化以降はこれに加えて西欧の古典文献も学ばれるようになりました。現在では更に西欧の植民地主義時代からの遺産であるインド学やイスラーム学の研究も日本に根付き始めており、特にインド学においては日本の研究(といっても主には中村元先生及び前田専学先生の研究ですが)は英語圏でもよく参照されています。しかしいずれの場合でも、それぞれの文化圏で権威ある古典文献と認知されているテクスト群の解釈はそれ自体がある種の権威的な営為であり、従ってこれに関わる「専門家」という既存の権威によって厳しい精査を受けることになります。例えば、仏教経典の解釈には仏教界の知的権威の精査が伴う場合もあるでしょうし、あるいは西欧の仏教学界の権威による精査が伴う場合もあるでしょう。

仏教経典のように人によってはこれを宗教的「信仰」の対象と捉える場合もあるような「聖典」に関しては特に厳しい精査が伴いがちですが、哲学文献などに関してもこの点に関しては似たようなものです。アリストテレス研究者達の共通見解と矛盾するような独断的アリストテレス解釈はあまり褒められません。勿論それが原文テクストに十分に忠実な無理のない解釈であるということをテクストに基づき論証できればそれほど問題はないのですが、そもそも研究者の共通見解は通常そのような手続きで生まれてくるものなので、テクストに忠実な解釈が主流解釈とズレるというのはあり得なくもないにせよ稀です。勿論研究者の間でも意見の別れるような案件、例えばカントの「物自体」の概念をどう捉えるかというような問題に関しては学界にも様々な立場があるので、その内のどれをとるかは個人の感性の問題ですし、こういう共通見解が確立していない問題についてはこれまでにない斬新な独自見解を出しても良いでしょう。しかし、例えばデカルトは「本質二元論者(substance dualist)」ではなくて「本質一元論者(substance monist)」であるというような見解は、よほど綿密な論証をテクストに基づいて行わなければ単なる誤解であると一蹴されてしまいます。

また古典文献の解釈者に課される基本的な制約として、テクストに基づかない推論はあくまで仮説扱いにしかなりません。あるいは厳しい先生なら厳禁するかもしれません。なので、例えばアリストテレスが原子爆弾についてどう思っただろうかというような話はできません。無論アリストテレスの倫理学と原子爆弾投下を正当化する功利主義倫理学者の議論が矛盾するかどうかを論ずることはできますが、「アリストテレスの原爆論」なるものは存在できないのです。ということで、あくまでテクストに書かれていることが何かを解明することが古典哲学の研究であるということになります。かつ、実際には「現代哲学」の議論も多くの場合古典哲学における議論からの延長であるか、あるいは古典哲学の成果を参照しつつ発展してきたもので、また「現代哲学」そのものが既に「新しい古典」(例えばKripkeのNaming and NecessityやDavid LewisのOn the Plurality of Worlds、QuineのTwo Dogmas of EmpiricismやLakatosのThe Methodology of Scientific Research Programmesなどは最早「古典」化しています)となり常に参照すべき必読書扱いされてもいるので、その意味でも「学問的」な「哲学」はどうしても文献解釈学的になりがちです。宗教聖典の解釈学に関してはさらにこの傾向が著しいのは想像にかたくありません。このように権威的文献(Canonical texts)に一定以上の敬意を払いこれを丁寧に解釈していくという文献解釈学的伝統が生む知識の体系を仮に「正典知識」(Canonical knowledge)と名付けましょう。日本では、所謂「文系」の学問においては主にこの聖典知識の伝承が最も重視される傾向にあります。西欧でも「保守的」な学風の大陸ヨーロッパの大学は勿論、英語圏でも英国のオックスフォード大などは多少この傾向が今でもあるとされています。

 

他方、アメリカの名門大学を中心とする、所謂英語圏の「エリート」が共有する知識には、こうしたユーラジア的な正典知識とは異なる知的体系もあります。

まず、理科系(=科学系)の知識です。仮にこれを「科学的知識」(Scientific knowledge)と呼びましょう。科学的知識は日本でも当然ながら重視されていますが、特に西欧の科学者達は科学者としてのプライドを持っている人が多く、かつそれが「西欧知識人」としてのプライドにも繋がっている面があります。経験科学の世界においては知的権威の基本的泉源となるのは何よりもまず「実証」であり、次に理論的整合性です。分野によっては理論が先行することもあれば実証が先行することもありますが、いずれにせよ経験科学においては「権威的見解」を「実証」によって覆すことはむしろ奨励されます。テクスト以外の「証拠」がない文献解釈の世界よりも、経験科学の世界はある意味で「開かれている」と言える部分が確かにあると言える根拠の一つはこれです。

他方で、経験科学を何より重視する傾向が人文科学にも浸透することで発展してきた「特殊英米的」とも言える「新しい人文科学」とでも言うべきものがあります。日本や英国ではまだそれほど積極的に導入されているわけではありませんが、「ジェンダー論」や「女性(の社会進出及び権利に関する)科学(Women's studies)」、「アフリカ系アメリカ人論(African American studies)」や「人種差別論(Ethnicity and racism studies)」などいった「学際的研究(interdisciplnary studies)」がリベラル系(つまりほぼ全て)の米国名門大学を中心に活性化しています。これは冗談でも何でもなく、アメリカには本当に学部時代から博士号まで一貫して「女性科学」を専門として研究してきたという「研究者(scholar)」がもう何人も存在しているのです。これは一見通常の伝統的な解釈学を中心とする人文科学と似ているようですが、決定的に違うのはこれらの「新しい人文科学」においては基本的に「正典(Canon)」となるテクストがそれほど存在していないか、あるいは常に新しい世代の挑戦を受けて比較的早い速度で更新され続けていくという点です。つまり「伝統的権威」云々というのは、この「新しい人文科学」においては必ずしも肯定的なものではありません。むしろ「伝統」は常に「克服」すべき壁として認識され、前の世代よりもさらに「前へ進もう」という意気込みがあるという点で、経験科学のような「伝統に対する批判的姿勢」が強固に見られます。かつ、この「新しい人文科学」は同じ英語圏の英国においてさえ選択科目の中にジェンダー論やフェミニズムの議論を含むという程度の扱いにとどまっており、例えば「Women's studies」そのものを「医学部」や「哲学部」などのひとつの独立した「専攻学部」(faculty)として認め、オックスブリッジなどの名門大学内に新たに創設するには至っていません。(*但し大学院の専攻としてはオックスブリッジにも存在しています。)従ってこれは主にアメリカ発の新しい試みですので、一応旧来の人文科学とは区別すべきだと思います。ここまでは便宜上「新しい人文科学」と表現してきましたが、これを仮に「進歩主義的知識」とでも呼びましょう。

一見アメリカ以外の国では傍流的扱いを受けているかのごとく見えるこの「進歩主義的知識」は、しかし実はアメリカの外でも大きな影響力を及ぼしています。例えば私がアゴラで何度か話題にしてきた「政治的正しさ」などは、まさにこの「進歩主義的知識」の専門家達が中心となって広げてきたものです。「新しい人文科学」の成果は、大学入試における推薦条件、奨学金選考の基準や就職の際の採用基準、また大手メディアの政治ジャーナリズムや政治家の言動などに対する批判、あるいはより進歩的な政党への投票呼びかけや進歩政党による「〇〇差別に対する意識を高める為の公的政府機関」の創設など、現実政治にも少なからぬ影響を与えています。かつ、その影響はアメリカ政府や国連勧告、あるいは語学力を買われた留学帰りの日本人などを通して日本政府にもある程度影響を与えています。

例えば、日本人にとっては英語圏の大学への留学はどこへ行く場合でも通常は高額です。が、何らかの形で「学業・人物ともに優れた人材」と認められれば給付奨学金を得てほぼ無料で留学できる可能性もゼロではありません。というより、実際に留学する人の中では奨学金を一切貰わない方が少数派でしょう。というのも男子学生の場合は留学生は圧倒的に理科系(あるいは少なくともビジネスなどの商学系)が多く、また大学院からの留学が多いのに対し、女子学生の場合は年齢や学業段階に関わらず「学業・人物ともに優れ」ていて、また専攻内容もその「優れた人格」に関連するものである場合(e.g. 政治学、国際関係論、環境学、生物学、心理学など)が多いからです。当然ボランティア活動などの経験や部活動における部長などのリーダー経験を積んでいる場合も多いでしょう。このような西欧型の「エリート」として十分に通用する日本人学生も実はかなり沢山いますし、彼らは人知れず様々な活動に積極的に取り組みながら結果的には実に賢く社会的評価の最も高い「学歴」をほとんどお金をかけずに獲得していっているというわけです。私自身はそういう賢さが全く無い、悪い意味で「正直」な人なのですが、過去の自分への反省を込めて老婆心で敢えて言いますと、もしこのブログの読者に17歳未満で文系留学希望の学生さんがおられましたら、まずは英語云々よりもボランティア活動等を積極的に行なっていくことをお勧め致します。実際英語力は最悪ゼロでも問題ありません。(つまり、ちょっと意地悪な言い方をすれば奨学金を貰って留学に来ている人といえども英語力自体は必ずしも人並みはずれて高いわけではありません。また帰国子女やバイリンガルが常に優遇されるわけでもありません。)むしろ奉仕精神や社会正義への理念の方が何倍も評価されますし、英語はそういった慈善活動を国際的に行なって行く中で自然に身につく程度で十分です。例えば早慶程度には一般受験で普通に合格できる程度に学業成績優秀な学生なら、「純ジャパ」であったとしても大学に入ってから本格的に英語を勉強しはじめても全然間に合うと私は思います。(保証はできませんが。)ポイントは、少なくとも英語の勉強に時間をかけすぎてボランティア経験がゼロの「語学マスター」よりは英語の全然できない慈善活動家学生の方が圧倒的に無料で留学できるチャンスがあるということです。この辺りは「西欧エリート」界隈の雰囲気に実際に触れてみないとピンと来ないと思いますし、実際私も学生時代にはイマイチ納得できていませんでしたが、ともかくこのような形で「進歩主義的知識」の獲得は人生を有利に運ぶのに極めて重要なものとなっています。その意味でも、また現実に西欧における生活の際に役に立つという意味でも、これは「実践的人文知」とも言えるでしょう。

さて、これで一応一般に「知識」と認められているものの中には(1)伝統的な「正典知識」、(2)経験科学の成果の集大成である「科学知識」、そして(3)現代(西欧)社会で生活する上では避けては通れない「進歩主義的知識」という、大別して三つの体系があるということを簡単に紹介したことになります。

ということで、非常に前置きが長くなりましたが、ここからが本題です。

世間で「知識人」として活躍する、あるいは何らかの知的職業に就く為にはこの三つのうちのいずれかを大なり小なり身につける必要に迫られることでしょうが、日本で重視される「知性」ないし「知識」というのは、この三つのうちのいずれでしょうか。また西洋ではどうでしょうか。

もうある程度予想はつくと思いますが、日本では一般的には圧倒的に(1)が重要視されています。東京大学をどう見るかというのは難しい点ですが、少なくとも現行の一般入試制度を支持する多くの東京大学関係者はやはり(1)の伝統を重視する傾向が強いのではないかと思われます。尤も、文系で(1)が重視されるのはフランスやドイツでも同様で比較的当たり前の現象ですが、日本の特徴は本来(2)に該当するはずの科学的知識さえもがある種の正典知識化している点です。つまり、実証研究によって既存の理論に革新をもたらすことよりも既存理論の精緻化を目指す解釈学的研究(Kuhnの言うnormal scienceに近い研究)の方が尊敬されやすい傾向にあるということです。東大理系の間でも、機械工学系よりは理論物理学や航空宇宙系の方が「上」という見方はやはり根強いのではないでしょうか。

西欧ではこの辺りのバランスをどう取るべきかということを科学者も割と真剣に考えていて、だからこそ「科学哲学」という分野が発達してきているのですが、日本では原爆投下というトラウマや最近の原発事故などの影響もあり、「科学哲学」というのは哲学側からの科学に対する倫理的批判という方向に流れやすい土壌がある気がします。これに対して西欧ではむしろ如何に効率良く科学の進歩を促せるかという方向や、「科学的真実とは何か」という認識論的な方向の問いなどが中心課題とされていますので、こんなところにも伝統的な「倫理哲学」を重視する日本の知識人と、英米の「哲学者」の差が出ているとも言えるかもしれません。

他方で、西欧では逆に(3)の重要性がどんどん増しており、これはトランプ氏が当選し、英国でBrexitが本格的に始動しはじめている今でも全く衰えていません。「ポピュリズムの台頭」などといっても、それを批判しているのが西欧メディア自身である間は、その事実自体が「ポピュリズム」の傍流性を示す証左だと思っておけば間違いないでしょう。かつ以前も論じたようにこの「ポピュリズム」の流れは単にシルバーデモクラシーの完勝を記念するだけで、若年層の動向をほとんど反映していないということも一応再び指摘しておきます。ということで、若年層はどんどん(3)の方向へと進んでおり、進歩的知識を身につけた若手知識人達の中には既に(1)の伝統的解釈学を丸ごと否定するだけに留まらず、(2)の経験科学さえも科学界で「マイノリティ」が白人男性に比べて活躍できていないという理由等で「差別的」だとして拒絶する「原理主義者」(radicalsという意味です)も出て来ています。ここまでいくともう学校の先生や社会人に褒められるレベルを超えていますが、しかし若年層の間では(2)のみを重視し(3)を軽視する「科学主義者」はどこか後ろめたい立場であると認識されています。(1)は(3)を重視する立場から見れば基本的に「論外」です。稀に古典哲学の「feminist reading」ということが行われ、例えばデカルト、スピノザ、ライプニッツ、ニーチェ、ショーペンハウアー、カント、ミル、ヒュームなどの近代哲学の担い手をフェミニストの視点で読み解くということが行われますが、こういった形の「現代性」を備えていれば解釈学的研究も高く評価されるものの、伝統哲学を伝統的なやり方で論じてもほとんど(3)のタイプの知識人の間では反響を呼ばないのが現実です。

 

ということで、今回は「保守/リベラル」という政治イデオロギーとは若干異なる、知的権威として尊敬される対象や方法の差に基づく知識体系の類別という認識論的な方向からの東西論(及び現代論)を簡単にやってみました。

一応政治イデオロギーと無理矢理対応させるならば、(1)の正典知識は保守主義と最も親和的で、(2)は経済自由主義と協力関係にあると言えるし、(3)は勿論進歩的リベラリズムや西欧マルクス主義に親和的だとは言えるかもしれませんが、必ずしも綺麗に対応するわけではないので悪しからず。

 

*ここからはブログらしいと言えばブログらしい個人的な戯言です。お忙しい方は飛ばしていただいて構いません。さて、私自身はこれらの全てを丸ごと否定したいブルーハーツ的な気分をどこかに持っています。(あの「今まで覚えた全部〜」ってヤツです。)そんなことを言うと「ポピュリスト」だとかあるいは単純に「ダメな奴」だと言われそうなのであまり大きな声で言いたくはありませんが、まあ東大生でもなければ理系エリートでもなく、また西欧人でもない私の性分に適合するのは上の三つのいずれの知識体系でもないのは確かです。強いて言えば(1)が最も受け入れられますし、(2)も有益だとは思いますし、(3)も現実にマイノリティの生活の惨状を目の当たりにすれば進歩派の主張も誇張されているとはいえ荒唐無稽ではないということは嫌でも思い知らされます。それでも、私がやりたいのは伝統的な権威ある文献の「正しい」読み方を教わり、またそれをそのまま伝えることではありません。また理工系の研究によって産業界に貢献する能力が私にないこともわかっているし、社会正義の為に「不正義」と戦うことが私の人生の最優先課題だとも思えません。このように中途半端に反抗的で、肉体労働に適する体を持つわけでもスポーツや音楽などの才能があるわけでもない、つまりあらゆる意味で「凡庸」な私のような人は、一体どうしたら良いのでしょう?

特に文学者に敵意があるわけでは全くありませんが、かつてはこういう無用人の受け入れ先として「文学界」や「サブカルチャー界」というものがあったというようなことを仰る謙遜的な文学者の方もおられます。が、今の「文学界」はむしろある種の芸術的才能を持つエリートの世界であるように私には思えます。知り合いに作家がいるわけでもない私にとってはちょっと近づきがたい雰囲気が出ていますし、少なくともちょっとdilettantな知識があるくらいで通用する世界ではないのは確かでしょう。今のご時世、大衆娯楽の世界というのも、それはそれで厳しい競争があって、「(お笑い)芸人」や水商売の世界でさえ高学歴化やエリート教育が浸透してきているなどと言われているくらいですからね。そう人様に見せびらかすべき才能を持たない身分としては、実に困ったことになったなぁと嘆息せざるを得ません。

荘周や兼好法師、あるいは夏目漱石のような大文豪と肩を並べることが出来なくとも、せめて私にも「俺ガイル」のようなラノベの名作を残せる程度の才能があれば良いのになぁと思いつつ、迫害や不運に見舞われながらも名作を後世に残した過去の異端の文筆家達に不遜な羨望感を抱きつつ古典哲学を斜め読みする日々を送っている私はやはり山月記の主人公を全然笑えないほどに正真正銘のダメ人間かもしれません。笑

いやはや、私はどこで間違ったのでしょうね。否、そもそも私が正しかったことなどあったのかなと、自己懐疑に陥りそうになってきたのでここらで辞めておきます。

ではでは。

92年生まれということ

先日「忘れ去られたゴミの92年生まれの私が見つけた、個性という名の呪いに効く薬」という記事を見つけました。「ゆとり世代」論は無数にありますが、ピンポイントで92年生まれに焦点を当てているのは面白いなと思い、私も同じ92年生まれとして92年生まれ論を書いてみようと思います。

まず、確かに92年生まれというのは「ゆとり最盛期」にも該当するとされ、かつこの「ゆとり最盛期」世代は「草食系」だとか「さとり世代」などと、メディアで色々言われてきているなという印象はあります。元気がない、車に乗らない、欲がない、飽きっぽくて堪え性がない、云々。実はほぼ同じことが英語圏でも言われています。日本では「ゆとり教育」という教育制度やその理念に対する批判をも込めて「ゆとり世代」と言われますが、ほぼ同じ世代を英語では「Millenials」あるいは「generation Y」と言います。そしてMillenialsについて言われていることはほぼ「ゆとり世代」と同じです。例えば、このHuffingtonpostの記事には以下のような記述があります。

"Millennials are the worst generation. They’re lazy, unmotivated, disconnected and they want a trophy for every little thing they do.”

中国にも似たような現象があると聞いていますが、詳しくはわかりません。いずれにせよ、「ゆとり世代」はそもそも特殊日本的現象ではなく、国際的に広く見られる現象です。「働きたくない」とぼやいているのは日本の「ゆとり」だけではなく、海外の同世代も同じなのです。従って「ゆとり世代」と「ゆとり教育」はそんなに関係ありません。単純にそれが万国共通の時流なのだというわけです。この背景にはゲームや漫画、アニメや音楽などのポップカルチャーの共通言語化があるかもしれませんが、ともかく私の世代、つまり90年代生まれというのはゲームやアニメと共に育ってきた世代だというのは間違いありません。

無論、そんなのは非常に大雑把な一般化であって、例外はいくらでもあるでしょう。しかし、私自身に関して言うと、メディアで挙げられているような「ゆとり世代」の特徴に「ギクリ」とさせられる時は正直結構あります。具体的に言うと、例えば私は(愛知県出身なのに)車にはほとんど興味はありませんし、というより機械全般に興味はありません。また私はテレビもさほど見ません。家族と暮らしていた時は見たい人が他にいれば見ていましたが、一人の時は基本的に消していました。かといって別にニコニコ動画やYouTubeを見て育ったわけでもないし、2chやニュー速に「民」として生息していたわけでもありません。勿論人並み程度には知っているつもりですが、別にそれほど詳しいわけでも興味があるわけでもない。少なくともこれらのオンライン・プラットフォームの主体が自分の世代ではないこと、あるいは少なくとも自分と同じような考えの人が多いわけではないことは少し見ればわかります。テレビや新聞も同じです。もっといえば学校や大学もそうでしょう。同級生でさえ、テレビやネットで言われていることを鸚鵡のように繰り返す人が多く、何でもいいから独自の意見を持っている人でさえ少ない。別に個性的でなければいけないというわけではありませんが、あまりに均質的で退屈だなとは感じていました。私は万事こんな感じですので、確かにメディアで言われているように何においても冷めているところはあると思います。そして、私の周りには大なり小なり私と同じように冷めている人も多かった気がしますが、それでも世間と折り合いをつけて、バカバカしいとは思いつつもと表面上は普通に楽しんでいるふりをしたりしていて、皆んな偉いなぁと私は遠くから見ていました。

とはいえ、これらは「ゆとり世代」にも「Millenials」にも共通する特徴を私も共有しているというに過ぎないでしょう。実際私は同世代の西洋人と話していても特に違いを感じません。むしろ上の世代の日本人よりも自分に近いと感じます。確かにイタリアやギリシャなど地中海系や東欧系、またイスラーム圏出身者からは「昭和の香り」のようなものを少し感じますが、英語圏やドイツ、フランス、スカンディナヴィアなどの所謂「先進国」の西欧人は本当にほとんど同じで違いがない。というのも、これらの西欧先進国と日本においては共に「過去の否定」と「非歴史性」(=普遍性)が現代文化教育の主軸となっているので、「普遍主義教育」の洗礼を受けた世代においては横軸の差(外国の同世代との差)よりも縦軸の差(同じ国の異世代との差)の方が大きいのです。

とはいえ、90年代生まれ、特に92年生まれは「ゆとり最盛期」などと言われはするものの、実は「昭和」から「平成」への移行期に該当する世代だと私は思っています。例えば、私が小学生の時にはまだ「体罰」は普通にありましたし、(とはいえ私が通っていたのは愛知県内の公立小学校です。東京ではこの時期にはもうなくなっていたかもしれません。)中学校になってもまだあったと思います。いや、高校でも場合によってはあったかもしれません。

そのことは文化面にも反映されています。まず音楽に関して言えば、92年生まれにとっては「オレンジレンジ」、「ポルノグラフティ」や「Bump of Chicken」、「Jeanne Da Arc」「Gazette」や「L'arc-en-ciel」、「浜崎あゆみ」、「大塚愛」や「YUI」、「ゆず」や「B’z」などが最も流行した時代が「青春時代」です。これは私の経験に基づく推測ですが、92年生まれの多くは恐らく小学校の音楽の時間に「世界に一つだけの花」を歌い、また校内放送では「以心伝心」や「さくらんぼ」が毎日のように放送され、中学校時代には携帯電話(携帯電話です、スマホはまだありませんでした。最初のiphoneが出たのは確か私が高校生の時です。)でダウンロードした「着うた」で自分の「個性」を表現しようとし、意味もわからないのに「のまのまいぇい」(本当は「Nu  nu  iei」で、原語はルーマニア語らしいです。意味は例えばフランス語に訳せば「pas moi pas moi, (tu) ne prends (pas moi)」という感じ。日本語なら「あなたは私を取らない(選ばない/連れて行かない)」という意味です。)は良い歌だと言ってみたり、高校時代には邦楽派は「GreeeN」やら「AKB」やらを聞き、洋楽派は「Lady Gaga」や人によっては「paramore」、「Taylor Swift」、「Miley Cyrus」などを聞いて育ったのではないかと思います。「きゃりーぱみゅぱみゅ」は本人が92年生まれですが、彼女のスタイルは同世代が慣れ親しんできたものとは異質です。むしろ彼女は自分が知っている音楽とは違うものを意識的に表現しようとしているのかなと私は考えています。

ゲームに関して言えば、92年生まれは最も純粋な「ポケモン世代」です。幼稚園の頃に初期版が、小学校低学年の頃に金銀版が、小学校高学年でルビー・サファイアが、中学校でダイヤモンド・パールが出てきて、つまり我々が成長すればするほどポケモンが増えていったわけです。この感覚は87-93年生まれくらいまでにしかわからない感覚だと思います。これより上の世代にとってはポケモンは「下らないガキのゲーム」ですし、下の世代にとっては最初からポケモンが沢山いる状態からスタートするからです。同じことが「遊戯王」についても言えるでしょう。92年生まれの子ども時代は無数の名作アニメの黄金時代と重なっているのです。ポケモンや遊戯王に限らず、「ワンピース」もそうですし、「ナルト」や「鋼の錬金術師」もそう。「20世紀少年」も「デスノート」も、92年生まれにとっては馴染み深いもので、ジャンプに掲載されている頃から読んでいる人も多いはず。従って92年生まれは実は昭和世代とある程度共通する基準でアニメや漫画を評価しているのです。「ワンパンマン」を見て「面白い」と思える土壌を持っている最後の世代が92年生まれと言ってもいいかもしれません。

またテレビ番組に関して言えば、92年生まれは「エンタの神様」を知っていますし、「笑う犬の発見」も知っていますし、また「はねるのとびら」を知っています。ドラマに関しては「ごくせん」や「マイボスマイヒーロー」、「野ブタをプロデュース」や「イケメンパラダイス」などを知っています。パーソナリティとしては、92年生まれは「島田紳助」さんや「みのもんた」さんを知っています。私は特にテレビが好きな方ではないのでそれほど詳しくないですが、それでもこの程度は日常会話等から自然に入ってくる情報で、私の世代においては「常識」となっていたように感じます。

ということで、総合すれば92年生まれは「昭和世代に育てられたゆとり世代」なわけです。我々が学生だった頃は、先生方もテレビや漫画の世界で活躍している人々もまだ昭和世代でした。従ってこれらの昭和時代の名残を全く知らない「下の世代」とはとてつもないギャップを「92年生まれ」は感じていると思います。「上の世代」に反発しながらも、しかしその方が理解は出来て、かつ「下の世代」の変わり様には何となくついていけないと感じているのが90-93年生まれくらいの特徴ではないでしょうか。

西欧の例を挙げると、90-93年生まれ、つまり92年生まれにとって「同世代」と思える範囲の人々はイデオロギー的に非常に中立的であるか、あるいは懐疑的です。これより上の80年代生まれ世代はネオリベ全盛の世代で、その上は新左翼世代ですが、逆に93年以降に生まれた下の世代は100%「リベラル」で「政治的に正しい」完全なPC世代です。もっとわかりやすく言えば、「pro-EU/pro-globalism世代」です。ネオリベ世代のThatcherismと下の世代の「Globalism」に対する無邪気な盲信を苦々しく見ているのが、その間に挟まれた90-93年生まれだとも言えるでしょう。

日本の場合は、92年生まれにとっての最初の選挙は民主党の没落に伴う自民党の復活選挙でした。もう選挙をする前から結果がわかっていたような選挙です。自民党が既得権益層だとするならば、結局野党に投票しても何もできないということを選挙権を持つ前に見せつけられて、自分たちが投票に行こうと行かなかろうと自民党が勝つのは必定である上に、その方が結局日本の為なのだということを飲み込まされているのが我々です。そういう意味では、シルバーデモクラシーに対し白旗をあげた最初の世代が我々の世代ということになるでしょう。「軍靴の音」云々というのもピンとこないが、かといって原発は明らかに問題だし、とはいえ景気が悪く就職氷河期などと脅されてきた我々にとっては有効な経済政策が最優先事項であるのも事実だし、ということで何となく「現実社会」に流されてきている90年代前半生まれ世代。そのちょうど中間に位置する92年生まれは、西でも東でもとにかく全てに関して冷めていて、他人や政治に期待していないというのは事実だと思います。もっといえば、我々は自分自身の能力にも期待していないし、将来に希望を持っているわけでもありません。

「終わった」世界を静かに生きて行く。高校を卒業してさあこれから大人になるという時期に東日本大震災を経験した92年生まれは、そんな感覚をどこかで持っているのではないでしょうか。